ドロッセルマイヤー [ 1−1 ]
ドロッセルマイヤー


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 数日前から舞っていた雪はイヴの朝になってぴたりとやんで、結局ほとんど積もらなかった。
 ホワイトクリスマスにならなくて妹のルイーゼは不満そうだったけれど、わたしは嬉しかった。だって、クリスマスイヴは一年に一度だけ、おじさまがわたしたちに会いに来てくれる日だから。雪のために列車が止まったり、車が動けなくなったりしたら大変だ。おじさまが来てくれなかったら、イヴが特別な日ではなくなってしまう。
 おじさまと言っても、父さまや母さまの兄弟というわけじゃない。もっと、ずっと遠い親戚のようなのだけど、正確なことはわたしたちもよく知らない。
 わかっているのは、わたしたち五人きょうだいにとって、おじさまがただ一人の頼れる大人だということ。
 それから、おじさまがわたしたちを、本当の甥や姪のように思ってくれているということだ。

 おじさまがわたしたちの前にはじめて現れたのは、三年前のクリスマスの季節。わたしたちの両親が、自動車の事故で亡くなった直後のことだった。
 わたしは十三歳で、二人の弟と二人の妹はもっと小さかった。事故の知らせを受けていろいろな手配をしてくれたのは、村に住む親切な大人たちと、昔から家にいるトゥルーテばあやだった。
 おじいさまおばあさまはすでにみんな亡くなっていたし、父さまのただ一人の妹は結婚して外国にいて、母さまにはきょうだいがいなかった。わたしたちは一夜にして、親も親戚もないみなしごになってしまったのだ。
 わたしはいちばん大きかったから、弟や妹よりものごとが見えていた。大人たちの考えていることもよくわかった。両親を失ったあわれな子どもたちをどうしたものか。かわいそうには思うけれど、育ちざかりの五人きょうだいは、つつましい暮らしの村人たちの手には余る。誰でもいいから親戚がやってきて、あの子たちをまとめて引き受けてくれたらいいんだが。そうでなければどこか施設を見つけてやって、この家から出ていかせるしかない。
 心の中でわたしは、激しくあらがった。ここを出ていくなんて、絶対にいや。父さまと母さまの思い出がつまった家とも、可愛がってくれたトゥルーテばあやともお別れしなければならないなんて。弟のフリッツは大好きな学校に行けなくなるし、ルイーゼはたくさんの友達と会えなくなってしまう。テオとクララはまだ小さすぎて、両親がもう帰らないということもわかっていないのに、このうえ家を出ると聞いたらどんなに傷つくだろう。
 わたしたちは出ていかない。父さまと母さまと暮らしたこの家で、これからもきょうだいで一緒に暮らしていく。
 そのためには、姉さんのあなたがしっかりしなくちゃいけないのよ、マリー。
 わたしは自分に言い聞かせたけれど、本当はどうすればいいのかわからなかった。
 おじさまがわたしたちの家にやってきたのは、そんな時だった。
 真っ黒な高い帽子をかぶり、真っ黒な外套を羽織った、背の高い紳士。そんな立派な身なりをした人は、このあたりではまず見かけなかった。年をとっているのか、若いのかもよくわからない。今よりもっと子どもだったわたしの目には、大人の男の人は二十歳でも五十歳でも同じように見えた。
 親戚だと名乗ったけれど、わたしも、フリッツも、トゥルーテばあやも、見たことのない顔だった。突然あらわれた見覚えのない紳士が、わたしたちの力になってくれるとはとても思えなかった。フリッツは本当に親戚かどうか疑わしいと言うし、ルイーゼとテオはひそひそと悪口をささやきあった。小さなクララは見知らぬ大人を怖がって、近づくのも嫌がる始末だった。
 わたしはクララほど怖がりでも、フリッツほど慎重でもなかったけど、親戚を名乗るその人に気を許せるとは思えなかった。だって、父さまや母さまのお兄さんでも弟でもない、遠い遠い親戚だもの。今まで会ったこともないわたしたちを不憫に思ってくれるはずがない。きっとこの人も村の大人たちと同じように、わたしたちを施設に入れることを考えているんだわ。わたしたちを片づけるにはそれがいちばん楽な方法だから。
 そう思いこんだわたしは、意を決してその人のところに近づいた。もともと人見知りをするほうだし、怖くないといったら嘘になるけれど、わたしが言わなければならないと思っていた。
 なんて呼びかけたのかは覚えていない。相手はその時ひとりきりで、わたしの声にすぐに振り向いた。背がとても高かった。わたしは見下ろされながら、けんめいに顔を上げた。
 どうしたんだい、マリー?
 その人は言った。会ったばかりのわたしの名前をもう覚えていた。
 あの、お願いがあるんです。
 何かな?
 わたしたちを施設に入れないでください。これからもこの家で、一緒に暮らしたいんです。
 返事はすぐにはなかった。その紳士は黙ってわたしを見下ろしていた。
 この家で、子どもたち五人だけで?
 トゥルーテばあやがいるわ。
 そうだね。でも、ばあやにはできないこともある。
 ばあやにできないことは、わたしがやります。
 マリー、きみが?
 壊れた屋根を直すことも、重い荷物を運ぶことも、なんだってやります。わたしが、弟や妹を守っていきます。だから、この家から出ていかせないで。わたしたちをここにいさせてください。
 一息にそう言うと、わたしは相手の返事を待った。大人に向かって何かを訴えたのははじめてで、胸がどきどき鳴って、足もとは震えていた。
 ふいに、その紳士が腰をかがめた。びっくりして立ちつくすわたしの目の前に、その人の顔があった。見上げていた時はなんだか怖そうに見えたのに、近くで見るとそんなことはなかった。みどりいろの大きな瞳の中に、わたしの顔が映っているのが見えた。
 きみは、誰かを守ることなんて考えなくていい。
 その人はゆっくりと言った。
 自分が守られることだけ考えていればいい。きみは今までよくがんばったね。ここから先はわたしたち大人の仕事だから、きみはもうがんばらなくていいんだよ。
 その声がわたしに魔法をかけた。耳からではなく心にすっと入ってきて、わたしの中にあった固い殻をくるんだ。閉じこめてあったたくさんの気持ちが、あたためられて溶けて流れだした。わたしは、父さまと母さまが亡くなってからはじめて泣いた。
 長い腕が伸びてきて、わたしを抱き寄せた。わたしはあらがわずに、大人の広い胸にもたれて泣いた。外側も内側もあたたかいものに包まれて、冬の空気の冷たさも、両親のいない寂しさも忘れてしまった。
 ここから出ていきたくない。ずっとこの腕の中にいたい。

