ドロッセルマイヤー [ 3−2 ]
ドロッセルマイヤー3


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「クララ、寒くない?」
 わたしは広場の端にあったベンチに腰をおろしていた。左隣の陽射しのあたる場所にクララが、反対側にはおじさまが座っている。近くにグリューワインを売る屋台があるのか、ぶどうとスパイスのあたたかい香りが漂ってくる。
 クリスマス市を歩いてしばらく経ったころ、クララが少し疲れた足どりをしていたので、フリッツたちと別れて休むことにしたのだ。
「眠くなったら言ってね。ここで寝たらだめよ。風邪をひくから」
 わたしの言葉にクララがうなずいた。三つ編みにした金髪がマフラーの上に垂れている。
「マリー。ほんとうに市を見てこなくていいのかい」
 わたしがクララのマフラーを直していると、右隣からおじさまが話しかけてきた。
「いいの。わたしも少し休みたかったから」
 わたしは顔も上げずに答えた。慣れない人ごみに疲れたのは本当だけど、おじさまと一緒にいたかったのがいちばんの理由だ。
 一年ぶりに会ったおじさまには、聞きたいことも言いたいことも山のようにある。ホテルに行ったらふたりでゆっくり話す時間は持てないだろうから、弟たちが市に夢中になっている今しか機会はない。
「手紙をありがとう。マリー」
 おじさまが急に言い、わたしは思わず身じろぎした。わたしが言おうとしていたことを先に言われてしまった。
 顔の向きを変えて見上げると、おじさまは横目でわたしを見て微笑んでいる。
「……こちらこそ、返事を書いてもらって。忙しいのに迷惑だったでしょう?」
「そんなことはないよ。会わない間のきみたちの様子がわかって楽しかった。クララ、きみもありがとう」
 おじさまはわたしの頭ごしにクララに言った。クララはわたしの陰に隠れるようにして、恥ずかしそうにうなずいた。
 おじさまと手紙のやりとりをするようになって一年間。もらった手紙は母さまの形見の箱に入れて、大切に大切にしまってある。毎日のように取り出してはすみずみまで読み返していると言ったら、おじさまは迷惑に思うだろうか。
「わたしも楽しかったわ。帝都のことがいろいろわかって」
「それは良かった」
「それから、おじさまのことも」
 わたしが意味ありげに見上げると、おじさまは笑った。
「ただの勤め人の日常だよ。つまらなかっただろう」
 おじさまの手紙はほとんど帝都の風景についてだったけれど、ときどきそれに混ざっておじさま自身のことも書かれていた。仕事場に帽子を忘れてきたとか、間違えて逆方向の列車に乗ってしまったとか、寒いと思ったら暖炉の火を入れていなかったとか、ささいな失敗の話ばかりだった。
「あそこに書いてあったこと、ほんとうなの?」
「ほんとうだよ。がっかりしたかい?」
 わたしは首を縦にも横にも振らなかった。
 手紙に書かれたおじさまはどこまでも普通の人で、イヴの夜に会う姿からは想像もつかなかったけれど、それでわたしの気持ちが変わったりはしない。おじさまが聖人でも魔法使いでもないことはもうとっくにわかっている。
 ただ、手紙を読んでいて、ふと思ったのだ。
 そんなふうに失敗談ばかりを書いて、おじさまはわたしに嫌われようとしているんじゃないかと。
 わたしはおじさまの気持ちを探ろうと、青い瞳の中をじっと見つめた。いつもより明るい場所で見る目には何も映っておらず、おじさまはわたしを見て微笑んだだけだった。
 手紙ではわからないと思ったことが、会ってみたらますますわからなくなってしまった。こんなふうに不安を抱えたままでは、いちばん知りたかったことを聞くこともできない。
 目の前では、わたしの気持ちなんてお構いなしに、クリスマス市のにぎわいが続いている。シュトーレンを頬ばったり、買ったばかりのおもちゃで遊んだりしながら歩いている子どももいる。
