濫読令嬢の婿えらび [ 13 ]
濫読令嬢の婿えらび

13.第三の求婚者
[ BACK / TOP / NEXT ]


 アマリエはできるだけ静かに扉を開けた。
 書斎の続きにある、キースの寝室の扉である。階段裏の廊下からも出入りできるようになっていて、アマリエはそちらから入った。この家で暮らして五年になるが、ここに入るのははじめてだった。
 おびただしい本に壁を覆われた書斎と比べて、キースの寝室は閑散としていた。質素なベッドの他は小さなテーブルと収納がひとつあるだけで、壁紙もカーテンもくすんだ地味な色だった。何度も模様替えを重ねたアマリエの部屋と違い、ここはほとんど手を加えていないようだった。
「――アマリエ?」
 ベッドのほうで声がしたと思うと、キースが横になったまま頭を動かすのが見えた。
「キース、起きているの?」
 アマリエは歩み寄った。腰を下ろす場所がないので、床に膝をついて覗きこむ。
「帰っていたのか」
 キースがアマリエを見上げて、はっきりと声を出した。
 寝室のカーテンは閉められているが、隙間から昼の光が入ってきている。おかげでキースの顔色がずいぶん悪いことがよくわかった。昨日の夜、暗がりの中で話した時もこうだったのだろうか。
「ベアリングさんにキースのことを聞いたから。具合はどう?」
「しばらく眠ったら良くなってきた。少しめまいがしただけなのに、事務所にいた者が心配して馬車を呼んでくれて……大丈夫だと言ったんだが。驚かせて悪かった」
 アマリエは勢いよく首を振った。
 ここに来る前に顔を拭いてきたのに、また涙がこぼれてきそうだった。
「話ができたなら、どうして誰かに頼んで、わたしを呼んでくれなかったの。一緒に帰ってこられたのに」
 思わず強い口調になってしまう。キースが倒れた時に同じ建物の中にいたのに、自分はそれを知らずにいたということが、どうしてもやりきれなかった。
 キースは横たわったまま微笑んだ。熱があるのか、目が少し潤んでいる。
「そうしろと言ってくれる人もいたが、わたしが止めた。きみの邪魔をしたくなかったから」
「邪魔って何よ」
「オクリーヴ伯爵と一緒にいたのだろう。伯爵を置き去りにしてきたのか」
 急にその名前が出たので、アマリエは話をそらされたのかと思った。
 しかし、そうではなかった。冷静に考えればきちんとつながっている話だ。
「置いてきたわ。――ちゃんとご挨拶はしてきたつもりだけど」
「そうか。また誘ってもらえるといいんだが」
「――あのね、キース」
 アマリエは遮るように口を開いた。
「オクリーヴ伯爵のことなんだけど、もし結婚を申し込まれても、お断りしようと思うの」
 キースの熱っぽい目がわずかに見開かれた。
 残念だと思っているのだろうか。キースはたぶん、アマリエを上流階級の、それもできれば貴族に嫁がせたがっていた。
「そう……なのか」
「うん、そうなの」
 キースは何も言わなかった。はじめに宣言したとおり、アマリエの選択に口を出す気はないらしい。
 しかし昨夜はアマリエに促されて、伯爵の求婚を受けるべきだと言っていた。おそらくあれが本音だろう。
「ごめんなさい、キース」
「……何が」
「わたし、誰とも結婚できないかもしれないの」
「……言っただろう。何人かとあわなかったくらいで、あきらめることは……」
「違うの、キース」
 アマリエはまたキースを遮り、ベッドに身を寄せた。
 倒れたばかりのキースに長く話をさせてはいけない、心配をかけてはいけないと思ったが、どうしても言わずにはいられない。
「わたしには、好きな人がいるの」
 ベッドの上で、キースの表情が凍りついた。予想もしていなかったのだろう。
「本当はずっと、その人のことが好きだったのに、今日になってやっと気がついたの」
