ましろき花ぞ [ 8 ]
ましろき花ぞ

第八話 「おめでとう」
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「C組、四十人そろってます」
 雅高は学年主任の元に向かって、そう告げた。昨夜、キャンプファイヤーの舞台となった広場には、体操服の少年少女がチェスの駒のようにひしめき合っている。
 全組の集合が確認されると、学年主任は前に出て演説を始めた。整列した生徒たちは、うんざりした様子を隠そうともせずに聞き流している。子供はいいなあと雅高は苦笑した。
 炎天下で棒立ちになっていると、演説の声は次第に遠のいていく。蝉の合唱だけがやけに耳に迫ってきた。
 サマーキャンプは、夏休み第一週に行われる行事だ。中学生たちの夏はこれから始まる。
 だが雅高は、長すぎる夏を何度も経験したような気分だった。
『先生、好きです!』
 資料室での告白が始まりだった。可愛い生徒からの初々しい告白。始めはただ嬉しかった。
『逃げるな、卑怯者』
 あの時だ。ましろが柵を超えてきたことに気が付いたのは。
『私こそ、怒鳴ったりしてごめんなさい』
 純粋に、いい子だと思った。無口でおとなしいのは自分をしっかり持っているからで、紡がれる数少ない言葉はすべて心からのもの。彼女が言うことなすこと、一つ一つがとても大切に思えた。
『キャンプ場でキスしても、別に校則違反じゃないんですよね』
 あの時にはもう、雅高の内心は優しい篠原先生ではなくなっていた。
『先生のことが好きだとストーカーって呼ばれるんなら、それでいいです』
 自分がどうしたいのかわからないなんて、本当は嘘だった。雅高は、ましろの言葉が嬉しかった。それに応えたいとはっきり思っていた。
『そんなこと、大人になったから言えるんです』
 思っていたのに、それを認められなかった。認めるのが怖かった。
 そして、傷つけた。
『ましろき花で、ありたかった』
 自分から振り払ったくせに、失ったものはあまりにも大きかった。
『どうにもならないことくらい、生きていればいくつでもありますよね』
 ああ、そうか。
 ごく自然に雅高は思った。

 自分は、高瀬ましろが好きだったのだ。

「それでは、バスに移動します」
 気が付くと、学年主任の演説が終わっていた。
 少年少女の群れが広場をうごめいている。十三や十四の彼らは雅高にとって可愛い教え子で、仕事の対象で、守り育むべき子供たちだった。
 ましろもその中の一人だった。
 それを恋愛対象にするなんて、有り得ないはず。そんなことをするのは、馬鹿なロリコンか少女漫画のヒーローくらい。何度も自分にそう言い聞かせてきた。
 自分はいったい、何を守ろうとしていたのだろう。教師という仕事か。大人としてのプライドか。社会人としての良識か。
 どれも大切なものには違いない。だが、それらと引きかえに失ったものに値するかと自問すれば、胸を張って答えることができない。
「篠原先生ー?」
 傍らであどけない声がする。数人の女子生徒が、バスの前で雅高を振り返っていた。
 サマーキャンプが終わる。それと同時に、夏が終わってしまうような気がした。まだ七月の末だというのに。
 このバスが中学校に着いた時、何もかもが終わるのだと、そう思った。
 雅高は生徒たちに笑顔を向け、バスの最前列に座った。
 席順は行きと同じだ。C組で一番おとなしい高瀬ましろは、教師の斜め後ろに座っている。だが、行きのような視線の矢はもう送ってこなかった。ましろは一人で窓際に座り、ぼんやりと外を見ていた。
 あの大きな二つの黒い目が、雅高を見つめることはもう二度とない。
『私だって』
 ましろき花が、散ってしまう。
『先生のことを、困らせたかったわけじゃない』
 バスの扉が閉まり、エンジンがかかり、タイヤが回りだした。車内の少年少女は、行きの道とそっくりな光景をつくり出そうと動き始めた。
 バスがキャンプ場を出て、街道を走り出す。
 雅高は最前列の座席で、ただ一つのことを考え続けていた。