 ひときわ大きな集団がやってきたと思ったら、赤いマントを羽織った司祭さまのような老人が現れた。子どもたちにクリスマスプレゼントをくれる守護聖人、聖ニコラウスだ。市に遊びに来ているたくさんの子どもたちが、お供をするようにその後をついて歩いている。
「マリー」
 おじさまに急に呼ばれて、わたしは顔を上げた。
 そろそろ行こうと言われたらどうしようと思ったけれど、おじさまはゆったりとベンチに座ったまま、腰を上げる気配はなかった。
「列車に乗って疲れたかい?」
「ううん。どうして?」
「今日はあまりしゃべらないなと思って」
「わたし、いつもそんなにしゃべっていた?」
 うちで過ごすクリスマスイヴでも、おじさまとよく話すのはフリッツやルイーゼだ。わたしはどちらかというと話し下手だし、おじさまにつまらないと思われたくなくて自分のことはあまり話せない。
 おじさまもそのことを思い出したのか、苦笑しがちに言った。
「いつもはそうでもなかったね。ただ、去年はいろいろ話してくれたから」
「あの時はたまたま、お話することがたくさんあったの」
 言われてみれば去年のわたしはよくしゃべっていた。前の年におじさまに自転車をもらってから、身のまわりにいろいろな変化があったのだ。でも、今年はとりたてておじさまに知らせることもない。
「もっと話したほうがいい?」
「そんなことはないよ。話したいことが特にないのなら」
 去年みたいに、自分のことでおじさまに言いたいことは何もなかった。家や村で起きた小さなできごとは、手紙ですでに話してしまっている。
 ただ、わたしのことではなくおじさまのことだったら、会った時に話したいことはたくさんあった。
「じゃあ、ひとつだけいい?」
「もちろん」
 わたしはベンチの上で座りなおし、おじさまと向かいあった。
「このまえ、母さまの手紙を見ていたの」
「お母さんに来た手紙?」
 わたしはうなずいた。おじさまにもらった手紙をしまうかたわら、母さまがとっておいていた手紙も少しずつ整理していた。母さまはきょうだいはいなかったけれど友達はたくさんいて、帝国のあちこちから何通もの手紙が届いていた。
「その中に、エルゼ・ラングハイムっていう人からの手紙もあったわ」
 わたしがその名前を口にした時、おじさまの顔から笑みが消えた。
 その手紙を見つけたのは、去年のクリスマスから間もない時季だ。文章の感じは他のお友達のものと変わらなかったけれど、差出人の姓ですぐにわかった。母さまのいとこだ。
「奥さまのこと、聞いてもいい?」
 冷たくなった手を膝の上で握りしめる。
 一年ぶりにおじさまと会った時から、このことを聞きたくて、でも聞けなかった。
 母さまのいとこだったその女性の手紙には、一緒になったばかりの旦那さまのことが綴られていた。読んでみてもそれがおじさまだとは思えなくて、不思議な気持ちになってしまった。いったい、わたしの知らないおじさまは何人いるんだろう。
 少しの沈黙のあと、おじさまはにこりと笑った。さっきまでと何も変わらない笑顔だった。
「気をつかわせてしまったね。別に聞いてくれてかまわないよ」
「いいの?」
「妻が亡くなったのは五年と少し前だ。その間ずっと泣き暮らしていたわけでもないからね」
 おじさまは明るく言ったけれど、わたしは聞いたばかりの言葉に呆然としていた。
 五年前と言ったら、わたしたちがおじさまとはじめて会った年。つまり、わたしたちの両親が亡くなったのと同じ年だ。
「結婚したのは、いつだったの?」
 わたしは問いかけながら、おじさまの顔から目を離さなかった。どんな小さな変化にも気づくことができるように。
「今から六年くらい前かな。ちょっと事情があって、結婚式に人を呼べなくてね。きみのお母さんにも後から手紙で知らせたみたいだ」
