濫読令嬢の婿えらび [ 6 ]
濫読令嬢の婿えらび

6.書架での作法
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 ヘイゼルダイン貸本屋の蔵書は、一階が小説や戯曲など大衆向けの読み物、二階が各分野の専門書という構成になっている。
 貸出限度は一回につき三冊。人気の出版形態である三巻本(スリーデッカー)を一度に借りられるのが売りだ。会員証を作らなくてもそのつど貸出料を払って借りることもできる。年会費の三ギニーを出す余裕のない層にも利用してもらいたいという意図からである。
 というようなことをクレイグに説明しながら、アマリエは彼と一緒に吹き抜けの階段を上がった。
「でも、やっぱり、会員になって通ってくるお客さまがほとんどみたいなんだけど」
 アマリエとクレイグがやって来た二階の回廊には、身なりのいい紳士淑女の集まりが点々と見える。今は談話会が開かれているが、普段の営業時間でも客層はおおむね中流から一部の上流階級だ。そういった人々が出入りしていれば、格の高い店という評判がついて、ますます羽振りのいい客が増える。そして、年会費を払えない客にとっては敷居が高くなり、安価で本が読めると知っていても足が遠のいていく。
 キースが客にしたいと思っているのは、本来はそういった市井の人々のはずなのだが。
「貸本屋の経営に詳しいんだな、きみは」
「あ、ごめんなさい。退屈だった?」
 アマリエは慌てて口をつぐんだが、クレイグは『別に』と言っただけだった。どこまでも口の重い青年だが、アマリエにとってはそれがかえって好ましい。
「本を見に来たんだったわよね。何がお好き?」
「歴史。特に英国史」
「わたしも大好き。サー・ウォルター・スコットは読んでいる?」
「読んだけど、小説よりも専門の歴史書が好きだ」
 クレイグの言葉はひとつひとつが短く、簡潔だ。話を広げづらいが、それならばとアマリエは彼を書架へ導いていく。
 歴史書を好んで読む客は多いので、二階の書架の中でもかなりの幅を取って所蔵している。確か地下書庫には古い史料を活字に起こして印刷したものもあったはずだ。
 回廊を歩いてめあての書架の前へ来ると、そこには先客がいた。ただし、本を見ているわけではない。書架に背を向けて、お互いしか目に入らない様子で談笑している、身なりのいい若い男女だ。
 談話会の最中なので、本に興味のない客が書架の前を塞いでいても腹は立たないのだが、どうすれば角を立てずに場所を空けてもらえるかアマリエにはわからない。ミランダならにこやかに話しかけ、いくつか雑談を交わしながら、さりげなく相手を書架から移動させてしまうのだろうが。
 アマリエが悩んでいるうちに相手のひとりが振り向いた。
 目があった瞬間、アマリエは叫びそうになった。
「どうも、ミス・ヘイゼルダイン。あなたとはお互いの逢い引き中に居合わせる運命のようですね」
 帽子を押さえてにやりと笑ったのは、美貌の伯爵エドワード・アシュバートンだった。
 はじめてここで彼を見た時とは違い、女性ばかりの人だかりに囲まれていない。側にいるのは、アマリエと同い年くらいの令嬢がひとりだけだ。彼女は伯爵に倣って振り向き、アマリエとクレイグを見て内気そうに口ごもっている。
 アマリエはつんと背を伸ばして、言った。
「なんのことかしら。わたしはこちらの方と一緒に本を見に来ただけですわ」
「では、われわれは邪魔者のようですね。これは失礼しました」
 伯爵はアマリエを見てまた笑うと、かたわらの令嬢に腕を差し出す。
「レディ、あちらで話しましょう。これらの本を心から必要としている方の邪魔をしてはいけない」
 あてつけがましいその言い方に、アマリエはかちんとくる。
 社交期もさかりの社交場、つまり多くの男女が伴侶を求めに来ている場所で、真面目に本を読むなんて不粋な者のやることだ。伯爵はそう言っているのである。自分は壁一面を埋めつくす本には目もくれず、初々しい令嬢を連れて回廊を歩いていく。
 あれが断りたい縁談の相手なのだろうか。それとも新しい恋人だろうか。
