濫読令嬢の婿えらび [ 4 ]
濫読令嬢の婿えらび

4.地下書庫の正しい使い方
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 キースと向かいあって馬車に揺られながら、アマリエは考えにふけっていた。
 談話会の帰り道である。午後七時ちょうどでお開きとなり、訪れていた客たちはそれぞれの馬車で帰っていった。会場を切り盛りしていた貸本屋の社員たちは、後片づけや通常業務のために残っている。キースもアマリエを家に送ってからまた引き返すつもりらしい。
 二頭だての箱馬車はたっぷり四人は座れる広さだが、キースはアマリエの向かいに、進行方向とは逆向きに座っている。ふたりで馬車に乗る時はいつもこうだ。
「疲れたのか?」
 アマリエが口を開かないことを気にしてか、キースが気遣うように尋ねた。
「いいえ、ちょっと考えていただけ」
「何を?」
 今日の談話会で起きたことを、キースにどうやって切り出すべきかである。
 考えても埒が明かないと気づいたので、アマリエは率直に伝えることにした。
「キースに報告することがあるの。わたし、求婚されたわ」
 めったに感情を表さないキースの目が、この時ばかりは驚きに見開かれた。初日からこんな報告を聞くとは予想していなかったのだろうが、アマリエだって思ってもみなかった。
「求婚されそう、ではなく、求婚された?」
「はっきり言われたわ。結婚してくださいって」
「相手は? いったいどういう――」
「あ、おかしな人じゃないから安心して。ミランダが紹介してくれたの。キースも知ってると思うわ。紀行作家のミスタ・ローマン・ヴィンセント」
 キースは乗り出していた身を落ち着け、口をつぐんだ。
 後で再会したミランダによると、ローマン・ヴィンセントは作家として成功してから実家を出ているが、もとは准男爵家の次男だという。勲爵士の娘であるアマリエと身分はつりあっているので、キースが異議を挟む余地は今のところない。
「それで、返事はどうしたんだ」
「まだよ。突然のことなので気が高ぶってしまって、しばらく心を落ち着ける時間がほしいって」
「きみがそんな型どおりのことを言うとは思わなかったな」
「違うの、言われたの」
「は?」
 どう考えても求婚された女性が言う言葉だと思うが、ローマン・ヴィンセントは求婚しておいて自分が言ったのだ。『突然のことなので気が高ぶってしまって、しばらく心を落ち着ける時間がほしい』と。そして胸を押さえ、苦悩の表情を浮かべて去っていった。
 アマリエは驚くというより呆気にとられ、かえって頭が冴えてしまったくらいだ。後でミランダに話したら大笑いしていた。
「返事をいつにするのかは、次にお会いした時に考えるわ。その時までにはミスタ・ヴィンセントの心も落ち着いているでしょうし」
「――ということは、検討の余地はあるということか」
 キースがさりげなく言い、アマリエは含み笑いをした。
 呆気にとられはしたものの、どうやら自分は今日の出来事が嫌いではなかったようだ。ヴィンセントは見るからに優しそうな、礼儀正しい人だった。何より彼の著作はどれも素晴らしいし、また会って話を聞いてみたい。
「滑り出しはまずまずのようよ、キース」
 アマリエが言うと、キースは無表情で馬車の壁を見た。



 談話会の二日目、アマリエは一階の書架の間でローマン・ヴィンセントの姿を見つけた。地誌や紀行書が置かれている一角である。昨日の一大事件を受けて、ヴィンセントの著書に再び目を通しておこうと思ったのだ。
 書架の脇から顔を出した瞬間、そこに立っていたヴィンセントと目が合い、アマリエはつい『あ』と言った。ヴィンセントも『あ』と言った。
「ミスタ・ヴィンセント。今日もいらっしゃったのですね」
 『あ』と言った口のまま動かないヴィンセントを見上げ、アマリエはゆっくりと近づいていった。
「お心は落ち着かれました?」
「ミス・ヘイゼルダイン――今日もあなたは妖精のようだ」
 しどろもどろの上、会話が噛み合っていない。どうやらまったく落ち着いていないようである。
 アマリエは笑いを押し殺しながらヴィンセントの隣に立ち、書架を見上げた。どちらかというとヴィンセントこそが妖精のようだ。自分の書いた本の側に立っているなんて。
