濫読令嬢の婿えらび
8.オペラグラスの欠陥
「六日間ってあっという間よね」
オペラグラスで左右を見回しながら、ミランダが言った。
アマリエは彼女と並んで、貸本屋の二階で欄干にもたれかかっている。
談話会も今日が最終日である。今はまだ正午前で、通常営業の時間帯だ。キースに迎えに来てもらわなくて済むように、談話会が始まる前からひとりで店に来ることにした。ちょうどミランダが使いを寄越してくれたので、店で落ち合って談話会まで一緒にいることになった。
「結局、アマリエの旦那さまはここでは見つからなかったのね」
「たったの六日間では見つからないわよ」
「出だしは良かったのにね」
「……そうね」
ローマン・ヴィンセントをアマリエに紹介したのはミランダである。事の顛末を伝えるとミランダはひとしきり笑った後、真顔に戻ってごめんなさいと言ってきた。少し責任を感じているらしい。
「見た目で相手を判断する人っているわよね。わたしもよく、甘いお菓子や恋愛劇が好きでしょうって言われるわ。本当に好きなのはインド料理と扇情小説なのに」
「ミランダはそういう時どうするの?」
「とりあえず笑ってはぐらかすわ。本当の趣味を明かすのは、その人が信用できるか見極めてから」
こういう処世術はアマリエにはない。自分の好みも性格も、初対面から惜しげもなく相手に見せてしまう。ミランダはアマリエのそういうところを気に入ってくれたようなのだが。
「そういえばミランダ、オクリーヴ伯爵の婚約者って知ってる?」
ふと思いついて言ってみると、ミランダがぱっと振り向いた。
「知らないわ。どこかでそんな話を聞いたの?」
「いいえ、たぶんわたしの勘違いだわ」
ミランダも知らないということは、婚約の話は噂にはなっていないのだろう。伯爵の望みどおり立ち消えになったのか、はっきり決まらないうちに明るみに出ないよう、相手の家が気を配っているのだろうか。
どちらにしても、アマリエの預かり知らぬところで解決してくれていればありがたい。あの人を人とも思っていない伯爵はともかく、どこかの知らない令嬢が傷つくようなことになっていなければ。
「なあに、アマリエ。ひょっとしてオクリーヴ伯爵のことが気になっているの?」
オペラグラスを外したミランダの目が輝いていたので、アマリエはつい顔を背けた。そのまま回廊を歩き、階段を下りはじめる。
「そういうのじゃないわよ」
「談話会は今日で終わりだけど、伯爵はいらっしゃるのかしらね。今ならアマリエの隣は空いているわよね」
「どうでもいいったら。――ベアリングさん、こんにちは」
ミランダをあしらいながら一階まで来ると、アマリエは貸出受付で声をかけた。
白髪の目立ち始めた初老の男性が、カウンターの向こうで穏やかに笑った。
「こんにちは。アマリエお嬢さん、ミス・シェフィールド」
ティム・ベアリングは六十手前の社員で、貸出受付の中ではいちばんの古株だ。アマリエがキースとともにはじめて店に来た時、アマリエの会員証を作ってくれたのも彼である。
「今日は談話会の前からいらしてるんですね」
「ええ。キースは地下にいるかしら」
「そうですよ。あいかわらずお忙しいようで」
貸本屋の事務所やキースの執務室は地下にあり、書庫とは別の階段で店とつながっている。社員以外はもちろん自由に行き来できないが、アマリエはキースに会いに何度か足を運んでいるので、事務員たちとも顔見知りだ。
あとで顔を出してみようかな、と考える。談話会が始まる前に、どこかでコーヒーと軽食でも調達して。キースはそんなことをしなくていいと言うだろうけれど。
「おや」
アマリエとミランダの背後を見て、ベアリングが声を上げた。
「めずらしいお客さんがいる」
ベアリングの視線を追いかけると、その先には店の入り口に立ちふさがっている案内員と、利用客らしい親子の姿があった。めずらしいと言った理由はすぐにわかった。親子はここにいる多くの客とはまるで違う、粗末な身なりをしていたのだ。
ここからは話し声はほとんど聞こえないが、案内員が親子を押しとどめようとしているように見える。
アマリエは自分でも気づかないうちに、彼らのほうに足早に歩み寄っていた。
「――自分はよくここへ来て、新聞を読ませてもらっとるんですが」