 わたしたちはその人をおじさまと呼んだ。ちゃんとした名前も教えてもらったけれど、わたしたちにとっておじさまはおじさまだ。
 おじさまはその年のクリスマスまでわたしたちの家にいてくれた。イヴの晩につつましくお祝いをして、次の日には出ていった。どこに行くの? と聞いたら、自分の家だと言っていた。また来てくれる? と聞いたら、おじさまはにやりと笑った。
 来年のクリスマスイヴに、また来るよ。
 年が明けてすぐ、わたしとフリッツは村の神父さまに呼び出され、家を出て行かなくてもいいことを知った。
 何もかもが魔法のように運んでいた。村の人たちからは不安な表情が消えていた。わたしたちは五人とも自分の家に住み続け、そこから学校にも通った。トゥルーテばあやがいつも家にいて、わたしたちの世話をしてくれた。父さまと母さまが帰ってこないことの他は何も変わらなかった。
 一年後、おじさまは約束どおり、クリスマスイヴにやってきた。たくさんのプレゼントを詰めた大きなかばんを持って。
 その晩の、楽しかったことと言ったら!
 弟たちも妹たちも、おじさまがくれるプレゼントに夢中になった。みんなこぞって自分の話をおじさまに聞かせたがり、おじさまはその一つ一つにじっくり耳を傾けて、他の大人なら決して言わない、突拍子もない言葉を返すのだった。
 夜が更けて、小さな弟と妹が眠ったころ、おじさまは帰っていった。一年後にまた来ると、去年と同じことを約束して。