「あなたのご本を見に来たんです、ミスタ・ヴィンセント」
「わたしもです――あなたにお会いできるかと」
 ようやく話が通じたので、アマリエは笑顔になってヴィンセントを見上げた。ヴィンセントは笑い返さなかったが、食い入るような目でアマリエを見つめた。
「自分の本が貸本屋の棚に並んでいるのを見たのははじめてです。ありがたいことだ」
「今は何冊か借り出されていますが、確か出版されたものはすべて揃えてあったと思いますわ。最新刊は半年前に入ってからずっと貸出中で、わたしもまだ読めていないんです」
 アマリエは書架の中板を指でたどりながら、並んでいる本の書名をひとつひとつ読み上げた。
 こうして背表紙を眺め、この本はある、あの本はない、とあれこれ確かめるのは楽しいものだ。以前に読んだ本を見つけたら懐かしい友人に再会した気分になるし、まだ読んでいない何冊もの本を目にすると楽しみがたくさん待ち受けているようで心がはずむ。自分のお気に入りの本が書架に見あたらない時は、借り出されてどこかの誰かに読まれていると思いわくわくする。これが楽しいから、貸出限度の三冊をすでに腕に抱えていても、つい書架から書架へと渡り歩いてしまうのだ。
 ある程度の規模を持つ貸本屋はどこもそうだが、人気の高い本は何冊も買い入れている。ローマン・ヴィンセントの最新刊は二冊入荷したが、どちらもずっと貸出中だ。
「あなたは、どこか外国に行かれたことは?」
 ヴィンセントに尋ねられ、アマリエは首を振った。
「ありません。行ってみたいとは思いますけれど。でも、あなたのご本を読めば本当に行ったような気持ちになれるんです」
 ヴィンセントがようやく笑顔になった。紀行作家にとっては嬉しい言葉だったのだろう。アマリエも世辞で言ったわけではないので、喜んでもらえて嬉しい。
 笑った顔のヴィンセントは栗色の目が輝き、少年めいてなかなか可愛らしかった。
「ミスタ・ヴィンセント。よろしかったら、旅のお話を聞かせてくださいませんか?」
「いいですよ。そうだな――大きな地図でもあればあなたに想像していただきやすいんですが」
「それなら地下書庫にありますわ」
 書架に目を走らせるヴィンセントを見て、アマリエは言った。
「いつもは担当の者に行かせないといけませんけれど、今日だったらどなたでも自由に入れます。ご一緒に行きません?」
 ヴィンセントは少し意外そうな顔をしたが、すぐに深くうなずいた。

 ヘイゼルダイン貸本屋の地下には、地上の開架とほぼ同じ広さを持つ閉架書庫がある。出版から年月を経て貸出需要が下がった本、大型で収納場所がかさむ本、扱いに気をつかう稀少本などが置かれている。
 通常の営業時間には利用客はここに入れない。蔵書目録(カタログ)で見ためあての本が地下にあると知ったら、社員に声をかけて取りに行かせる方式だ。談話会の期間中だけは特別に解放し、誰でも自由に入れるようになっている。
 ゆったりと間隔をとって歩きやすくした地上と違い、ここは端から端まで書架が並び、ぎっしりと本が詰め込まれている。天井が低く、薄暗いが、それだけに本と自分との距離が近く、本の世界に埋もれているような気分になれる。
「大型図書は……あちらのほうかな」
 小型のランプを片手に持ちながら、ヴィンセントがアマリエの先を歩く。
 半地下の部分に採光の窓はあるがそれだけでは背表紙の文字は読みづらいので、階段を降りる客には社員がランプを手渡してくれる。アマリエは自分が持とうとしたのだが、ヴィンセントはやや怪訝な顔をして素早く手を伸ばした。階段を降りる時も自分が先を歩き、何度も振り返りながらアマリエの足もとを照らしてくれた。紳士の標本として図鑑に載れそうである。
「ここは興味深いですね。見たことのない本がたくさんありそうだ」
「わたしもこの書庫は好きなんです。なんだか本とふたりきりになっているようで」
「入ったことがあるのですか」
「ええ。キースに頼んで」
「キース?」
「ミスタ・ダンフォードですわ。ここの経営者の」
 ヴィンセントが急に立ち止まったので、後ろを歩いていたアマリエは彼にぶつかりそうになった。
「危ないですわ、ミスタ・ヴィンセント」
