濫読令嬢の婿えらび [ 3 ]
濫読令嬢の婿えらび

3.第一の求婚者
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「ミランダ!」
「アマリエ、久しぶりね」
 回廊へ駆け上がると、そこで待っていた少女が手を伸ばしてアマリエを迎えた。
 ミランダは二年ほど前にこの貸本屋で出会い、仲良くなった友達である。アマリエより背は少し低いが、体つきはふっくらとしている。淡い金髪と白い肌にピンク色のドレスがよく映えて、ふわふわとした一枚の花びらのようだ。
 社交界で顔のきく子爵家の娘がなぜアマリエに興味を持ってくれたのかはわからないが、ミランダのほうから声をかけてきて以来、よく話をするようになった。
「保養地に行っていたんじゃなかったの、ミランダ」
「そうだけど、談話会にあわせて戻ってきたの。あなたのためよ」
「わたしの?」
「アマリエが旦那さまを選ぶっていうんだもの。わたしが相談に乗らないで誰が乗ってあげるの?」
 ミランダは丸顔に笑みを浮かべ、ドレスの袖で口もとを隠した。
「財産めあての悪漢にアマリエが騙されないよう、わたしが見張っていなくちゃ。気がついたら誘拐されて駆け落ちの馬車に乗せられていたなんてことになりかねないわよ」
「空想のしすぎよ、ミランダ」
 ミランダは詐欺だの誘拐だの陰謀だの、物騒な単語の飛び交う扇情小説(スリラー)が好きなのだ。財産つきの令嬢が騙されて駆け落ちさせられるのは、そういった小説のお決まりごとのひとつである。
「わからないわよ。どれ、あなたにふさわしい殿方がいるか見てあげましょう」
 そう言ったミランダがどこからか取り出したものを見て、アマリエはぎょっとした。観劇に使うオペラグラスである。
「なんでそんなもの持ってるの」
「あら、社交場では必需品でしょ」
「違うと思うけど」
 アマリエはそう言いつつ、オペラグラスを構えるミランダの隣に並ぶ。ミランダはアマリエと同じ十七歳だが、遠縁の男性との婚約が早くに決まっているので、自分の相手を探す必要はないようだ。おっとりした雰囲気に似合わず社交界の噂にも詳しいので、こういった場で頼りになることは間違いない。
 回廊の欄干にもたれかかって、吹き抜けの店内をふたりで見回す。書架いっぱいに埋められたたくさんの本と、その間を行き交う人間たちを。
 ヴィクトリア女王が今年の一月に成婚したばかりとあって、上流階級のあいだでも結婚の気運が高まっている、というのも、ミランダが手紙で教えてくれたことだ。ここに集まっている男女の多くも、理想の結婚相手を求めて来ているのだろうか。
「ウェインライト家の兄弟が来ているわ。お兄さまのほうは読書家だそうだけど、アマリエと趣味があうかしら。弟さんはゴシップ誌と狩りの本しか読まないらしいからだめ。あちらにいるのはネイピア准男爵家のご子息ね。教養のある立派な方だけど、ご両親がお嫁さんの持参金をあてにしているらしいのがちょっとね――あら?」
 オペラグラスを目にあてたミランダは、左右に動かしていた首を急に止めた。
「どうしたの?」
「オクリーヴ伯爵がいらっしゃってるわ」
 ミランダはアマリエにオペラグラスを渡し、一階の閲覧席の近くを指さした。
 アマリエがレンズを通してそこを見ると、問題の人物はすぐに見つかった。人目を惹く容貌の上、数人の女性客に囲まれていたからだ。
 二十代の半ばくらいに見えるその人は、背が高く、姿勢が良く、上質そうな三つ揃いに身を包んだ、貴族的な美しさを持つ青年だった。きちんと整えられた鮮やかな金髪。瞳の色まではよく見えないが、たぶん青かそれに近い灰色だ。眉も鼻筋も唇も、彫刻家が緻密な計算の上で配置したかのように、あるべき場所に少しのずれもなく収まっている。最後の仕上げのように浮かべられた穏やかな笑みが、つくりものめいて見える端正な顔だちに華を添えている。
