濫読令嬢の婿えらび [ 7 ]
濫読令嬢の婿えらび

7.南向きの窓
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 書斎の扉をノックすると、アマリエは中に呼びかけた。
「キース、入っていい?」
「ああ」
 扉を開けて中に入ると、キースが机の向こうで座ったまま顔を向けた。キースの背後の壁と、アマリエが開けた扉の向かいの壁は、ほとんど書架で覆われている。家具は書きもの机とそれに向かう椅子の他は、古びた長椅子がひとつ置いてあるきりだ。
 キースの書斎は玄関から階段に向かって右、居間兼応接間と対称の位置にある。中の扉で隣室とつながっており、そこはキースの寝室になっている。
 一階に寝室があるなんて変わった家だとはじめは思ったが、キースは仕事を持ち帰って夜遅くまで書斎にいたりするので、すぐ隣に寝室があるほうが都合がいいようだ。たまに書斎の長椅子で朝まで眠っていることもある。
「今日はそんなに遅くならなかったのね、キース」
「支店からの報告書が上がってきたから、ここで読もうと思って」
 キースは頬杖をついて机の上の書類を読んでいる。事務仕事の時と文字を読む時だけ使う、縁の細い眼鏡をかけている。
「いよいよあの件が動いているの?」
「ああ」
 キースがこのごろ忙しいのには理由がある。
 貸本屋の事業を始めた時に目指していた、労働者階級向けの店を再び開こうとしているのである。
 ヘイゼルダイン貸本屋はロンドンにある本店の他、ブライトンとマンチェスターに支店を持っている。その他にも個人経営の小さな貸本屋と契約を結び、数十冊の本を長期に渡って貸し出すこともしている。そうした地方からの報告は新しい事業の参考になる。新しい店は本店のような大型のものではなく、個人商店のような形で各地に点在させたいと、キースは考えているのだ。
 アマリエは机の側まで歩み寄り、キースが読んでいる書類を覗きこんだ。
「うまくいきそう?」
「まだわからない。マンチェスターの店では非会員の利用客が多いようだから、それなりの需要は見込めると思うんだが」
「工場の多いところは働く人も多いものね。キースは何を迷っているの?」
「ヘイゼルダインの名で新しく店を建てるべきかどうか。いきなり新店舗を増やすのではなく、別業種の店に間借りしてはどうかという者も多いから」
 食品や生活雑貨を商う個人の店ならどの街にもある。そうした店に場所代を払って、試験的に貸本業を行ってみることも可能なわけだ。実際に本業のかたわら貸本にも手を出している商店主は多い。
「だったら、場所を借りるだけじゃなくて、そのお店の人に経営にも関わってもらったら?」
 アマリエが思いつきを口に出すと、キースは眼鏡ごと顔を上げた。
「貸出の料金や期限を店ごとに自由に定めてもらうの。どんな本を置いておくのかも。もちろん、キースの部下からいろいろ教えてもらわなくちゃいけないけど。お客さまが増えるほど店主さんにも報酬が入るようにすれば、貸本を専門にやろうと考える人も出てくるかもしれないわ」
「なるほど」
 キースの返事は短かったが、興味は持ってくれたようだった。
「いいかもしれない。担当者に話してみる」
「ありがとう。結果を聞かせてね」
 アマリエはにっこり笑った。
 キースはアマリエが仕事のことに口を挟むのを許してくれている。アマリエが気に入った作家の著書を何冊も買い上げたり、貸出受付に女性の担当者がいるといいと言ったら実際に雇ったりする。受付では年会費を取る他に新事業のための寄付も募っているが、それもアマリエが思いついてキースに勧めたことだ。
 貸本屋の店舗を使った談話会も、実はアマリエが最初に言い出した。社交期ごとに取引先や上客をもてなすのに苦労しているとキースが言うので、それならもてなしたい人を店に集めて本と会話を楽しんでもらったらと言ってみたのだ。アマリエにとってはほんの思いつきだったので、まさかキースが実行に移すとは思わなかった。
 しかも、助言されたことなど黙っておけばいいのに、キースは部下たちにアマリエの発案だと伝えているらしい。おかげでアマリエは、店で社員に会うたびお手柄だと褒めてもらっている。
「それで、きみの用は?」
 キースが読んでいた書類を伏せ、あらためてアマリエに尋ねた。
 アマリエはうなずいた。キースが帰宅してから、ずっと言う機会をうかがっていたのである。
「ミスタ・マクローリンのご子息のことなんだけど。おつきあいするの、お断りしていいかしら」
 キースは眼鏡を外して机の上に置くと、目を細めてアマリエを見た。