「ということは、あなたがミス・ヘイゼルダイン? ここの経営者に引き取られたという」
 アマリエはとっさに言葉が出なかった。そういえば、ヴィンセントに名乗った時に自分の出自などは何も語らなかったのだ。
「ええ、勲爵士サー・ジョサイア・ヘイゼルダインの娘です。ごめんなさい、わたしったらきちんと自己紹介もしないで」
「いいえ――あなたが誰の娘だろうが、どこの出だろうが、わたしにとってはどうでもいいことだ」
 狭い通路で振り返ったヴィンセントは、アマリエに一歩近づいた。ランプの明かりに照らされているせいか、瞳がやや熱っぽく見える。
「ミス・ヘイゼルダイン、あなたはようやく見つけたわたしの妖精です。わたしにとってのあなたは現の世界に突然あらわれた奇跡のような存在で、だからこそあなたのご身分にまでは思いいたらなかったのでしょう」
「まあ、ありがとうございます」
 紀行書での地に足がついた文章と違って、実際のヴィンセントは妙に感傷的な言葉をつかう。
 しかし、口先だけの美辞麗句とも思えない。アマリエを見下ろすヴィンセントの目はまっすぐで真剣そのものである。
 アマリエは微笑み、しかし視線を動かして書架を指さした。
「地図がありましたわ」
 探していた大型のものとは違うが、旅行者用と思われる分冊地図があった。このほうが手にとって話をしやすいかもしれない。
 地図が収められているのは書架の最上段だった。地下の書架は背が高いので、おそらく男性でも手は届かない。
「さっきの社員を呼んできましょうか」
「その必要はありませんわ」
 アマリエは左右にさっと目を走らせ、古びた木箱を見つけた。地下書庫の担当者が足場がわりに使っているものだろう。
 地上の開架にはもっときちんとした踏み台や梯子がある。客が自由に使ってもいいのだが、女性客はたいてい社員に頼んで本を取ってもらう。しかし、今は近くに誰もいないし、自分でやったほうが早いだろう。
 アマリエは両手で木箱を持ち上げ、地図のある書架の前に置いた。ドレスの裾を軽く持ち上げ、足を載せて最上段の棚に手を伸ばす。
「これですわ、ミスタ・ヴィンセント。受け取ってくださる?」
 足場に乗ったままアマリエは振り返り、手にした地図本をヴィンセントに差し出した。
 ヴィンセントは受け取らなかった。本ではなくアマリエの顔を食い入るように見ている。先ほどの情熱的な瞳ではなく、凍てつくような目で。
「――なんてことだ」
「え?」
「あなたがそんな女性だとは思わなかった。今までわたしを騙していたのか」
 アマリエは地図を宙に浮かせたまま、ぽかんと口を開けた。
 今度は何を言い出したのだ、この人は。
「わたしの妖精を、ようやく見つけたと思ったのに。こんなことになるなんて――ああ、この世は地獄だ。また騙されてしまった!」
 ヴィンセントは片てのひらを額にあて、アマリエに背を向けた。そのまま歩き出し、やがて書架の向こうに消えてしまった。
 遠ざかっていくヴィンセントの足音を聞きながら、アマリエは地図本を持った手をだらりと下げた。
 なんだったのだ、今のは。というより、昨日から今日までの時間は。
 そのまま途方に暮れていても仕方がないので、アマリエは地図本を書架に戻し、足もとに気をつけて床に降りた。
 木箱を持ち上げて元の位置に戻しながら、おぼろげに考える。これが良くなかったのだろうか。スカートをたくし上げて台に上がり、自ら高いところに手を伸ばす行動が。
 確かにはしたなかったかもしれないけれど、あんな世も末のように絶望しなくても。
 この上なく白けた気持ちになりながら、アマリエは書架の間を歩いた。ヴィンセントがランプを持っていってしまったので薄暗いが、階段まで歩くくらいなら問題はない。
 いくつかの書架を通り過ぎたところで、アマリエは足を止めた。本の隙間ごしに人影が動くのが見えたのである。
 自分たちだけだと思っていたのだが、他にも人がいたのか。姿を見せて挨拶するべきか、気づかないふりをして立ち去るべきか迷っていると、話し声が聞こえてきた。
「もうじゅうぶん話しあったはずですよ、ミセス・ワージントン。あなたはぼくのことを忘れたほうが幸せになれる」
