濫読令嬢の婿えらび [ 9 ]
濫読令嬢の婿えらび

9.新聞記事と正餐会
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 アマリエがモーズリー夫人と一緒に居間で雑誌を読んでいると、玄関のほうで扉が開く音がした。
 まだ午前である。モーズリー夫人が首をかしげて立ち上がると同時に、キースが居間の扉を開けて現れた。
「キース、こんな早くにどうしたの」
 アマリエがソファに座ったまま振り向くと、キースは無言で歩み寄ってきて、手にしていた新聞紙を広げて見せた。
「これに心あたりはあるか?」
 アマリエは新聞を受け取り、一面に大きく出ている見出しを読んだ。
 キースは仕事柄、ロンドンで売られているすべての新聞に目を通す。そのうち何紙かでは広告主にもなっており、貸本屋に仕入れた本を出版元に代わって宣伝したり、依頼されて書評を載せたりすることもある。
 アマリエが手渡されたのはそういった高級紙ではなく、社交界のゴシップを主に取り扱う、だいぶ下世話なたぐいのものだった。
 見出しには、『第九代オクリーヴ伯爵、ヘイゼルダイン貸本屋の令嬢と婚約か』とある。
「これだとわたしがキースの実の娘みたいだわ。キースはまだそんな歳じゃないのにね」
「問題はそこではない」
 キースはソファの脇に突っ立ったまま、ぶっきらぼうに言い捨てた。
 アマリエは構わずに記事の続きを読んだ。何か所かで笑いがこみ上げてきて、モーズリー夫人に見せた。
「『狙撃の名手、美女に狙撃され人生の墓場へ』……まるでお嬢さまが猟銃か何かで伯爵さまをしとめたみたいですねえ」
「どうせならそういう絵もつければいいのにね」
「アマリエ」
 キースが低い声でふたりの話を遮った。
「お座りになってはいかがです、旦那さま。お茶を淹れてきますから」
「すぐ店に戻るからいい。――その様子を見ると、きみは知っているんだな」
 アマリエが知らないうちにゴシップに巻き込まれている可能性も考えて心配してくれていたらしい。仕事場で新聞を広げて、アマリエのことが載っていたので仰天して、急いで家まで駆けつけてくれたのだろう。
 アマリエはキースの生真面目な表情を見上げ、少し反省した。
「ごめんなさい、キース。でも心配しないで、これは本当のことじゃないから」
「それくらいはわかっている」
「そうなの?」
「本当に婚約したのならきみは報告してくれていただろう。だから驚いているんだ。嘘の情報がなぜ、きみの了承の上で新聞に載っている」
「ちょっとした人助けなの。詳しくは言えないんだけど、オクリーヴ伯爵はあるご令嬢との縁談を断りたがっていて、そのために婚約者のふりをしてくれる娘を探していたの」
「それできみが引き受けたのか」
「はじめは断ったのよ。でも、伯爵とお話しているうちに、そのくらい協力してもいいんじゃないかって思えてきて」
 アマリエが引き受けてもいいと申し出た時、伯爵は信じられないという表情でしばし呆然としていた。自分から言い出したくせに、いざとなると怖じ気づいたらしい。本当にいいのかと何度も確認され、アマリエは逆に呆れてしまったほどだ。
 伯爵の計画はこうだった。まず、知人のつてのあるゴシップ紙に、アマリエと彼の婚約を不確定ながら報じさせる。それを裏づけるように、多くの人の目がある社交場で仲睦まじく寄り添ってみせる。
「本当はこのこともキースに話しておくつもりだったのよ。でも、時間が見つからなかったの。びっくりさせてごめんなさい」
 談話会が幕を閉じてからというもの、キースは今までにも増して忙しそうで、アマリエと食事をする時間もないようだった。新しい事業が本格的に動き出しているのだろう。そんな中でアマリエを心配して仕事を抜け出してきてくれたのだ。
「談話会の後、取引先の出版社と印刷所、それから贔屓にしてくださっている貴族の家から、ご子息をきみに紹介したいと申し出があった」
 キースはアマリエに返された新聞を苛立たしそうにたたんだ。
「だが今日になってすべて撤回された。この記事のせいだろう。オクリーヴ伯爵が娘婿ならこの貸本屋も安泰ですねとまで言われた」
「娘婿って……キースは伯爵と三歳しか違わないじゃない」
「だから問題はそこではない」
 キースはめずらしく怒っているようだ。口数が少ないせいでいつも怒っているように思われがちだが、実際はめったなことでは怒らないたちなのに。
「わかっているのか。伯爵と婚約中だと噂になっている限り、きみに新しい求婚者は現れない。婚約が立ち消えになったら、今度はその理由を噂されて良からぬ評判がたつかもしれない」
