ドロッセルマイヤー4
下
クリスマス当日は朝からミサに出かける人が多い。五人きょうだいとわたしも早くに起きて教会へ向かった。十年ほど前に初代皇帝を記念して建てられたそこは、内部にある壁画が美しく、近くには百貨店の建設が進む広場もある。
ミサが終わって教会から出てくると、ルイーゼがすかさず隣に来て聞いた。
「この後はどこへ行くの?」
「どこへ行きたい?」
「素敵なお店がたくさんあるところを歩きたいわ。それから市門も見に行きたい」
ルイーゼは明るい少女で、いつも自分の希望をはきはきと口にしてくれる。マリーもこういう性格だったら、この五年間はまったく違ったものになっていただろう。
「市門って何?」
いつの間にか横に並んでいたテオが、隣にいるフリッツに聞いている。
「うーん、昔の町の入り口だよ」
「そんなのつまらない。皇帝陛下を見に行きたいよ」
「見られるわけないでしょ」
テオとルイーゼがお互いを小突きながら先を歩き、フリッツもその後を追う。
ふと気になって背後を見ると、きょうだいのいちばん上のマリーといちばん下のクララが、手をつないで後をついてきていた。わたしが振り向くと、ふたりともはっとして頬を染め、視線を足もとに落とす。
この姉と妹は本当によく似ている。くせのない金髪も、水色の瞳も、自分の気持ちをあまり話さないところも。こうして並んでいると姉妹というより、ひとりの少女の過去と未来を同時に見ているようだ。
「おじさま」
マリーが急に目を上げ、わたしに呼びかけた。
「うん?」
「えっと……あのね」
マリーはわたしを見ながら口ごもり、なかなか言葉を出さなかった。クララとつないでいる手を意味ありげに揺らしている。
察しをつけたわたしはふたりの横に並び、空いているほうのクララの手をとった。クララはわたしを見上げ、つないだ手をぎゅっと握りかえす。
クララもマリーと同じで、嬉しい時にあまり笑わない。はじめは怖がられていると思って近づかないようにしていたが、そうでもないと気づいてからはたびたび構うようにしている。
つないだクララの手はわたしのよりずっと小さいが、はじめてこうした時より力が強くなっている。
前を歩くフリッツ、ルイーゼ、テオの三人も、それぞれまた背が高くなったようだ。
このごろ、五人の両親のことをよく考える。この子たちを残して世を去らなければならず、どれほど無念だっただろう。彼らがここまで大きくなるところをどんなにか見たかっただろう。
かわりにそれを見せてもらっているわたしは、ときどき申し訳ないような気分になる。
ふいに視線を感じて、わたしは横を見た。マリーがクララの頭ごしにわたしを見ていたが、あわてたように視線をそらして前を向く。
「マリー」
わたしが声をかけると、マリーはびくりとして振り向いた。
「何?」
「後で少し話をしようか。列車に乗る前に」
昨日ふたりだけで話して以来、マリーとはほとんど口をきいていなかった。帰してしまう前にきちんと話さなければならない。今日が終わったらまた一年先まで会わないことになるのだから。
わたしの言葉を聞いたとたん、マリーは泣き出しそうな表情になった。そのまま立ち止まってしまったので、わたしも、間にいたクララも足を止めることになった。
「マリー?」
「ごめんなさい。もういいの」
マリーはクララの手を握りしめ、わたしの目を見て言った。
「ひどいことを言ってごめんなさい。もういいから、今までどおりでいいから、来年のクリスマスイヴもうちに来て」
わたしはきょとんとしてマリーを見つめた。話がずいぶんと飛躍している。
クララが不安そうにわたしとマリーを交互に見上げる。前を行く三人も、何事かとびっくりした顔で振り返っている。
「マリー――いや、クララ」
わたしはマリーに言いかけ、思い直してクララに視線を移した。
「ごめん。後から行くから、先に兄さんたちと行っていてくれるかな」
クララは不思議そうに見上げていたが、やがて生真面目に表情を引きしめてうなずいた。
フリッツが何かを察したらしく歩み寄ってきたので、わたしはクララの手を彼に預けた。テオが抗議の声を上げかけ、ルイーゼに口を塞がれている。