客の親子のうち、父親のほうが案内員に訴えている。汚れてはいないが着古したシャツとズボンを身につけ、皺の寄った帽子を手に抱えている。修理工や配達人などの仕事に就いている労働者だろう。隣にいる息子らしい子どもは七、八歳くらいで、丈の短くなった服を着て父親と案内員を見上げている。
「いつもはそうですが、今日は会員でない方は入れません。別の日にお越しください」
「そんな決まりはないはずだわ」
アマリエが声をかけると、労働者の親子と案内員がいっせいに振り向いた。
「お客さまの階級によって対応を変える店はありますけれど、ここはそうではないはずです。どうしてこちらの方にお入りいただかないのですか?」
アマリエは三人の側に立ち、背の高い案内員に尋ねた。
キースと同い年くらいの若い案内員は、アマリエを見下ろして言葉を詰まらせていた。顔には見覚えがあるが話したことはない社員のひとりだ。
「ミス・ヘイゼルダイン、今日は談話会です。この後は上流階級のお客さまがおおぜいいらっしゃいます」
「でも、今は通常の営業時間内ですわ」
ヘイゼルダイン貸本屋には店舗の一角に新聞室があり、貸出はしていないが誰でも無料で新聞を読むことができる。会員証を持った裕福な利用客が多い書架に比べると、労働者階級の客の姿を時おり見ることができる場所だ。
まさにそうした客である親子連れの父親は、とつぜん会話に入ってきたアマリエに戸惑っているようだった。
「こちらの方を追い返そうと言うのではありません。ただ、日を改めていただきたいと」
案内員は決して横柄ではなく、むしろ誠実に言葉を選んでいた。
彼の言うことは間違っていない。下の階級と店に居合わせることを嫌がる上流の客は多い。そして、そういった客の支持を失えば、ヘイゼルダイン貸本屋はやがて立ちゆかなくなる。
しかし――アマリエは、店の入り口で立ち尽くす親子を見る。
着古した簡素な衣服。力仕事に耐えうるがっしりした手足。働く合間を縫って、わずかな知識でも得ようとやってきた親子。
キースが本来この店に来てほしいと願っているのは、こういう人たちなのだ。
「談話会まではあと三時間ほどあります。通常営業が終わるまでは一時間。その間にこの方たちに店を使っていただくことはできるはずです」
「しかし、すでに高貴なお客さまがたがいらっしゃっております」
「――わたしのような?」
場違いに明るい声が割り込んできて、アマリエは顔を上げた。そこで目にしたものが輪をかけて場違いだったので、思わず声を上げそうになった。
現れたのは、金髪で背の高い美貌の伯爵、エドワード・アシュバートンだった。
「きみはなかなか度胸があるな。ミス・ヘイゼルダインを怒らせるとは」
伯爵は優雅に微笑みながら案内員に言うと、今度は労働者の親子に目を移した。
「このロンドンを支えている、力強い方とご一緒できて光栄です。ここはいい店ですから、ご子息と一緒に何度でも足を運ばれるといい」
「ロード、たいへん失礼ですが――」
「きみが気にかけているのは、わたしのような客の機嫌を損ねることだろう? だったら心配は無用だ」
反論しようとした案内員は、伯爵にやんわりとかわされて押し黙る。
口を開けなくなったのはアマリエも同じだった。この場はすっかり伯爵の仕切るところとなっている。店内のあちらこちらから視線が集まってきているのがよくわかる。
「――あのう」
ただひとり声を上げたのは、足止めをくらっていた労働者の父親だった。アマリエに続いて美貌の青年貴族が味方につき、喜ぶというよりもすっかり混乱しているようだ。
「どうぞ、お入りください」
案内員がいち早く立ち直り、観念したように言った。
「新聞室は左手奥の扉です。今日の営業は正午で終わりですが」
「ありがとうございます、邪魔します」
労働者は帽子を頭に載せると、店に足を踏み入れて示されたほうへ向かった。おとなしそうな息子が小走りになってついていく。
アマリエは彼らの姿を見送りながら、しばらく立ち尽くしていた。
いま、ここで起こったことはなんだったのだろう。
「アマリエったら、オクリーヴ伯爵と知りあっていたの?」
追いかけてきていたミランダに声をかけられ、我に返る。
言うべきこと、するべきことを思い出して左右を見たが、伯爵の姿はすでに側から消えていた。
アマリエは借りたランプを手にひとりで階段を降りていた。
