ドロッセルマイヤー [ 4−2 ]
ドロッセルマイヤー4


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 帝都に戻ったわたしはその足で生まれ育った家に向かい、父の前で頭を下げた。すべての事情を話し、また父の事業を手伝わせてほしいと頼みこんだのだ。
 勝手な結婚をして家を出ていったあげく、亡き妻の遠縁の子どもの面倒を見ると言い出したわたしに、父は怒るのを通り越して呆れていた。父の事業はわたしのいとこが継ぐことにすでに決まっていたが、そんなことはどうでも良かった。父のもとに戻ることを決めたのは、事務所の仕事では五人を養えないからでもあったが、自分に何かあった場合かわりに五人を引き受けてくれる身内がほしかったからだ。父はそれに対して何も言ってくれなかったが、ひとつ年上のいとこは自分に娘が生まれたばかりだったこともあり、両親を亡くした五人にいたく同情を寄せてくれた。
 わたしはエルゼと暮らした貸間に戻ると、しまいこんであったあるものを探し出した。
 懐中時計だ。
 エルゼがいなくなって以来、ねじを巻くこともせず部屋に放ってあったのだった。
 わたしは何週間ぶりかにそれに触れ、自分の手でねじを巻いた。長らく止まっていたが、壊れてはいなかった。規則正しい音を立て、再び時を刻みはじめた。

 一年後のクリスマスイヴ、わたしはマリーとの約束どおり、再び五人の家を訪れた。たったの一年での子どもたちの変わりように、大いに驚かされることになった。男の子も女の子も背が伸び、顔つきがしっかりし、去年できなかったことができるようになっていた。子どもが一年でこれほど変化するものだということを、わたしは彼らに教えてもらった。
 それほど変わっていたにもかかわらず、彼らはわたしの顔を覚えてくれていた。クリスマスツリーの側で一緒に食卓を囲んで、わたしが持ってきたプレゼントに目を輝かせて喜んでくれた。これほど楽しいクリスマスイヴは生まれてはじめてだった。
 わたしは来年また来ると言って家を去り、そのとおりにした。一年後のクリスマスイヴもその前と同じくらい楽しく、子どもたちが大きく変わっていることに驚かされた。
 ただひとり、変わっていないのはマリーだった。背が伸びていないのは年齢的におかしくないとしても、いつも同じような服を着て、同じように髪を下ろして、両親を亡くした時と同じように思いつめた顔をしていた。
 マリーは両親を亡くした翌年の夏で学校を終えていた。将来はどうしたいのか遠まわしに聞いてみたが、何かを学んだり職についたりしたいという希望はないようだった。かといって、結婚が決まるまでの娘時代を謳歌しているふうでもない。トゥルーテさんの仕事を手伝いながら、弟妹を送り出しては帰りを待つ日々を過ごしているようだった。
 クリスマスイヴの日でさえそうだった。みんなが食事やツリーに夢中になっている間、テオが服を汚していないか、クララが具合を悪くしていないか気にして、少しも笑顔を見せなかった。わたしのこともプレゼントをくれる大人ではなく、家に招いた客として扱って、何かと気をつかってくれた。もっと自分のことだけ考えていればいいのに。きょうだいの中ではいちばん年上というだけで、マリーも子どもたちのうちのひとりなのに。
 一緒にいられないことを悔やむのはこんな時だった。マリーがいつも家事や弟妹の世話ばかりして、子どもらしい楽しみを何も味わっていないと思うと、側にいないことを選んだ自分を恨みたくなった。けれど、側にいたところで自分に何ができるわけでもない。マリーを甘やかしてやりたいと思っても、クララにするように頭を撫でてかわいがるわけにもいかない。
 せめてマリーが喜ぶようなものを贈りたかったが、これも簡単ではなかった。他の子どもたちは先を争って箱に飛びつき、中から出てきたものに歓声を上げたり、早くも次にほしいものをねだったりするのに、マリーはそうではなかった。弟や妹がプレゼントにはしゃぐのを見守って、自分の箱を開けるのはいつも最後。開けてみてもあまり嬉しそうな顔をせず、かといって不平を言うわけでもない。礼儀正しく感謝の言葉を述べるだけだった。何がほしいのか、何が好きなのか聞き出そうとしても、これといった答えは得られなかった。