「わたしの評判なんてもとからそんなに良くないからいいのよ。結婚が遅れるぶん、この家にいる期間は長くなってしまうけれど」
「そんなことは気にしなくていい」
 キースははじめて語気を弱めた。
 アマリエもわかっている。キースはアマリエをこの家から追い出したいわけではない。ただ、サー・ジョサイアの名にふさわしい相手に嫁がせて、サーからの借りをアマリエに返して、肩の荷を下ろしたいのだ。
 アマリエは立ち上がり、キースと向かいあった。
「心配させてごめんなさい、キース。でも、本当の婚約者もちゃんと見つけるから」
「そうしてくれ」
「お仕事に戻るの?」
「ああ」
 キースは短く言うと、アマリエに背を向けて居間から出ていった。ここに入ってきた時からずっと、帽子もコートも身につけたままだった。



 正餐会(ディナーパーティー)というものは、あらゆる社交行事の中でもっとも難易度が高い。と、アマリエは思う。
 会場である屋敷に踏み入れた時から、部屋への扉をくぐる順、招待主である夫妻への挨拶のやりかた、応接間から食堂へと移動する作法まで、ありとあらゆることに細かな決まりごとがあるのだ。仲のいい人たちと集まって食事や会話を楽しむために、なぜこんなまわりくどい段階をいくつも踏まなければならないのか、アマリエにはさっぱりわからない。わからないのはこの応接間の中でアマリエだけのようなので、先ほどから敵の陣地に迷い込んだ兵士のような気分を味わっている。
 同じ空間にいる年ごろの令嬢やその母親が、優雅な笑みに紛れて鋭い視線を送ってくるのだから、なおさらだ。
「緊張していらっしゃいますか、ミス・ヘイゼルダイン」
 アマリエが女性一同に睨まれている原因が、身をかがめて優しく尋ねた。
 オクリーヴ伯爵エドワード・アシュバートンは、まるで十年も前からこの場所にいるように、ごく自然に空気の一部になっている。格式の高さを表す白いタイに燕尾服といういでたちも完璧だ。
「いいえ、平気ですわ」
 緊張しているというよりも疲れている。まだ応接間に通されただけで正餐はこれからだというのに、何も食べずに帰りたいくらいだ。
「こういう時は、ええ少し、と言って、心細そうにパートナーを見上げるものですよ」
 伯爵がおかしそうに言う。声は可能な限り落としているし、アマリエの顔を覗きこむようにして話すので、傍目には仲睦まじい恋人同士に見えるかもしれない。
 婚約の噂を裏づけるために一緒に食事に出てほしいとは言われたが、まさかこのような本格的な正餐会だとは思わなかった。オクリーヴ伯爵家の遠縁にあたる公爵夫妻の邸宅だが、ロンドン市内とは思えないくらい屋敷も敷地も広い。
 アマリエはこの正餐会のために、生まれてはじめてイヴニングドレスを着ることになった。社交界に出たての女性は淡い色を選ぶことが多いようだが、アマリエは深みのあるあかがね色が気に入ってその生地にした。襟ぐりは大きく開いているが袖は肘のあたりまで覆い隠している。キースが雇ってくれた仕立屋に作らせたものだが、偽の婚約者との正餐会に着ていくことになるとは、キースも考えていなかっただろう。
 公爵家の執事が現れ、食卓が整ったことを告げる。招待主の夫妻がさりげなく、しかし序列に目を光らせながら、客たちを男女一組にして誘導する。アマリエは伯爵のパートナーとして招かれていたが、そうでなければ今日この場で会った紳士と組まなければならなかっただろう。
 公爵夫妻が伯爵とアマリエの名を呼び、応接間の外へと促している。
「お手を、ミス・ヘイゼルダイン」
 差し出された伯爵の腕に、アマリエはそっと手をかけた。
「手慣れていらっしゃるのね」
「こういうものは場数ですよ。あなたもそのうち慣れる」
「慣れる必要があるのかしら」
「ぼくの婚約者になればありますよ」
 伯爵はアマリエの歩幅にあわせて歩きながら、意味ありげに微笑んだ。
 今日のアマリエの使命はこの伯爵と仲良さげにふるまって、あの新聞に載っていた記事を他の招待客に思い出させること。ただし、決定的なことは口に出さない。問われてもやんわりとはぐらかす。
 そんな小器用なまねが自分にできるのだろうか。アマリエがそう思って途方に暮れていると、伯爵の顔が近づいてきた。
「大丈夫です、ぼくに任せてください。あなたは食事と会話を楽しんでにこやかにしていればいい」
