濫読令嬢の婿えらび [ 1 ]
濫読令嬢の婿えらび

1.風変わりな女子相続人
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 見渡す限りのたくさんの本。
 円形の広間のような空間は壁のほとんどを書架で覆われ、その端から端までがおびただしい背表紙で埋め尽くされている。二か所に設けられた階段を上がれば回廊に行き着き、そこで出会うのもまた壁一面の書架だ。
 吹き抜けの丸天井には曇り硝子で作られた天窓があり、そこから降りてくるやわらかな光が、本を開く人々の手もとを優しく照らしている。
(まったく、毎日見ていてもいい眺めだ)
 ヘイゼルダイン貸本屋(ライブラリー)の社員、ティム・ベアリングは、一階の貸出受付に座り、職場のこの光景を眺めるのが好きだった。ここに勤めだしたのは五十を過ぎてからだが、子どものころから無類の読書好きだったのである。しがない事務員だった父にはほとんど本を買ってもらえなかったが、学校の図書室や友人から借りて一冊でも多く読むことに夢中だった。詩集、戯曲、紀行、宗教書から科学の論文集まで、手にできたものはなんでも読みあさった。
 本はいつだって、彼を見たことのない世界に連れていってくれた。
 ヘイゼルダイン貸本屋で本を手にしている客たちにとっても、それは同じだろう。老いも若きも紳士も淑女も、背表紙を見つめたり手にとって開いてみたりしながら、熱いまなざしで自分の一冊を選んでいる。
 この十九世紀半ばのロンドンにいながら、中世のイタリアにも、古代のエジプトにも、人の国を遠く離れた大海原にも旅することができる。
 それが本というものであり、その本を人々に届けるこの仕事を、ベアリングは誇りに思っている。
 もともと小さな目をさらに細め、店内の様子を見守っていると、少し離れたところからささやき声が聞こえてきた。
「きみが話しかけろよ」
「先に言い出したのはそっちだろう」
 貸出受付に近い閲覧席のかたわらで、ふたりの青年が立ち話をしている。どちらも年は二十代前半くらい、背が高く、帽子も三つ揃いも手入れが行き届いている。大学を卒業して間もない上層中流階級(アッパーミドル)の子息たちだろうか。
 ヘイゼルダイン貸本屋では客同士の私語は禁止していない。他の客の耳に響くような大声さえ出さなければ、本を挟んで読書話に花を咲かせてもらうのはむしろ歓迎している。そのための閲覧席や長椅子も設けているくらいだ。
 本とは関係のない雑談やゴシップに興じる客がいるのもご愛敬。規模の大きい貸本屋には中流や上流の客が多く、自然と社交場の様相も帯びてくるのである。まして今は五月、上流階級(アッパークラス)がロンドンに集う社交期(シーズン)の真只中だ。
「何を読んでいるんだろうな」
 青年のひとりが、やや湿った声でもうひとりにささやいた。
 ベアリングはずれた眼鏡をかけ直し、ふたりの視線の先を追った。客の話に聞き耳を立てるなど褒められたことではないが、いったん耳に入るとつい興味を引かれてしまう。
 青年たちが見つめる先には、ひとりの少女がいた。
 年のころは十七、八。この店を訪れるほとんどの女性と同じく、身分卑しからずといった雰囲気だ。四人掛けの閲覧席の一角に座り、テーブルに広げた本を覗きこんでいる。
 ボンネットから覗く髪は濃い茶色だが、天窓からの光があたる後れ毛だけは、琥珀色に透けて見える。ほっそりした肩に袖なしの外套がよく似合う。瞳が大きく、鼻筋が細く、唇は物憂げに結ばれている。伏せられた目を長い睫が縁どり、なめらかで白い頬を引き立てている。絵画の中から抜け出してきたような、独特の雰囲気を持つ美少女だ。
 熱心に本を読んでいるようだが、近くには侍女(レディーズメイド)お目付け役(シャペロン)らしき者の姿はない。ひとりでは出歩かないような貴族の令嬢ではなく、せいぜいが少し羽振りのいい中流の娘――つまり、気まぐれに声をかけてみても構わない相手だと、ふたりの青年も判断したらしい。彼らはお互いにちらちらと目をやりながら、めあての娘に一歩ずつ近づいていった。
(そのお嬢さんはやめておいたほうがいい)
