濫読令嬢の婿えらび [ 2 ]
濫読令嬢の婿えらび

2.社交デビューの心得
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 アマリエはその日の夕食を終えると、二階にある自分の部屋から本を取ってきて、食堂の席で家族にその本のことを話し始めた。
 家族と言っても、この家に住む人間はアマリエの他にふたりだけで、どちらもアマリエと血のつながりはない。
 ひとりは家政婦(ハウスキーパー)のモーズリー夫人。アマリエたちのためにコーヒーを用意してくれている。
 もうひとりはヘイゼルダイン貸本屋の経営者であり、アマリエの後見人でもあるキース・ダンフォード。アマリエの向かいに座っている彼がこの小さな屋敷の主人である。
「ヒヒの一種は、一頭の雄に対して十頭近くもの奥さんがいるんですって。雌どうしは対等で、誰が正式な妻という区別もないそうよ。オスマン皇帝の後宮みたいね」
「アマリエお嬢さまはすっかりお猿さんに夢中ですね」
 借りてきた本で得た知識を披露すると、モーズリー夫人がくすりと笑った。六十近くなって髪の色はだいぶ落ちているが、背筋をぴんと伸ばしてきぱき動くところは昔と変わらない。
 夕食を終えたあと、モーズリー夫人の淹れたコーヒーを飲みながら本の話をするのが、アマリエの習慣である。今は動物学の本を片端から読み潰しているところで、中でも猿の生態にはすっかり夢中だ。
「本当に賢い生き物よ。人間に似ているけれど野生の知恵も失っていないから、ひょっとしたら人間より賢いんじゃないかって気もするわ」
「十五世紀に印刷出版された『知恵の書』にも、火を起こして鳥を捕らえようとする猿が出てくる」
 キースが静かに口を挟み、アマリエはぱっと顔を上げた。
「そうなの? キースの書斎にある?」
「『知恵の書』そのものはないけど、それについて触れた出版史の本はある。後で見にくるか」
「ありがとう。そうするわ」
 アマリエは笑顔で言ったが、キースは無言でコーヒーを口に運んだ。いつものことなのでアマリエは気にしない。キースはめったに感情を顔に出さないたちである。
 きちんと整えた黒髪や服装は上層中流階級らしい雰囲気だが、口調や仕草をいちいち飾らないところは良く言えば実直、悪く言えば地味で、成功した実業家にはあまり見えない。事業を始めて十年近く経つので年配の人物に思われがちだが、まだ三十の手前である。
 五年前、キースが自分の前に現れた時、アマリエは十二歳だった。
『失礼ですが、ミス・アマリエ・ヘイゼルダインではありませんか?』
 仕立ての良さそうなコートを着た、見覚えのない紳士に話しかけられ、アマリエは当惑しながらも答えた。
『はい、旦那さま。何かご用ですか?』
 その言葉を聞いた次の瞬間、紳士はうやうやしく帽子を取り、お嬢さん、などとアマリエに呼びかけた。アマリエはその時、薄暗い路地裏でバケツに入った灰を運んでいて、すすだらけのエプロンと丈のあわないスカートを身につけ、足もとにはぼろぼろの布靴をひっかけていたというのに。
 紳士がキース・ダンフォードと名乗り、亡くなったサー・ジョサイアの知人だと言っても、アマリエはまだ何が起きているのかわからなかった。寄宿学校に入った時から父とは会っていなかったし、その父がサーなどと呼ばれる人物だったことも、目の前にいるきちんとした紳士を友人に持っていたことも、遠い世界の話のように思えてならなかった。
 キースはアマリエの境遇を察すると、すぐにアマリエの雇い主と話をつけ、アマリエを馬車に乗せた。そうして連れてこられたのがここ、ロンドンのスクエアにあるキースの屋敷である。キースは馬車の中でほとんど話をしなかったが、屋敷で出迎えたモーズリー夫人が説明してくれた。キースがロンドンの大通りにある貸本屋の経営者だということ、その事業に際してサー・ジョサイアから多大な恩を受けたこと、サーの忘れ形見であるアマリエをこの三年間ずっと捜していたこと。
 モーズリー夫人に服を脱がされ、体を清めてもらいながら、アマリエは自分の身に起こった事態を反芻した。その時にわかったのは、もう両手にあかぎれをつくって働かなくてもいいということ、日ごとに食べるものの心配をしなくてもいいということくらいだったが。
 それ以来、アマリエはキースとモーズリー夫人とともに暮らしている。キースは一度アマリエを寄宿学校――もちろん、幼いアマリエを追い出したところとは別の――に入れてくれたのだが、アマリエは馴染めず最初の学期でやめてしまった。それからはずっとこの屋敷で、キースの養女のように過ごしてきた。学校に行くかわりに、キースの書斎とヘイゼルダイン貸本屋の本で学びながら。
