ドロッセルマイヤー [ 3−1 ]
ドロッセルマイヤー3


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『わたしに会いたかったら、きみがわたしに会いに来てくれなくちゃだめだ』
 二年前のクリスマスイヴ、おじさまはそう言って去っていった。プレゼントである自転車をわたしに残して。
 自転車に乗れるようになったわたしは、いろいろな場所へ行った。家族じゃないよその人と話をして、その人たちの優しさを知った。家の外のことを見聞きするようになって、自分は家の中が好きなんだと気がついた。自転車は車や列車よりも小さいけれど、思っているよりもずっと遠くまで行ける。おじさまが言ったとおりだった。
 そして今年のクリスマスイヴ。十八歳になったわたしは、おじさまのいる帝都までやってきた。自転車ではなく、たくさんの人を運ぶ列車に乗って。
「フリッツ、この方向であってる? ルイーゼ、テオ、一人でどこかに行かないで。クララ、手をはなしたらだめよ」
 駅舎の外に出たわたしは、弟たちと妹たちに次々とまくし立てた。
 雪が降りそうな曇り空の下、びっくりするくらいたくさんの人が前からもうしろからも歩いてくる。列車の中にいる時から人の多さに怯んでいたけれど、降りてみたこの場所は車内とは比べものにならない。行き交う人の様子も、忙しそうに歩く紳士、着飾った奥さんたち、にぎやかな家族づれ、ものものしい学生の集団とさまざまだ。これが帝都というものなのかしら。
「こっちであってるよ、マリー。このへんにおじさまが来てるはずなんだけど」
 五人の中でただひとり帝都を知っているフリッツが、人の海を見まわしながら言う。
 わたしは自分の手を、列車を降りた時からずっと握りしめていた手紙を見た。
 封筒にある差出人の名前は、アルノルト・ラングハイム。
 おじさまの名前だ。

 この手紙がわたしたちの家に届いたのは、今から一月くらい前のこと。
 一年前のクリスマスイヴ以来、わたしはおじさまに何度か手紙を書き、おじさまもそれに返事をくれていた。
 わたしが書くのはたいてい、家でどんなお菓子をつくったとか、妹や弟が何をして遊んでいるかとか、ふだんの暮らしのことばかり。きっとつまらないだろうと思ってめったに送らずにいたのだけど、おじさまは返事でもっと書いてほしいと言ってきてくれた。
 おじさまのほうの手紙も、街を歩いていてこんな人を見かけたとか、帝都の風景が季節にあわせてどう変わったとか、毎日の小さなできごとばかりだった。
 けれど、待降節の前に届いたその手紙だけは、いつもとちょっと違っていた。
「今年のクリスマスイヴは、帝都で一緒に過ごしませんか、って書いてあるわ」
 夕食が済んだ食堂でわたしが手紙を読み始めると、妹と弟が立ち上がって覗きにやってきた。わたしは昼間にもう読んでいたのだけど、学校から帰ってきた下の子たちのために再び封筒を開けたのだ。
「わたしたちが帝都に行くってこと?」
 十四歳になった上の妹のルイーゼが、わたしが読み終えるのを待たずに声を上げた。
「列車に乗っていくの?」
 十一歳の下の弟テオが勝手に手紙を取ろうとするので、わたしはあわてて庇いながら続きを読んだ。
「切符を送るから、イヴの朝から列車で来てほしいって書いてあるわ。ホテルも予約しておくから、一泊してゆっくりしていけばいいって」
「帝都を見られるの?」
「列車に乗れるの?」
 妹と弟はわたしの左右でけたたましく歓声を上げた。手紙の続きを読むわたしの声なんて、もう少しも聞いていない。
 おじさまの手紙にはそれから帝都でのクリスマスの様子が綴られ、わたしたちにそれをぜひ見てほしいと書いてあった。
「それから、これはクララへの手紙」
