ドロッセルマイヤー [ 3−3 ]
ドロッセルマイヤー3


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 クララが見つかった。最初に座っていたベンチの近く、クリスマスツリーのそばにひとりで立っていた。一度は探したはずの場所なのに、行き違いになってしまったのだろうか。
「クララ」
 わたしは走り寄り、妹の体を抱きしめた。
「ごめんね。寒かったでしょう」
 クララは首を横に振ったけれど、同時に少し咳きこんだ。小さな体はコートごしでもわかるほど冷えきっていた。
「クララ、良かった。どこに行っていたんだい?」
 おじさまがわたしの背後へ来て言った。その声はいつものように明るくなっていたけれど、わざと装っているような明るさだった。
 クララはおじさまを見上げ、はにかんだようにうつむき、結局どこにいたのか答えなかった。

 寒さに震えているクララを休ませるため、わたしたちはホテルに向かった。その前にフリッツたちを探し出して、三人にはもう少し広場にいてもらうことにした。
 おじさまがとっておいてくれたふたつの部屋のうち、ひとつがわたしたち姉妹のためのものだった。クララを着がえさせてその部屋のベッドに入れると、小さな妹はあっという間に眠ってしまった。人ごみから離れて静かなところに来て、安心したのだろうか。
 わたしはクララの額に手をあて、熱がないことを確かめると、ひとりで部屋から出た。廊下ではおじさまが外套姿のまま待っていた。
「具合は悪くないみたい。よく眠ってるわ」
「そう、良かった」
 おじさまはかすかに笑った。その笑顔を見ているとなんだかほっとして、疲れが急に押し寄せてきた。
「マリー、きみも疲れただろう。少し座ってあたたかいものでも飲もう」
「……うん」
 わたしはそう返事したけれど、すぐに動く気にはなれなかった。
 わたしも広場にいた時と同じコートを着たままでいる。このかっこうで広場を走りまわった時の不安がいまだに抜けきっていない。二度とクララに会えないかもしれないと思ったのだ。そのことを思い出して、わたしは寒気に襲われたように震えた。
「マリー? だいじょうぶかい」
 おじさまはわたしの顔を覗きこみ、自分の手をわたしの目の高さまで持ち上げた。
 けれど何をするでもなく、その手をまた下げる。
「隣へおいで」
 わたしはおじさまに促され、もうひとつの部屋に入った。
 クララが寝ている部屋と同じく、この部屋も暖炉の火でじゅうぶんにあたためられている。おじさまは肘かけ椅子をふたつ動かし、暖炉の近くに向かいあわせに置いた。
「お茶を持ってきてもらおうか?」
「ううん、だいじょうぶ」
 わたしはようやく顔を上げた。おじさまに気をつかわせてしまっている。わたしが疲れたのと同じくらい、おじさまも疲れたはずなのに。
 おじさまはわたしの顔を見ながら、椅子の背に手をかけて立っていた。その向こうでは暖炉の火が揺れている。
「きみのせいじゃない、マリー」
 おじさまは言った。広場で聞いたのと同じ言葉だった。
「きみはクララのためによくやってる。でも、きみはもっと自分のことを考えたほうがいい」
 わたしはおじさまと、その向こうで燃えている火を見つめた。
 明かりの加減なのか、おじさまの目は家で会っていた時に近い、みどりいろに見えた。
「なんで、わかってくれるの」
 わたしは押し殺した声で、やっとそれだけ言った。
 わたしは自分の気持ちを表すのが得意じゃない。嬉しい気持ちも、悲しい気持ちも、人にうまく話せない。今だって、クララのことで自分を責める言葉はひとつも声に出さなかった。
 それなのに、おじさまはわたしの気持ちを見抜き、それに寄り添ってくれる。固い殻に覆われたわたしを外側から包んで、溶かすように。
「マリー」
 おじさまは椅子から離れ、立ちつくすわたしに歩み寄ってきた。心配そうなおじさまの顔を見て、わたしは自分が涙を浮かべていることを知った。
 わたしがおじさまの胸にもたれたのと、おじさまがわたしを両腕でくるんだのと、どちらが先だったのかはわからない。気がつくとそうなっていた。おじさまの大きな手がわたしの背中を撫で、わたしはその心地よさに目を閉じた。
 もうずっと昔から、わたしはこの手を知っていた。五年前のクリスマスの季節、父さまと母さまを亡くした時から。あの時もこの手がわたしを抱きしめてくれた。
 そして、おじさまはこう言った。
 きみは誰かを守ることなんて考えなくていい。自分が守られることだけ考えていればいい。
 いま思い出してみると、この言葉の意味がより深くわかる。
 おじさまが守ってくれたのは、十三歳から十七歳までのわたしのクリスマスだ。両親を亡くし、弟たちと妹たちのために大人になろうとしていたわたしを、おじさまは子どもに戻らせてくれた。プレゼントを贈る側ではなく、贈られる側にいさせてくれた。
 そうして守られて、抱きしめられているのが心地よくて、わたしはそこから動くのが怖くなった。家の中を昔のままに保ち、一年に一度おじさまがやってくるのを待つだけになった。わたしの時計は、おじさまに抱きしめてもらった十三歳の時で止まっていた。
 再び時計が動き出したのは、どうしてだっただろう。
 わたしは身じろぎし、おじさまの腕を押してそこから抜け出した。
「――マリー?」
「もういいの。ありがとう」
 おじさまの腕がとかれ、わたしから遠ざかっていく。離れてみると急に寒くなったような気がして、もう一度おじさまの腕の中に戻りたくなった。