 はじめの二年は無難なものを贈っていたが、三年めでわたしは思いきったことをした。自転車を贈ることに決めたのだ。
 マリーが喜ぶと思ってそうしたわけではなかった。学校を出てからは教会にしか出かけないようだし、新しいものやめずらしいものが好きそうでもない。ただ、これに乗って少しでも外に出るようになれば、自分の好きなものを見つけてくれるかもしれないと思ったのだ。
 クリスマスイヴの当日、自転車は家の外に置き、下の子たちが眠ってからマリーを連れていって見せるつもりだった。その時が来たと思ってマリーをうながしたが、返ってきたのは予想もしない言葉だった。
「おじさまがこの家にいてくれれば、それだけでいいの。何もいらないから、かわりにずっとここにいて、おじさま」
 最初の年にはじめて話したのと同じ場所で、マリーはそう言った。
 後悔していたことを見抜かれたような気がして、わたしは黙りこんだ。本当にそうするべきだった。この子を守りたいと思ったのなら、十何年も先のことなど考えず、側にいるべきだった。一年に一度だけクリスマスプレゼントを贈るよりもはるかにしてやれることがあっただろう。
 だが、この時のわたしは笑ってこう言うしかなかった。
「来年にクリスマスイヴにまた来るよ。それだけではいけないかな、マリー?」
「また一年も待たなくちゃいけないもの」
「きっとあっという間だよ。必ずまた戻ってくるから」
「父さまと母さまは、そう言って帰ってこなかったわ」
 愕然とした。自分がマリーのことを何も知らなかったことに気がついたのだ。
 マリーが家に閉じこもりがちなのは、弟妹の世話に縛られているからでも、自分の好きなことを見つけられないからでもない。恐れているからだ。あたりまえに続くと思っていた日々をとつぜん奪われて、これ以上の変化がやってくることを恐れているのだ。この子の時計は、両親を亡くしたその時から止まっている。
 どうしたら動いてくれるのだろう。
 三年前、止まったままだったわたしの時計を、この子が動かしてくれたように。
 あの時と同じように、マリーを抱きしめて慰めたいと思った。けれども、それがこの子のためになるとも思えない。わたしは突き放すようなことを言い、予定どおり自転車を置いてマリーの側を去った。
 そして、一年中、後悔しつづけた。なぜあんな言いかたしかできなかったのか、他にもっとやりようがあったのではないか、悔やんでもしかたのないことを延々と悔やんだ。自転車にしてみても、なぜあんなものを贈ったのかと自分を問いつめ続けた。マリーが喜ばないことはわかっていたし、荒療治のつもりでも効き目があるとは思えなかった。外に出るきっかけになるどころか、両親の命を奪った車を連想させて傷つけてしまったかもしれない。
 とりとめもなく悩んでいるうちにまた一年が過ぎ、わたしは再びマリーたちの家を訪れた。近づいてきた順に子どもたちとおめでとうを言いあい、最後にマリーの姿を見て呆然とすることになった。
 マリーはくせのない金色の髪を結い上げ、大人びた水色のドレスを着ていた。前年までの姿とはまるで違っていた。
 変わったのは見た目だけではなかった。弟や妹の陰に隠れてあまり話さなかったマリーが、別人のように自分のことをよく話し、よく笑うようになった。
「自転車に乗れるようになったわ」
 わたしがひそかに気にかけ、しかし期待はしていなかったことについても、マリーは自分から素晴らしい結果を伝えてくれた。自転車に乗るようになったおかげで人と話すことが増え、人と話すようになったおかげで髪や服に手をかけるようになった。家の外に出ることが多くなって、かえって家の中が好きだと気がついた。だから家の仕事を以前よりもがんばっていると言って、わたしに手づくりのデザートを食べさせてくれた。
 何もかも、わたしが望んだとおり、いやそれ以上の変化だった。