 わたしが見つけたのはその手紙だったのだろう。
 決して長い手紙ではなかったけれど、新しい生活を始めたばかりの生き生きとした喜びが、文字からも言葉からも溢れていた。ふたりは愛しあっていたのだ。家どうしが決めた結婚とか、そういうものではなかった。それなのに、一緒にいられた時間は一年にも満たなかったことになる。
「マリー、きみがそんな顔をしなくても」
 おじさまがわたしの顔を覗きこんだ。
 わたしはあやうく泣きそうになっていたらしい。唇を噛みしめてから首を振った。
「こんなこと聞いて、ごめんなさい」
「わたしが聞いていいと言ったんだ。きみは、ご両親のことを聞かれると辛いかい?」
「いいえ」
 父さまと母さまに会えないのは今でも寂しいけれど、胸を抉りとられたような傷跡はいつの間にかふさがり、今は心地よい痛みがほのかに残るだけだった。
「わたしも同じだよ。五年も経つと楽しかったことばかり思い出すものだね」
 おじさまはそう言ってまた笑ったけれど、わたしは笑い返す気持ちにはなれなかった。
 今は辛くないということは、かつてはとても辛かったということだ。五年前のクリスマスの季節、わたしたちが両親を喪った時、おじさまも大切な人を亡くしたばかりだったのだ。
 おじさまはわたしを抱きしめ、慰めてくれたのに、わたしはおじさまのために何もできなかった。
「ごめんなさい、おじさま」
 わたしはもう一度そう言った。さっきとは違う意味だったのだけど、おじさまにはそれが伝わらなかったらしい。なだめるように苦笑しただけだった。
 自分の気持ちを伝える前に、奥さまのことは聞いておかなければならないと思っていた。
 でも、聞いてどうなったというんだろう。おじさまがいちばん辛かった時期はとっくに過ぎ去っていて、わたしはそのとき何ひとつできなかった。そのことが悲しいし、悲しいと思ってしまった自分が憎らしい。
 おじさまが奥さまの死を乗り越えたのは、とてもいいことのはずなのに。わたしは心のどこかで、おじさまが今も悲しんでいて、それを慰めるのは自分だと思っていたのだろうか。クリスマスの劇に出てくる、魔法で人形に変えられた王子さまを助けるみたいに、おじさまを救うことができると思っていたんだろうか。
 わたしはいつから、こんなに身勝手で、こんなに醜い人間になってしまったんだろう。
「マリー?」
 ずっと黙っているわたしを心配したのか、おじさまが呼びかけた。
「どうかした?」
「……ううん」
 わたしは短く答え、それからまた黙った。
 曇り空の帝都はまだ明るいけれど、広場に来てからだいぶ時間が経っている。そろそろフリッツたちと合流して別の場所に行ってもいいころだ。つまり、おじさまに気持ちを伝えるなら今しかない。
 それはわかっていたのに、わたしの口は少しも動いてくれなかった。
 おじさまが外套の内側から鎖を引き出し、手の中にあるものを見た。懐中時計だ。そのことに気がつくと、わたしは思わずおじさまの横顔を見つめてしまった。
 一年前、はじめてその時計を見せてもらった時、おじさまはそれをとても優しい目で見つめていた。それでわたしは、その時計には奥さまとの思い出があるんじゃないかと、わけもなく思ってしまった。理由は何もなかったけれど、いったん芽生えてしまった疑いは今も消えない。
 わたしの知らないおじさまの時間を、その時計は知っている。クリスマスイヴ以外の一年間のおじさまを。それにもしかしたら、奥さまと一緒にいた時のおじさまも。
 おじさまは時計を懐にしまい、またわたしに向き直った。そろそろ行こうと言われると思って、わたしは身構えた。けれど、聞こえてきたおじさまの言葉は、予想とはまったく違っていた。
「――クララ?」
「え?」
 おじさまは身を乗り出して、わたしを挟んだ反対側を見ている。わたしもつられてそちらを見た。
 そこに座っていたはずのクララの姿が、どこにも見えなくなっていた。