 アマリエはゆっくりと語った。
「でも、その人は、わたしと結婚してくれるつもりはないみたい」
 彼はアマリエを、別の人と結婚させたがっている。サー・ジョサイアの名に恥じない婿を見つけ、アマリエが財産を持って嫁いでいく日を心待ちにしている。
 アマリエもずっとそうしようと思ってきた。そうすればキースは安心して過去を忘れられる。サー・ジョサイアから受けた恩を娘に返して、すべてを終わりにできる。
 そしてこの家にはいつか、キースの妻にふさわしい女性がやってくる。まるで、アマリエなど一度もここにいなかったかのように。
「ごめんなさい、キース。わたし、早くここを出なくちゃいけないのに」
 また両目が熱くなってきて、アマリエはあわててキースから目をそらした。
 自分から始めた話だったが、これ以上は辛くて続けられない。涙を見られたらキースに気づかれてしまう――いや、とっくに気づいているのかもしれないが。
「いいよ、アマリエ」
 静かな声がして、アマリエは目を戻した。
 見ると、横たわったキースがまっすぐにアマリエを見つめている。
「結婚したくないのだったら、この家にいればいい。きみが心から望んでここを出ていける日まで、ずっと」
 この家にいればいい。キースにそう言われたのは二度目だった。
 一度目は五年前、寄宿学校に馴染めずに帰ってきた時だ。
「いいの? キース」
「もちろん」
 キースは言葉が少なくなっていた。疲れてきているのかもしれない。それでも目は閉じずにアマリエを見上げている。
 アマリエはうなずき、ありがとう、と小さくつぶやいた。目頭がまだ熱い。横たわるキースの肩に顔をうずめて、泣きたくて仕方がない。
 やがてキースが眠りに落ちたので、アマリエは顔を隠す必要がなくなった。眠るキースを見つめながら、いつまでも、静かに涙を流し続けた。

「お嬢さま、起きてくださいな」
 ゆっくりと目を開けると、モーズリー夫人の優しげな微笑が見えた。
「こんなところで眠ってしまわれるなんて、旦那さまのようですね」
 アマリエは身じろぎして頭を起こした。眠っていたのはキースの書斎にある長椅子の上だった。窓からさしこむ光の白さを見るに、もうだいぶ日が高い。
 昨夜は高熱を出したキースに付き添って、ほとんど眠らずに過ごした。明け方になって熱が下がり、ほっとして寝室を後にしたが、自分の部屋がある二階には行かなかった。キースの近くにいたくて、隣の書斎に移ってぼんやりしているうちに、長椅子で眠ってしまっていたらしい。
「モーズリーさん、キースの様子は?」
「よくお休みですよ。お嬢さまにお客さまがいらっしゃっています」
 アマリエは長椅子に手をついて起き上がった。モーズリー夫人がかけてくれたのであろう毛布がすべり落ちた。
「お客さま?」
「ええ、応接間でお待ちになっています。これを」
 名刺大のカードをアマリエは受け取り、印字された名前を見つめた。
 オクリーヴ伯爵エドワード・アシュバートン。
 昨日、挨拶もそこそこに貸本屋で別れた相手だ。

 身支度を整えたアマリエが応接間の扉を開けると、エドワードが振り向いた。
 彼は座っておらず、細く開いた出窓の側に立っていた。アマリエに気がつくと体ごと向きなおり、小さく笑って会釈した。
「ミス・ヘイゼルダイン、突然の訪問をお許しください」
「いいえ。わたしこそ、昨日は失礼なことをしてしまって」
 エドワードはまったく気を悪くしていないようだった。金髪を撫でつけ、真新しいコートを着て、正餐会の時のようににこやかに微笑んでいる。この人は不機嫌になるということがないのだろうか。
「ミスタ・ダンフォードのお加減は?」
「だいぶ落ち着いたわ。どうぞ座ってくださいな、お茶を持ってきてもらうから」
「お話があるのです、アマリエ」
