濫読令嬢の婿えらび [ 11 ]
濫読令嬢の婿えらび

11.花売りと紳士
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 セント・ポール大聖堂の丸い屋根を見上げ、アマリエはここに来て良かったのだろうかと思った。
 ロンドンは東部、シティと呼ばれる商業地区にアマリエはやってきていた。ひとりではない。オクリーヴ伯爵が隣を一緒に歩いている。
 手紙のやりとりを経て会う約束をした日、伯爵は馬車でアマリエの住むスクエアへやってきて、行きたいところはあるかと尋ねた。アマリエは、ロンドンの街を歩きたいと答えた。伯爵は心得たように馬車を走らせ、テムズ河の北岸で御者を止め、アマリエに降りるよう誘った。屋外の社交場であるハイドパークや、評判の服飾店などが並ぶリージェント・ストリートではなく、やや治安が悪いとされるこの地域にアマリエを連れてきたのは、何か考えあってのことだろうか。
「大丈夫ですか、ミス・ヘイゼルダイン」
 伯爵はアマリエに腕を貸しながら、ゆっくりと尋ねた。
「本当にここで良かったのかな」
「平気ですわ、ロード・オクリーヴ」
「エドワード、ですよ」
「――エドワード」
 伯爵に目配せされ、アマリエは繰り返した。会う約束をした日から今朝まで、ひとりで何度もその名前を口に出してみたが、本人を前にして呼ぶのには勇気が必要だった。
 エドワードは、満足したようににこりと笑った。
「あなたが来てくれて嬉しいですよ、アマリエ。正直なところ、もう会えないかと思っていました」
「あら、約束したのにどうして?」
 アマリエはそう言ったが、実のところ自分でも驚いている。
 社交界で常に噂の的となっている、女たらしの美貌の伯爵。自分とはもっとも縁がないと思っていたたぐいの男性と、どうしてこう何度も会うようになっているのか。
 エドワードのことはいまだによくわからない。わかるのは、ミランダが教えてくれた彼の評判はあながち嘘ではないということと、しかし、それが彼のすべてではなさそうだということだけだ。
 もちろん、彼がアマリエを誘ってくれるのは、婚約者のふりをさせるためだろう。そう、それだけだ。
 アマリエは自分の言葉を頭の中で繰り返し、同時にこれを言った時のことを思い出した。
 キースとはあれ以来、話をするどころか顔をあわせる機会もまばらになってきている。ときどき家で居合わせてもキースはどこか上の空で、アマリエが近況を報告しはじめると苦笑して、話さなくていいと言っただろう、と言う。おかげでエドワードの話どころか、本や仕事の話もできなくなってしまった。
 これまでは、面白い本を読み終えるたびにキースに話して、感想を語りあったり、関連した別の本を教えてもらったりしていたのに。
「どうしました、アマリエ?」
 自分で思っているより長い間ぼんやりしていたらしい。声に顔を上げると、エドワードが再び気遣わしそうにアマリエを見下ろしている。
「なんでもないわ。ごめんなさい」
「やっぱり、別の場所のほうが良かったですか」
 馬車から離れるにつれ、周囲の空気が少しずつ変わってきている。昼間だというのに、足どりのおぼつかない男や厚化粧の女がちらほらと目につき、時おり薄汚れた服装の子どもたちが、何かから逃れるように駆けていく。
 七、八歳くらいの、少年とも少女ともつかない子どもがひとり、道の端に座り込んでいるのを見て、アマリエの目線は歩きながら吸い寄せられた。
「気になりますか?」
 問われて顔を上げたが、エドワードはアマリエを見ていなかった。アマリエと同じように、路上にいる痩せ細った子どもを見つめていた。
「あなたも気になる?」
「ぼくは、あなたの瞳に映るものはなんでも気になります」
 この人はまた、こういう軽口をきいてごまかしている。
 アマリエは怒る気分になれず、小さく笑ってから口を開いた。
