濫読令嬢の婿えらび [ 10 ]
濫読令嬢の婿えらび

10.瞳に映るもの
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 正餐が済み、男女に分かれての談話の時間も過ぎると、招待客は公爵邸から引き上げ始める。
 ここへ来た時と同じく、帰りの馬車も伯爵が呼んでくれた。ただし同じ馬車ではない。伯爵は自分が乗る馬車の他に、アマリエを送り届けるための馬車もわざわざ用意していたのだ。
 車寄せに並んで馬車がまわってくるのを待ちながら、アマリエは隣に立つ伯爵を見上げた。
「あんなことをおっしゃって、よろしかったのですか?」
 周囲には馬車を待つ男女が何組もいるが、それぞれに会話や挨拶を交わし、また蹄と車輪の音も響いているので、アマリエたちの声はおそらく聞こえない。
「あんなこと、とは?」
「生涯を送ることになるという部分です」
「ああでも言わなければ場が持たなかったでしょう」
「それはそうですが、でも、それでは……」
 婚約のふりをするだけのはずが、本当に婚約したことになってしまう。同席した人たちにそう思われたというだけだが、他人に思われるだけということと、実際にそうであるということの間に、それほど大きな違いがないのが社交界だ。
「ぼくはあなたの窮地を救ったのですよ。非難よりも別の言葉がほしいところなんですが」
 痛いところを突かれて、アマリエは押し黙った。
 確かにあの時、不用意なことを言って場の空気を止めたのはアマリエである。
「それは、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「でも、本当にどうなさるおつもりなの?」
「そうですね。なんならこのまま本当に婚約してしまいましょうか。あなたとぼくで」
 伯爵の美しい顔がずいと近づいてきた。車寄せにあるオイルランプの光で、青い瞳が熱っぽく輝いて見える。
 アマリエは呆れて肩をすくめた。
「それがいいかもしれませんわね」
「おや、怒らないんですか?」
「どうしてそう悪い冗談ばかりおっしゃるの? あなたはそのせいでずいぶん損をしていらっしゃると思います」
 知りあって間もないころなら、ただのふざけた人だと思って一蹴していただろう。けれど地下書庫で彼の本音を聞いた今は、偽悪的な態度が痛々しく思える。
 伯爵は意外そうに目を見開き、あらためて微笑んだ。アマリエをからかった時とは違う、疲れたような微笑だった。
「誰しも心の底から正直に生きることはできませんよ。あなたほどにはね」
「そうできればいいのに」
「本心を隠すのは守りたいものがあるからです。今夜、あなたがぼくを守るために無理をしてくださったように」
 まっすぐに見つめられながら言われ、アマリエは顔に熱が集まるのを感じた。
 今のは本心だろうか、冗談だろうか。
「もう二度とはごめんですわ。こんなに気疲れしたことはキースのためにだってありません」
「本当にそうですか? ぼくは、あなたがけっこう楽しんでくれていたと思ったのですが」
 そのとおりだった。正餐会の細かいしきたりには疲れたが、秘密を保ちながらの会話には刺激があった。料理は美味しかったし、招待客のほとんどは優しかった。これ以上この時間を味わいたくないと言ったら嘘になる。
「まあ、楽しんだのはぼくも同じなのですが」
 伯爵は何気なく言うと、口を閉じてアマリエの顔を見つめた。
「――なんですか」
「考えているのです。その美しい瞳には、何が映っているのか」
 アマリエは先ほどの気まずさを思い出し、不機嫌を装って伯爵から顔を背けた。
「言っておきますけれど、あれは常にわたしの顔色を伺ってほしいという意味ではありませんから」
「わかっていますよ。同じものを見てくれる方がいい、でしたね。ぼくに果たしてそれができるかどうか」
 目をそらしていても、伯爵が自分を見つめているのはよくわかる。アマリエはその場から立ち退きたくなるのを必死でこらえた。
「あなたにその必要はないでしょう。――本当の婚約者ならともかく」
「そうですね。願わくは、もうしばらくこの関係を続けていただけるとありがたいのですが」
「今夜だけでは不充分だということ?」
「というよりも、楽しかったんですよ。先ほども言いましたが」
 伯爵がそう言った時、ちょうど新しい馬車が車寄せに現れた。アマリエが乗る馬車だ。
 伯爵は自分が何も言わなかったかのように、アマリエの手を取って馬車に乗るのを手伝った。
 手が離れていこうとした瞬間、アマリエは思わずそれを握りしめていた。優雅に微笑んで馬車の側に立っている伯爵が、アマリエの返事を聞かずに離れようとしていたからだ。
「いいわ、またお会いしましょう。ロード・オクリーヴ」
「エドワード」
 馬車の外からアマリエを見上げ、伯爵は静かに言った。
「ぼくの名前はエドワードです。そう呼んでいただけると嬉しい。おやすみなさい、アマリエ」
 伯爵は手袋をしたアマリエの指に口づけ、馬車から一歩さがる。扉が閉まり、御者の声とともに馬たちが走り出す。
 小さくなっていく伯爵の姿を、アマリエは馬車の窓からずっと見つめていた。