「納得できないわ。わたしのためだと思わせておいて、本当はあなたがわたしを捨てたいだけなんでしょう、エドワード!」
 どうやら立ち去るのが正解のようである。
 アマリエは足音を立てないように書架の間を抜け、壁ぎわの通路を歩いて階段への扉を目指した。扉まであと数歩というところで正面から駆けてくる人影があった。唇を噛みしめているところを見ると、先ほどの声の主のひとり、女性のほうのようだ。
 女性は扉に手をかける寸前でアマリエに気づき、あやうくぶつかりそうになった。アマリエの顔を見て一瞬気まずそうな目をしたが、別の足音が近づいてくるのを聞きつけ、黙って扉を押し開いて書庫から出ていった。
 遅れをとったアマリエは、女性を追ってきたらしい人物をかわりに出迎えることになった。
「やあ、これは醜悪なものをお見せしたようで」
 言葉とは裏腹に恥じ入る様子のないその人を見て、アマリエは立ち尽くした。
 現れたのは、一度でも目にすれば忘れられない美貌の持ち主だったのである。
 オクリーヴ伯爵エドワード・アシュバートン。ミランダの言葉を借りれば、稀代の狙撃の名手にして、稀代の女たらし。
「ご心配なく、わたしも出ていくところでしたので」
 アマリエはそう言って扉に手をかけようとしたが、伯爵はさりげなく歩調を速めてアマリエに近づいた。
「そうおっしゃらずに。お互い、逢い引きの相手にふられた身ではありませんか」
 あなたはふられたんじゃなくてふったんでしょう。アマリエは喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。そしてやや遅れて、自分が置かれた状況に気づく。
「わたしたちの話を聞いていらしたのね」
「あなたも聞いていたでしょう。ここは恋人同士の秘密の会話にはうってつけの場所だ」
「あなたがたはどうか存じませんけれど、わたしたちは本来の目的のためにここに来ただけですわ」
 地図を探すために書庫にやってきただけだ。もっとも、アマリエが男性とふたりで地下に降りたと知ったら、キースなら眉をひそめるだろうけど。
 伯爵は口角をつり上げた。薄暗い地下で見ても彼の美貌は完璧で、ある種の神々しささえ感じるほどだった。
「さっきの彼はそうでもなかったようですよ。現に、あなたが差し出した本を見もせずに去っていった」
「ずいぶん詳しく聞いていらしたのね」
「ぼくも身に覚えがないこともありませんからね。恋した相手を理想の女性だと思いこんで、少しでも意外な面を見るや勝手に絶望する。彼を許してやってください、男は夢見がちな生き物なんですよ」
「存じていましたわ、多少は」
 先ほどのヴィンセントのような男性に会ったのは、実ははじめてではない。
 自分がそれなりに見映えのする娘であることを、アマリエは知っている。アマリエの容姿に惹かれた男性の多くが、アマリエの内面を勝手に想像しがちだということも。彼らはアマリエを美しい愛らしいと褒めそやしながら、アマリエのたったひとつの行動を見て逃げていく。
 ローマン・ヴィンセントは、その中でも極端だったと思うけれど。
 彼はもしかしたら、アマリエが水を飲むところを見ただけで同じことを言ったかもしれない。『あなたがそんな女性だとは思わなかった』と。
 要は、『あなたが生身の人間だとは思わなかった』という意味だ。
「お噂どおり聡明な方のようだ、ミス・アマリエ・ヘイゼルダイン」
 あたりまえのように名を呼ばれ、アマリエは目をみはった。
「わたしをご存じなの?」
「ええ。貸本屋に引き取られた勲爵士の娘。その美貌と莫大な財産を武器に、結婚相手を物色しにやってきた変わり者の令嬢」
 アマリエは開いた口が塞がらなかった。マクローリンでさえこれほどあからさまな言いまわしはしないだろう。
 思えばこの美貌の伯爵は、先ほどからいくつも礼儀に外れることをしている。未婚の女性であるアマリエに紹介もなく話しかける。書庫に他に誰もいないのを知りながら、扉を開けようともアマリエを外に促そうともしない。こういった社交界の決まりごとはアマリエもあまり得意ではない――むしろ疑問を感じてさえいる――のだが、伯爵たる人物がこうも堂々と破るとは思わなかった。不愉快に思うというより感心してしまう。
