濫読令嬢の婿えらび [ 12 ]
濫読令嬢の婿えらび

12.階段を上がるべきか否か
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 その日の晩、アマリエは自分の寝室に入っても眠らずにいた。
 アマリエの寝室とその続きの更衣室はタウンハウスの二階にある。階段を上がり、短い回廊を渡った先の、家の中でいちばんいい場所だ。広々とした室内には天蓋つきのベッド、小さな本棚、飾り棚のあるチェストなどがゆったりと置かれている。アマリエがこの家にやってきてから少しずつ買いそろえられたものだ。カーテンも壁紙も絨毯もアマリエが自分の好みで選んだ。
 回廊の向かい側には客用寝室があるが、ほとんど使われることはない。モーズリー夫人の部屋は最上階にあるので、二階に寝泊まりするのはこの家でアマリエだけだ。
 アマリエは寝間着の上にガウンを羽織り、ベッドに腰を下ろしてぼんやりしていた。
 もう真夜中に近い。そろそろ蝋燭の火を消して横になるべきだ。眠る気分にならない時は、いつもなら少し本を読む。
 今夜はそのどちらもする気になれなかった。エドワードと小一時間も街を歩き、体はゆるやかに疲れているのに、頭はどういうわけか冴えている。
 このまま眠ってしまってはいけないような、何かを忘れているような気分から逃れることができない。
 部屋の外で、かすかな物音がしたのを聞きつけて、アマリエはベッドから立ち上がった。その音が聞こえるのをずっと待っていたような気がした。
 蝋燭を手に部屋を出て、回廊から一階を見下ろすと、玄関先にキースが立っているのが見えた。あかりもない中、手探りで扉を閉め、鍵をかけている。蝋燭の火に気づいたのか、振り返って二階を見上げた。
「アマリエ?」
「おかえりなさい、キース。今日も遅かったのね」
 アマリエは片手で蝋燭を掲げ、片手で手すりにつかまり、すべるように階段を降りた。
「お食事は?」
「終えてきた。きみは、こんな時間まで起きているのか」
 階段と玄関の間で、お互いに立ったまま向かいあう。
 蝋燭の光に照らされたキースの顔は、少し険しく見えた。
「たくさん歩いたから疲れたのだけど、なんだか目は覚めてしまって」
「出かけていたのか」
「ええ。エドワード――オクリーヴ伯爵と」
 アマリエの言葉にキースは眉ひとつ動かさず、目をそらした。帽子をとって脇に抱える。
 何か訊いてくれるのではないか――どうだった、とか、仲良くなったのか、とか――と期待したが、キースは口を開かなかった。
「あのね、キース。少し聞いてほしいんだけど」
「もう遅いから。また明日にしよう」
 キースは遮るように言うと、アマリエに背を向けようとした。
「待って、キース」
「言っただろう。わたしにいちいち報告しなくていいと」
 アマリエが話したいのはエドワードのことだけではない。
 久しぶりに街をゆっくり歩いたこと、そこで見聞きしたこと、いろいろ考えたことをキースに話して、自分の気持ちを確かめたい。キースの意見がほしいし、仕事の話もいろいろ聞かせてほしい。
 キースは時間を割く気はないようだった。アマリエから離れかけた時の体勢のまま、顔だけ振り返ってアマリエを見下ろしていた。苛立ってはおらず、むしろわずかに微笑んでいた。
「わたしがキースに話したいの」
「アマリエ」
 キースは駄々をこねる子どもをたしなめるように、穏やかに言った。
「これからはわたしがいないことに慣れないと。結婚したら、何かあるたびここに相談に来るわけにいかないのだから」
 目の前が真っ暗になったような衝撃を覚え、アマリエは蝋燭の火が消えたのかと思った。
 火は消えていなかった。振り向きざまアマリエを見下ろすキースの顔を、静かに照らし続けていた。
 考えたこともなかった。この顔を、この姿を見ず、この声も聞かず、別の人間と見つめあいながら毎日を過ごすなんて。興味深い本を読み終えても、何かの悩みを抱えていても、キースに話すことができないなんて。
 結婚してこの家を出ていったら、一生そんな日々が続くのだ。