 ベアリングは心の中で、そっと青年たちに忠告した。
 ふたりはこの貸本屋にはじめて来たか、ロンドン住まいではないのだろうか。彼らが話しかけようとしている少女は、ここの常連客や社員ならば誰でも知っている、ちょっとした有名人なのである。
「失礼します、お嬢さん(ミス)。何をお読みになっているのですか」
 青年のひとりが声をかけると、少女は本から顔を上げた。大きな目が驚きでさらに見開かれ、細い首が青年たちを見上げて傾いている。戸惑ったような表情がたいそう可憐だった。
 やがて、少女は美しい顔に微笑みを浮かべた。
「猿の生態に関する本ですわ」
 青年たちが岩のように固まるのが、ベアリングに見える背中から伝わってきた。
「猿」
「ええ。猿は危険が迫った時、警戒声という声を発して仲間たちにそれを知らせるのですって。それも、迫っている危険の種類によって声を使い分けるそうですよ。咳払いのような音を出したり、犬のように吠えたり、叫んだり、喚いたり――きっとこんな感じではないかしら」
 少女の愛らしい唇から猿の鳴き声が零れ、円形の店内に響きわたった。

 ベアリングは眼鏡をかけ直すふりをしながら、ふたりの青年の姿を目で追った。見初めた美少女のことは何もわからなかったかわりに、猿についての知識だけめいっぱい頭に詰めこまれた彼らは、すごすごと店の正面入口から出ていくところだった。
 ベアリングの視線を遮るように、受付のカウンターに三冊の本が積み上げられた。
「こんにちは、ベアリングさん」
 見上げると、長い睫に縁どられた紫の瞳がベアリングを見下ろしている。たったいま猿の鳴き声を真似てみせた美少女が、笑顔でカウンター前に立っていた。
「アマリエお嬢さん」
 ベアリングも笑顔を返し、先ほどまで少女がいた席に目をやった。
「お話は終わりですか?」
「ええ。あの方たちも猿に興味があるのかと思ったけれど、どうやらそうじゃなかったみたい」
 少し寂しそうに笑い、名刺型の会員証をカウンターごしに差し出す。
 ベアリングはそれを受け取ると、規則どおりそこに書かれた氏名を確認した。
 アマリエ・ヘイゼルダイン――この貸本屋と同じ名を姓に持つこの少女は、ほとんど毎日のようにここに現れ、貸出の上限である三冊の本を借りていく。本の分野はさまざまだ。今日は動物学の研究書に、南欧を旅する作家の紀行文、そして古英語の解読書。
 若い娘に本など読ませるべきではない、などと言われた時代はとっくに過ぎ去っている。事実、このヘイゼルダイン貸本屋の会員も、多くが裕福な中流の女性たちだ。家の外にいくらでも娯楽を求められる男性と違い、女性が室内で楽しめるものといえば書物をおいて他にないからだ。ただし彼女たちが手にするのは詩集や戯曲、そして今世紀になって盛んに書かれるようになった小説であり、つまりは大半が気軽に読める創作物である。
 アマリエ・ヘイゼルダインにとって、そのような垣根は存在しないらしい。流行小説から法学の専門書まで、興味の赴くままありとあらゆる本に手を伸ばす。どういうたぐいの本に夢中になっているのか隠そうともしない。たとえ、そのことで年配の婦人に眉をひそめられたり、先ほどの若者たちのようなひきつった笑みを向けられたりしても。
 もっとも、彼女を有名にしている理由はそれだけではないのだが。
「明後日から忙しくなるわね、ベアリングさん」
 貸出手続きを終えて本を受け取りながら、アマリエが何気なくつぶやいた。目が自然と背後の書架に流れている。
 ああ、とベアリングは自分の額を押さえた。
「そういえば来週は談話会でしたね。うっかりしていた」
「準備が大変なのではないの?」
「わたしは当日もここに座っているくらいですよ。力仕事は若い人たちがやってくれますしね」
 談話会とは、ヘイゼルダイン貸本屋が毎年この時期に行う社交行事である。広間にも似たこの店に得意客や取引先の人間を招き、自由に本を手に取りながら雑談を楽しんでもらう。ここの客には上流階級の人間も少なくないので、この空間がダンスホールのような華やぎで満ちる。
「アマリエお嬢さんも、今年からおいでになるんでしょう?」