 そんな日々もどうやら、あとわずかで終わりを迎えそうである。
「明後日からいよいよ談話会ね、キース」
 猿の話をひととおり終え、アマリエは本を閉じた。
「ああ」
 キースもコーヒーのカップを置き、あらたまった表情でアマリエに向き直った。
「本当にいいんだね、アマリエ」
「ええ、もちろん」
 去年の談話会が終わって落ち着いたころから、アマリエとキースは話しあってきたのだ。
 次の談話会で、アマリエの夫となる紳士を探そうと。
「アマリエお嬢さまがお嫁に行ってしまわれるなんて、考えただけでもさみしくなりますね」
 食卓テーブルの端で椅子にかけながら、モーズリー夫人が口を挟んだ。モーズリー夫人は使用人というより家族のようなもので、食後のコーヒーと会話には喜んで加わってもらっている。
「実際に出て行くのはだいぶ先よ。これから相手を決めるんだもの」
「でも、決まってしまえばあっという間ですよ。旦那さまが小さいお嬢さまを連れてお帰りになったのは、ついこのあいだのことのように思えますのに」
「結婚してもここに遊びに来るわ。いいでしょ、キース」
「ああ」
 キースは短く答え、思い出したように付け加えた。
「談話会が始まったら、まずきみをみなさんに紹介するから」
「うちにお招きしたことのある方もいらっしゃるのよね」
「まずはきみがお会いしたことのある方にご挨拶をする。あとはその方々がご自分の連れにきみを紹介してくださるから」
「なんだか面倒ね。気の合いそうな人にどんどん話しかけられたらいいのに」
「それが社交界というものだよ」
「心得ました、おじさま」
 アマリエが芝居がかった声で言うと、キースはわずかに眉をひそめた。
 キースは根が真面目すぎるので、ついからかいたくなってしまう。これでよく足もとを掬われずに商売ができるものだ。
「でも、場が馴染んできたらあとはきみの好きにしていいよ。わたしはきみが誰を選ぼうが口を出すつもりはないから」
「あらそうなんですか、旦那さま」
 声を上げたのはモーズリー夫人である。
「貸本屋のお客さまのあいだでは噂になっているようですけれど。ミスタ・ダンフォードはアマリエお嬢さまを、子爵以下の紳士に嫁がせるおつもりはないと」
「なんでそんなこと知ってるの? モーズリーさん」
「郵便配達人が教えてくれました。アマリエお嬢さまは有名人のようですねえ」
 キースは迷惑そうに咳払いをして、首を振った。
「そんなことを誰かに話した覚えはないんだが」
「ないのですか」
「わたしはアマリエが選んだ相手なら間違いはないと思っている。もっとも、サー・ジョサイアの名に恥じない相手を選んでほしいとは思っているが」
 ほら出た、とアマリエは心の中で舌を出した。
 キースは何かにつけてサー・ジョサイアを引きあいに出したがる。アマリエのほうは、七歳で生き別れ、九歳で死に別れた父のことを、ほとんど覚えていないというのに。
 もっとも、結婚相手を選ぶにあたってアマリエが優位に立てるのは、この父のおかげである。サー・ジョサイアはヘイゼルダイン貸本屋に莫大な資金を投じていた。キースはそれを何倍にも大きくして、アマリエが嫁ぐ時に持たせてくれるつもりなのだ。
 財産の多い娘は求婚者も多い。その中に理想の相手がいるかどうかは別として。
 アマリエはそれほど恋愛や結婚に興味がない――正直に言って本を読んでいるほうが楽しい――のだが、十七にもなればそうは言っていられない。女が独りで生涯を過ごせるほど世間は甘くないのだ。どうせいつかは結婚するのなら、今からでも同じことだ。
 それに、実の娘でもないアマリエがここに居座っていたら、キースも奥方を迎えづらいだろう。
「良いお相手が見つかるといいですね」
 モーズリー夫人がアマリエに微笑みかけながら言う。
「必ず見つけるわ。ね、キース」
 アマリエはキースに微笑み、キースは真顔のまま無言でうなずく。
 かくして、アマリエ・ヘイゼルダインの婿えらびが幕を開けようとしていた。



 ヘイゼルダイン貸本屋の談話会は、毎年五月に六日間にわたって行われる。
 談話会というつつましい名前で呼ばれているが、舞踏会や晩餐会と同じ、れっきとした社交行事である。少なくとも、出席する者の多くはそう考えている。
 キースの腕に手をかけて店に入った時、アマリエはやや拍子抜けした。
「いつもとあまり変わらないのね」
 毎日のようにここに足を運んでいるが、背の高い書架も中央に設けられた閲覧席も、見慣れた光景のままである。カウンターの貸出受付には、アマリエとも馴染みの社員たちがいつものように座っている。違うことといえば、閲覧席のひとつに飲み物のグラスが用意されていること、いつもより客の数が多く、そのすべてが少なくとも上層中流以上と見られる身なりをしていることだ。