 手をとられたまま階段を降り、一階の大食堂に入る。覗きこめば顔が映りそうなぴかぴかのテーブルに、いくつもの銀器とグラスが規則正しく並んでいる。これらの持ち方にも、使う順にも、もちろん細かい決まりがある。その決まりを完璧にこなした上で会話もしなければならないのだから大仕事だ。
 三十人あまりの招待客たちは男女交互に席に着いた。アマリエはもちろん伯爵の隣である。
 公爵夫人がグラスを上げ、一同の健康を祈って正餐が始まる。
 最初のスープが運ばれてくると、アマリエたちの向かいにいる壮年の紳士が、穏やかに声をかけてきた。
「ロード・オクリーヴ、ロンドンでお会いするのは久しぶりですな。てっきり今年は領地で過ごされるのかと思いましたよ」
「そうしたいのはやまやまだったのですが、あいにくロンドンで片づけなければならない仕事がありまして」
 紳士は伯爵の知り合いらしい。おそらくは同じくらいの地位と称号を持つ貴族なのだろうが、アマリエには見たことのない顔である。
「そのお仕事というのは、そちらの愛らしいお嬢さまと関係がありますの?」
 紳士の隣にいた女性に顔を向けられ、アマリエはスープにむせそうになった。
 伯爵が苦笑してアマリエを紹介する。
「こちらはミス・アマリエ・ヘイゼルダイン。サー・ジョサイア・ヘイゼルダインのご息女です」
「ヘイゼルダインというと、あの大きな貸本屋の?」
「経営者が彼女の後見人ですよ。そこで開かれていた談話会でぼくたちは知りあったのです」
「わたくし、あそこの会員証を持っていますわ。たくさんの本がある、とても素敵なお店です」
 テーブルの少し離れた位置にいた女性が、急に会話に入ってきた。アマリエより少し年上と見える彼女は、応接間にいる時からアマリエを睨んでいた客のひとりだった気がする。
「貸本屋さんのお嬢さんだったら、さぞ読書家でいらっしゃるのでしょうね。どんな本がお好きなんですの?」
 最近は猿の生態について調べています。その前は数学書を読みあさっていたし、法律に関する本も好きです。
 普段のアマリエなら迷わずそう答えるのだが、伯爵のパートナーである今はそういうわけにもいかない。
「小説が好きですわ。特にロマンチックなお話が」
 アマリエはにっこり微笑み、やればできるではないかと自分を褒めてやった。
 スープが済むと、二品目の魚料理に移る。次のアントレを食べ終わるころには、アマリエは話しかけてくる客たちに、朗らかに、かつ過不足なく言葉を返せるようになっていた。
「疲れたでしょう。水をもう少しもらいましょうか」
 口直しのシャーベットが並んだ後、伯爵が声をひそめてアマリエに尋ねた。
「いいえ、楽しいわ」
 まんざら虚勢でもなかった。本心を隠し、しかし嘘は口にしないように会話をこなすのは、ちょっとしたゲームのようでスリルがあった。
 何より食事が美味しいのである。キースの家にいる厨房女中(キッチンメイド)も腕はいいが、こうした場所で出される料理は凝っていて物珍しい。給仕をする使用人が品目ごとに説明を加えてくれるのも面白かった。
「それは残念」
「残念?」
「不慣れな令嬢を助けて守ってさしあげるのが、こういう場での男の妙味なんですよ。ぼくからそれを取り上げておいてひとりで楽しまれるとは」
「まあ、おふたりは本当に仲がいいんですのね」
 伯爵の片側に座っている中年の女性が、ふたりの話に割り込んできた。近くにいる客のほとんどがその声に視線を向ける。
「おふたりを拝見していると、自分の娘のころを思い出しますわ。わたしもはじめての正餐会で主人と出会ったものですから」
 来たな、とアマリエは心の中で身構える。
 これまででいちばん深く、この話題に切り込んできた言葉である。聞いていたほとんどの客の頭には、あの新聞の記事のことが浮かんでいるだろう。
「レディ、それは素敵な思い出ですね。ぼくもぜひあやかりたいものです」
 伯爵があっけなくかわしてしまったので、アマリエは少々がっかりした。肯定でも否定でもない気の利いた言葉を自分で考えようとしていたのに。
「まあロード、それはつまり――」
「あのサー・ジョサイアのお嬢さまが、もうそんな年ごろになられたなんて」
 なおも詮索しようとする女性を遮るように、別の声が聞こえてきた。アマリエの斜め前に座っている、小柄な老婦人だった。
「父をご存じなのですか?」
 アマリエは驚いて尋ねた。
 サー・ジョサイアの話は貸本屋で何度も耳にしていたが、実際に会ったことがあると言った人ははじめてだった。しかし、考えてみれば何も不思議なことではない。父は上流階級に名を連ねる勲爵士で、十年足らず前まで存命だったのだから。
「ええ、お母さまのことも存じ上げていますよ。おきれいな方でした」