「――おい?」
 ぶっきらぼうな声を聞いてアマリエは我に返った。
「ごめんなさい、英国史の本だったわよね」
 アマリエはクレイグに微笑み、伯爵と令嬢がいた書架の前に立つ。
 クレイグの言うとおりだ。貸本屋に来て本を読んで何が悪い。

「おかえりなさい、キース」
 扉が開く音を聞くと、アマリエは蝋燭を手に居間から玄関に向かった。
 もう真夜中である。モーズリー夫人もすでに自分の寝室に下がっているが、アマリエはキースの帰りを待つために一階で本を読んでいた。
 キースが帽子を取ってコートを脱ぐのを、アマリエは特に手を貸さずに待つ。キースはアマリエが使用人のようなことをするのを嫌うのだ。反対に、服を新調したいとか、劇場に連れていってほしいとか、ちょっとしたわがままを言うと安心したような顔をする。アマリエ以外にはわからないであろう微妙な表情だが。
「まだ起きていたのか」
「キースと話したいことがあったから。遅くまでお仕事だったのね」
 蝋燭で家の中を照らし、キースを導くようにして居間に戻る。玄関から向かってすぐ左の、応接間を兼ねる部屋である。
「ミスタ・マクローリンのご子息のことか」
「そうよ」
 アマリエがソファに腰を下ろすと、キースは斜め前の椅子に座った。
 談話会の後はマクローリン父子が馬車で送ってくれたので、キースとは話す機会がなかったのだ。ついでにそのあたりで食事をどうかと誘われたのだが、丁重に断ってきた。
「会わせてくれてありがとう、キース。クレイグは――まだよくわからないけど、面白い人よ」
「そうか」
「明日の談話会でまたお話する約束をしたわ。ミスタ・マクローリンも嬉しそうだった」
 最後の言葉を付け加えた後、アマリエはちらりとキースの顔をうかがった。キースのためにクレイグと会ったことは秘密のつもりだったのに、うっかり口をすべらせてしまった。
 幸いにもキースは気づかなかったようで、アマリエのほうを見ずに言った。
「わたしと話した時も、ミスタ・マクローリンはお喜びだったよ。もうすっかり結婚が決まったような言い方をしていた。冗談だとは思うが」
「そうなの」
 アマリエはほっとして、テーブルの上に置いた蝋燭の火を見た。キースがそれを眺めていたからだ。
 クレイグに好感を持ったことは嘘ではないが、それ以上にキースの役に立てそうなことが嬉しい。マクローリン家は今でこそ出版業で知られているが、もとは北部で何代も続いてきた名家だというし、アマリエがそこに嫁げばキースも安心できるだろう。
 ふと気づいたことがあり、アマリエは顔を上げる。
「結婚するとしても、何年か先になるかもしれないわね。クレイグはまだ学生だから」
「そうだな」
「いいの? キース」
「何が」
「もうしばらくわたしをここに置いてもらうことになるけれど、いいの?」
 キースがアマリエの顔を見た。
 蝋燭の光を映して、キースの目の中にあかりが灯っているように見える。
「そんなことは気にしなくていい」
「――ありがとう」
 アマリエは、七歳まで過ごしたヘイゼルダインの家のことを、ほとんど覚えていない。屋敷のことも、父のことも、母のことも。
 寄宿学校を追い出されてからはずっと家のない暮らしが続き、そのさなかに突然キースが現れた。アマリエを馬車に乗せ、この家まで連れてきてくれた。
 蝋燭の火を見つめながら、アマリエはふと思う。結婚というものが家庭を、家をつくることだとしたら、ここのような居場所をもうひとつ持てるということなのではないかと。
 その時アマリエの隣にいるのが、クレイグなのかはまだわからないけれど。



「アマリエお嬢さん、昨日は食事をご一緒できなくて残念でしたよ」
 前日と同じく貸本屋の中で顔をあわせると、マクローリン出版の社長が上機嫌で言った。
「せっかくお誘いいただいたのに、失礼をいたしました」
 アマリエはミランダに教わった処世術を思い出し、顔に笑みを貼りつける。
「わたしなどがご一緒しては、あなたやご子息に恥をかかせるのではないかと思ったものですから」
「恥どころか、お嬢さんのような美人が一緒なら見せびらかしますとも。なあ、クレイグ」
