ましろき花ぞ [ 6 ]
ましろき花ぞ

第六話 最後の夜
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 嘘つき。卑怯者。何でも理屈で片付ける、汚い大人。
 優しい篠原先生なんて偽者だ。
 だけど、嫌いになれない自分は愚か者。



 輪を組んだ少年少女が、歌で広場を満たす。最後の夜の儀式だ。
 学校行事の終わりには、いつも共通の空気が漂っている。すべてが集まって、すべてが行われて、そしてすべてが去っていく。その後の不思議な感覚。喪失感、と言うと大げさだろうか。
 もっとも、雅高がこれを感じるのは、二十五歳の大人だからかもしれない。
 眩しいほど若い中学生は、去っていくものを惜しんだりしない。次にやってくるものを迎えることで頭も手もいっぱいだろうから。
 サマーキャンプの最後の夜は、言わずもがなのキャンプファイヤーだった。日の高いうちから、広場の中央に枯れ木の塔が現れた。
 雅高は焼かれる運命の塔を何度も眺めた。あれが燃え尽きた時、この行事は終わる。明日の朝には観光バスに詰め込まれて全員帰還だ。
 どこかでほっとしている自分に気が付いて、嫌気が差した。
 キャンプが終われば、夏休みの行事は八月上旬の登校日だけ。あとは部活動を除いて、生徒たちと顔を合わせることもない。その事実に安心している自分が、卑怯だと思った。
 卑怯者。卑怯者。
 繰り返し向けられた蔑みの言葉から、雅高は逃げていた。捕らえられそうな大きな目からも逃げていた。高瀬ましろという存在すべてから逃げていた。
 今日さえ無事に終われば逃げ切れる。
 雅高の決意に追い風を送るように、歌が終わった。
 炎の弾ける音に拍手が重なる。広場内での自由行動が許可されると、中学生たちはひときわ大きく沸いた。
 友達を、クラスメイトを、あるいは「好きなひと」を求めて広場中に散らばる少年少女。雅高は輪から三歩下がったところで、静かにそれを眺めていた。
 つい一週間ほど前まで、高瀬ましろもあの中にいたはずだ。大人の作った柵の中で放し飼いにされ、無邪気にはしゃぐ中学生。雅高が守り、雅高が育て、雅高がいつか柵の外へ送り出す子供たち。自分から柵を越えてこちら側へやってくる少女がいるなんて、想像もしていなかった。
 だが、高瀬ましろは柵を越えた。外側から見下ろしていたはずの雅高と同じ目の高さで向き合い、予想もしなかった武器を突きつけてきた。
 不意に雅高は、中学生の輪の中に目を捕られた。
 そこにいるんだな、と、どこか投げやりに考えた。
 やはり彼女には、自分を逃がしてくれる気などないらしい。
 大量生産されたクローンのような少年少女の中から、一つの輪郭が浮かび上がった。切り揃えたまっすぐな髪。細い身体。青白い肌。まばたきもせず見つめてくる、大きな目。
 高瀬ましろは、ゆっくりと雅高に歩み寄ってきた。
「どうした?」
 雅高は低めの声で聞いた。微笑こそ浮かべていないが、篠原先生の顔を一応保っているつもりだ。
「最後の夜です」
 ましろはやはり、表情を動かさずに言った。
「ああ、そうだな」
「最後の機会だと思って、聞きに来ました」
「納得のいく答えを?」
 ましろはゆっくりと、首を前に倒した。
 彼女の後ろでは、キャンプの終わりを告げる大きな炎がうごめいている。中学生がその周りを走り、声を上げている。
 雅高は何も考えずに口を開いた。
「いい加減にしろ」
 言ってしまってから心の中で自分に苦笑した。もう逃げられない。
 いや、もう逃げるのはやめようと思った。どのみちましろは逃がしてくれない。それなら、正面から振り払おうと思った。優しい篠原先生はもう終わりだ。
「思い切って告白して、実行委員にまでなって、何度も答えを聞きにきて。そうやって一途に思っていれば、『先生』は振り向いてくれるものだと思ってたか?」
 ましろの大きな目が、更に大きくなった。
「現実は少女漫画のようにはいかないってことを、もうそろそろ知るべきだ。教師と生徒の恋愛なんて有り得ないんだよ」
「どうして、ですか」
 ましろの口から、言葉がこぼれた。いつもよりいっそう小さな声だったが、火の音にもかき消されず雅高にははっきり届いた。
 雅高は一息ついて、落ち着いてから口を開いた。
「生徒との恋愛が、教師にとって何になるかぐらい、中学生にもなればわかるだろう。俺はそんなことのために職を捨てるような馬鹿なロリコンじゃない。それに、十二も年が違えばそもそも話にならないんだよ」
 雅高は続けた。なるべくましろの目を見ないようにしている自分がいた。
「俺が中学生だった時、お前はまだ物心もついていなかった。俺が二十歳になった時、お前はまだランドセルの子供だった。お前にとってはこれが初恋かも知れないが、俺はそんなの十年以上も前にとっくに経験済みだ。その後も何もなかったわけじゃない。お前には想像もできないような恋愛だって、何度もしてきた。俺とお前は立っている世界からまったく違う」
 ましろは目を広げるだけで、表情はまったく動かさなかった。言葉もあれきり呟かなかった。
 雅高はどこかほっとして、先を急ぐように締めくくった。
「高瀬ましろが、篠原雅高の恋愛対象になることは絶対にない」
 痛みが走った。紙の端で指を切った時のあの痛みが、何倍にも大きくなって雅高の胸を傷つけた。
 これはましろの痛みだ、とごく自然に思った。
 炎の踊る音が聞こえる。子供たちの歓声が、どこか遠い世界のものに思えた。
 ましろは少しの間、黙って雅高を見上げていた。やがて黙ったまま頭を下げ、再び上げると背を向けて走り出した。
 その姿が中学生の群れに溶け込んだころ、雅高は必死で言い訳している自分に気がついた。
 怖かった。
 あのまま高瀬ましろに追い続けられていたら、自分が何をしてしまうかわからなかった。
 自分を守りたかっただけだ。何が悪い。
 卑怯者。卑怯者。
 もう二度と、ましろ自身の口からは聞かない言葉。
 だがそれはこの時、今までで一番鋭く雅高の中に響いていた。