 エドワードは窓際から動かず、アマリエをまっすぐに見つめていた。
「本当は昨日するつもりだったのですが、今から続きを言わせてもらえませんか」
「あ――ええ」
 アマリエはクッションを動かしていた手を止め、エドワードを見上げた。
 いつかは来るだろうと思っていたが、こんなに早いとは。
「あの、どうぞ」
「少し外に出られませんか? うちの馬車を待たせてあるのです」
 アマリエは床に目を落とした。
 キースの側を離れたくなかった。体が心配だということもあるが、ずっと気づかなかった自分の気持ちを認めた今は、一緒にいられる時間を一秒でも無駄にしたくない。
 エドワードはアマリエが迷っているのを見抜いたらしく、苦笑した。
「やっぱり、無理ですね」
「――いいえ、行くわ」
 アマリエは顔を上げ、きっぱりと答えた。
 本当は出かけたくない。だが、これからエドワードが言うであろうことと、それに対してアマリエが用意している答えを思えば、彼の小さな頼みを退けるのはためらわれた。ただでさえ昨日も不義理をしてしまったところなのだ。
「いいのですか、アマリエ」
「ええ。少し待っていてくださる? 着替えて、家の者に出かけることを伝えてくるから」
 エドワードは意外そうに見開いた目のまま、うなずいた。

 伯爵家の馬車はその名にふさわしく、重厚な造りの二頭だての箱型である。黒い車体には紋章が刻まれ、御者は紳士の一員のように上等な身なりをしている。広々とした内部は落ち着いた色調でまとめられ、座席はふかふかとしてたいそう座り心地がいい。
 正餐会の行き帰りや街に出かけた時も乗せてもらったが、たぶんこれが最後になるのだろう。アマリエは向かいに座っているエドワードの顔を見て、彼がいつ話し始めるのかと考えた。自分からは何をどう切り出せばいいのかわからない。
「おとなしいですね、アマリエ。ミスタ・ダンフォードのことが心配ですか」
 エドワードがようやく口を開いたので、アマリエはほっとした。
「ええ、少しは。でも気になさらないで。昨日の埋めあわせをするつもりで出てきたのですから」
「なるべくお時間を取らせないようにしましょう。もうお気づきだと思いますが、ぼくはあなたに、オクリーヴ伯爵夫人になっていただきたいのです」
 アマリエは少したじろいだ。
 どこかに馬車を停めて、あらたまった状態で言われるのだと思っていたが、違ったらしい。
 しかし、アマリエの答えは決まっている。
「お気持ちは嬉しいけれど、お受けできませんわ。エドワード」
 エドワードの顔からすっと笑みが引いたが、それ以上の変化は見られなかった。うすうす察しはついていたのかもしれない。
 馬車は規則正しく揺れながら、走り続けている。
「よろしければ、理由をお聞かせ願えませんか」
「わたしには好きな人がいるの。その人を忘れられないまま別の方と結婚することはできないわ」
「ミスタ・ダンフォードのことですか」
 エドワードは顔色を変えずに言った。かまをかけているような雰囲気ではない。
 アマリエは正直にうなずいた。
「ええ、そうよ」
「彼もあなたのことを?」
「いいえ。キースは、わたしがあなたと結婚すればいいと思っているわ」
 口に出してしまうと辛くなるかと思ったが、その逆だった。人に聞いてもらったせいか不思議と心が軽くなり、アマリエは小さく微笑むことすらできた。
 反対にエドワードは、アマリエを見て眉を寄せた。
「それなのに、このまま彼の家で暮らし続けるのですか」
「ええ。いつかは出ていかなければならないでしょうけれど」
 できれば、まだ見ぬキースの妻がやってくる前に。
 キースに必要なのは優しくて穏やかで、生真面目なキースに代わって社交もこなして、ヘイゼルダイン貸本屋の評判を高めてくれる女性だ。働きすぎて体を壊したりしないよう、いつも気を配ってくれるような。