ヘイゼルダイン貸本屋の、地下書庫へと続く階段である。
談話会の最終日が始まってからというもの、地上の書架の間を練り歩いて探したが、オクリーヴ伯爵の姿は見つからなかった。あれだけ人の目を惹く容姿の上、常にたくさんの女性に囲まれているのだから、見落としているということはないだろう。ということは店から去っていったか、この地下書庫にいるかのどちらかである。アマリエは迷わず地下へ降りることにした。
談話会の二日目にヴィンセントと来た時と同じく、地下書庫にはほとんど人気がなかった。稀少本や古い本を手に取ることもできる、なかなかの穴場だと思うのだが、談話会の間だけ入れるということがあまり知られていないのかもしれない。来年からはこの書庫をもっと推してみてはどうかとキースに話してみよう。
そんなふうに考えながら書架の間を見ていくと、奥のほうに長身の人影が見えた。もしやと思って近づいてみると、相手も体の向きを変えてアマリエを見た。
エドワード・アシュバートンだった。
「ミス・ヘイゼルダイン。今日はパートナーがいらっしゃらないのですね」
そう言って笑った伯爵も、今はひとりのようだ。彼がここにいるとすれば女性と一緒に違いないと思っていたアマリエは、少し面食らった。しかし、相手もひとりのほうが都合がいい。
「あなたを探していましたの、ロード・オクリーヴ」
「ぼくを? そんな嬉しいお言葉をあなたから聞けるなんて――」
「はぐらかさないで。先ほどのお礼を言いに来ただけですわ」
伯爵は美しい目をしばたたかせ、アマリエを見つめた。その顔ににやりと笑みが浮かぶ。
「どうしてあなたがぼくに感謝するんです? ぼくが助けたのはあの親子であって、あなたではありませんよ」
自惚れるなと言わんばかりの口調に、以前のアマリエならばきびすを返していたかもしれない。
彼の意外な行動を目の当たりにしたばかりの今は、この人をもう少し知りたいという好奇心のほうが勝っていた。
「では、どうしてあの方たちを助けたのですか?」
これまでに見てきた彼の言動や、人づてに聞いた噂を考えると、この伯爵が階級の低い人々に関心を持っているとは思えない。狩猟と火遊びが好きで、社交界でそつなくふるまって注目を集める、良くも悪くも貴族的な青年である。
アマリエの気を惹くためにしたことなのかとも思った。だが結婚相手ではなく、偽の結婚相手として選んだ娘のために、わざわざ慣れないことをするだろうか。
伯爵は広い肩をすくめると、側にある書架に視線を移した。
「ここはなかなかの穴場ですね。静かだし、階上と違って人もほとんどやってこない。ある種の社交にはうってつけの場所なのに、どうして誰も寄りつこうとしないのかな」
あからさまに話をそらされ、アマリエはむっとした。
しかも、アマリエが思ったのとはまったく別の意味で、この地下書庫を穴場だと言っている。
「ここには、普段はじかに見ることのできない本がたくさん置いてあります。読書好きにとってはたまらない場所なのに、あなたには関係のないことのようですわね」
「そんなに敵意を剥き出しにしないでもらいたいな。あなたの養父の店を冒涜したつもりはないですよ」
「キースはわたしの養父ではありません」
「手厳しいな。本当に人の評判を気にしないんですね、ミス・ヘイゼルダイン。階上でお会いした時も思いましたが」
今度はアマリエが肩をすくめる番だった。
確かに、公衆の面前で理屈を並べて男性に逆らうなど、模範的な令嬢ならば絶対にしない。どうしても必要にかられてやるとすれば、優雅な微笑みと柔らかな言葉をつかって、その場の空気を乱さないようにするだろう。
アマリエにはそういった気配りができない。自分の意見を述べるにあたって、なぜ若い娘だけが余分に労力を使わなければならないのかもと思う。
こういうところが、寄宿学校でつまはじきにされ、社交界でも一部の人々に距離を置かれる所以だと、わかってはいても。
「誓ってもいいですが、あれであなたの求婚者は何人か減ったと思いますよ。いくらあなたの美貌と財産が魅力的でもね」
「気のあわない方に申し込まれる可能性がなくなって、好都合ですわ」
「あなたは立派だ。その揺るぎのなさが、ぼくにはうらやましいんです」