 わたしがもう一通の封筒を渡すと、隣に座っていた末の妹が真剣な顔で受け取った。背が伸びてますますおしゃべりになったルイーゼとテオと違い、クララはあいかわらず小さくておとなしい。
 下宿で暮らしている上の弟フリッツは別として、おじさまに手紙を書くのはほとんどわたしだけだ。ルイーゼは手紙は書くよりもらうほうが好きだし、テオはペンを握っても五分もじっとしていられない。クララだけがときどき、短い手紙をわたしのと一緒に送っていた。おじさまはわたしとクララに、必ず別々に返事をくれる。クリスマスのことに触れたあとは、わたしが書いた近況への返事が綴られていた。
 わたしはその手紙を読み終えると、もう一度はじめに戻った。おじさまがくれた手紙はどれも何度も読み返すけれど、今日のはクリスマスの話だけになおさらだ。
 何度読んでも、何度文字を追いかけても、手紙にはその言葉が書いてあった。
 帝都。わたしたちの住む村からは、列車で何時間もかかる場所。クリスマスイヴ以外の一年間を、おじさまが過ごしている場所。
 はじめて会った時からずっと、帝都でのおじさまのことは考えないようにしてきた。クリスマスイヴに会うおじさまだけが、わたしにとってのおじさまだった。他のことを知るのはどうしようもなく怖かった。
 今は違う。わたしはおじさまにもっと近づきたい。おじさまのことをもっと知りたい。たとえそれが、何年か前まで奥さまがいた、というようなことであっても。
 だから、おじさまに会うためなら帝都にだって行ける。

「あ、おじさま!」
 テオが声を張り上げ、わたしたちは弟の指すほうを目で追った。その先にいたのは、真っ黒な高い帽子をかぶり、真っ黒な外套を羽織った、背の高い紳士――だけど、髪も頬髭も真っ白なおじいさんだった。
「違うじゃないの」
「だって似てたじゃないか」
 ルイーゼに小突かれてテオがすかさず言い返す。
 テオの言うとおり、おじさまによく似たかっこうの人がこの駅前にはたくさんいる。さっきから、おじさまを見つけたと思ったら別人だった、ということの繰り返しだった。
「手分けして探してみる?」
「だめだよ、行き違いになるよ」
「駅員さんかおまわりさんに聞いてみようよ」
「なんて聞くのよ」
 わたしたちは口々に言いあった。
 五人の中で帝都を少しでも知っているのは、学校の先輩に連れてきてもらったというフリッツだけだ。ルイーゼは街は好きだけど帝都ははじめてだし、テオとクララはどんな都会にも行ったことがない。今ここではぐれたら間違いなくばらばらになってしまうだろう。トゥルーテばあやは妹さんの家で過ごすと言って一緒に来なかったから、おじさまに会うまではわたしがしっかりみんなを見ていなくちゃ。
 そう心に言い聞かせていると、クララがわたしの手を引っ張った。
「おじさま」
 クララの小さな声はわたしにしか聞こえなかったらしい。指さす先に目を向けたのはわたしだけだった。
 わたしたちからだいぶ離れたそこには確かに、探していたのにぴたりと当てはまる男の人がいた。黒い帽子、黒い外套、背の高い立ち姿。でも、さっきから何度も見かけていたのと同じ特徴だ。
「あれがそうなの?」
「違うんじゃない?」
 他の三人も気がついたらしく、わたしに続いてクララの指先を追った。
 その紳士も誰かを探しているようで、駅舎に近づきながら左右を見まわしていた。わたしは目を凝らし、その人の顔を見きわめようとした。クリスマスイヴの夜、わたしたちの家の玄関に立つおじさま。テオとクララの手を引いてツリーを見に行くおじさま。ディナーを終えたあとプレゼントを手渡してくれるおじさま。少しずつわたしたちに近づいてくるのは、そのどれとも違う気がする。
 やっぱり人違いなんじゃないかしら。わたしが口を開こうとした時、その紳士と目があった。その人は一度わたしを見ると決してそらさず、足を速めてわたしたちの前まで歩いてきた。