「気になりますわ。わたしもあの子たちと近い身の上だったから」
「もう五年も前のことでしょう。それに、あなたは不幸に見舞われていただけで、本来はそのような身分ではなかったはずだ」
「過去のことでも、不運の結果でも、わたしが下町で働いて四年間を過ごしたことは消えないわ」
 キースに引き取られてから――正確にはその後、寄宿学校をやめてキースの家で暮らすようになってから――当時のことは夢にも見なくなっていた。けれども忘れたわけではない。仕事と食べ物を求めて訪ねた家で受けた仕打ちや、冬の夜に路上で眠った時の手足の痛みや、その日の糧を得ても明日はどうなるかわからない不安は、簡単に忘れられるものではない。
 キースに見つけ出される一年ほど前、アマリエに花束の作り方を教えてくれた少女がいた。市場で安く手に入れた花をきれいに束ね、道を行く紳士淑女に買ってもらうのだ。少女はアマリエと同い年くらいで、両親も家もなく、もう何年もこうして花を売って暮らしていると言っていた。
 けどね、と少女は言った。あたしが今ここでこんな暮らしをしているのは、本当は何かの間違いじゃないかって思うことがあるんだ。あたしには生き別れになったお金持ちの親戚がいて、いつかあたしを見つけ出してくれる。そうしたら、きれいなドレスを着て、美味しいものを食べて、ふかふかのベッドで眠ることができるんだ。
 アマリエが花束を上手に作れるようになったころ、彼女は他の少女とともに馬車に詰め込まれ、別のどこかの街へ去っていった。
 それから一年後、アマリエはキースに出会い、少女が夢見ていたのと同じ生活を手に入れた。
 あの少女が今、どこでどうしているのかはわからない。
 別の場所で出会ったりすれ違ったりした、同じ境遇のたくさんの少女たちも。
「辛かったでしょう。その時のあなたの側にいられたら、ぼくがいくらでも手をさしのべられたのに」
 アマリエは苦笑して首を振った。
「あの時は毎日を生きるのに必死で、自分が辛いのかどうかもよくわからなかったわ。辛かったのは、今の暮らしに戻ってから。いつも辛いわけではないのだけど、ときどきとても苦しくなる時があるの」
「たとえば、どんな時?」
「十五歳になったころ、お友達と相談して、慈善訪問に参加させてもらったことがあるの。ロンドンではなくもっと田舎の、農業で暮らしている方が多い地域で」
 貧困者の居住区を訪問し施しを与えるのは、上流階級の女性の務めである。アマリエはミランダに誘われて、他の数人の友人とともに参加することになった。
 訪問が決まった時、アマリエはとても期待していた。かつての自分と同じような貧困にあえぐ人たちに、自分の手が助けになるかもしれない。キースに引き取られてからもずっと頭の片隅にあった、自分の中の何かを置き去りにしてきたような感覚と、今こそしっかり向きあうことができるかもしれない。
「それが、楽しくなかったのですか」
 アマリエは伯爵に笑いかけた。
「もともと楽しもうと思って参加したわけじゃないから。ただ、思っていたのと違ったというだけ」
 訪問してすぐに気がついた。そもそも、たった一度や二度の施しで、彼らの生活を救えるわけがないのだと。
 それでも彼らはありがたがり、なけなしの食物や衣服を喜んで受け取り、アマリエたちを天使のように褒めそやした。少なくとも数日の飢えはしのげるわけだから、助けにならないことはなかったのだろう。だが、施されたわずかなものが尽きた後は、また元どおりの困窮が待っている。
 ミランダや他の令嬢たちの善意は本物なのだろう。それがわかっていたから、アマリエも自分の違和感を口には出せなかった。そのかわり、二度と同じような慈善活動には参加しなかった。
 エドワードは、詳しく聞かなくてもアマリエの心情を察したようだった。いたわるような目でアマリエを見下ろしながら、口を開いた。
「辛かったですね、アマリエ」