 マクローリンは大声で笑い、隣の末息子を小突いた。
 クレイグは今日はひとりで本を見に行ったりせず、父親の側におとなしく立っているが、一緒になって笑うことはしなかった。あいかわらず無愛想で、アマリエにもキースにも笑みひとつ見せようとしない。
 しかし、口は開いた。
「ミス・ヘイゼルダインをお借りしていいですか。本の話をする約束だったので」
 名前を呼ばれたアマリエも、声をかけられたキースも、息子に無視されたマクローリンも、いっせいにクレイグを見た。
「もちろんですわ」
 アマリエは短く答えた。こういう時は少しためらうふりをして、付き添いであるキースの顔をうかがってから、というミランダの指導はすっかり忘れてしまっていた。
「ありがとう。本当に約束を守ってくれたのね」
 クレイグと並んで階段へ歩きながら、アマリエは彼に話しかけた。
「おれが約束を守らないと思ったのか?」
「そうじゃないけど、昨日はお父さまに言われて仕方なく来てくださったんでしょう。今日も同じなんじゃないかと思ったの」
 昨日は談話会の終わりまでアマリエにつきあってくれたものの、クレイグが楽しんでいるようにはとうてい見えなかった。アマリエは貸本屋の店内を案内して歩き、キースを通して知り合った作家や事業主に会うと紹介したが、クレイグは一貫して口数が少なく、一度も笑わなかった。今日を楽しみにしていたのはアマリエのほうだけで、クレイグは昨日と同じく気が進まなかったのではないかと思っていたのだ。
 この口の重い青年が、父親の話を遮ってまでアマリエを連れ出してくれるとは思わなかった。
「昨日は嫌々だったけど、今日はそうでもない」
「そうなの?」
「――おれは、きみとはけっこう、気があうんじゃないかと思ってる」
 階段の欄干に手をかけると、クレイグが立ち止まってアマリエの顔を見た。
「歴史書の話を聞きたがる女の子にははじめて会ったから。女は、詩集か、戯曲か、小説しか読まないと思ってた」
 アマリエはにっこり笑った。
 クレイグの目が思いのほか真剣だったので、理想の女性などと言い出したらどうしようかと思った。そんなことを言うのはローマン・ヴィンセントだけでじゅうぶんである。
「わたしは詩も戯曲も小説も好きよ。マクローリン出版もすばらしい小説をたくさん出していらっしゃるでしょう。あなたは読まないの?」
「読まない。つくり話に興味はない」
 もっと親しくなったら、クレイグに小説を薦めてみよう。強く言いすぎるとかえって読む気をなくすだろうから、会話の中でさりげなく出してみるのがいい。薦めるのはやはり歴史小説だろうか。こういうことを考えるのは楽しい。
 クレイグが階段を上がりはじめたので、アマリエも彼に続く。
 昨日アマリエが案内したので、クレイグは歴史書の棚の位置をしっかりと覚えていた。その場所に近づくにつれて、アマリエの中に苦い気分がよみがえった。
『あちらで話しましょう。これらの本を心から必要としている方の邪魔をしてはいけない』
 どうして、思い出したくもない人のことを思い出してしまうのだろう。
 幸いにも、今日は書架の前に誰の姿も見えないというのに。
「これは読んだことがあるか?」
 クレイグはアマリエの変化には気づかないようで、書架の前で一冊の背表紙を指さした。
「ええと、あるわ。百年戦争って――」
「じゃあこれは?」
 アマリエが話しはじめたのを遮って、クレイグが別の背表紙を指した。表情も声も一定で変化がない。
 何度か同じやりとりを繰り返した後、アマリエがまだ読んでいない本に当たると、クレイグはそれを書架から抜き出した。
 アマリエは少し首を傾げる。
 どちらも読んだことのある本のほうが、お互い話題にしやすいと思うのだが。
「それ、あなたの好きな本なの?」
「ああ」
 だったら一階の閲覧席に行って、ゆっくり読みながら話しましょう。
 アマリエはそう言おうとしたが、口を開く間もなくクレイグに遮られた。


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