 クリスマスイヴにプレゼントを持ってきてくれる、得体は知れないけれど素敵なおじさま。
 それは、まるで――

「詐欺師だ!」
 叫んだのは下の弟のテオだった。おじさまが帰った翌日のクリスマスのことだ。
「テオったら、なんてこと言うの。昨夜あんなに良くしてもらったのに」
「それが罠なんだ。ぼくらを可愛がっているふりをして手なずけて、大きくなったら海賊に売り飛ばすつもりだ!」
 まだ小さいテオは、ばあやが読んでくれる冒険小説が大好きだ。詐欺師だの海賊だのもお話の中で覚えてきたのに違いない。昨夜はきょうだいの誰よりもおじさまにまとわりついて、プレゼントや遊びをせがんでいたくせに。
「詐欺師なんかじゃないわよ。わたし、あのおじさまは外国のお貴族さまだと思うわ」
 そう言ったのはきょうだいの真ん中のルイーゼだ。おじさまにもらった赤いリボンを髪に結んで、今もそれに触れながらうっとりしている。
「こんなきれいなもの、お金持ちじゃなきゃ買えないもの」
「詐欺師だって金持ちだよ!」
「あんなに優雅な詐欺師がいるもんですか! ぜったいにお貴族さまよ!」
「うちの親戚に貴族がいるなんて聞いたことないよ。でも、詐欺師でもないと思う」
 妹と弟の争いに割って入ったのは、わたしのすぐ下の弟フリッツだった。長男らしく生真面目な顔をして、言葉を口にする前にじっくり考えている。亡くなった父さまに似てきたみたいだ。
「身なりはきちんとしてたし、大人たちにもすぐ信用されていた。お金持ちかどうかはわからないけど、立派な仕事についている人じゃないかな」
「立派な仕事って?」
「医者とか、弁護士とか」
 夢見がちな妹と弟は、この答えが気に入らない。弾け飛ぶような口論がまた始まってしまった。
「詐欺師だよ、ぜったいに詐欺師だ!」
「いいえ、お貴族さまよ!」
 ルイーゼとテオは争っても仕方のないことで言い争い、フリッツはやれやれと言わんばかりに一歩ひいて聞いていた。
 わたしのスカートを誰かが引っぱった。いちばん下の妹のクララだ。おじさまからもらったお人形を抱いて背を伸ばし、ないしょ話をするようにわたしの耳元でささやいた。
「わたしは、あのおじさまは聖ニコラウスさまだと思う」
 フリッツ、ルイーゼ、テオの三人はぽかんとクララを見つめ、次の瞬間、どっと笑った。
 わたしだけは笑わなかった。なぜなら、わたしが抱いていたおじさまの印象は、クララのそれにいちばん近かったからだ。
 聖ニコラウスはクリスマスの季節に家を訪れ、良い子にしていた子どもたちにプレゼントをくれる守護聖人。クララくらい小さい時にはわたしも信じていたけれど、今はもちろんお話の中にしかいないとわかっている。でも、おじさまとイヴを過ごしたばかりの今は、その聖人は本当にいるんじゃないかという気がした。
 ただし、おじさまが聖人そのものかと言うと、残念ながらそうでもない。不可解なところが多すぎるし、ときどき毒っ気のある言葉を口にしたりする。
 わたしがおじさまに似ていると思ったのは、別のお話に出てくる人物だった。小さいころ、父さまと母さまに連れていってもらったクリスマスの劇。長い外套を翻して登場する、謎に満ちた雰囲気の人形師。彼が作る人形は生き生きして奇想天外で、子どもたちはクリスマスにそれを見せてもらうのを心待ちにしている。
 もっとも、その人形師は小さくてやせっぽちの老人で、奇妙な眼帯とかつらをつけていて、おじさまとは似ても似つかなかったけれど。

 おじさまは、その一年後のクリスマスイヴにもやってきた。わたしたちに素敵なプレゼントと楽しい一夜をくれて、その日のうちに帰っていった。来年もまた来るとは言わなかった。弟たちや妹たち、トゥルーテばあやはおじさまに尋ねようともしなかった。みんな、おじさまが一年後のイヴに現れることをあたりまえだと思っていた。
 不安に思っていたのはわたしだけだった。一年に一度だけしか会えない、どんなつながりがあるのかもわからない人だもの。このまま二度と会えなくたっておかしくない。それに、おじさまのいるクリスマスイヴは人形師の魔法みたいで、次の日にはみんな夢だったと言われそうな気がしてしまう。
 だから、見送る前にわたしは聞いた。来年もまた来てくれる?
 おじさまはにやりと笑った。また来るよ、マリー。
 そして、約束の証を立てるように、わたしの手をぎゅっと握った。いつかわたしを抱きしめてくれた、あたたかい、大きな手。この手をはなしたくない。一年に一度なんかじゃなく、本当はずっとここにいてほしい。
 そう思ったけど言葉にはできず、去っていくおじさまを見送るしかなかった。わたしは長い長い一年を過ごした。名前のわからない気持ちを抱え、生まれてはじめて知る自分に戸惑いながら。
 そしてまた一年がめぐり、クリスマスイヴがやってきた。おじさまに出会った最初の冬から三年。わたしはもう、自分の気持ちの名前を知っている。


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