「辛かったわ。今でもときどき思い出して後悔するの。わたしは自分が嫌なことから逃げただけで、本当は少しずつでも訪問を続けるべきだったんじゃないかって」
 わずかばかりの施しでも、彼らの助けになっていたのは事実だ。それを根源の救済にはならないと言ってやめたのは、それこそアマリエの自己満足だったのではないか。
 しかし同時に、自分のやるべきことは他にあるという気もする。
「あの方たちに本当に必要なのは、数日ぶんの食べものや着るものではないのだと思うの」
「では、何なのでしょう」
「自分と家族を一生養える糧を得るためのもの」
「仕事なら、彼らにもないわけではないでしょう」
「でも、持っている仕事がいつもうまくいくとは限らないわ」
 アマリエは左右を見回し、馬車や呼び売りの仕事に精を出す大人たちや、時おり路上に座り込んでいる子どもたちを見た。
 彼らの多くは、自分が今を生きている場所が世界のすべてだと思っている。かつてのアマリエがそうだったように。
「あの方たちに食べるものと同じくらい必要なのは、知識なのだと思うの」
 少なくとも読み書きができれば就労の機会は広がる。能力があり、運が良ければ、キースのように事業を始めることもできるかもしれない。
 だからこそキースは、彼らに安価で知識を手に入れてもらえるよう、新しい貸本屋の仕事に取り組んでいるわけだ。
 アマリエはもどかしい気持ちになった。計画がどのように進んでいるのか、キースから詳しく聞きたい。以前のように書斎でゆっくり話をして、許されるなら少しでも手助けがしたい。
 しかし、このごろのキースはアマリエと話すどころか、顔をあわせる時間もないほど多忙のようだ。
「――驚きました」
 急に声が聞こえ、アマリエは顔を上げた。エドワードが少し目を見開いてアマリエを見下ろしていた。
 彼が隣にいることを忘れかけていた自分に気づき、アマリエはうろたえた。腕まで貸してもらって存在を忘れるなんて。
「本当に聡明なんですね。さすが、たくさんの本を読んでいるだけのことはある」
「ごめんなさい、ひとりで長々と話してしまって」
「謝ることはないですよ。もっと話してほしいくらいです」
 エドワードは穏やかに微笑んだ。これまで見た中でいちばん優しく、誠実な笑みだった。
「――もっと話してもいいの?」
「ええ」
 エドワードの美しい青の双眸が、アマリエの目をまっすぐ見つめている。
 これまで出会ってきた男性たちは、決してこんなふうにアマリエの話を聞いてくれなかっただろう。
 もしかして、この人なのだろうか。アマリエの瞳に何が映っているのか理解して、同じものを見てくれる人。
「本当に、労働者の暮らしに関心をお持ちなのね」
「信じていただけていませんでしたか。ぼくは読書家ではないですが、『オリヴァー・ツイスト』くらいは読んでいますよ」
 チャールズ・ディケンズという若い作家が発表した長編小説だ。救貧院で育った少年の目を通して、貧困や犯罪、そこから生じる人間のさまざまな姿を描いている。女王陛下までもがお読みになったという評判で、ヘイゼルダイン貸本屋でも借り手が絶えない一冊だ。
 アマリエは思わず笑顔になった。自分の中にも偏見というものがあったと認めざるを得ない。作家や読書家ならば自分と話があうけれど、美貌の伯爵とはそうはいかないと決めつけていたのだから。
「本をお読みになるなら、そう言ってくださればいいのに」
「ぼくの書斎を一度あなたに見ていただきたいですね。仮にも伯爵家ですから、蔵書の質と量はそれなりに充実させているつもりですよ。そこであなたの好きな本を挟んで、あなたとさまざまなことを語りあえたら、どんなに楽しいか」
 この人の書斎で、この人と語りあう。
 キースの書斎で、キースとそうしてきたように。
 アマリエがどう答えるべきかわからずにいるうちに、エドワードのほうが目をそらした。アマリエの背後で何かを見つけたらしい。アマリエは振り返ってエドワードの視線を追った。