 わたしはそれに喜ぶよりも、むしろ恐ろしくなった。自分が言ったこと、自分がしたことの重さに恐怖を覚えたのだ。マリーの人生に介入する権利など、わたしにはない。にもかかわず、自転車を贈っただけでマリーは一年でこれほど変わってしまった。子どもというものは純粋で、大人の言動ひとつに大きく揺り動かされてしまう。その恐ろしさにわたしは今さら気がついたのだった。
 さらにわたしを打ちのめしたのは、五人がわたしへのプレゼントだと言って、賛美歌を歌ってくれたことだ。わたしのために考え、練習してくれたのだと思うとたまらなかった。彼らの感謝や愛情を受け取るべきなのは、トゥルーテさんや村の人々だ。もったいぶって一年に一度しか会いに来ないわたしには、彼らの歌を聞かせてもらう資格などない。
 大人というものは迷いがなく、子どものために常に最良の選択をできるものだと思っていた。しかし自分がその立場になってみると、悩んだり悔やんだりしてばかりだ。
 そんなクリスマスイヴだったが、いいことももちろんあった。マリーがプレゼントに喜んでくれたのだ。天使の姿を象った陶器のオルゴールだったが、この家のツリーを飾る天使に似ている気がして選んだ。オルゴールの奏でる賛美歌が、五人がわたしのために歌ってくれたものと同じだという偶然もあった。
「大切にするわ。居間か寝室のよく見えるところに飾って、毎日この歌を聴くと思う」
 マリーはわたしを見つめ、やや堅い表情でそう言った。笑顔ではなかったが、心から喜んでくれているのが目でわかった。このころになってようやく気がついたが、マリーは嬉しい時にはあまり笑わないのだ。笑みを浮かべているのはむしろ緊張したり無理をしたりしている時で、喜んでいる時は頬を紅潮させて真顔になる。ということは、今までのプレゼントも喜んでいないわけではなかったのだろう。
 わたしがひそかに安心していると、トゥルーテさんが声をかけてきた。
「あまり、あの子の気持ちを揺さぶらないでくださいませ、ラングハイムさま」
 ちょうどマリーが何かのために席を外した時だった。他の子どもたちはお互いにプレゼントを見せあっており、わたしとトゥルーテさんはめずらしくふたりで話す機会を持った。
「――揺さぶる?」
「マリーはあなたに夢中じゃありませんか。まさか気づいていないとでもおっしゃるんじゃないでしょうね」
 気がついていないわけではなかった。が、正直なところそれほど真剣に受け止めていなかった。少女らしい純粋さから来る、一時の儚い感情だと思っていたのだ。
「あの子はもう子どもじゃありませんよ。年ごろの娘です」
 わたしの考えを見抜いたかのように、トゥルーテさんがきっぱりと言った。
「もう嫁入り先が決まってもおかしくない年です。あなたにもらっていただけるなら、わたしは何も申し上げるつもりはありません。でも、そのおつもりがないのでしたら、あの子をもてあそぶようなことはなさらないでくださいな」
 思いのほか強い口調で言われ、わたしは黙りこんだ。マリーをもてあそんでいるつもりはなかった。ただ、あの子が結婚を考えるような年だということに、この時まで気づいていなかったのだ。
 夜も更けて家を去ろうとした時、マリーはわたしに手紙を書いていいかと聞いた。
 わたしはいいと答えた。マリーは一年に一度のクリスマスイヴに会うわたししか知らない。手紙のやりとりでもすればわたしがただの人間だとわかり、少女らしい幻想は消え去ってくれるだろう。そして、それこそ自転車をきっかけに外の人々と交流を続けていれば、自分にあった他の相手をさっさと見つけてくれるだろう。
 わたしはそれを願いながら、マリーからの手紙に返事を書き続けた。
 次の年のクリスマスイヴ、わたしはかねてからの計画を実行に移した。五人を帝都に呼ぶことにしたのだ。ルイーゼやテオには何度もせがまれていたことだし、フリッツも目指している大学が帝都にあると言っていた。まだ幼いクララだけが旅に耐えられるか心配だったが、トゥルーテさんに相談してそろそろ大丈夫だろうと返事をもらった。家ではなく帝都でクリスマスイヴを過ごせば、マリーも料理などの仕事に追われなくて済む。
 しかし実際にその時が来てみると、マリーは帝都の光景にはあまり興味がなさそうで、人ごみに怯えるクララから離れようとしなかった。たぶん列車の中でも弟妹の世話をしてきたのだろう。わたしはまたしても自分の読みの甘さを恨むことになった。