 ベアリングが尋ねると、アマリエは本を抱えて可憐に微笑んだ。
「ええ。猿のことを語りあえるお友達が見つかるといいのだけど」

 アマリエが店から去っていくと、ベアリングの隣の席にいた同僚がのんびりとつぶやいた。
「アマリエお嬢さん、またいちだんときれいになったねえ」
 ベアリングと同年代の、白髪が目立ちはじめた男である。貸出受付は座ったままできる仕事なので、この年代の担当者が多い。
「誰です? さっきの女性は」
 返却本を受け取りに来た別の同僚が口を挟んだ。こちらは重い本を何冊もまとめて運ぶのにふさわしく、健康そうな若い青年である。
「誰って、ここのお嬢さんじゃないか。ああ、きみは入ったばかりだから知らんのか」
「その言い方だと実の娘のように聞こえるね。ちゃんと説明してやらんと」
 ベアリングが同僚の言葉をやんわり正すと、彼は面白がって身を乗り出してきた。
「あんたが話してやれ、ベアリングさん。いちばん詳しいだろう」
「そうだね――」
 幸いにもカウンターの前に列はなく、近づいてきそうな客もいない。
「では、ひとつ聞いてもらうとしようか」
 ベアリングは咳払いをすると、新顔の若い同僚に向かって話し始めた。
「サー・ジョサイア・ヘイゼルダインは知っているかね、きみ」
「いいえ」
「では、ここの経営者の名前は?」
「ミスタ・キース・ダンフォードですよね」
「そう。ミスタ・ダンフォードは、今でこそこんな大きな貸本屋を経営しているが、もとは郊外の小さな商店主の息子でね。若いころに身ひとつで事業を立ち上げたんだが、はじめは階級(クラス)の高い客ではなく、労働者階級(ワーキングクラス)を相手にするつもりだったらしい。自分と同じような、学校にも満足に行けなかった人たちに、本を手に取る場所を持ってほしいとね」
 ベアリングがこの話をはじめて聞いた時はおおいに共感し、この貸本屋で働いていることをますます誇りに思ったものだ。
「資金も人脈もほとんど持っていなかったが、その志に共鳴して、援助を惜しまない人物がひとりいた。海軍で功績をおさめた勲爵士(ナイト)だったんだが、当時はもう現役を退いて、遅くに結婚した奥方も亡くし、ロンドンの屋敷にひとりで暮らしていたそうだ」
「それが、えっと、サー・ジョサイア・ヘイゼルダインですか」
「そのとおりだ。サー・ジョサイアはあらゆる手を尽くして、ミスタ・ダンフォードの事業を成功させようとした。ところが、労働者の家庭には読書の習慣が根づいてないし、食べていくのに精いっぱいで本どころじゃない者も多い。事業が立ち行かなくなって破産寸前になったところで、ミスタ・ダンフォードはようやく客層を今のように変えたわけだ」
 ふたりの同僚とベアリングは、多くの客でにぎわう店内を見た。
 書架のあいだを練り歩くのは、着飾った婦人たちに、トップハットをかぶった紳士。もっと質素な身なりの男女もいくらかは見つかるが、それもおそらくは主人の使いでやってきた使用人たちだろう。
「無念だったでしょうね、さぞかし」
 若いほうの同僚が絞り出すような声で言った。
「そうだろうね。でも、それ以上の不運――いや、見かたによっては幸運だろうか――それは、サー・ジョサイアがその時すでに世を去っていたことだ。貸本屋の事業が軌道に乗り出す一年ほど前に、たったひとりで、病気でね。資産のほとんどをここにつぎ込んで、最期はほぼ無一文だったそうだ」
 ひとりが選んだ本を手にやってきたので、ベアリングは同僚たちにいったん背を向けた。客は若い既婚婦人で、古典と当世のものと二冊の戯曲を差し出している。手続きを終えると本を抱えて去っていった。
「これで終わりなら悲しい話だが、そうじゃなかった。サー・ジョサイアには、娘がいたんだ」
 ベアリングは視線を戻し、いよいよ話の本筋に入っていった。
「さっき、サー・ジョサイアはひとりで亡くなったと言いましたよね?」
「それは息を引きとった時の話でね、実際には、八つか九つかの幼いひとり娘がいたんだ。母親が亡くなった時に寄宿学校に預けてあったから、サー・ジョサイアの臨終にも立ち会えなかった」
「その娘さんを、ミスタ・ダンフォードが引き取ったんですか」