「それとも――正式に婚約が決まったのか」
 キースは体ごと向きなおり、アマリエに尋ねた。
 結論が出ていないなら話すなと言わんばかりの言葉に、アマリエは深く抉られたような気がした。
「まだよ。――でも、近いうちに申し込まれるかも」
 エドワードとは別れぎわ、また会う約束をした。今度は座ってゆっくり話せる場所で、本でも開きながら、と。
 エドワードははじめて話した時のような、人をくったような態度ではなくなっていた。真剣にアマリエの話を聞き、ときどき自分の本音も言ってくれるようになっていた。
「そうか」
「もし、申し込まれたら、受けるべきだと思う?」
 アマリエはゆっくり尋ねた。
 キースは苦笑して、首を振った。
「きみの選択に口を出すつもりはないと、何度も言っているはずだ」
「でも、聞きたいの。キース」
 アマリエは決して笑わず、まばたきもせず、キースの目を見つめた。
 キースもアマリエの視線に気がつくと、笑みを消した。
「オクリーヴ伯爵に結婚を申し込まれたら、わたしは受けるべきだと思う? キース」
 どうして自分がこんな質問をしているのか、アマリエにはわからない。
 キースに話したかったのは自分の気持ちを整理したかったからで、決してキースに結論を出してほしかったわけではない。
 自分がどんな答えを期待しているのか、それすらもわからない。
「そう思う。アマリエ」
 キースはアマリエの目を見て、静かに言った。
「わかったわ。ありがとう、キース」
 アマリエは目をそらし、身を翻して階段を上がりかけた。
「アマリエ?」
 呼びとめられて振り向くと、キースが階段を上がろうと手すりに触れたところだった。けれども我に返ったように手を離し、一階にとどまった。アマリエは階段の中ほどで振り返って待ったが、キースは追ってこようとしなかった。
 この人はもう何年も、自分の家の二階に上がったことがないのだ。アマリエはそんなことを思った。
「大丈夫か?」
 階段の下で見上げたまま、キースが尋ねる。
 キースは優しい。サー・ジョサイアの娘が辛い思いをしていないか、いつだって気にかけてくれる。
「大丈夫よ、キース。心配させてごめんなさい」
 アマリエは笑顔で言うと、今度こそキースに背を向けた。そのまま階段を上がりきるまで、一度も振り返らなかった。



 夢を見た。
 アマリエは十二歳の子どもに戻り、道行く人々に花を売っていた。花束の作り方を教えてくれたあの少女のように、いつかお金持ちに引き取られることを信じていた。けれどいつまで待っても救いの手は現れず、来る日も来る日も花を売り続ける夢だった。
 キースの家で暮らすようになってから、一度も見なかった夢だ。
「――アマリエ?」
 呼び覚ますような声にアマリエは顔を上げた。
 今はもう夢の続きではなく、アマリエは十七歳で、ヘイゼルダイン貸本屋の店内に立っていた。目の前には、まばゆいような金髪に帽子を載せた、長身の青年伯爵の姿がある。
「大丈夫ですか。どこか具合でも」
「いいえ。ごめんなさい」
 あんな夢を見てしまったのも、起きてからもその夢を引きずっているのも、昨日あんな場所を歩いたりしたせいだろう。
 近いうちにまた会おうと約束したエドワードは、さっそく翌日に使いを送ってきてアマリエを外に誘った。馬車で連れてこられたのはここ、ヘイゼルダイン貸本屋だ。
 談話会が終わったので、店内はもとの落ち着いた空気を取り戻している。さほど着飾っていない客たちは会話よりは本を選ぶことに熱心で、閲覧用のテーブルにはもちろん飲み物など置かれていない。階級の低そうな客の姿もちらほらと見られる。
 こういう場所を、美貌の伯爵ことエドワード・アシュバートンと並んで歩いているのは、なんだか妙な気分だ。店内にいる他の客も同じことを感じているようで、特に女性客はすれ違いざまふたりに視線を送ってくる。
「落ち着きませんね、なんだか」
 エドワードが書架を見上げながら言った。
 ふたりは一階にある文学書の棚の前にいる。貸出受付からも店の出入り口からも近く、多くの利用客が足を運ぶ一角だ。