 わたしとおじさまは、クリスマス市の中を足早に歩いた。人ごみをかき分けて、屋台のひとつひとつを見て、子どもの多いところは近づいて確かめた。けれど、小さなクララの姿はどこにも見あたらなかった。
「だいぶ離れてしまったのかもしれない。もう少し探してみよう」
 おじさまが言い、立ち並ぶ屋台の角を曲がった。座っていたベンチから近い場所は、もうほとんど探しつくしていた。
 わたしはおじさまの後を追いながら、右に左に視線を走らせた。
 クララはどこへ行ってしまったのだろう。ついさっきまでわたしのそばに座っていたのに。はじめて見た帝都のにぎやかさに怯えて、体も疲れていたはずなのに。ひとりでこの寒い中を歩いていくなんて。
「どうしよう。フリッツたちにも知らせないと……」
 広場の端まで来たわたしは、立ち止まっておじさまに言った。
「いや、あちらを探してからにしよう。あんがい、まだ近くにいるかもしれない」
 おじさまはそう言って、歩いてきた方角を指さした。ベンチを挟んだ反対側の通りをまだ探していなかった。
「そんなに心配しないで、マリー」
 おじさまは身をかがめ、わたしの顔を覗きこんだ。
「クララももう幼くないんだから、ひとりで好きな場所に行ってもおかしくない。きっとすぐに見つかるよ」
 わたしは弱々しく首を振った。
 クララは九歳だけど、村の同い年の子どもよりもずっと小さくておとなしい。体が弱くて口数が少なくて、ひとりで人形に話しかけたり、積もった雪を黙って見つめたりしているような子だ。しっかりと地に足の着いた他のきょうだいと違って、クララはどこかひとり、別の世界で暮らしているんじゃないかと思うことがある。
 別の世界というのがどこなのかはわからないけれど、ときどき無性に怖くなる。ふと目を離した隙に、クララが永遠にいなくなってしまうような気がして。
 クリスマスまでに帰ると言って二度と帰らなかった、父さまと母さまみたいに。
「とにかく、あちらに行ってみよう」
 おじさまが少し笑いかけ、わたしを促した。わたしはうなずいて歩きだした。
 ランプの店、ろうそくの店、大きなクリスマスツリーのある店。プレッツヒェンを積み重ねた店に、レープクーヘンをぶらさげた店。どの屋台の前を通っても、クララは見つからなかった。
 探し続けるうちに、わたしの足どりは少しずつ重くなっていった。歩きまわるのに疲れたからじゃない。後悔のせいだ。おじさまとの話に夢中になって、隣にいたはずのクララのことを忘れていた。クララに何かあったら、このまま見つからなかったら、ぜんぶわたしのせいだ。
 向かいから人の波が押し寄せて、わたしはあっという間に呑み込まれた。前を歩いていたはずのおじさまの背中が見えなくなる。急いで追いかけるべきだけど、後悔がのしかかった体はずっしりと重く、人ごみをかき分ける気力も湧いてこない。
「マリー」
 ふいに、目の前に大きな手が伸びてきて、わたしの手をつかんだ。おじさまが心配そうに振り返りながら、わたしの手を引いて人ごみから連れ出してくれた。
「きみまではぐれてしまう。しっかり前を見て」
 わたしはうなずき、おじさまの後について歩き続けた。握られた手はそのままだった。
「きみのせいじゃない、マリー」
 おじさまは足早に歩きながら、急にそう言った。
 わたしはうつむいていた顔を上げた。おじさまはわたしの手を引きながら、前を向いている。
「きみのせいじゃない。わたしが悪い」
 ひとことも口に出さなかったのに、わたしが後悔しているとどうしてわかったのだろう。握られた手には強い力がかかっていて、少し痛いくらいだ。
 わたしとおじさまは手をつないだまま、クリスマス市を歩いてクララの姿を探し続けた。


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