ドロッセルマイヤー [ 4−1 ]
ドロッセルマイヤー4


[ BACK / TOP / NEXT ]


 懐中時計のねじを指で挟み、慎重にひねる。同じ方向に、何回も、何回も。
 暖炉の火が爆ぜる音に、時を刻む規則正しい音が重なる。
「おじさま、何やってるの」
 呼びかけに顔を上げると、テオが椅子の側に立ってわたしの手もとを見つめていた。
「時計のねじを巻いているんだよ。見たことないかい?」
 テオは首を縦にも横にも振らず、真顔のまま言った。
「それ、いつもマリーがしてるから、女の人の仕事だと思ってた」
「あの時計は父さまのだよ」
 テオの兄であるフリッツも隣に来て、口を挟んだ。
「父さまが使ってたころは、母さまが毎日ねじを巻いてあげてた」
「使わなくなったのに、なんでマリーは毎日そうしてるの?」
「ぼくたちのどちらかが大人になった時に使えるようにじゃないかな」
 フリッツはそう言い、弟の視線を追ってわたしの手の中を見た。
 わたしは兄弟に笑いかけた。
「そう。時計はねじを巻かないと止まってしまうし、止まったままだと壊れてしまうかもしれないからね」
 クリスマスイヴの夜遅く、暖炉の火であたためられたホテルの一室は静かに落ち着いている。大人たちはこれから教会に出かけることもあるが、子どもはもう眠る時間だ。
 隣の部屋にいるはずの三人の姉妹も、もうベッドに入っただろうか。
「もう寝よう、テオ」
 わたしと同じことを思ったのか、フリッツが弟にそう言った。
「まだ眠くない」
「あした起きられなくなるよ」
 フリッツが弟を引っ立て、テオはその兄に甘えるように逆らいながら、ふたりで並んだベッドのほうへ向かう。
 わたしはほほえみながら兄弟の姿を見送ると、再び手の中の時計に目を落とし、ねじをひねった。この動作を繰り返すたびに、気が遠くなるほどたくさんのことを思い出す。
 先ほどフリッツが語った彼の両親のように、わたしも五年と少し前までこれを妻にやってもらっていた。別に自分でやっても構わなかったのだが、こういう仕事を妻がすればいかにも夫婦らしいと思って、ふたりして喜んでいたのだった。子どもの人形遊びのような、たあいない、幸せな結婚だった。

 妻のエルゼとは友人の家で知りあった。
 お互いに一目で恋に落ちた、というわけではないが、それに近い状況だった。同い年のわたしたちはどちらも熱に浮かされていて、たぶんわたしのほうが重症だった。父に反対されたことも感情を煽られる原因のひとつだったかもしれない。
 わたしの父は帝都でそれなりの歴史を持つ商いの経営者で、ひとり息子のわたしは幼いころから跡とりとして育てられた。それが苦痛でたまらなかったというわけではないが、父の事業のために見知らぬ女性と結婚しろと言われた時はさすがに抵抗した。エルゼと一緒になることをすでに決めていたからだ。
 エルゼは親きょうだいを亡くしていたが、老齢の祖母はやはりわたしたちの結婚に賛成しなかった。孫娘が嫁ぎ先で肩身の狭い思いをすることを案じたのだろう。しかしエルゼは意志を変えるつもりはないと言ってくれた。
 わたしたちは手に手をとって教会に行き、ふたりだけで神に誓いをたてた。世に言う駆け落ちというやつだ。
 それぞれの親族とは縁を切るかたちになったが、幸せに酔っていたわたしたちはそんなことも気にならなかった。わたしは小さな事務所に勤め口を見つけ、近くの貸間にエルゼとふたりで暮らしはじめた。
 エルゼは毎晩、わたしの時計をていねいに磨き、ねじを巻いてくれた。わたしはそんな妻に感謝の気持ちを伝えるために、たびたび小さな花束を買ってきた。思いつく限りの夫婦らしいことは片っ端からやった。
 そんな暮らしがそのまま続いていれば、十二月には一緒にクリスマスを祝うはずだった。しかし待降節に入る直前、その機会は永遠に失われてしまった。エルゼが風邪をこじらせ、あっけなく息を引き取ってしまったのだ。