 アマリエは自分にそれが務まるとは思えない。キースといると本や仕事の話がしたくなるし、社交は苦手だからむしろキースの足を引っぱってしまう。
「でも、離れたくないの。今はまだ」
「いつかはあの家を出るのでしょう。おそらく結婚のために」
「ええ、いつかは」
「だったら、その相手にぼくを選んでもらえませんか」
 予想もしていなかったことを言われ、アマリエは目を見開いた。
「他の男のもとに嫁がなければならないなら、相手が誰でも同じでしょう。ぼくは、あなたとは友人としてもうまくやっていけると思うのですが」
「でも、わたし、今は」
「今すぐでなくてもいいのですよ。あなたがミスタ・ダンフォードへの想いに区切りをつけて、側を離れてもいいと思った時、ぼくのことを思い出してもらえればいいのです。ぼくは何年でも待ちますよ」
 エドワードの目は優しげに細められていた。たったいま求婚を断られたあげく、そのアマリエに別の男性の話を聞かされたというのに、まるで怒っていないようだった。
 アマリエはエドワードの目を見つめながら、一瞬だけ迷った。キースが好きだという気持ちはそのままに、エドワードと一緒になる。あるいは、一緒になる約束をする。そういう道もあったのかと本気で考えてしまった。
 その直後、アマリエは自己嫌悪とともにそれを払いのけた。
 エドワードはアマリエの気持ちを知ってなお、その事実ごと自分を受け入れようとしてくれている。こんな思いやりのある人に犠牲を払わせていいはずがない。
「できないわ。でも、ありがとう。エドワード」
 エドワードの表情がはじめて曇った。
「どうしても?」
「ええ、どうしても」
「そうか、そうですよね。――残念だな」
 エドワードは笑ったが、少し無理をしているようだった。
 アマリエは、ごめんなさいと言おうかどうか迷い、やめた。言えば彼をかえって傷つけてしまうような気がしたからだ。
 エドワードは微笑を浮かべたまま横を向き、馬車の小窓から外を見た。
「本当に、残念だ」
 そして唐突に、束ねてあったカーテンを広げた。窓が覆われ、馬車の中が急に暗くなる。
 アマリエは暗さに戸惑い、馬車の音がずっと変わらず続いていることに気がついた。スクエアを出てからずいぶん時間が経っているが、今はどのあたりを走っているのだろう。
「あの、どこへ向かっているの?」
 アマリエが聞くと、エドワードが視線を戻して微笑んだ。光が遮られていても相手の表情はじゅうぶん読みとれる。
「教会です」
「――教会?」
「そこで牧師と、ぼくが手配したふたりの証人が待っています。ぼくたちを結婚させるために」
 馬車が急に大きく揺れ、アマリエは座席の上で傾きかけた。壁に手をつき、体勢を整えたが、エドワードのほうは平然としている。揺れたと感じたのはアマリエの気のせいだったのだろうか。
「どうして? どういうこと? わたしは行かないわ、行けるわけない」
「馬車に乗ってからそんなことを言っても遅いんですよ。残念です、あなたがぼくを素直に受け入れてくれれば、こんな方法をとらずに済んだのに」
 エドワードは微笑みを浮かべたまま言った。思いやりに満ちた申し出をしてくれた時と同じくらい、優しげな表情だった。
 わけがわからないアマリエの目の前で、エドワードは懐から一枚の紙を取り出し、ぺらりと広げて見せた。薄暗い馬車の中でアマリエは目を凝らした。実物を見るのははじめてだが、それが何なのかはすぐにわかった。三週前からの予告を出さずに教会で式を挙げる手段、結婚許可書だ。
「言ったでしょう。女主人公の気分をたっぷり味わわせてさしあげると」


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.