 少女が小さな籠を腕にかけ、道行く人に何かを訴えていた。籠の中にも少女の手にも、小さく束ねたつつましい花がある。
 花売り娘だ。アマリエもキースに出会う少し前、同じことをしていた時があった。
「あの花がほしいのですか?」
 アマリエはエドワードを振り返った。
 エドワードはアマリエをしっかりと見て、答えを待っている。
「ええ。贈ってくださる?」
「もちろんです」
 エドワードはアマリエの手を離すと、広い歩幅で少女に近づいた。背の高い、黒い上質のコートに身を包んだ紳士に呼びとめられ、少女は一瞬びくりとしたようだが、すぐに手にしていた花束を差し出した。
 痩せていて背も高くないが、近くで見ると顔だちは大人びていた。丈のあわないスカートをはき、足もとにはかろうじて古靴をひっかけている。十二、三歳だろうか。キースに出会った時のアマリエと同い年くらいだ。
「お代は?」
「半ペニーです」
 一ペニーあげて、とアマリエは祈りながらふたりに歩み寄った。提示された額の二倍を与えたところで、この少女の一生を救うことはできないとわかっているけれど。
 エドワードは少女に微笑みかけ、迷わず一枚の硬貨を差し出した。一シリング――アマリエが願った金額の十二倍を。
「釣りはいらないよ」
「ありがとうございます、旦那さま」
 思いがけない収入に少女はうろたえたようだったが、手にした硬貨を決して放さず、エドワードに礼を言った。
「わたしにじゃない。こちらの美しいご令嬢に礼を言うんだ」
「はい。ありがとうございます、お嬢さま」
 少女はアマリエに向きなおり、素直に感謝を述べた。それからさっとアマリエたちから離れると、すぐ次の買い手を求めて声を出し始めた。
「どうぞ、お嬢さま」
 エドワードはおどけたように言い、少女から受け取った花束を差し出した。
「ずいぶん高価なお花をありがとう。あの子はびっくりしていたわ」
「あのくらい出さずにはいられなかったんです。――あなたの話を聞いた後では」
 エドワードの笑みがわずかに歪んだ。この人は気づいているのだ。アマリエが、あの少女をかつての自分の姿と重ねたことに。
「あなたのそういうところ、社交界のみなさんにも見せてさしあげればいいのに」
 アマリエが思ったままを言うと、エドワードははにかんだように笑った。
「知ってのとおり、ぼくは見栄っぱりですから。こんな立派なふるまいができるのはあなたといる時だけですよ」
 アマリエはつられて笑った。
 手の中に収まったのは楚々とした白い花だった。小さくて、儚くて、誰かに守られなければすぐにしおれてしまいそうな花を、誰にも守られない少女たちが売っている。
 アマリエにはキースが現れてくれた。だが、同じような境遇にいる他の少女たちの前には、おそらく誰も現れない。
 エドワードは知っているのだろうか。路上で花を売る少女たちの多くが、別のものも売っているのだということを。キースに見つけ出されるのがもう少し遅かったら、アマリエも彼女たちと同じことをしていたかもしれないことを。
 アマリエが話せば聞いてくれるだろうか。軽蔑したりせず、かといって無関心にもならず、アマリエと同じことを一緒に考えてくれるだろうか。
「歩きましょう。あなたの話をもっと聞かせてください」
 エドワードが再び腕を差し出し、アマリエはそれにそっと手をかける。
 帰ったらキースに話してみよう。オクリーヴ伯爵が思ったよりずっと真面目で、貴族的な楽しみ以外にも目を向けていること。今までに知り合って話をしたどの紳士よりも、アマリエの話を熱心に聞いてくれること。
 そこまで考えて、アマリエは愕然とする。
 キースはもう、アマリエの話を聞いてくれる気がないのだった。


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