「察しがいいね、きみは。もちろんミスタ・ダンフォードは、恩人の娘を迎えに行こうとした。サー・ジョサイアが貸本屋の成功を見ずに逝ったなら、かわりに娘に恩を返したいと思うのは当然だからね。ところが学校を訪れても、サーの娘の姿はそこになかったんだ。父親が急死して、学費と寄宿費を納められなくなったからって、寮を追い出されたらしい」
「そんな。十歳にもならない子どもを?」
「ひどい話だよ、本当に」
 年かさのほうの同僚が相槌を打った。
 まったくもってひどい話だが、さらに輪をかけてひどいのは、それがめずらしい話ではないということだ。女子の教育機関については、男子のそれに比べて法整備が遅れている。営利ばかりで理念のない、教育者とは名ばかりの私営学校の長は少なくない。
 それにしてもそんな学校を引きあててしまったとは、サー・ジョサイアは娘の教育に熱心なほうではなかったのだろうか。
「ミスタ・ダンフォードは、それからどうしたんですか」
「もちろん、娘の行方を捜しまわったのさ。学校のあった街やその近くを歩いて、宿のない子どもが行きそうなところを訪ねてね。だが仕事をしながらだから時間は限られているし、家や親のない子はあちこちに数えきれないほどいるから、そう簡単には見つからない。そもそもミスタ・ダンフォードは娘の顔を見たこともなかったんだ。ようやく捜し出した時には、娘はもう十二歳になっていた」
「じゃあ、見つかったんですね」
「そう。もといた学校からだいぶ離れた田舎町でね。柄の良くない料理屋で下働きに使われて、勲爵士の令嬢にはあるまじき暮らしをしていたそうだ。ミスタ・ダンフォードはすぐにその娘を引き取って、今に至るまで自分の屋敷に住まわせている」
「それがさっきのあのお嬢さんなんですね」
 若い同僚が晴れやかな表情で言いあてる。
「そう。ミス・アマリエ・ヘイゼルダイン。サー・ジョサイアのご令嬢で、今はミスタ・ダンフォードの養女のようなものだ」
 ベアリングは懐かしさにかられて目を細めた。
 アマリエがはじめてここにやってきたのは、経営者に引き取られて間もない十二の時だった。今よりずっと痩せていて口数も少なかったが、ベアリングが作った彼女の会員証を受け取ると、嬉しそうに礼を言ってくれたものだ。
 そのアマリエも今や十七歳。今年からは社交行事である談話会に出席するという。
 それは、つまり。
「いよいよ始まるようだね」
 ベアリングの考えを読んだように、年かさの同僚がつぶやいた。
「何がです?」
「何って、決まってるだろう」
 若い同僚の問いに、もうひとりはもったいぶって答えた。
「ミスタ・ダンフォードは今年の談話会で、アマリエお嬢さんの婿を決めるつもりらしい」
 上流の社交場で行われることと言ったら、主にひとつしかない。
 紳士と淑女、そして家と家を結びあわせる縁組みである。
「はあ、そうなんですか」
「引く手あまたになることは間違いないだろうな。ミスタ・ダンフォードはサー・ジョサイアの出資金を何倍にも増やして、アマリエお嬢さんに返すつもりのようだから――」
「おい、おい」
 ベアリングが諫めると、口の軽い同僚は慌てて論点を変えた。
「まあ、持参金の額はともかく、あのとおりの美人だ。恋い焦がれる男はいくらでもいるだろう」
「確かにきれいな人でしたね」
 若い同僚はアマリエが先ほどまで立っていた、ベアリングのカウンターの前を見つめた。
「大それた夢を見るんじゃないぞ」
 純朴そうな青年を見て、もうひとりの同僚が苦笑する。
「ミスタ・ダンフォードはサー・ジョサイアへの恩義と敬意から、その娘を王女さまみたいに崇めて大事にしているらしいから。ちょっとやそっとの男の嫁にやるつもりはないだろう」
「ミスタ・ダンフォードも難関だが、アマリエお嬢さん自身もね」
 ベアリングは同僚の話を引き継いだ。夢中になって本を読んでいたアマリエの姿を思い出しながら。
「文豪たちより面白い話のできる紳士が、果たして見つかるものかどうか」


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