 茫然自失と言うより他にない状態で、わたしはしばらく投げやりな日々を過ごした。不幸に溺れた人間の常で、エルゼが命を落としたのは自分のせいではないかとも考えた。わたしたちが短い結婚生活に酔っている間に、エルゼの祖母も同じような病気で世を去っていた。お互いがただひとりの家族だった祖母と孫を、最後に会わせてやることもできなかった。そのこともまたわたしを苦しめた。
 クリスマスに向けて華やいでいく帝都の光景が、憎らしくてしかたがなかった。自分が絶望の底に沈んでいるというのに、まわりは何も変わらないのは不条理なことに思えた。わたしはたったひとりで喪に服した。誰にも祝福されずにはじまった結婚は、壊れてしまっても誰にも悼んでもらえないのだ。
 エルゼに宛てた一通の封書が届いたのは、そんな日々のさなかだった。ためらいながら開けてみるとそれも不幸の知らせで、地方に住むエルゼのいとこが、夫とともに事故で亡くなったということだった。こちらからも訃報の通知は送ったはずだったが、行きちがいになったか、うっかり出しそびれていたのだろう。
 いとこの話はエルゼから何度か聞いていた。年はエルゼよりもだいぶ上だが、どちらにもきょうだいがいなかったこともあって、幼いころは姉妹のように仲が良かったと話していた。帝都とは離れた村で暮らしていたので会うことはなかったが、エルゼが結婚を知らせた数少ない相手のひとりだった。
 通知には亡くなった夫妻の住所と、葬儀の予定が記されていた。わたしはぼんやりと、行ってみようかと思った。クリスマスを前に浮かれる帝都に飽き飽きしていたのだ。葬列の末席に身を置き、故人を知る人に悔やみの言葉を述べるほうが、今の自分の心境にはあっている。列車での旅もいい気慰めになるだろう。
 この時のわたしはまだほんの若造、というより、ただの子どもだった。自分のことしか考えていなかったのだ。
 わたしはひとりで列車に乗り、知らない村にある一軒家を訪ね――そして、亡くなった夫妻には五人の子どもがいたこと、彼らに親族と呼べる大人がひとりもいないことを知った。

 玄関口で遠縁だと名乗ったわたしは、村人たちにいたく歓迎された。彼らは遺された五人きょうだいを憐れみつつ、どうしてやることもできず困り果てていたのだろう。
 そんなこともまだ知らずにいたわたしが戸惑っていると、村人の女性が家の奥から少年と少女をひとりずつ連れてきた。あまり似ていないふたりが一目で姉弟だとわかったのは、どちらも喪を表す黒い服を着ていたからだ。
 村人のひとりがわたしを指さし、知っているかと姉弟にたずねた。弟のほうが知りませんと答えると、まわりいた大人たちに動揺が広がった。姉のほうは口を開かず、ただ少し怯えるような目でわたしを見上げていた。
 わたしが亡くなった夫妻とは血縁関係になく、五人の子どもたちとも会ったことがないと知るや、村人たちはみるみる失望の色を示した。わたしが現れる前に一致しかけていた、五人を施設に預けるという意見が再び巻き返しを始めていた。村人たちは決して五人を疎ましがったわけではない。亡くなった両親には親族こそいなかったが、父親が村の学校の校長を務めており、尊敬を集めていたらしい。その遺児である五人に村人たちは同情的だったが、それだけで彼らを救うことはできなかった。
 一縷の望みを投げかけ、すぐにそれを消し去ったわたしは、村人たちから今度はひどく恨まれることになった。都会の人間は信用できないだの、羽振りの良さそうななりのくせにだのと言う者もいた。思いつきでやってきた他人の葬儀で、こんなことになるとは夢にも思わなかった。すぐに立ち去ることもできたのだが、さすがに良心が咎めて話しあいを見守ることに決めた。見守ったところで、自分に何かができるとも思えなかったが。
 話しあいが再び施設で一致すると、わたしは空模様を見るために家から出ようと廊下を歩いた。その日のうちに列車で帝都に帰るつもりだったのである。
 背後から少女の声に呼びとめられたのは、その時だった。
 わたしが振り向くと、顔をあわせただけで言葉を交わしていないこの家の長女が、ただひとりで立っていた。