 社交行事に顔を出すような男性はおおむね見目が良い――アマリエの主観で言えばキースだってなかなか悪くないと思う――のだが、この青年の美貌は際だっていた。神話に出てくる男神が紳士の服を纏って貸本屋に現れたかのようだ。
 アマリエがしげしげと見とれていると、彼が急に顔を上げた。丸いレンズの中で美しい青年がアマリエを見上げる。
 アマリエは慌ててオペラグラスを離し、ミランダに返した。
「どなたなの、あの人」
「エドワード・アシュバートンよ。当世きっての美貌の伯爵。稀代の狙撃の名手で、稀代の女たらし」
 ミランダは下世話な新聞の見出しのように言った。
「読書好きだって噂はあまり聞かないけど、ここの会員だった?」
「知らないわ。お見かけしたことはないと思うけど」
 アマリエはミランダほど社交界の動向に興味がない。この店にいる時は本のことで頭がいっぱいなので、来店している他の客のことはほとんど目に入らない。しかし、あれほどの美貌を持つ伯爵が同じ空間にいれば、まわりの視線やささやき声などから気がつきそうだ。
「どなたかとお会いするために来たんじゃない? 談話会には会員証がなくても入れるから」
「アマリエ、あなたに会いにいらっしゃったのかもしれないわよ」
 ミランダがにっこりしながら言い、アマリエは声を上げた。
「どういうこと?」
「オクリーヴ伯爵エドワード・アシュバートンは、花から花へと渡り歩く手腕にかけては有名なの。見てのとおり黙っていても女性のほうから群がってくるしね。まだ二十六歳だけど、今の生活を謳歌するために当分は独身でいるだろうって言われてるわ」
「だったらわたしに会いに来る必要はないじゃない」
「わからないわよ。美貌のミス・ヘイゼルダインの噂を聞きつけて、探し求めていた運命の女性だと思ったのかもしれないわ」
 ミランダが再びオペラグラスを掲げ、稀代の女たらしを観察している。
 アマリエも今度は自分の目で彼を見た。立っているだけで人目を惹くような優美さが二階のここまで伝わってくる。それに惹かれて集まってきたのであろう女性たちに囲まれ、しかしその中の誰とも必要以上に距離をつめず、穏やかに談笑を続けている。彼の手にも女性たちの手にも一冊も本はない。
 まあ、今回ばかりはミランダの行きすぎた空想だろう。
 観察するのに飽きたアマリエは、欄干にもたれかかってぼんやりと思った。
 社交界の中心に君臨する美貌の伯爵が、貸本屋の談話会で一冊の本も開かない人が、よりによって自分を選ぶとはとうてい思えない。アマリエの生い立ちを知って興味本位で近づいてきたとしても、猿の話でも聞かせればさっさと逃げていくだろう。もっと美しく、もっと気の利いた会話のできる、模範的な令嬢は彼のまわりにいくらでもいるのだから。
「ありがとう、ミランダ。ねえ一階に降りない? わたし見たい本があるんだけど」
「もう、アマリエ」
 階段に向かおうとするアマリエの腕を、ミランダがつかむ。
「今日は談話会よ。本を借りに来たんじゃなくて、出会いを求めて来たんでしょう」
「そうだけど」
「まだあなたの好みを聞いていなかったわね。アマリエはどんな人と結婚したいの?」
「どんな人と……」
 アマリエは首を傾げた。そういえば、結婚相手を選ぶために談話会に出ることにしたのはいいが、自分がどんな相手を求めているのかは考えたことがなかった。
「――真面目で、優しくて、一緒に本の話ができる人」
「意外に普通ね。それならここにいる人はほとんど当てはまるんじゃない?」
「そうでもないと思うけど」
 本を読みに来たと見せかけて、実際の目的を別に持っている客は、談話会の日でなくてもおおぜいいる。アマリエに声をかけてきたあの青年たちのように。
 彼らははじめ必ずアマリエに、何を読んでいるのかと訊いてくるのだ。本当はアマリエが読んでいる本に興味なんてないくせに。
「本の話ができる人ね、わかったわ。どうせなら、面白い話ができる人がいいわよね。夫と話すよりひとりで本を読むほうが楽しいなんてことにならないように」
「まあ、そうね」