「キース、どうしたの」
 馬車がスクエアに着くと、アマリエは急いで降りた。家の玄関の前にキースが立っていたからだ。
「馬車の音が聞こえたから」
 オクリーヴ伯爵家の御者に礼を言って馬車を見送ると、アマリエはキースと並んで家の中に入った。
 玄関は薄暗いがあたたかかった。モーズリー夫人がアマリエを見てにっこり笑い、お茶を淹れるために地下の厨房へ向かった。
「どうだった、正餐会は」
 アマリエを居間のソファに促しながら、キースが訊いた。心配しながら帰りを待ってくれていたのだろうか。
「思ったより楽しかったわ、キース。みなさん優しくしてくださったし」
 アマリエはソファに腰かけ、つくりものではない笑みを浮かべた。
 キースが気にするのも無理はない。談話会を除くはじめての社交行事が公爵家の正餐会とは、いくらなんでも難易度が高すぎる。キースはアマリエの性格を知っているし、寄宿学校の時のように傷ついて帰ってくるのではないかと心配してくれたのだろう。
「父と母を知っている方にお会いしたわ」
 アマリエが言うと、斜め前に座ったキースが驚きもせずに答えた。
「そうか。そうだろうな」
「みんな懐かしがっていろいろ話してくれた。変な感じだったわ。わたしは父のことも母のこともほとんど知らないのに、はじめて会った親戚でもない人たちがふたりをよく知っているんだもの」
 父のことはキースから、母のことはモーズリー夫人から何度も聞いていたが、初対面の人からあなたの親を知っていると言われたのははじめてだった。公爵家の正餐会に招待されていたのだから、貴族やそれに準じる位の人たちばかりだ。彼らがサー・ジョサイアとその妻の記憶を共有し、好意的に話題にするのを見て、アマリエは普段さほど意識していなかったことを思い出した。
 アマリエの父と母は、上流階級に属する人間だったのだ。
「楽しめたのなら良かった。正餐会がうまくいったのなら、他の社交も大丈夫だろう」
「ええ。――あ、それからね」
 アマリエは再び笑い、もうひとつ報告があったことを思い出した。
「オクリーヴ伯爵のことだけど、またお会いすることになるかもしれないわ」
「婚約者を装うため?」
「ええ――たぶん」
 このまま婚約してしまおうかと言った伯爵の顔を思い出し、アマリエは急に熱くなった。
 あれはたちの悪い冗談だ。伯爵はまだ独り身でいたいと言っていたし、アマリエに近づいてきたのもそのためだ。婚約者を演じるのが意外に楽しかったのは確かだが、それは一緒にまわりを欺くというスリルに魅力があっただけだ。決して彼のパートナーとして扱われることが心地よかったわけではない。
 伯爵のほうもたぶん、同じように考えているはずだ。
 名前で呼んでほしいなどと、思わせぶりなことを言っていたけれど。
「そう、婚約したふりをするためよ。それだけ」
 アマリエはひとりで話し、ひとりでうなずいた。言葉にしてしまうと、それが事実であるように思えた。
「前から、言おうと思っていたんだが」
 キースが表情を変えずに言った。
「わたしにわざわざ知らせなくてもいいよ」
「何を?」
「誰に求婚されたとか、されそうだとか、うまくいっているとかいっていないとか」
 アマリエはぽかんとしてキースの顔を見つめた。
 言われたことがよくわからなかった。
 これまでは、そういったことを誰よりも早くキースに話していた。キースはアマリエの選択に口を出すことはしなかったが、いつも黙って最後まで話を聞いてくれた。アマリエはキースに話すことで自分の気持ちを整理したり、確かめたりすることができていたのだ。
「どうして?」
「どうしてって、おかしいだろう」
 キースがアマリエから目をそらして、小さく笑った。
 めずらしくキースが笑っているのに、アマリエにはその理由がわからない。わからないから一緒に笑うこともできない。
「ミス・シェフィールドは、社交界で知り合った紳士のことを、逐一ご両親に報告しているのか?」
「ミランダは親戚の方と婚約しているからちょっと事情が違うと思うわ。それに、キースはわたしの親じゃないでしょう」
「とにかく、そんなに洗いざらい打ち明けてくれなくてもいいから」
 キースは笑った顔のまま立ち上がった。
「どこへ行くの?」
「書斎に戻る」
「一緒にお茶を飲まないの?」
「持ち帰った仕事があるから」
 まだ真夜中は過ぎていないが、だいぶ遅い時間だ。また夜が更けるまで仕事を続けるつもりだろうか。
 アマリエが後を追うように立ち上がると、キースが振り返った。まだ静かに微笑んでいる。
「本当に婚約が決まった時だけ教えてくれればいいから。それと、似合ってる」
 アマリエは少し考え、イヴニングドレスのことだと気がついた。外套は玄関で脱いできたので、あかがね色の生地とデザインがすべて見えるようになっている。
 キースがアマリエの着ているものを褒めるのはめずらしい。というより、ほとんどはじめてかもしれない。
「ありがとう。キースが雇ってくれた仕立屋さんのよ」
「必要ならもっと作らせてもいいよ。おやすみ、アマリエ」
 キースはそう言うと、アマリエの返事を待たずに背を向け、居間の扉を開けた。
「おやすみなさい、キース」
 アマリエがようやくそう言うことができた時、キースの姿は扉の向こうに消えていた。
 モーズリー夫人が茶器を載せた盆を持って現れ、どうなさったのですかと声をかけてくるまで、アマリエはその場所にひとり立ち尽くしていた。


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