 談話会が開かれている期間、貸本屋の通常の営業は正午まで。そののち午後二時から七時までこの催しが行われる。つまりまだ昼日中である。
 アマリエもいつもここを訪れる時と同じ、肩や胸もとを見せないアフタヌーンドレスを着ている。ボンネットと外套もいつもどおり身に着けているし、とりたてて飾ったりはしていない。ドレスはいちばん気に入っているサファイアブルーのものにしたが、これは自分の気持ちを切り替えるためである。
 経営者であるキースが入ってきたのに気づき、会場にいた何人かが顔を向けた。その視線は自然と、キースの隣にいるアマリエに注がれる。
 あれが例の――ここの恩人の娘か――確かに美人だが変わり者らしい――夫を選びに来たっていうのは本当なのかしら――何しろ莫大な財産が――
 人々のささやく声が聞こえてきそうだ。
「アマリエ」
 キースがアマリエを促し、閲覧席の近くにできた人の輪へと連れていった。
「ミスタ・ダンフォード」
 集まっていた数人のうち、いちばん体格のいい壮年の男性がキースに顔を向ける。
「今年もご足労いただいてありがとうございます、ミスタ・マクローリン」
「自分が世に送り出した本を人々が手に取ってくれるのは、出版者の幸福の極みですからなあ。それをこの目で見られる機会を逃すわけにはいかんでしょう。――おや、そちらは」
 相手が自分に目を向けたので、アマリエはかしこまって礼の姿勢を取った。
「ミスタ・マクローリン。またお会いできて嬉しいですわ」
「そうか、アマリエお嬢さんも今年からおいでになるんでしたな」
 ランドル・マクローリンは、ヘイゼルダイン貸本屋に多くの書籍を納める出版社、マクローリン出版(プレス)の経営者である。昔からの重要な取引先なのでキースが家に招いたこともあり、アマリエもその時に呼ばれて挨拶をした。
 アマリエは彼がやや苦手である。
 大きな体と赤ら顔に似合って陽気で話し好きで、それはいいのだが、笑えない冗談を言ってはひとりで面白がったりすることがあるのだ。
 しかし、キースの仕事相手なのだから礼儀を欠くわけにはいかない。
「アマリエお嬢さんもとうとう男を狩りにくるお年ごろになったんですなあ。何しろお可愛らしい顔をしてらっしゃるから、けっこうな大物が仕とめられそうですな」
「ミスタ・マクローリン、お連れの方々にアマリエを紹介してもよろしいでしょうか」
 キースがマクローリンの話をやんわり止めてくれたので、アマリエはほっとした。マクローリンの側にいたふたりの男性に身を向け、再び姿勢を正す。
「こちらがミス・アマリエ・ヘイゼルダイン。この貸本屋の恩人であり、わたしの大切な師である、サー・ジョサイア・ヘイゼルダインのご息女です」
 キースの低い声がやや熱を帯びる。サー・ジョサイアのことを語る時はいつもこうだ。
 紹介されたふたりがアマリエを見下ろして、目に興味深そうな色を浮かべる。どちらも四十代の半ばか後半くらいで、マクローリンと同年代だ。
 彼らの視線を受けとめながら、アマリエは少しだけ心を殺す。美術品を値踏みするような、賞賛とも侮蔑ともとれる目で見られるのははじめてではない。自分の生い立ちが人の興味をそそるものであることくらい知っている。勲爵士の家に生まれながら、幼少期の四年間を労働者として過ごした娘。大手貸本屋の経営者に引き取られた財産つきの令嬢。
 決して居心地のいいものではないが、キースのためだと思えばこれくらいは耐えられる。
 幸いにも男性たちは節度を知っているようで、アマリエに一瞬だけ視線を流した後はキースとの会話に戻る。
「サー・ジョサイア・ヘイゼルダインというと、この貸本屋に出資をなさった……?」
「ええ。今のこの店があるのはサー・ジョサイアのおかげです」
「アマリエお嬢さんもいいお父上を持ったものですなあ。結婚相手をお探しなら、うちの倅はどうですか。お嬢さんと年の近いのがひとりおりますが」
 マクローリンが大声で口を挟み、アマリエはぎこちなく微笑む。この父親をそのまま若くしたような息子ならお断り申し上げたい。
 顔に微笑みを貼りつけたまま視線をそらし、アマリエは男性たちのずっと背後で目を止めた。二階の回廊部分に、見知った姿があることに気づいたのである。
 思わずキースを見上げると、キースもアマリエを見下ろした。行ってもいいよとその目が言ってくれている。
 アマリエは男性たちに最低限の挨拶を残し、ひとりで階段のほうへ向かった。


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