「自由な考えをお持ちなのですね、ロード・オクリーヴ」
「あなたほどではありませんよ。それに、あなたもぼくをご存じのようだ」
「お噂を聞いているだけですわ」
「いい噂だと嬉しいのですが、そうでもないでしょうね。でも、どうやら自己紹介の手間が省けたようだ。実はぼくは、あなたと話すためにここに降りてきたのですよ」
「わたしと?」
 アマリエはきょとんとした。先ほどの女性はなんだったのか。
「彼女はぼくを追ってきたんです。ぼくとしてはとっくに終わったつもりでいたのですが、未亡人の生活のわびしさはぼくの想像を上まわっていたようで」
 アマリエの疑問を読んだかのように、伯爵は悪びれもせず説明する。
 アマリエはやや白い目になって伯爵を見上げた。
「わたしにお話というのは? まさか結婚を申し込みに来てくださったわけではないでしょう?」
「実は、そうなんです」
 一瞬、どんな顔をしたらいいのかわからなかった。ミランダの予言は当たっていたのだろうか。
「と言えたら良かったのですが、残念ながら少し違います」
「――もったいぶらないでくださいます?」
 この伯爵に対して感じていた興味が、少しずつ軽蔑に変わっていくのがわかった。礼儀に外れているのはお互いさまだが、人を小馬鹿にしすぎである。
「あなたに申し込みたいことがあるのは本当ですよ。ぼくはあなたに結婚してほしいのではなく、結婚するふりをしてほしいのです」
「――ふり?」
「婚約者のふりということです。もちろん、声高にそう名乗っていただく必要はありません。人目につきやすいところでぼくと行動をともにして、あのふたりは婚約したらしいと噂が立つようにしてくださればいいのです」
「そんなことをして何になるのですか?」
「とある令嬢が、というより彼女のご両親が、ぼくを娘婿にと奇特にも思ってくれていましてね。ぼくとしてはもうしばらく気楽な独り身でいたいのですが、罪もない令嬢の評判に傷をつけるような真似はしたくないのです」
 つまり、持ちかけられた縁談を体よく断るために、アマリエを偽の婚約者に仕立て上げたいのか。
「そういうことでしたら、わたしよりも適任の方がいらっしゃるんじゃありません?」
 はじめてこの伯爵を見かけた時に、彼を取り囲んでいたたくさんの女性を思い出す。見せかけでも彼の婚約者になりたがる娘はあの中に何人でもいそうだ。
「ところがそうでもないんですよ。ぼくたちが愛しあっていると自分で思い込むだけではなく、周囲にもそう思ってもらうわけですからね。思わせておいて実際は婚約も結婚もしないのですから、未婚の令嬢を巻き込むわけにはいきません」
「わたしも未婚の娘ですけれど」
「あなたなら、そんなつまらない体面は気にしないのでは? ミス・ヘイゼルダイン」
 優雅に微笑む伯爵の顔面を、アマリエはひっぱたきそうになった。
 確かにアマリエは世間の評価を大して気にしない。だから読みたいと思った本はなんでも手に取るし、そのことを他人に話しもする。
 しかし、自分の思いのままにふるまって人に眉をひそめられるのと、評判を落とすと知りながらやりたくもないことをするのとでは、まったく意味が違う。
 キースやミランダの窮地を救うためならともかく、なぜこの伯爵が独身生活を謳歌するために、アマリエが一肌脱がなければならないのだ。
「わたしについてどんな噂を耳になさったのか知りませんけれど、どうやら間違っていたようですわ。ロード・オクリーヴ」
 アマリエは怒りを隠しもせず言い放ち、扉に手をかけた。
「意外だな。あなたなら面白がってくれると思ったんですが。婚約者のふりをするだなんて、ご婦人が好む小説や戯曲のようではないですか」
「わたしは小説も戯曲も好きですけれど、その女主人公(ヒロイン)のような目に遭ってみたいとは思いません。さようなら」
 扉を押し開けて階段に向かうアマリエを、芝居がかった声が追いかけてくる。
「気が変わったらいつでも知らせてください、ミス・ヘイゼルダイン。女主人公の気分をたっぷり味わわせてさしあげますよ」
 振り向いて皮肉を言う気も失せ、アマリエは足音を響かせて階段を駆け上がった。


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