ドロッセルマイヤー [ 2−3 ]
ドロッセルマイヤー2


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 歌が終わって部屋の中が静かになっても、おじさまは何も言わなかった。
 わたしたちが歌い終えると同時に、笑顔で拍手してくれるかと思ったのに。練習が足りなくて何度か失敗したわたしたちを、笑うかと思ったのに。
 わたしたち五人は、お互いの顔を交互に見あわせた。やっぱり何か物を贈るべきだったのだろうか。
 テオが列から抜け出して、おじさまの前まで駆けていった。
「つまらなかった?」
「――いや」
 おじさまは目を覚ましたばかりのようにまばたきして、それからやっと笑顔になった。テオの手を握って立ち上がると、わたしたちのほうへ歩いてきた。
「びっくりしたよ。こんなプレゼントをもらると思っていなかった。ありがとう」
 わたしたちはほっとして、それぞれ好きなことを言いはじめた。フリッツはおじさまに歌についての解説をする。ルイーゼとテオはお互いが音程を外したと言い争う。クララだけは何も言わないで、おじさまの顔を真剣な目で見つめていた。
「さあ、もう遅いわ。テオとクララは二階に行きましょう」
 話が落ち着いてきたところを見はからって、わたしはそう声をかけた。
「いやだ。おじさまが帰るまで起きてる」
 テオが毎年と同じことをまた言い張った。そう言いながらいつだって寝てしまうくせに。
「わたしも、一緒にお見送りする」
 小さなクララまでが主張するので、わたしは困って妹を見下ろした。クララは体が小さいし、あまり丈夫でもないので、健康に良くないことはできるだけさせたくないのだ。
 おじさまは長い腕を差しのべ、クララを抱き上げて近くの椅子に腰かけた。おじさまの膝にのせられたクララは、緊張しきって人形のようになっていた。
「ありがとう、クララ。きみに見送ってもらえるなんて嬉しいよ」
 わたしは複雑な気持ちでおじさまを見た。テオやクララが眠くなる前に帰ってしまうつもりだろうか。クララを夜ふかしさせなくていいのは嬉しいけれど、おじさまが早く帰ってしまうのは悲しい。
「マリー、きれいな声だった。きみが考えてくれたの?」
「プレゼントを贈ろうって言い出したのはわたしだけど、歌にすることを考えたのはフリッツよ」
 わたしはなんとなく居心地が悪くなって、後ろで自分の両手をつないだ。おじさまが帰ってしまうことが心配だからでも、声をほめられて恥ずかしかったからでもない。さっきのおじさまとの会話がまだ頭に残っているせいだ。
「クララは懐中時計がいいって言ってたの。でも、おじさまはもう持っているわよね」
「これのことかな?」
 おじさまは上着の内側から鎖を引き出した。てのひらの中には、父さまのとよく似た小さな時計がある。
 こんなにすぐに取り出せるように持っているのに、わたしは今まで一度も見たことがなかった。おじさまは、わたしたちの前では時間を気にしないふりをしてくれていたのだ。ルイーゼはさすがによく観察している。
「ふたつあってもいいものだから、時計でも嬉しかったよ。ありがとう、クララ」
 おじさまはそう言いながら、手にした時計を優しく見つめ、またふところにしまった。
 わたしは急に、その時計をひったくりたくなった。どうしてかわからないけど、その時計にはおじさまと、亡くなった奥さまとの思い出があるような気がしたのだ。おじさまがクララを見るのと同じくらい優しい目で、その時計を見つめていたからだろうか。さっき奥さまの話を聞いたわたしが、そのことばかり考えているからだろうか。
 おじさまの、亡くなった奥さま。母さまのいとこでもあったというその女性を、わたしは知らない。母さまはときどき、お友だちを家に招いたりしていたけれど、いとこの話は聞いたことがなかった。
 でも、その女性がいたことは間違いない。そのひとのおかげでわたしたちはおじさまと出会ったのだから。
 わたしはこみ上げようとする言葉を呑み込んだ。
 奥さまはいつ亡くなったの? どんな女性だったの? 今でも愛しているの?