いきなり褒められたので、アマリエはとっさに言葉を返せなかった。皮肉にしては伯爵の表情が真摯で、どこか切なげでさえあったのだ。
「ロード・オクリーヴ、あなたも、ご自分のお心に忠実に生きていらっしゃるのでは?」
「――そう見えているとわかって、ほっとしました」
伯爵は微笑むと、帽子を押さえてきびすを返した。
「待ってください」
「まだ何か?」
「質問に答えていただいていませんわ。どうしてあの親子を助けたのですか?」
「そんなに意外でしたか。ぼくが乗馬と狩りと美しいご婦人にしか興味がないと思われているのですね」
アマリエは少しずつ苛立ってきた。
この伯爵はひとつの質問に答えるのに、必要の何倍も言葉を費やして時間をかける。まるで、率直に言ってしまっては損だとでも言うように。
「はっきりおっしゃってくださいな。それ以外の、何にご興味がおありなのですか?」
「ぼくはこう見えても伯爵ですよ。貴族院の一員として、この国の将来を案じるのは当然のことです」
「労働者の生活や教育についても案じていらっしゃると?」
「そのとおりです。ぼくはすべてのご婦人を敬愛していますが、同時にうらやんでもいるのですよ。女性に生まれていれば、貧しい人々に手をさしのべることもできたのに――ああ、言ってしまった」
伯爵は苦笑して額を押さえた。芝居がかったその仕草を見て、アマリエはこれが彼の本心なのか否か、しばし考え込んだ。
貧困者の居住区を訪問して施しをしたり、バザーや演劇で寄付を募ったりということは、上流階級の女性の務めとされている。男性の義務は議会に出席したり、領民のために施設や制度を整えたり、有事の際に戦地に赴いたりすることである。
いや、性差の問題ではない。そもそもこの、享楽的な貴族の暮らしを楽しんでいる美貌の伯爵が、日々の生活にも困窮している労働者に手をさしのべたいなど、本当に心から思っているのだろうか。
「信じていただけていないようですね」
悲しげな目で見つめられ、アマリエはあわてて否定した。
「そんなことはありませんわ」
「いいのですよ。正直なご婦人は好ましい。それに、信じていただけないのはぼくに問題があるからです。体面を気にして、本当にやりたいことをやれない、やりたいと口に出すこともできない」
「縁談を断りたいというのも、もしかしてこのことと関係があるのですか?」
おそるおそる口に出してみたが、アマリエはまだ半信半疑だった。
もうしばらく気楽な独り身でいたいと、前にここで会った時に伯爵は言った。不特定多数の女性とつきあえる身分でいたいという意味だと思っていた。しかし、他にもやりたいことがあるのだとしたら。
「令嬢をぼくにと言ってくださっているのは、伝統のある貴族のお家でして。娘婿には領地で狩りに明け暮れていてほしいと願うような」
伯爵ははにかんだように微笑み、アマリエからわずかに目をそらした。地下書庫は暗いので顔色はよく見えないが、ひょっとしたら少し赤くなっているかもしれない。
「正直にお話しになればいいのに。あなたが狩りだけではなく他のことにも興味をお持ちだって」
「そうできればいいのですが、ぼくは見栄っぱりなんです。なかなかあなたのようにはなれませんよ」
伯爵は今度はアマリエの目を見て、にっこり笑顔を浮かべた。
完璧に整った顔だちに、完璧に計算された表情。この仮面の下に隠れた素顔が見えたと思ったのは、アマリエの気のせいだったのだろうか――いや、確かに見えた。
「お互いつまらないことに時間を使いましたね。それぞれのいるべき場所に戻りましょう、あなたは本の海へ、ぼくは人の海へ」
それぞれのいるべき場所とはなんだろう。
労働者の暮らしをしていたことのある変わり者の令嬢が、社交界で後ろ指をさされることがあるように、人々の噂や羨望の的となっている美貌の伯爵は、その虚像を損なわないよう本心を隠さなければならないのか。
世界はもっと広くて、複雑で、さまざまな可能性に満ちているはずなのに、自分がいる小さな場所の中で縮こまっていなければならないのか。
「まだ探していらっしゃる?」
今度こそアマリエに背を向けていた伯爵が、アマリエの声を聞いて振り向いた。
「はい?」
「つまり――婚約者のふりをしてくれる令嬢を」
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