「マリー、少しあちらを歩こう」
四人が背を向けて歩き出したのを確認すると、わたしは残されたマリーをうながして来た道を引き返しはじめた。
マリーは状況がのみこめていないらしく、おろおろとわたしと弟妹を見比べている。
「どうして? 一緒に行かないの?」
「後で追いかけるからだいじょうぶだよ。少し話をしてから行こう」
「でも、昨日もほとんどわたしがおじさまと一緒にいたのに」
「わたしがきみと話をしたいんだ」
マリーが何かを誤解しているとわかった以上、後まわしにせず今すぐ話すべきだ。辛い気持ちを抱えたままクリスマスの一日を過ごすのはかわいそうすぎる。
他の四人のことはそれほど心配していない。帝都を歩くだけで時間は潰せるだろうし、フリッツがそれなりに道を知っている。
しかしマリーはそう思えないようで、四人を気にして何度も振り返っている。弟妹よりも自分が優先されることに慣れていないのだ。わたしにはきょうだいがいないのでよくわからないが、どこの家でもいちばん上の娘はこうなのだろうか。
「来年もきみたちに会いに行くつもりだよ、マリー」
わたしが切り出すと、マリーはようやく視線を落ち着けて歩き出した。
「ほんとう?」
「そうだよ。どうしてわたしが行くのをやめると思った?」
マリーはわたしから視線をそらし、ちょっと赤くなりながら言った。
「だって、わたし――昨日あんなことを」
すぐに思いあたったが、何と答えればいいかわからなかった。わたしとマリーはお互いを見ず、並んで歩き続けた。
引き返してしばらくは教会から出てくる人々とすれ違っていたが、今はそれも途絶えている。ほとんど無人になった教会のまわりには、数日前に積もった雪の名残があるだけだ。
「マリー」
わたしが意を決して口を開くと、マリーはゆっくりと振り向いた。
「きみにどう見えているかはわからないけど、クリスマスイヴにきみたちと過ごす時間は、わたしにとってとても大切なものなんだ。何かあったくらいで手放すつもりはないから、心配しないでほしい」
マリーは一瞬ほっとしかけたが、あいまいな表情のまま黙ってしまった。安心させるために言ったつもりだが、思ったほどの効果はなかったらしい。
わたしはまたしても考えこむ。今の言いかたでは、マリーの気持ちを聞いてもわたしは何も変わらないと言っているようで、それはそれでマリーにとっては複雑なのだろうか。
なんとなく黙ったまま、わたしたちは教会の建物の前まで戻っていた。
「――聞いてもいい?」
マリーがわたしを見ず、教会の尖塔を見上げたまま口を開いた。
「何を?」
「奥さまは、どこに眠ってらっしゃるの」
わたしはちょっと考えた。
エルゼは郊外にある小さな教会の墓地で、両親や祖父母と一緒に眠っている。父はうちの墓所に移したらどうかと言ってくれているが、それをエルゼが喜んでくれるのか考えると疑問なので、今でもそのままにしている。
「帝都のはずれにある小さな教会にいるよ。ここからはちょっと遠いかな」
「……そう」
「どうしてだい?」
マリーは振り向きかけたが、結局うつむいてしまった。しかし、黙りこんでしまうわけではなかった。
「奥さまを今でも好き?」
「――うん」
わたしはほとんど迷わずに答えた。嘘を言っても仕方がないと思ったからだ。
エルゼと一緒になったことは後悔していないし、今でもあの時のことを思い出すと幸せな気持ちになる。本当に若かったし、本当に愚かだったと思うが、あの時は自分なりに真剣だったのだ。死に別れてすぐは自分がエルゼを不幸にしたと悔やんだりもしたが、今はエルゼも幸せだと思ってくれていた気がしている。
ただひとつ悔いがあるとすれば、クリスマスを一緒に祝えなかったことだが、かわりにマリーたちと一緒に過ごすことができた。
そのマリーはいつの間にか顔を向け、わたしの顔に見入っていた。涙こそ見えないものの傷ついた目をしていたので、自分がひどく残酷なことをしているような気になる。