 クリスマス市に連れていっても、マリーは疲れた様子のクララに付き添って、ほとんど座っていた。一年前とは違ってあまり話さず、あまり笑わなかった。心配になっていろいろたずねてみると、思いつめた顔でエルゼのことを聞いてきたりした。
 クララの姿が見えなくなったのは、わたしたちの話が途切れた時だった。
 マリーの取り乱しようは普通ではなかった。顔色は青ざめ、心なしか震えて、まるで彼女のほうが迷子になってしまったようだった。
「きみのせいじゃない、マリー」
 わたしは思わずマリーの手を握り、言った。クララのことはもちろん心配だったが、それと同じくらいマリーが気がかりだった。クララを見失ったことで自分を責めているのがよくわかったからだ。
「きみのせいじゃない。わたしが悪い」
 マリーはクララの姉であって、母親ではない。クララをもっと気にかけるべきだったのは、大人であるわたしのほうだ。人ごみの中でクララを見失ってしまったのも、そのためにマリーを後悔させているのも、わたしの責任に他ならない。
 クララが見つかり、休ませるためにホテルに移っても、マリーの表情は晴れなかった。心細そうに涙を浮かべているのを見て、気がつくとわたしはマリーを抱きしめていた。五年前、はじめて会った時にそうしたように。
 あの子はもう年ごろの娘です。そう言ったトゥルーテさんの声が頭に響いたが、抱きしめずにはいられなかった。本当はずっとこうしたかったのだ。側にいて、泣きたい時に泣かせ、マリーを子どもでいられなくするすべてのものから守りたかった。
 マリーは十三歳に戻ったように泣いていたが、やがて身じろぎしてわたしの腕から抜け出した。
「――マリー?」
「もういいの。ありがとう」
 そう言って一歩さがったマリーが急に遠くへ行ってしまった気がして、わたしは思わず歩み寄りそうになった。
「ほんとに平気かい?」
「うん」
「それなら良かった。きみはいつも、自分を抑えて無理をしているところがあるから。ほしいものややりたいことがあったら、もっとはっきり言っていいんだよ」
 わたしはずっと言いたかったことをマリーに言った。この子が自分から何かを望んでくれたら、なんでも叶えてやりたかった。
 マリーはしばらく黙ってわたしを見上げていた。先ほどまでとは打って変わって、ひどく落ち着いた表情だった。わたしが戸惑っているのを見抜いたように、まっすぐに言葉を向けてきた。
「あなたのことが好き。あなたにも、わたしのことを、好きになってほしい」
 この子が何かを望んでくれたら、なんでも叶えてやりたい。
 けれども、これだけはできなかった。
 その後はひどい言い争いになった。わたしがなだめたり、はぐらかしたりしようとしても、マリーは決して流されなかった。自分の感情ときちんと向き合い、覚悟を決めた上でわたしにそれを伝えてくれたのだろう。
「わたしを好きじゃないなら、そう言ってくれてかまわない」
 抑えた声で言うマリーの目に再び涙が浮かんでいるのを見て、わたしはもう一度マリーを抱きしめたくなった。
 好きでないわけがない。この五年間、どうすればこの子が笑ってくれるか、そればかりを考えて過ごしてきたようなものだ。
 そう考えると同時に、わたしは自分を問いつめた。マリーがはじめてほしいものを口にしてくれたのに、どうしてそれを与えてやってはいけないのだろう。先ほどと同じように抱きしめ、わたしもきみが好きだと言ってやれば、この子の望みをはじめて叶えてやれるのではないか。
 わたしが迷っているうちにマリーはわたしに背を向け、部屋の扉に手を伸ばしていた。
「マリー。――行かないでほしい」
 わたしは情けなく声に出したが、引きとめる前からマリーが行ってしまったことに気づいていた。わたしが抱きしめたかった、プレゼントを贈って喜ばせたかった、何者からも守りたかった少女は、ほんの一瞬で永遠にわたしから去ってしまったのだ。
「わたしに会いたかったら、あなたがわたしに会いに来てくれなくちゃだめ」


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