「どうしたんだい、マリー?」
 名前を覚えていたのは、村人たちがそう呼んでいるのを聞いたからだ。長女が十三歳のマリーで、長男が十一歳のフリッツ。その下に弟がひとりと、妹がふたり。この時のわたしが五人について知っていたのは、それですべてだった。
 マリーはどちらかといえば小柄な、ほっそりとした少女だった。金髪をふたつの三つ編みにして、黒い喪服の肩に垂らしていた。小づくりの顔だちは十三歳にしてはやや幼く見え、わたしを見上げる表情は緊張でこわばっていた。
「あの、お願いがあるんです」
「何かな?」
「わたしたちを施設に入れないでください。これからもこの家で、一緒に暮らしたいんです」
 虚をつかれたわたしはすぐに答えることもできなかった。
 マリーは片時も目を離すまいとわたしの顔を見上げていたが、胸の前に置いた手はかたく握られて震えていた。ただひとり親族を名乗ったわたしに、五人の身の振りかたを決める権利があると思ったのだろうか。
「この家で、子どもたち五人だけで?」
 わたしは今さらのように、この家がマリーにとって、亡くなった両親と過ごした場所であると思い出した。
「なんだってやります。わたしが、弟や妹を守っていきます。だから、この家から出ていかせないで。わたしたちをここにいさせてください」
 マリーは訴えを終えると、再びわたしの目に見入った。すらすらと言葉を並べていたが、いったん口を閉じると二度と開こうとしなかった。本来は内気な性格なのだろう。わたしを見上げる目はどこか怯えているようで、しかし、決してそらそうとはしなかった。
 十三歳の少女が、両親を亡くしたばかりの子が、涙も見せず、大人に助けを求めることもせず、自分が弟妹たちを守ると言っている。
 クリスマスの季節なのに。
 そう思った瞬間、わたしは自分の中に立ちのぼってくる、ひとつの感情に気がついた。それまでは知らなかった、二十五年間の生涯で一度も感じたことのないものだった。
 クリスマスの季節なのに、この子はこんな顔をしているべきではない。亡くなった両親を恋しがって泣いて、今年のクリスマスプレゼントは誰がくれるのか心配していればいい。
 この子は守られる側の人間だ。守る側の人間ではない。
 わたしは身をかがめ、マリーの目の高さに自分のそれをあわせた。驚いて身をこわばらせたマリーの顔は、やはりどう見ても子どもだった。
「きみは、誰かを守ることなんて考えなくていい」
 わたしは言った。
「自分が守られることだけ考えていればいい。きみは今までよくがんばったね。ここから先はわたしたち大人の仕事だから、きみはもうがんばらなくていいんだよ」
 どこからそんな言葉が出てきたのか、自分でも不思議だった。つい先ほどまで立ち去ることを考えていたのに、よくそんなことが言えたものだ。いまだに怯えているマリーの目を見ていると、そう言わずにはいられなかったのだ。クリスマスを前にした空気の中で、何か見えない力が動いていたのかもしれない。
 その力はマリーにも働いたようだった。頑なに動かなかった表情が緩んだと思うと、青い目から涙が流れ落ちたのだ。マリーはしばらくしてからそれに気づいたが、自分が泣いていることに戸惑っているようだった。両親のことを聞いてからの数日間、一度もそうしていなかったのかもしれない。
 わたしは両腕をさしのべ、小さな体を包んで引き寄せた。それまでのわたしは手足だけが長く伸びた、自分のことしか考えない子どもだった。この腕にこういう使いみちがあるということを、この時はじめて知ったのだった。

 五人の面倒を見ることに決めたわたしは、まず村人たちとよく話しあった。いきなり前言を翻したわたしを彼らははじめこそ訝しんでいたが、具体的に五人をどうするかを話しあいはじめてようやく信じてもらえたようだった。