マリーは昨日、自分の気持ちをすべてわたしに話してくれた。今度はわたしが話すべきだとわかっていたが、いざとなると何から話せばいいのかわからない。自分から話したいと言い出したくせに、マリーに何を言うべきかきちんと考えていなかったのだ。
「マリー」
わたしはひとまず呼びかけ、マリーを前へうながした。ふたりで階段を上り、先ほど出てきた教会の中へまた向かう。
ミサが終わった礼拝堂は人の気配がなく、がらんとしていたが、寒くはなかった。わたしはマリーを木椅子の端に座らせ、通路を挟んだ隣の椅子に自分も腰を下ろした。
「昨日、言ってくれたことだけど」
わたしたちは通路に体を向け、お互いに向かいあっていた。わたしが口を開くと、マリーは怯えるようにまばたきをした。だが目をそらすことはなかった。
「はい」
「ありがとう。嬉しかった」
マリーの目が赤くなり、今にも涙が溢れてきそうになった。
「でも――だめなんでしょう」
「違う。そうじゃない」
わたしはあわてて言ったが、自分の煮えきらなさにいいかげん嫌気がさしていた。中途半端に返事を引き延ばすくらいなら、さっさと拒絶したほうがよほどマリーに優しいのではないか。そう思ったりもしたが、マリーには単純な是非ではなく、自分の気持ちを正直に話すべきだと思った。
「きみのことは大事に思っているよ。たぶん、きみが考えている以上に」
マリーは椅子に座りなおし、わたしの目をまっすぐに見つめた。
「何から話したらいいのか――きみとはじめて会った時のことを覚えているかい?」
「もちろん」
「あの時、きみがわたしに話しかけてきた時、わたしはきみたちの家を出て帰ろうとしていたんだ」
マリーはきょとんと目を丸くした。泣き出しそうな表情はいつの間にか消えていた。
「そうなの?」
「ああ。もともとご両親のことでお悔やみを言いに来ただけだったから、それが済んだらすぐに帝都に帰るつもりでいた」
「わたしたちのことは?」
「村の人たちが決めたとおり、施設に預ければいいと思っていた。きみがわたしに、そうしないでほしいと頼みにくるまで」
あらためて言葉にしてみると、よくもあんな薄情なことができたものだと思う。
マリーは口を挟まず、驚きも呆れもせず、黙ってわたしの続きを待っている。
「きみがわたしのところへ来て、自分がきょうだいを守ると言わなかったら、わたしはそのまま帰っていた。きみがわたしを変えたんだよ、マリー」
何かの魔法にかかったとしか思えない。
五年前のあの時のわたしは、自分が失ったクリスマスのことで頭がいっぱいだった。他に失われてはいけないクリスマスがあるということを、マリーが気づかせてくれたのだ。
「だから、きみのことは本当に大事に思ってる」
「あなたを頼ったから?」
「そうじゃなくて――なんて言ったらいいのかな。きみもあと何年かしたらわかるようになると思う」
「何を?」
「プレゼントを贈られる者よりも、贈る者のほうが幸せだってことを」
マリーはわたしの目を見つめ、聞いた言葉を噛みしめるように黙ってから、口を開いた。
「おじさまは、わたしたちにプレゼントを贈ってくれて、幸せだったの?」
「幸せだったよ。完璧ではなかったけど」
「え?」
「なんでもない――ただ、きみにもっとたくさんのものを贈りたかった」
子どものマリーにわたしが何もしてやれずにいるうちに、マリーは大人になってしまった。そのことが残念でならないのだと、言葉にしてみてはじめて気がついた。マリーに話すまでこれほど時間がかかったのはそのためだ。
もっと側にいれば良かった。もっと話を聞けば良かった。クリスマスに自分のことだけ考えていられるように、もっと気を配ってあげれば良かった。
わたしは聖ニコラウスでも、魔法が使える人形師でもないが、マリーのためにそうなれたら良かったと思う。
「宝物を、もらったわ」
マリーがふいに言った。
「え?」
「おじさまがいてくれたこの五年間のクリスマスは、わたしの宝物なの。父さまと母さまがいたクリスマスと一緒に、きっと一生、忘れないわ」
殴られたような衝撃を感じると同時に、目頭が急に熱くなった。わたしはひどく驚き、次にあわてて両目を押さえた。
大人がこういう場面で泣くところを見たことはあるが、まさか自分がその立場になるとは思わなかった。これが、年をとる、ということなのか。