「そう?」
「この前みたいに地下で話しませんか? アマリエ」
「地下書庫には談話会の時しか入れないの。読みたい本がそこにあれば持ってきてもらうことはできるけれど」
 エドワードのきょとんとした顔を見て、アマリエは笑ってしまった。
 そういえば、はじめて彼と話をした場所が地下書庫だった。あの時エドワードは、アマリエを追ってきたのだと言っていた。そうやって何気なく立ち入ったのが普段は入れない場所だとは思わなかったのだろう。
「それは知らなかったな。あなたのように足繁く通っていないもので」
「会員証は持っていないの?」
「持っていないんですよ、残念ながら」
「受付で手続きすればすぐに作れるわ。三ギニー必要だけれど」
「それは、階級にかかわらず?」
「ええ」
 客の階級によって料金を変える――つまり、豊かな客からはそのぶんだけ多く取る――という店も世の中にはあるようだが、ヘイゼルダイン貸本屋はそうではない。上層部の間では何度か議論があるようだが、現在のところは一律三ギニーで落ち着いている。それに手が届かない客には一回ごとに貸出料を払ってもらう。
「ただ、もっと出してもいいと言ってくださるお客さまもいるようなの。そういう方には寄付をお願いすることになっているわ」
「寄付ですか。出資ではなく?」
「ええ。寄付なら少額からでも気軽にできるし、出資と違って危険を負う心配もないでしょう。集まった寄付金は新事業のために使われることになっているわ」
「労働者向けの小店舗ですか?」
「そうよ」
 エドワードにこんなことを話したのは、何も彼からの寄付をあてにしているからではない。あわよくば会員証くらいは作ってほしいとは思うが、それ以上に今の彼ならば興味を持ってくれると思ったからだ。
「受付に行けば、詳しいことを書いてある小冊子(パンフレット)もあるわ」
 アマリエが体の向きを変えて歩き出そうとすると、肩に何かが当たる感触があった。見ると、エドワードの手が外套ごしに触れている。
「え?」
「ああ、これは失礼を」
 急いで手を離したエドワードの顔には、苦笑が浮かんでいた。
「あいかわらず、本と貸本屋のことで頭がいっぱいなんですね、アマリエ」
「そんなことはないわ。ただ今はお店にいるから」
「そういうところはあなたの魅力のひとつだと思いますよ。ただ、少しは他のことも考えてくださると嬉しいんですが」
「他のことって?」
 アマリエが率直に尋ねると、エドワードの苦笑が深くなった。
 どうやら、ひどく子どもじみた質問をしてしまったらしい。
「地下に行けないのなら少し外に出ませんか、アマリエ。この店も居心地はとてもいいですが、ぼくはあなたと落ち着いて話がしたいのです」
 苦笑はしていたが、エドワードがアマリエを見下ろす目は穏やかで、まっすぐだった。地下書庫ではじめて話した時や、二階の書架の前で出くわした時のような、本心を隠してアマリエを煽りたてるような態度はどこにもなかった。こちらのほうが彼の素顔だったのだと思うと、アマリエもあたたかい気持ちになる。
「外というと、どこへ?」
「どこでも、静かなところへ。あなたの好きな場所でいいですよ」
 エドワードはアマリエから目をそらさなかった。深い青の瞳は先ほどよりも真剣さを増し、どこかすがるようでもある。
 その意味がわからないほどアマリエは世間知らずではなかった。アマリエは口を開きかけ、何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。頭の中が真っ白になってしまっている。こういう場面ははじめてではないはずなのに、今までどうやって切り抜けてきたのか思い出せない。
「……それなら、わたしの好きな場所はここだわ。小冊子を見に行きましょう」
 アマリエはやっと言うと、エドワードから視線をそらした。ふさわしい態度ではないのはわかっていたが、他にどうすればいいのかわからない。
 逃げるようにエドワードから離れ、書架の間を歩く。エドワードがすぐに追ってくる気配がした。