 老婦人は優しそうな微笑を浮かべながら、おっとりと語った。
「サー・ジョサイアの奥方というと、確か外国から来られた」
「サーが退役後に東欧を旅した時に出会われたのだそうですよ」
「まあ、素敵なお話」
「当時の社交界はその話題で持ちきりでした。それはお美しい方でしたから」
 直接にしろ間接にしろ、アマリエの両親を知る人たちが口々に言葉を交わす。
 アマリエの母親は、東欧にある小国の貴族の生まれだった。海軍を退いたサー・ジョサイアが旅先で出会い、妻にするために連れ帰ってきたのだとは、アマリエも何度か聞かされていた。アマリエという、この国ではめずらしい発音の名前も、この母から受け継いだものだ。
 母はアマリエが物心つかないうちに亡くなったので、アマリエは姿絵でしか見たことがない。キースがアマリエを捜すための手がかりにした絵である。
「なるほど、あの時の噂の姫君の……どうりでお美しいはずだ」
 男性のひとりがアマリエを見て、感嘆したようにつぶやいた。もうこの世にはいない母と姿を重ねられているようで、アマリエはどういう顔をしたらいいかわからなくなる。
「そんなにお美しい母君をお持ちでしたら、ますますお近づきになりたいと願う殿方は多いでしょうね、ロード・オクリーヴ」
 どうしても婚約の話題を続けたいらしい女性が、躍起になったように尋ねる。
 彼女とアマリエの間にいる伯爵が苦笑した。
「そうですね。ぼくとしては、どのご婦人もそれぞれにお美しいと思うのですが」
「まあ、そんな愛らしい方のお隣でよくおっしゃいますわ。本当はミス・ヘイゼルダインのことしかお目に入っていないのではなくて?」
「わたしはそんな男性と結婚したいとは思いませんわ」
 アマリエが思わず口を挟み、女性の虚をついて黙らせた。
 好奇心を邪魔して悪いが、いい加減うんざりしてきた。婚約の噂について探られることではなく、容姿について――それも、記憶にない母のことを引きあいに出して――あれこれと品評されることに。
「ミス・ヘイゼルダイン、そんな男性、とは?」
「わたしの姿しか目に入っていない男性のことです。わたしはそういう方を伴侶に持ちたいとは思いません。わたしの瞳がどんなに美しいか長々と語るよりも、その瞳に何が映っているのかを理解して、同じものを見てくださる方がいいのです」
 アマリエが一息に語ると、場が静まりかえった。
 テーブルの端から端まで、男性も女性も、年配者も若者も、みな一様に沈黙してアマリエを見つめている。
 しまった、と思った。
 思ったより場に馴染めていることに安心して、うっかり本音で話してしまった。アマリエのような若い娘が異性の好みについて語るなど、こういう場では望ましくないことなのに違いない。
 しかも、結婚や伴侶といった、決定的な言葉を使ってしまった。
 大失態だと思ったが、もう遅い。
 メインの肉料理が給仕されていく中、誰もが戸惑いを顔に出して、皿とアマリエを交互に見つめている。
 テーブルの端にいる招待主の公爵夫人が、仕切り直そうと口を開きかける。
 その寸前、アマリエのすぐ側で明るい声がした。
「こういう女性なのですよ。みなさん、ぼくの苦労をわかってくださったようですね」
 伯爵がアマリエを横目で見つめ、苦笑しながら口を開いたのだった。
 向かいにいた男性客のひとりが、ほっとしたように言葉を引き継ぐ。
「いや、お美しいだけではなく聡明な方です。パートナーとしては苦労のしがいがあるというものでしょう」
「そのとおりです。この美しい紫の瞳に何が映っているのか、常に考えながら生涯を送ることになりそうですよ」
 アマリエはぎょっとして伯爵の横顔を見た。
 この言い方では、婚約の噂を肯定したも同然ではないか。
「まあロード、いま生涯とおっしゃいました?」
「確かにそういうものかもしれませんな。ご婦人の目に何が映っているのか、われわれ紳士は常に気を配っていなければ」
「ご婦人と言えば、卿の奥さまは――」
 再び会話に火がつき、テーブルのそこここで人々が思い出したように話し出す。アマリエの言葉が正確に伝わっていないような気はするが、とりあえず凍りついていた空気はとけた。
 アマリエの隣にいる伯爵のおかげで。
 アマリエは給仕されたメインの皿に手をつけず、おそるおそる隣を見た。
 伯爵は反対側にいる女性の追求を和やかにかわしており、アマリエのほうを向いていなかった。


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