「だったら、作家の方がいいんじゃないかしら」
 アマリエは苦笑した。
「それはちょっと安直すぎるわ、ミランダ」
「そう?」
「作家の知り合いがいるの?」
「いないこともないわよ。たとえば――」
 ミランダは言葉を止め、ふいに振り返った。アマリエも同じほうを向いて、思わず吹き出しそうになった。そこに、申し合わせたようにひとりの紳士が立っていたのである。
「ミス・ミランダ・シェフィールド」
 紳士はミランダを見て帽子を押さえ、一礼した。
「まあ、ミスタ・ヴィンセント。こちらにいらっしゃるとは思わなかったわ」
「談話会に来たのははじめてなのです。以前から顔を出したいとは思っていたのですが、この時期は旅先にいることが多くて」
 紳士はミランダの顔見知りらしい。年の頃は二十二、三。服装も、ミランダと話す物腰も、上流階級に属する者らしい、洗練された雰囲気だ。帽子の下に覗く顔だちは優しげで、威圧感というものをほとんど感じない。
「アマリエ、紹介するわね」
 ひとしきり紳士と言葉を交わした後、ミランダが振り向いてアマリエに言った。
「ミスタ・ローマン・ヴィンセントよ。こちらは、ミス・アマリエ・ヘイゼルダイン」
「はじめまして、ミス・ヘイゼルダイン」
「はじめまして。あの、失礼ですけど、紀行作家のローマン・ヴィンセントさん?」
 ヴィンセントは軽く目を見開き、微笑んで答えた。
「そうです。こちらの貸本屋でもお世話になっているようで」
 ミランダが彼の名前を呼んだ時から、もしかしたらと思っていた。ローマン・ヴィンセントは南欧や北アフリカを旅した経験を本に綴り、ロンドンで人気を博している作家である。アマリエも彼の本は何冊か読んでいた。筆名かと思っていたが、どうやら本名だったらしい。
「お会いできて光栄ですわ。あなたのご著書はこの貸本屋でも借り手が絶えないそうです。わたしもとても面白く拝読しました」
 アマリエは笑顔になってヴィンセントに語りかけた。本心からの言葉である。ヴィンセントの著した紀行文は丹念な描写と情緒のある表現で、現地の湿度や空気の香りまでが感じられるような文章なのだ。
 ヴィンセントはアマリエの言葉には答えず、微笑んだだけだった。穏やかな栗色の瞳がアマリエを見下ろしている。
「ミスタ・ヴィンセント。よろしかったら、旅先でのお話を聞かせてくださいません?」
 そう言ったのはアマリエではなくミランダだった。
 ヴィンセントはアマリエから目をそらさずに、うなずいた。
「いいですよ」
「あら、嬉しいありがとうございます――と思ったら叔母が呼んでいるわわたしに紹介したい方がいるのかしら残念だけど失礼しますあとは頼んだわねアマリエ」
「えっ」
 ミランダは早口でまくし立てると、風になびく花びらのようにアマリエの側を離れた。足早に歩いていく彼女の先には中年の女性がいるが、別にミランダのことを見てはおらず、書架の背表紙をぼんやりと眺めている。
 アマリエは知りあったばかりの紳士とふたりだけで残された。その紳士は、ミランダがアマリエの相手にどうかと言った作家である。
 アマリエはヴィンセントを見上げ、苦笑を浮かべた。
「ごめんなさい。他にお話ししたい方がいらっしゃるなら、わたしのことはお構いなく」
 ヴィンセントはまたしてもアマリエの言葉に答えなかった。優しそうな微笑も消え、まっすぐな、少し怖いような真剣な目でアマリエを見下ろしていた。
「妖精の声だ」
「――は?」
 素っ頓狂な言葉を聞いたと思ったら、今度は素っ頓狂な行動を目の当たりにした。
 ローマン・ヴィンセントが、アマリエの前にひざまずいたのである。書架に囲まれた、貸本屋の店舗の床に。
「ミス・ヘイゼルダイン。数分前にお会いしたばかりですが、わたしにはすぐにわかりました。あなたこそ探し求めていた理想の女性だ。どうか、わたしと結婚してください」


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