「言っただろう。わたしはきみが誰を選ぼうと口を出すつもりはない」
「そうだけど、断ることはキースにも話しておいたほうがいいと思って」
「ミスタ・マクローリンのことは気にしなくていい。もともとこの件を仕事に持ち込むつもりはないようだったから」
 アマリエはほっとして長椅子に腰を下ろした。キースの机とは斜め向かいの位置にあり、話をするのにちょうどいい。背後に書架があるので、おびただしい背表紙に見守られているようでくつろげる。
「――意外に気があっているように見えたんだが」
「クレイグのこと? ええ、いい人だったわ」
 アマリエはあたりさわりなく言いながら、貸本屋で起こったことを思い返した。
 クレイグ・マクローリンは、歴史の書架の前にアマリエを立たせ、自分もそこに立ったまま、小一時間も語り続けたのである。
 おそらくは手にしている本から得た知識なのだろうが、アマリエも別の本ですでに知っていることがほとんどだった。アマリエが議論の糸口を見つけて口を挟んだり、ちょっとした間違いに気づいて正そうとしたりすると、眉をつり上げて威嚇するような目でアマリエを見た。アマリエは何も言えなくなり、クレイグはそれまでの寡黙さが嘘のように延々と話し続けた。あまりにもよく続くので時計ではかって記録しておこうかと思った。
 アマリエはその間、クレイグの日記帳か何かになった気分だった。
 結局クレイグは、兄たちとは似ていないようで似ているのだ。読書家で知識が豊富で、アマリエのような若い娘にそれを披露するのは大好きだが、アマリエが感想を言ったり議論をしたがったりするのは好まない。
「――落ち着いていて話しやすい人だったし、お友達としてなら仲良くできると思う。でも、一生をともにしたいとは思えないの。悪い人ではないんだけど」
 しかし、それを言ったら、ローマン・ヴィンセントだって悪い人ではなかった。
 なんだか気が滅入ってきて、アマリエは長椅子の背もたれにしなだれかかった。
「難しいものね。わたし、自分で思っている以上に理想が高かったのかしら」
 言いながら、それほど高望みなことだろうかとも思う。
 アマリエを美しい妖精でも、知識をひけらかす受け皿でもなく、ひとりの人間として扱ってくれる伴侶に出会いたいと願うことは。
「たったのふたりだろう」
 キースがつぶやくように言い、アマリエは長椅子で身を起こした。
「え?」
「まだ、たったふたりとうまくいかなかっただけだろう」
 キースはアマリエの背後にある、自分の書架に視線を流した。アマリエも体をひねって同じ書架を見上げる。
 書斎を見れば持ち主の人となりがわかるというが、キースの蔵書にはあまり個性がない。書誌学や出版史といった仕事にかかわる本の他は、各分野を代表する書物が偏りなく取りそろえられている。アマリエはこの書架の前に立つと、大きな事典の中にいるような気分になる。
 重厚な背表紙に刻まれた書籍と著者の名前。一冊一冊の中に書かれている、真実と想像の世界。
「――そうよね」
 アマリエは小さく笑った。
 はじめてこの書斎に入った時のことを思い出したのだ。
 アマリエが十二歳でこの家にやってきた後、キースはアマリエのために学校を探して入学させてくれた。ロンドンから列車で数時間の地方にある、伝統的な寄宿制の女学校である。
 生徒はおおむね上流階級の末端、貴族の位はないが財産や名誉はあるといった、アマリエの生家と同じような家の娘たちだった。
 寄宿舎に着いた日からアマリエは違和感を覚えていた。その時はまだ何も困ったことは起きていなかったが、自分はここに馴染めないのではないかと漠然と思った。そしてその予感は当たっていた。
 アマリエが八歳からの四年間、孤児として街で働きながら過ごしたことを、生徒たちはどこからか聞きつけてきたらしい。アマリエの所作や発音をいちいち見とがめて、聞こえよがしに笑ったり陰でけなしたりした。アマリエと同じ食卓に着くことをあからさまに嫌がる生徒もいた。
 アマリエは、自分がどうすれば受け入れてもらえるのかわかっていた。他の生徒たちの言葉や身ぶりを真似て、彼女たちの一員になりたいと殊勝な態度で伝えれば良かったのだ。
 しかし、そうしなかった。彼女たちの仲間に入り、彼女たちのようになりたいとは思えなかったのだ。まだ十代もはじめの少女たちなのに、大人の貴婦人のようにもったいぶった態度を身につけ、人の顔色をうかがうことばかりに長けていた。アマリエのように少しでも毛色の違う生徒がいれば結束して排除にかかった。学校とは名ばかりで、由緒のある女学校を出たという箔をつけ、社交界に出ることしか考えていない生徒がほとんどだった。