「ありがとう、もういいの。わたしは宝物をもらったから、もうだいじょうぶなの」
マリーははにかみながら笑い、手を伸ばしてきた。指先でわたしの外套の腕に触れ、なだめるようにさする。
「わたしはもうだいじょうぶだから。あなたがわたしにしてくれたことを、今度はわたしが誰かのためにしてあげられると思う」
わたしはマリーの指を自分の手で包み、マリーの目を見ながらなんとかほほえんだ。
昨日のうちにわかっていたことだった。マリーはもう、子どもではなくなってしまった。わたしが気づいていなかっただけで、この子の時計はとっくに先へと動いていた。どんなに名残惜しくても、それを止めることはできないのだ。
マリーはわたしに答えを求めるかわりに、子どもでいる権利を手放した。だったら、わたしも、どちらかを選ばなければならない。
「マリー」
「お願いがあるの」
わたしが口を開きかけると、マリーがさえぎるように切り出した。少し恥ずかしそうに笑ってから、マリーは続けた。
「宝物をもらったけど、最後にもうひとつだけ、いい?」
「何だい?」
「あのね、クリスマスじゃない日にうちに来て」
そんなことかと笑いかけてから、わたしは真顔になった。この五年間で一度たりとも、クリスマスの季節以外にマリーに会ったことはなかったのだ。最初の年はクリスマスイヴまでの数日間、四年目まではイヴのその夜だけ、今年でさえ昨日のイヴと今日にしか会っていない。
「一年に一度、クリスマスイヴに会えるのが楽しみだったけれど、これからはなんでもない日も一緒に過ごしてほしいの。それからわたしの言ったこと、ゆっくり考えてみて」
わたしはマリーの目を見つめた。これは、答えを待ってくれるということなのだろうか。わたしがどっちつかずのまま揺れていることをマリーは見抜いたのだろうか。
「それに、こうすれば、また一年も待たなくていいでしょう?」
マリーがはにかみながら言い、わたしは笑った。
「わかった。会いに行くよ、マリー」
「ほんと?」
「うん。ただ、クリスマスイヴほど楽しくないかもしれないよ。わたしはプレゼントを持っていかないし、お菓子も買っていかないから」
わたしはマリーをからかってみたが、半分は真剣だった。マリーがクリスマスに会うわたししか知らないことが、いまだに少し気にかかっているのだ。
マリーは目を丸くしてわたしを見上げたが、やがてにっこり笑った。
「わたしも、クリスマスじゃない日はおしゃれしてないし、ごちそうは作らないし、家もきれいに飾っていないわ」
わたしは先ほどとは違う意味で笑った。
そうだった。マリーがクリスマスのわたししか知らないように、わたしもクリスマスのマリーしか知らなかったのだ。
「がっかりしないでね」
マリーは笑顔のまま言ったが、わたしを見上げる目は本気で心配そうだった。
「しないよ」
「ほんと?」
「うん」
「いつ来てくれる?」
「そうだね、あたたかくなったら」
雪が完全に溶けて、列車が止まる心配がなくなったら。それならマリーを待たせたり心配させたりしないで済む。
「ほんとね? あたたかくなったら、うちに来てね」
懸命に繰り返すマリーを見て、わたしは思わずその手を握った。マリーがびくりとして口を閉じ、握られた手を見つめる。
もしかしたら、待ってもらう必要はないのかもしれない。この場でマリーの気持ちに答えたほうが、ふたりとも幸せな気持ちでクリスマスを終えられるかもしれない。
しかし、マリーが示してくれた道が最良に思えた。クリスマスではない普通の日を一緒に過ごして、ふたりで時間をかけて大切なことを考えればいい。もっと早くそうするべきだったのに、なぜ一度も思い浮かばなかったのだろう。
「会いに行くよ、マリー」
クリスマスの魔法がとけたら、わたしはきみに今度こそほしいものをあげられる。そうしたら、きみとわたしの時計はまた先へ進む。
一緒に、プレゼントを贈る側の人間になろう。
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