ましろき花ぞ
第七話 ましろき花ぞ
傷つけたかったわけじゃなかった。
そんなことを言っても、許されないのはわかっている。
サマーキャンプ第二夜、雅高は一晩中そんなことを考えていた。二日続けて寝不足だ。
今朝もやはり早くに目が覚めてしまい、一人でバンガローを出た。
少し湿った朝の空気。蝉の合唱。真っ白い朝日。暑い一日を予感させる、長い影。
真夏の朝と言うと、少年時代に通ったラジオ体操を思い出す。
だが雅高の育った住宅地と違い、ここは静かに澄んでいる。
不思議な感じだ。一昨日来たばかりのキャンプ場を今日の昼前には後にするとは。そして今日の昼過ぎには、また別の団体がここにやってくる。カレー作りに肝だめしにキャンプファイヤー。雅高たちが行ったのとそっくりな光景が、再びここに広げられる。
せっかく早起きしたのだから、一人の時間を満喫しなければもったいない。
迷った末、広場から離れて山道を歩いてみることにした。一日目の晩、肝だめしの舞台となった場所だ。
今年の六月ごろ、雅高はここを訪れている。もちろん行事の下見のためだ。同じ二年の担任教師数人と一緒だった。肝だめしの打ち合わせをするため、あの山道にも足を向けた。
だが、一人でその場に向かうのはこれが初めてだ。それに朝に行くのも初めて。下見の時は夕方になっていたし、肝だめし本番は当然のこと夜だった。
広場の端から少し坂を下り、細道に入っていく。遊歩道と書かれた看板が変わらずにあった。
山道とは言え、足元はきれいに整備されている。崖のような危険箇所には柵が欠かせない。それも木や網ではなく、木材に見立てた人工の丸太だ。
こんな場所でよく肝だめしが成り立ったものだと、変なところで感心した。夜の闇の中ではそれなりに不気味な空気が漂うのかもしれない。それを覚えていないのは、単に雅高がお化け役だったからだろう。
ふと歩調が弱まった。
一昨日の晩、高瀬ましろとここにいた。二人で草の茂みに隠れていた。そう思うと、この道を進む足が自然に重くなる。
昨晩のましろの痛みは、今も消えていない。
俯きがちに歩く雅高の目に、突然それは飛び込んできた。一瞬、目の端で何かが光ったのかと思った。白い光だった。
いや、白い花だ。
あいにく雅高は、花には詳しくない。キャンプ場に咲いているその白い花の名前はわからなかった。
形はコスモスやヒマワリのような円ではなく、よく見ると左右対称のランに近い。ただし花屋のガラスケースですましているあの花より、ずっと小さく背も低い。
それが、山道の至る所で白い光を放っていた。
肝だめしの時には暗くて気がつかなかった。下見に来た時にも、この花を見た覚えはない。たぶん季節が早かったのだろう。
一人で歩く朝の山道で、その花は控えめに雅高の目を引いた。
人の手によって整えられた道。安全と引きかえに山の姿を崩す柵。その中で、白い花はあまりにも無防備だった。
あるがままにある姿。
だが決して、儚げではない。清らかで、無垢で、同時に毅然としている。その花の周りだけ、まるで聖域のように澄んでいる。
真夏の喧騒や、山に踏み入れた人間の手から、その存在だけで自らを守っている。
無防備さこそが、その花の最大の盾だった。
雅高は気が付くと足を止めて、白い花の群れに見入っていた。
「……ましろき花ぞ……」
ふいに、声が聞こえた。
突然の乱入ではない。
驚くほど自然に、その声は雅高の耳に届いた。
「……夏は、涼しき」
「高瀬」
その声の主など、雅高にはとっくにわかっていた。
少女は道脇の草場に腰を下ろしていた。細い足を前に出して、その膝を抱え込むように両腕で包んで。
ましろは雅高を見上げると、静かに切り出した。
「古い歌集の中に、こんな歌があるんです」
ましろき花ぞ、夏は涼しき。
雅高は声には出さず、ましろの唱えたことばを繰り返してみた。
「……よく知ってるな」
「私の名前の由来です」
高瀬ましろ。少し古風で、きれいな名前だと思った。色白で華奢でおとなしい、この少女のイメージにぴったりだ。それが雅高が持った最初のましろの印象だった。
「きれいですね」
ましろは、白い花の群れに目を移して言った。
「ああ……さっきの歌にぴったりだ」
「私もそう思いました」
ましろは言った。その目は雅高ではなく、白い花たちにまっすぐ向けられている。
もともと印象的な、年齢よりも大人びた目線を持つ少女だった。しかし一晩のうちに、黒い目は何かを手に入れ、何かを失ったようだった。
「騒がしさや暑さから、自分を守っているみたい」
ましろは白い花を見て、かみしめるようにゆっくりと呟いた。
雅高も花たちを見た。そこにいるだけで、周りと空気を分けている白い花。
「暑い夏でも、騒がしい山でも、この花の咲くところだけは涼しくて清らかなんです」
ましろき花ぞ、夏は涼しき。
黒い目が、ふいに細められた。
「私もそんなふうになりたかった」
ましろの声は雅高ではなく、山の空気と白い花たちに向けられているようだった。
「ましろき花で、ありたかった」
少女が何を言いたいのか、雅高にはよくわかっていた。
ましろは曲げた膝に頬を当て、そのまま俯いた。まっすぐな髪がさらりと落ちた。
花たちは二人の会話などとはまったく無関係に、白い光を保ち続けている。
「高瀬」
出しかけた雅高の声を押し戻すように、ましろが顔を上げた。
「わかってます」
ましろは膝を抱えたまま、まっすぐ前を見据えていた。雅高よりも遥かに遠いところを。
「どうにもならないことくらい、生きていればいくつでもありますよね」
その言葉に傷ついたのは、雅高のほうだった。
驚くほど自己中心的だった自分に気付く。
雅高はましろの気持ちから逃げながら、それを失うことを恐れていた。ずっとこのままであってほしいと思っていた。
荒削りでまっすぐで、毅然とした少女の恋。
暑い夏や喧騒の中でもそれだけが清らかな、ましろき花。
それを粉々に砕いたのは、雅高だった。
「今さらこんなことを言っても、言い訳にしかならないけど」
気が付いたら、雅高は話し始めていた。
ましろが顔を上げて雅高を見た。
「高瀬のことを、傷つけたかったわけじゃない」
本当に言い訳だなと、心の中で自嘲した。
しかしその言い訳によって、ましろの大きな目はさらに大きく見開かれた。
この目が怖かったのだ。今なら雅高は認めることができた。まっすぐで曇りがない、二つの黒い目。自分のことを何もかも見透かされてしまいそうだった。
見開かれた目は再び元の大きさになった。
そして、ごく微かに細められた。ましろは近視の人がそうするように、雅高を見つめた。
「私だって」
決して多くを語らない唇が、希少な言葉を紡ぐ。
「先生のことを、困らせたかったわけじゃない」
雅高は何も考えずに微笑んだ。
傷つけたかったわけじゃない。困らせたかったわけじゃない。それはお互いの心からの言葉に違いないのに。
次第に日が高くなっていく。強くなる日差しに負けないように、白い花がいっそう光を放った。
今日、中学生と教師たちはここから去っていく。
サマーキャンプの終わりの日だった。
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