 アマリエが馴染もうとしないでいると、今度は教師たちが苦言を呈してきた。どうして他の生徒のようになれないのか、なろうとしないのか。アマリエは今ほどたくさんの言葉を知らず、自分の気持ちを大人にうまく伝えられなかった。そうして生徒のみならず教師からも嫌われることになった。
 最初の休暇でこの家に帰ってきた時、キースに学校はどうだったかと問われ、アマリエは答えることができなかった。
 二度とあそこには行きたくないと言いたかった。けれどもキースが仕事の合間に学校を探し、高額の入学金と学費を払ってくれたことを思うと、とてもそんなことは言い出せなかった。まだ引き取られてから間がなく、キースの人柄はよく知らなかったし、赤の他人に養われているという引け目もあった。
 キースのかわりにモーズリー夫人が少しずつアマリエの気持ちを聞き出し、キースに正直に話すように勧めてくれた。キースはアマリエの話を最後まで聞くと、わかった、と答えた。
『他の学校を探そうか?』
『――いえ』
 あっさり退学を認められたことに拍子抜けしながら、アマリエはキースを見つめた。今と同じようにキースは書斎におり、その背後には壁一面の書架があった。
『本が好き?』
 アマリエがなんとなく書架を見ていると、キースが尋ねた。
『いいえ――よくわかりません』
『学校には行かなくても、勉強は続けたほうがいい。ここの本で読みたいものがあったら、自由に読んでいいから』
 そうしてアマリエは本を読み始めた。この、キースの書斎で。
 はじめは女学校でも読んだことのある文学作品からだった。読み終わってキースに感想を言うと、キースは次に読む本を見繕ってくれた。アマリエが面白かったと言うとそれに似た魅力を持つ本を、ここがわからなかったと言うとそれに答えてくれる本を。
 蜘蛛の巣が大きくなるように、アマリエの興味は縦に、横に、どんどん広がっていった。
 十九世紀半ばのロンドンの、小ぢんまりした家の中で、アマリエは世界中を旅した。英国王が大陸にたくさんの領土を持っていたことも、紅茶がヨーロッパから遠く離れた中国で生まれたことも、鯨が求愛のために歌を歌うことも、すべて本の中で知った。
 世界というものが、下町の薄暗い路地裏や、女学校の狭い教室だけで完結するような、小さなものではないということも。
 アマリエが書斎の本だけでは飽き足らなくなると、キースはアマリエをヘイゼルダイン貸本屋に連れていって、アマリエの会員証を作ってくれた。
 貸本屋は社交場でもあるので、そこに出入りしていれば自然と人々の目にさらされることになる。
 アマリエは、まわりに同化するために自分を曲げることはせず、かといって他人をことさらに避けることもしなかった。自分が読みたいと思う本を手に取り、話しかけられればそれについて語った。アマリエのそんな態度に眉をひそめる人は少なくなかったが、何人かは面白がって繰り返し声をかけてくれた。ミランダもそうやって仲良くなった友人のひとりだ。
 世界はとてつもなく広いし、その世界にはたくさんの人が暮らしている。
 たったひとつの場所に馴染めなかったり、ひとりやふたりとうまくいかなかったりしたくらいで、世界を閉め出してしまわなくてもいいのだ。
「ありがとう、キース。あのね、久しぶりにここで本を読んでいい?」
 キースは目を見開いてアマリエを見たが、すぐにうなずくと眼鏡をかけ直した。仕事に戻るという合図だ。
 アマリエは長椅子から立ち上がると、キースの邪魔にならないように静かに書架に行き、一冊の本を抜き出した。四年前から何度も読み返してきた、馴染みのある本の一冊だ。アマリエはその本を抱えると、キースの机の対角にある、この部屋でただひとつの窓に向かった。窓はスクエアに面した南にあり、出窓になっているのでベンチのように腰かけられる。昼間はここからふんだんに光が入ってくるが、書架には当たらないように距離をとってある。今は夜なので、窓の向こうには薄暗い闇が広がっているだけだ。
 アマリエは出窓に腰を下ろすと、キースが仕事に集中しているのを確かめ、自分の膝の上で本を開いた。
 十二歳のころから、ここがアマリエの定位置だ。キースは机に向かって仕事をする。アマリエは出窓に座って本を読み、ときどきキースの顔を盗み見たり、振り返って窓の外を眺めたりする。
 南向きの窓はスクエアからロンドンの街へ、海へ、大陸へ――世界へとつながっている。


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