「ベアリングさん、こんにちは」
 貸出受付に近づき、顔なじみの担当者に声をかける。
 ベアリングはカウンターの向こうで顔を上げると、幽霊でも見たかのようにぎょっとした表情を向けた。
「アマリエお嬢さん? まだお店においでだったんですか」
「ええ。どうして?」
 なぜ驚かれたのかわからず、アマリエはきょとんとする。
 ベアリングは困惑した顔のまま左右を見まわし、立ち上がってアマリエの耳もとでささやいた。
「ミスタ・ダンフォードがさっき、階下の事務室で倒れたそうなんですよ。馬車が呼ばれてご自宅へ運ばれたって……てっきり、お嬢さんも一緒にお帰りになったと思ったんですが」

 突き破るように玄関の扉を開けると、モーズリー夫人が向こうから歩いてくるところだった。彼女はアマリエを見て目を丸くしたが、すぐに歩調を速めて近づいてきた。
「おかえりなさいませ、お嬢さま。走っていらしたんですか?」
 アマリエの羽織っている外套は肩の線がずれ、ボンネットも結い上げた髪も崩れかかっていた。貸本屋を飛び出すように後にして、足早に帰ってきたせいだ。一緒にいたエドワードが馬車を出すと言ってくれていたが、断りの言葉も礼もまともに返せなかった気がする。
「キースが……」
 アマリエは声を絞り出した。息が弾んでいるせいでうまく言葉が続かない。
「旦那さまは寝室でお休みです。さっきお医者さまが帰られたところですよ」
「ちゃんと診てもらったの? どこが悪いの?」
 矢継ぎ早に尋ねるアマリエの前まで来ると、モーズリー夫人は微笑んだ。
「大丈夫ですよ。お医者さまの話では、少しお疲れが出ただけだそうです。二、三日も休めば良くなられますよ。旦那さまはこのところ働きづめでしたからね」
 全身から力が抜け落ち、アマリエはその場に膝をつきそうになった。ベアリングから知らせを聞いてからここに来るまで、どれほど気が張りつめていたかを思い知る。
 モーズリー夫人が支えるように手を伸ばし、アマリエの乱れた服装を直した。
「着替えて、少しお座りになってはいかがです? お嬢さま」
「うん……」
 言われたことの意味を深く考えずに答えた。本当は、落ち着いて座っていられるような気分ではなかった。心臓が思い出したように早鐘を打ちはじめる。
「お嬢さま?」
 モーズリー夫人の目が心配そうに曇っている。
 アマリエは指先で自分の頬に触れた。濡れていると気づくと同時に、堰を切ったように涙が溢れだした。
 モーズリー夫人の手がアマリエを包み込むように伸ばされ、背中をゆっくりとさすった。
「良かったですね、ご心配でしたね、お嬢さま」
 アマリエは夫人の肩に顔を預け、静かに泣き続けた。どうして泣いているのか自分でもわからなかった。
 いや、本当はわかっていた。この数日間、ずっと自分の気持ちに気づかないふりをしながら、本当は気づいていた。抑えていたものが涙になって一気に溢れだしただけだ。
 モーズリー夫人の手はあたたかかった。アマリエはずっと以前にも、こうして彼女に慰められながら泣いたことがあった。寄宿学校をやめたくて、でもキースにはやめたいと言えなかった時だ。あの時もモーズリー夫人がアマリエを慰め、背中を押してくれた。
 大丈夫ですよ、お嬢さま。ちゃんと話せば、旦那さまはわかってくださいますから。
 そのとおりだった。キースはアマリエの話を最後まで黙って聞いてくれた。そして、南向きの窓がある書斎にアマリエを入れて、たくさんの本を読ませてくれた。世界がそれほど狭くはないということを、わかるように導いてくれた。
「モーズリーさん、わたし」
 アマリエはひとしきり泣くと、モーズリー夫人の肩から顔を上げ、言葉を紡ごうとした。何を言いたいのかは自分でもわかっていたが、口がうまく動いてくれなかった。
 モーズリー夫人は微笑んだだけで何も尋ねなかった。きっと彼女はアマリエの気持ちに、アマリエよりも早く気づいていたのだろう。


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