 ましろの好きなもの。その一、砂時計。その二、誰もいない音楽室。その三、一両列車。その四、アップルパイの皮。
「では、解散。気を付けて帰ってください」
 教師の声が校庭に響き、生徒たちの歓声が続く。
 その五、学校行事の終わり。
 子供の群れが散らばっていく光景。少しずつ隙間が広くなり、そして無になる行事会場。あーあ、明日からまた勉強だよという気楽なため息。用意した物を持ち帰り、来年まで眠らせておく場所にもどす作業。
 だが今回ばかりは、それを楽しむ気分ではなさそうだった。
 ましろは中学生の大移動の中で一人だけ足を止め、教師たちに視線を向けた。
 雅高は他の教師たちと共に、挨拶して去っていく生徒たちに微笑みかけていた。
 しっかり見つめて、目に、胸に焼きつけておこうと思った。
 この日、雅高が着ていた服の色。雅高が声に出した一つ一つの言葉。雅高が浮かべたすべての表情を。
 ルーズリーフノートに書くことはもうしない。それは他の教科のものと共に、夏休みの間しまっておくつもりだった。たぶんもう二度と、開くことはないだろう。
 新学期が始まったら、篠原先生にはまた会える。それはわかっていたが、今日が最後だとましろは思うことにしていた。だから、忘れたくなかった。記憶の中に刻みつけておきたかった。
 初恋は実らないほうがいい。大人になればいい経験になったと思えると、雅高は言った。あの時は反発したが、今はその言葉にすがりたかった。
 いつかこの経験を、この思い出を振り返ることができるように。初恋が実らなくて良かったと思えるように。
 ましろと雅高の現在の距離は、目測で八メートルくらい。そこから読み取れるだけの情報を、すべての感覚でしっかり受け止めた。