 経済的な面はわたしが請け負うとして、問題は両親のいない子どもたちがどうやって暮らしていくかだ。身のまわりの世話は以前からこの家にいたトゥルーテさんがしてくれるが、昔からの暮らしを守る農村ではどうしても男手が必要な時もある。わたしは近くにある何軒かの家をまわり、いざという時は五人をに手を貸してやってほしいと頼んだ。もともと五人に同情を寄せていた彼らは快く引き受けてくれたが、ひとつだけ納得できないことがあるようだった。
「あんたが一緒に住んでやることはできないのか」
 示しあわせたように、彼らは同じことをわたしに聞いた。自分たちが五人を世話するのがいやだったからではなく、子どもたちと女性だけを住まわせておくのが心配だったからだ。
 わたしは聞かれるたびに一瞬だけ迷ったが、できませんと答えた。自分がこういった村で暮らせるとは思えなかったし、仕事を見つけられる自信もなかった。だが、一緒に住まないことにした最大の理由はそれではなかった。
 わたしが五人の面倒を見るのは、彼らが大人になるまでだ。末っ子のクララが独りだちするまであと十何年か。決して短い年月ではないが、終わってしまえばすべて過去のことになる。五人が大人になってそれぞれの人生を歩みだしたとき、わたしが恩着せがましく側に居座っているのは、絶対に彼らのためにならない。血のつながらない遠縁に養われて育ったということが、彼らの重荷になる日がきっとやってくる。そうならないためにも、五人との距離を必要以上に縮めるつもりはなかった。
 わたしは村人の一人ひとりとよく話しあい、五人の日々の暮らしに算段をつけた。村の神父は彼らに目を配ると約束してくれたし、学校の教師たちは卒業後のことについても相談に乗ると言ってくれた。
 トゥルーテさんとは誰よりも長く話しあった。夫妻の結婚当初からいた彼女は子どもたちにはばあやと呼ばれていたが、この時まだ四十くらいのてきぱきとよく働く女性だった。外出の多かった母親にかわって五人の世話をしてきた彼女がいれば、家の中のことに関しては何の心配もないと言って良かった。
 ただひとつ、トゥルーテさんとわたしで意見が異なったのは、マリーに家事をさせるか否かという点だった。
「心配しなくてもだいじょうぶですよ。マリーは料理も裁縫も上手ですから」
 心配しているのはそこではないと伝えるために、わたしは長い言葉と時間を費やさなければならなかった。
 わたしが五人の面倒を見ることに決めたのは、子どもであるマリーを守るためだ。マリーには他の子どもたちと同じように、大人に守られて幸せな子ども時代を過ごしてほしかった。トゥルーテさんひとりで家を切りまわすのが大変なら、もうひとり手伝いを雇ってもいい。わたしはそう言ってみたが、トゥルーテさんには別の視点があるようだった。
「手伝わせるのはマリーのためですよ。どこの家でも、あのくらいの年の娘には仕事を習わせます。お嫁に行った時の役に立ちますからね」
 そう言われてしまえば、わたしに返せる言葉は何もなかった。
 話しあいに一段落がつき、クリスマスイヴが終わると、わたしは五人の家を後にすることにした。
「どこに行くの?」
 玄関の外まで見送ってくれたマリーが、不安そうにそう聞いた。
 今後ことは十二夜のあと神父が話してくれることになっており、この時のマリーはまだ何も知らないのだった。
「自分の家だよ、マリー」
 帝都にまっすぐ帰り、村人たちと取り決めたことを実行に移すつもりだった。その前に片づけなければならないこともいくつか残っている。
「また来てくれる?」
 マリーはわたしを見上げて聞いた。喪服の上にコートを羽織っていたが、その姿はどこか寒そうに、心細そうに見えた。
 わたしはマリーの顔を見つめた。このまま村から姿を消し、二度と現れないこともできた。五人の面倒は村人とトゥルーテさんを通じて見ることができる。けれど、自分を見上げるマリーの目を見ていると、これからこの子が幸せに暮らせるのか確かめたい気がした。一年に一度くらいなら、様子を見に来てもいいのではないか。
「来年のクリスマスイヴに、また来るよ」


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.