「そうだ、マリー」
 おじさまはわたしの考えていることも知らず、クララを抱いて座ったまま、ツリーの足もとを指さした。
「青いリボンの小さい箱が、きみへのプレゼントだよ。またきみが最後になってしまったね」
 わたしはうなずき、箱を置いてあるツリーのそばまで歩いていった。正直に言ってプレゼントを見る気分ではなかったけれど。
 プレゼントの箱は、ちょうどわたしの両手におさまる大きさだった。横よりも縦のほうが少し長く、光沢のある青いリボンが十字に巻かれている。わたしはテーブルの上に箱を置き、リボンをほどき始めた。おじさまも、弟たちも妹たちも、トゥルーテばあやも、わたしがプレゼントを開けるのを見守っていた。
 箱の中から現れたのは、天使だった。金色の羽を背中に持ち、赤いドレスをまとった、女の子のような天使。ほほえんだ顔も、長い髪の毛も、ドレスのひだも、驚くほど細やかにできている。箱から出すために手をふれて、わたしは驚いた。天使は布でも木材でもなく、陶器でできていた。
 わたしは慎重な手つきで天使を箱から出した。色づけされた陶製の天使は、堅くてひんやりしていて、けれどもどこかあたたかかった。
「クリスマスツリーの天使に似てるね」
 テオがツリーの頂上を指さした。そこには、わたしが端切れでつくった天使が飾ってある。やわらかく波打った髪や口もとのほほえみが、確かに陶器の天使とよく似ていた。
「そう。あの天使に似ていると思って、これにしたんだ」
 おじさまがわたしに言った。
 ツリーの頂上にいる天使をつくったのは一年前だ。わたしがつくったことをおじさまに話した覚えはないけれど、おじさまはあの天使を目に焼きつけて、一年も後まで覚えていてくれたのだ。
「逆さにしてみて。置物じゃないんだよ」
 わたしは陶器の天使を傾け、その足もとを見た。銀色の円盤が付けてあった。その意味に気がついて円盤を何度か回すと、わたしは天使をテーブルの上に立たせた。
 天使はゆっくりと回りはじめる。同時に、ガラスに水がこぼれるような音が、賛美歌を奏ではじめた。
「オルゴールね」
 ルイーゼがわたしのかわりに言い当てた。
 天使が半分ほど回ったころ、わたしたちはあることに気がついて無言になった。オルゴールが奏でていたのは、わたしたちがおじさまに歌ったのと同じメロディだった。
 いくつかの賛美歌の中から、わたしがおじさまに選んだ歌。おじさまも同じころ、わたしのためにこの歌を選んでくれたのだ。
 歌が鳴りやんで静かになると、わたしは天使を両手で持ち上げて、おじさまのほうを向いた。
「ありがとう、おじさま」
「どういたしまして」
 おじさまは去年、言っていた。五人の中でわたしへのプレゼントを選ぶのがいちばん難しいと。
 おじさまへのプレゼントで悩んだ後だから、今はその難しさがよくわかった。わたしはフリッツやルイーゼのように好きなものがはっきりしていないし、テオやクララのようにおもちゃをもらって喜ぶ年でもない。わたしは今年の一回きりだけど、おじさまは毎年わたしのために悩んでくれたのだ。
「大切にするわ。居間か寝室のよく見えるところに飾って、毎日この歌を聴くと思う」
 天使のオルゴールは自転車とちがって、部屋の中に置いておける。ハンカチやマフとちがって、使わない時でも目にすることができる。
 これを見るたびに、これを聴くたびに、おじさまのことを思い出すことができる。
 だから、おじさまも、毎日じゃなくていいから、ときどきわたしのことを思い出してくれる?