「やっと見つけた。待たせて悪かったね」
 おじさまだった。わたしはどんな顔をしたらいいのかわからず、ごあいさつの言葉もすぐに口に出せなかった。
 明るいうちにおじさまを見るのははじめてじゃない。出会った年におじさまは何日かうちに泊まっていたから、昼間に外で話したこともあったはずだ。
 それなのに、いま目の前にいる紳士は、わたしの記憶にあるどのおじさまとも違っていた。外套と帽子を身につけたままだから、もともと高い背丈がもっと高く見える。茶色い髪は覚えていたほど赤みがなく、みどりだと思っていた瞳は灰色がかった青に近い。今まで会った中でいちばん若く、いちばん普通の人に見えた。
「クリスマスおめでとうございます、おじさま」
 最初に口を開いたのはフリッツだった。いつもは我先に飛び出していくテオも、おしゃべりなルイーゼも、わたしと同じくおじさまを見上げて固まっている。
「おめでとう、フリッツ」
 おじさまがフリッツに答えると、ルイーゼとテオも思い出したようにごあいさつをした。ふたりにもおじさまが自分の知っているのと別の人に見えるのだろうか。
 おじさまはルイーゼとテオにおめでとうと言うと、身をかがめてクララの顔を覗きこんだ。
「クララ、クリスマスおめでとう」
 クララははにかんだ顔でうなずいた。この末の妹だけが、おじさまを見ても驚いていなかった。
 おじさまは姿勢をもとに戻すと、クララの隣にいたわたしを見た。
「クリスマスおめでとう、マリー」
「……おめでとう」
 わたしはあいさつの言葉を返すと、おじさまから目をそらしてうつむいてしまった。いつもならこの言葉のあと、おじさまから外套と帽子を受け取って、あたたかい飲み物をすすめるのに。今いるのは去年までと違う場所だから、何を言ったらいいのかわからない。
 一年ぶりにおじさまに会えたのに。手紙ではなく、ほんものの声を聞くことができるのに。
「寒くなかったかい? もっとわかりやすい場所で待ちあわせれば良かったね」
「だいじょうぶ。そんなに待ったわけじゃないから。ねえ、みんな」
 わたしはごまかすように、弟たちや妹たちに呼びかけた。フリッツも、ルイーゼも、テオも、わたしの言葉にうなずいている。いつもと勝手が違って戸惑っているのは、わたしだけではないみたいだ。
 おじさまのほうは去年までと同じもの慣れた態度で、わたしたち一人ひとりに笑いかけてくれた。
「さて。このまま市を見に行くかい? どこかでひと休みしてからのほうがいいかな?」
「すぐ行きたい」
「わたしも」
 テオがすかさず答え、その隣でルイーゼも続けた。ふたりとも、やっと調子が戻ってきたみたいだ。
 フリッツはどちらでもいいみたいで、落ち着いた表情でわたしの答えを待っている。
「クララはどう? 疲れてない?」
 わたしは末の妹を見下ろして聞いた。クララは帝都に来たのも、長い時間を列車で過ごしたのもはじめてだ。昨日は早めにベッドに入らせたし、家を出る時もあたたかい服を着せてきたけれど、もとが丈夫じゃないからあまり無理はさせられない。
 クララはわたしの心配をよそにおじさまを見上げた。わたしとつないでいないほうの手が、行き場を探しているように空気の中で揺れている。
「だいじょうぶ」
「疲れたらすぐに言うんだよ」
 おじさまはにっこり笑い、クララの手を握った。
 わたしは少し遅れてこの状況に気づき、どきりとした。クララのもう片方の手はわたしの手とつないだままだ。つまり、わたしとおじさまがクララの両手をそれぞれ握って、横に並んでいることになる。
「じゃあ、行こうか」
 おじさまはクララの手を引いて歩き出した。
 わたしは離れようかと迷ったけれど、結局そのままふたりに並んだ。クララの片手とつながれているおじさまの手を横目で見つめる。誰かを支えたり、なぐさめたりするためにあるような、大きな、優しい手。五年前にわたしを抱きしめてくれた手が、クララひとりを挟んでわたしのすぐそばにある。