 でも、戻ってはいけない。せっかく進めた時計の針をもとに戻してはいけない。
 一歩あとずさったわたしに、おじさまは歩み寄ろうとして、けれども足を止めた。
「ほんとに平気かい?」
「うん」
 わたしがうなずくと、おじさまが優しく笑った。
「それなら良かった。きみはいつも、自分を抑えて無理をしているところがあるから。ほしいものややりたいことがあったら、もっとはっきり言っていいんだよ」
 わたしは自分の立っている場所からおじさまを見上げた。
 今がその時だ、と思った。少しも緊張していなかった。自分でも驚くくらい、わたしは落ち着いていた。
 おじさまのほうがわたしの様子を見て、戸惑ったみたいだ。
「マリー?」
「ほしいものなんて、ひとつしかない」
 わたしはゆっくりと声に出した。
 次の言葉を口にしたら、あたたかい腕の中には二度と戻れなくなる。プレゼントをもらったり、料理や髪型を褒めてもらったり、無条件に甘えさせてもらったり、そんな場所にはきっともういられない。
 でもかまわない。今あるものを失ってもそれ以上のものがほしい。動いている時計の針は止められない。
「好き」
 わたしは言った。
「あなたのことが好き。あなたにも、わたしのことを、好きになってほしい」
 クリスマスイヴにわたしが願うのはただひとつ、それだけだ。
 プレゼントはいらない。ツリーも、ごちそうも、にぎやかな時間もいらない。ずっと、おじさまの心だけがほしかった。
 おじさまは表情もなく立ちつくして、わたしの顔を見下ろしていた。
 暖炉の火が強くなり、コートを着たままだと熱いくらいだったけれど、わたしたちはどちらも動かずに見つめあっていた。
「マリー」
 おじさまの口が開いた。
 次の瞬間、わたしの体はすっと冷たくなった。おじさまが、いつも家でわたしに向ける優しい笑みを浮かべたからだ。
「きみはまだ若い。もっとたくさんの人に会ってから、ほんとうに好きなのは誰か考えたほうがいい」
 悪い予感は当たっていた。おじさまは、二年前にわたしを諭したのとそっくりの口調で、わたしに語りかけた。わたしがおじさまに伝えた気持ちは、二年前のそれとはまったく違うのに。
「もう会ったわ。たくさんの人に」
 泣きそうになるのをこらえながら、わたしは言い返した。
「おじさまが自転車をくれたから、それに乗っていろんな人に会いに行ったわ。自分がいちばん好きなのは誰か、ちゃんと考えた」
「きみはクリスマスイヴのわたししか知らない。実際のわたしは」
「おじさまが普通の人だってことはもう知ってる。魔法は使えないし、わたしたちの面倒をみられるのはお金があるからだし、帝都ではどこにでもいるような勤め人で、毎日つまらない失敗ばかりしているんでしょう」
 わたしがそんなことも考えずにいるとでも思ったのだろうか。
 十三歳のわたしは子どもだったし、十六歳までそのまま子どもでいようとしたけれど、今はそうじゃない。たくさん悩んで、考えて、それでも自分の気持ちは変わらないと思ったから、おじさまにそれを伝えたのに。
「それに、いちばん聞きたくなかったことも、もう聞いたわ」
 わたしがそう言うと、おじさまの表情がすっと曇った。
「きみに妻のことを話したのは――きみを傷つけるためじゃない」
「わたしは傷ついたりなんてしてない。奥さまがいたことも、愛しあってたことも、わたしが好きになった人の一部だもの」
「マリー」
 おじさまはどこか無理をしているように、また笑った。
「ありがとう。でも、そんなことを言ってはいけない。――言わないでくれ」
「どうして?」
「もうやめよう。クリスマスイヴに言い争いはしたくない」
 わたしの中で怒りがかっと燃えた。今までではじめて、おじさまのことを憎らしいと思った。わたしの気持ちを聞いておいて、まだ楽しいクリスマスが続けられると思っているのだろうか。わたしはほしいものを手に入れるために別のものを手放したのに、おじさまは自分だけ何ひとつ失わずにいようとしている。
 おじさまは笑みを浮かべたまま、一歩わたしに近づいた。わたしは避けるように後ずさった。
「マリー」
「わたしを好きじゃないなら、そう言ってくれてかまわない」
 目もとに何かがこみ上げてきて、わたしはそれを抑えようと力をこめた。
「でも、わたしの気持ちを聞いたんだから、もうわたしをかわいがろうとしないで。自分がふった相手として冷たくあしらって」
「――そんなことはできない」
 おじさまはわたしを見て首を振った。ふられようとしているのはわたしのほうなのに、まるで、おじさまのほうがわたしの言葉に傷ついているみたいだった。わたしはおじさまの顔を見上げ、一瞬だけ迷った。もう一度おじさまの腕に入り、さっきの言葉を取り消し、今までと同じ子どもに戻ろうかと本気で考えた。おじさまがそれを望んでいるような気がしたからだ。
 でも、できなかった。わたしはおじさまに背を向け、部屋の扉に向かった。ドアノブに手をかけると、背後から弱々しい声が追いかけてきた。
「マリー。――行かないでほしい」
 わたしはおじさまをまっすぐ見つめ、首を振った。
 おじさまが引きとめようとしているのはきっと、両親を亡くして泣いていた十三歳の女の子だ。もうその子はどこにもいないのに。
「わたしに会いたかったら、あなたがわたしに会いに来てくれなくちゃだめ」
 止まったまま動いていないのは、わたしの時計じゃない。


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