 それにしても、サマーキャンプ最終日はどうして半日でお開きなのだろう。この炎天下で生徒たちを通学路に放り出すなんて、正気の沙汰ではない。
 アスファルトが悲鳴を上げているのが目に見える。蝉の合唱は、頭の中で鳴いているのではないかと思うほどの大音量だ。
 暑さのあまり幻覚まで見えてくるなんて、勘弁してほしい。
「……いつまでここにいるんですか」
 ましろはいまいましい相手に言葉をぶつけた。
 見慣れた住宅街の歩道脇。ましろが歩いていく先の歩道に、それは立っていた。距離はここから、およそ七メートル。
「いつまでって、さっき来たばかりだけど」
 幻覚のくせに声まで持っている。苦笑さえ浮かべているのだから本当にいまいましい。
「さっさと消えてくださいよ。もう覚えましたから」
 ましろは数歩、前に進んだ。これで距離は五メートル五十センチ。
「高瀬って実は、相当きついだろ」
 苦笑しながら幻覚が歩み寄ってくる。四メートル。
「幻覚に気を遣えるほどの余裕は、今はないんです」
 ましろは危険を感じて、ここで足を止めた。距離は四メートルのまま。
「幻覚? 何言ってるんだ」
 向こうから近付いてくる。ましろは退こうとしたが、なぜか足が動かない。二メートル。
「本物だよ。話があって来た」
 自称本物は苦笑を消して足を止めた。一メートル五十センチ。
 ましろは頭の中で、ルーズリーフノートを久しぶりにめくる。
 ましろの身長は百五十五センチで、雅高の身長は百七十五・六センチで、一メートル五十センチの距離で二十センチ上を見上げたら、角度は。
 わからないけどとりあえず首は痛くない。
「話って何ですか?」
 ましろは今、いつもにも増して無表情になっているはずだ。
 しかし、雅高の顔はそれ以上に強張っているように思えた。非常に珍しいことだ。
 篠原先生じゃない、とましろは密かに思った。
 雅高がましろを見ている。幻覚だろうと何だろうと、この表情はましろだけのものだ。
「俺は、ロリコンじゃない」
 雅高(幻覚?)はしばらく静止していたが、いきなり口を開いた。
「若くて可愛い、女子中学生が好きなわけじゃない」
 目を開くましろに、雅高は一人で続ける。
「高瀬ましろが好きなだけだ」
 その言葉の意味を、ましろはゆっくりと考えてみた。雅高が紡いだのはごくごく簡単な日本語で、つまりましろに聞き取れないはずはなくて、耳に入ると同時に理解できなくてはおかしい。
 しかし、今のましろには日本語のヒアリングよりも先にやるべきことがあった。
 一歩、二歩、雅高に近付く。距離はおよそ四十センチ。
 そこに立って、雅高を上から下まで眺め回す。
「触ってもいいですか?」
 淡々と尋ねると、雅高はためらいがちにうなずいた。
「……どうぞ」
 ましろは素早く雅高の右手を取った。両手で持ち上げて、自分の目の前に持ってくる。筋張った感触も、溶け合う体温も、少なくとも幽霊のものではない。
 続いてましろは、雅高の顔を見上げた。
「抱きついてもいいですか?」
「……いや、それはちょっと……」
 視線をそらし、後に退く隙なんて与えてやらない。ましろはすぐに地面を蹴った。二十センチ上の雅高の首にしがみつく。
 しがみついても、それが消えてしまうことはなかった。
「幻覚じゃなかった」
「まだ疑ってたのか……」
 雅高(本物)は呆れた声を出しつつも、ましろを抱きとめていた。
 ルーズリーフノートの上の文字ではなくて。思い出の中の初恋ではなくて。教壇に立つ優しい先生ではなくて。
 篠原雅高がここにいる。
 ましろの腕の中にいる。
「やっぱりロリコンだったんですか」
 抱きついたまま顔だけ離し、ましろは失礼極まりない台詞を口にした。
「違う。さっきも言っただろ」
「中学生と恋愛するなんて、馬鹿なロリコンのやることなんですよ」
 ましろが自信たっぷりに言うと、雅高は気まずそうに視線をそらした。だがすぐに再びましろを見た。
「高瀬のことが好きだとロリコンって呼ばれるんなら、それでいい」
 どこかで聞いた言葉だなあと、ぼんやり思った。
 頭の中で響く蝉の合唱が、祝福の歌のように聞こえた。ましろの好きなものその六、蝉。ただし鳴き声のみ。
「でも、無謀なことに走るのは勘弁だぞ」
 どこか投げやりな様子で、雅高は言った。
「就職一年目で失業なんて、俺は嫌だからな」
「私だって、義務教育で中途退学なんて嫌です」
「参ったな。お前は未成年どころかたったの十三だもんな」
「違いますよ」
 頭を抱える雅高から、ましろは一歩下がった。距離は再び四十センチほど。
 その場所ですっと背を伸ばし、宣言するように言った。
「もう十三じゃないです。今日、十四歳になりました」
 雅高は小さく口を開けた。
 ましろき花ぞ、夏は涼しき。
 ましろの名前の由来となった歌。当然、命名されたのは夏だ。
 七月の暑い日。サマーキャンプの最終日。
 ましろは一つだけ、子供ではなくなった。
「そうか……」
 雅高はぼんやり見つめていたが、やがてその顔が笑みに変わった。ましろだけに見せる初めての笑顔。
「誕生日おめでとう、ましろ」
 なんにもいらないと思った。ましろは今、地球上の誰よりも幸せだ。これから道で出会う人に片っ端から自慢したい。
「これで年の差は十一歳です。私だってすぐに大人になります」
「あのな。秋になれば俺も誕生日が来て、二十六になるんだ。年の差は一生変わらないんだぞ」
「それって、秋になっても私たちは一緒にいるってことですね?」
 二十センチ下からましろは見上げた。
「私が十四になって先生が二十六歳になっても、私が十八になって先生が三十代になっても、ずっと一緒にいるってことですね?」
 雅高は曖昧に微笑んだ。その表情の意味は何なのか、今は考えなくてもいいと思った。
 これから雅高が見せるすべての表情は、ましろだけのものなのだから。
 ましろは地に足をつけたまま、再び雅高に抱きついた。腕を背中に回し、頬を胸に押し当てる。
 その距離、ゼロメートルゼロセンチ。
「つかまえた」
 そして、笑った。



 高瀬ましろは授業の内容を記録するために、ルーズリーフノートを使っている。そのファイルに加わった新しいページは、つい最近、再び消えた。
 理由は、書くことが増えすぎて追いつかなくなったから。
 そして、いちいち記録しなくても、いつでも確かめられるから。

 雅高の本当の顔は、ましろだけが知っている。



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