 おじさまが連れてきてくれた場所に足を踏み入れると、わたしたちはそろって歓声を上げた。帝都の中心部にある王宮前広場。王国時代から続く立派な宮殿の向こうには、大聖堂の丸い屋根が覗いている。
 ふだんから人気の多い場所なのだろうけど、今日はとてつもない数の人手でにぎわっている。クリスマス市が開かれているからだ。
「すごいわ、ずっと遠くまで屋台が続いてる」
 広場を前にして声を上げたのはルイーゼだ。
 その言葉どおり、宮殿を前にしたこの広場には、端から端まで数えきれないくらいの屋台が並んでいた。
 売っているのは、クリスマスの飾り、お菓子、この季節に欠かせない手袋やマフラー。待降節のはじめからイヴまで続く、クリスマス支度のための場所、それがクリスマス市だ。わたしも近くの街で開かれているのを何度か見に行ったことがある。
 でも、いま目にしている王宮前広場の市は、飾りつけた屋台やクリスマスツリーが立ち並び、呼びこみの声やお客さんの歓声が溢れ、市というよりお祭りみたいだった。
「どれを見に行く?」
「全部!」
 フリッツの問いかけにテオが答え、兄さんの腕を引っ張って駆けだしていく。そのあとをルイーゼが追いかける。
 わたしとおじさまはクララの手を引きながら、ゆっくりとあとに続いた。
 クリスマスのために作られた屋台の品々は、見ているだけで気持ちが明るくなってくる。藁や錫でできたツリー飾り。キリスト生誕の場面を演じる小さな人形たち。雪でできているような真っ白なガラス球には、細やかな模様がひとつひとつに描きこまれている。
 ルイーゼとテオは競いあうように声を上げ、気に入ったものを見つけて指さしている。
「クララ、見たいものがあったら言ってね」
 わたしは歩きながら身をかがめ、隣にいる妹に声をかけた。
 クララはこの人ごみと騒がしさにちょっと怯えている。屋台の売り物にはクララの好きそうな人形やおもちゃもあるけれど、足を止めてそのひとつをじっくり見ようとはしない。
「マリー、きみもだよ。良かったらルイーゼと一緒にいろいろ見ておいで」
「ううん、いいの」
 はじめて来た帝都でクララから離れるのはやっぱり心配だ。具合を悪くしていないか、知らない場所を怖がっていないか気になって、わたしだけ買い物を楽しむなんてできそうにない。
 それに――
 答えながら顔を上げると、わたしを気づかってくれたおじさまと目があった。明るい場所では澄んだ青に見える目が、わたしを見て優しげに細められる。
 わたしは思わずうつむき、自分の足もとを見ながら少しだけ足を速めた。
 それに、おじさまと一緒にいられるほうがいい。
 そう言いたかったけれど、とても声には出せなかった。クララをあいだにしてつないでいる手から、わたしの気持ちがおじさまに伝わればいいのに。
 どこかで楽器の演奏をしているのか、賛美歌のメロディを奏でる音が聞こえてくる。
 わたしはクララの手を握りなおし、思いきって顔を上げた。まっすぐ前を向いているおじさまの横顔を見つめる。
 二年前のクリスマスイヴ、わたしはおじさまに自分の気持ちを伝え、おじさまはそれをやんわりとかわした。会いたかったら、きみが会いに来てくれなくちゃだめだ。そう言い残して帝都へ帰っていった。
 そして今日、わたしはおじさまに会うために帝都へやってきている。
 ここへ来ることを決めたとき、わたしはもうひとつ決意した。
 一緒にいられる時間が今年は二日間もある。そのあいだにもう一度だけ、おじさまにわたしの気持ちを伝えよう。二年前とは似ているようで違う、今のわたしの気持ちに近い言葉で。


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