 わたしはまたしても言葉を呑み込んだ。けれど、おじさまは笑顔を返してくれた。まるでわたしの言葉が聞こえていたみたいに。
 おじさまの奥さまがどんな人だったのかは知らない。今でもそのひとを愛しているのかはわからない。
 でも、おじさまがわたしのためにこれを選んでくれたことはわかる。この天使をもらったのは奥さまではなく、わたしだ。

 おじさまはテオとクララが眠らないうちに、いつもより少し早い時間に帰っていった。わたしたちはおじさまを出迎えた時と同じように、五人そろっておじさまを見送った。
 コートを着たおじさまは足もとに大きな鞄を置き、わたしから帽子を受け取ると、玄関の扉に背を向けてわたしたちを見た。
「ほんとにもう帰るの?」
 テオがおじさまのいちばん近くに陣どって、何度も同じことを聞いていた。さっきまでは起きていられたことに大得意だったのに、いざ見送るとなると寂しくなってしまったみたいだ。
「ぼく、まだ起きていられるよ」
「きみはそうでも、テオ、兄さんや姉さんたちはもう眠いみたいだよ」
 おじさまは笑いながらテオの手を握った。テオはその手を左右に振りまわし、未練がましく離れた。
「雪が降り続けているみたいです。帰り道に気をつけて」
 フリッツが、わたしが考えていたのと同じことを言った。雪はおじさまが着いてからもずっと降りやまず、家のまわりにもかなり積もっているみたいだ。おじさまがどうやって帰るのか知らないけれど、どうか何事もありませんように。
「ありがとう、フリッツ。勉強をがんばるのもいいけど、あまり無理しないように」
 おじさまは手を差し出し、二人は落ち着いた握手をかわした。
 それからおじさまは、フリッツの隣にいるルイーゼに目を向けた。
「ルイーゼ、あまり話せなかったね。今年の髪型も素敵だった」
「ありがとう。来年も楽しみにしているわ」
 ルイーゼはもったいぶって手を出し、おじさまと笑顔で握手した。
 わたしはクララを自分の前に立たせ、その小さな肩を支えながら見送りの場面を見ていた。クララはもうだいぶ眠いみたいで、それでもおじさまを見送るためにけんめいに立っていた。
 おじさまは身をかがめ、そのクララと視線をあわせた。
「クララ」
 クララの肩からわたしの手に緊張が伝わった。
 おじさまはクララのやわらかい金髪を撫で、背中に腕をまわして小さな体を抱きしめた。
「見送ってくれてありがとう。もう遅いから、あたたかくしてよく眠るんだよ」
 クララはおじさまの腕が離れると、おじさまの目を見つめて深くうなずいた。
「おやすみなさい、おじさま」
「おやすみ、クララ」
 おじさまに甘えさせてもらえるのは、小さなクララの特権だ。去年までのわたしは、そんな末の妹がうらやましくてしかたがなかった。でも今はそうじゃない。
 わたしはもう、クララをうらやましいとは思わない。頭を撫でられたり、手をつないでもらったり、抱き上げられて膝の上にのせられたいとは思わない。
 それ以上のものがほしい。
 おじさまは立ち上がると、クララの後ろにいるわたしと向きあった。
「マリー、ありがとう。今年も楽しかったよ」
 わたしはうなずくことも答えることもしなかった。この時のために準備していた言葉で頭の中がいっぱいだった。
 おじさまがこの家から去ってしまう。この時を逃したら、次のクリスマスイヴまで待たなければならない。だから、言うなら今しかない。
「手紙を書いてもいい?」
 わたしはクララの肩にかけた手に力をこめた。てのひらから伝わってくるクララのあたたかさが、わたしを励ましてくれているみたいだった。
「そんなにたくさんは書かないから。返事はくれてもくれなくても、どちらでもいいから。手紙を書いてもいい、おじさま?」
 おじさまはちょっと目を見開いた。わたしがこういうことを言うのを予想していなかったのだろうか。おじさまが口を開くまでの数秒間、わたしはクララから手を離せなかった。
 おじさまは帽子を頭に載せ、深くかぶりながら、にやりと笑った。
「いいよ、マリー」

 クリスマスイヴが終わった部屋の中に、わたしはひとりで座っていた。
 弟たちや妹たちはもう二階で眠っている。食事の後片づけは済ませたけど、テーブルの飾りやツリーを片づけるのは明日が終わってからだ。その後はまたいつもの生活が始まる。
 ツリーのろうそくはみんな消してしまって、今ついているのはテーブルの上のひとつだけだ。その隣では、おじさまがくれた天使が賛美歌を奏でている。
 わたしはそれに聴き入りながら、ゆっくりと回転する天使を見つめていた。
 車輪のついた自転車。天使のオルゴール。懐中時計。おじさまがくれるものや、おじさまに似合うものは、輪を描いて回るものが多い。
 天使は何度も同じところを回って、その場所から動かない。一年前までのわたしみたいに。
 このままわたしが同じところにいても、おじさまは会いに来てくれる。一年に一度のクリスマスイヴを楽しく過ごして、それでおしまい。自分の知らないおじさまを知って、驚いたり傷ついたりすることもない。
 でも、それ以上のものを手に入れることもできない。
 賛美歌が途切れ、天使がわたしに背を向けて止まった。わたしは両手で天使を持ち上げ、自分のほうに向けた。
 わたしはもう、同じところにはいたくない。
 クリスマスイヴに会って、手紙を書いて、それから――
 わたしはろうそくとオルゴールを手に持ち、立ち上がった。よく眠って、明日の朝も早起きして、おじさまへの手紙に何を書くか考えるために。


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