 わかっていた。こうなることぐらい、ましろは計算済みだった。むしろこうなってくれてほっとしている。
 昨夜の考察から導き出した結論は、どう考えても動かない事実だった。ましろがあのまま追い続けていたら、雅高には途方もない重荷になっていた。
 振り払ってもらえて、本当に良かった。雅高のしたことは何一つ間違っていない。
 それなのにどうしてましろは、布団の中で涙をこらえているのだろう。
 就寝時間を過ぎたバンガローでは、少女たちの会議の第二夜が開かれていた。ましろはルーズリーフノートも開かず、一人だけ早々と寝床に潜り込んだ。
 頭まで布団を被り、タオルを重ねて作った枕に顔をうずめていると、涙が勝手に溢れてきた。
 きっとタマネギのせいだ、と思ってみる。
 だが、消灯後のバンガローに調理中の野菜はない。
 喉の奥が震え始め、必死で嗚咽を押し込んだ。泣いていることが知れたら、たとえましろでもクラスの女子生徒は放っておかないだろう。『どうしたの? 高瀬さん。何で泣いてるの?』遠慮がちに優しい声で聞いてくれるだろう。
 枕に顔を押し付け、絶対に嗚咽を外に漏らすまいと息を止めた。
 薄い布団の向こうで会議の声が聞こえている。学校行事の夜にはめいめいの恋愛事情を語らねばならないという法律でもあるのか、少女たちは順々に重い口を開いていく。恥ずかしそうに、しかしどこか嬉しそうに。
「私は安西君が――」
「岸井さんは小学校の時から付き合って――」
「このまえ林さんがA組の伊東君と――」
「実は私は谷君のこと――」
「綾部さんは好きなひといないの――」
 ましろは嫉妬していた。岸井さんに、林さんに、綾部さんに。クラスの女子全員に。この場所で話しているすべての少女が妬ましかった。
 安西君が好き。伊東君と付き合ってる。谷君のことが気になって。
 恥ずかしそうに嬉しそうに、自分の恋愛事情を暴露している。クラスの誰かを好きになって、告白して、付き合い始める。理不尽な障害に阻まれることなく。
 あの少女たちとましろの間に、いったい何の差があるのだろう。
「えー、中塚さんは鳥井君なの――」
 少女たちから低い歓声が上がる。
 同級生が好きな中塚さんと、教師が好きなましろとで、いったい何が違うのだろう。
 ただ好きになっただけなのに。中塚さんが鳥井君を好きなように、ましろも雅高が好きなだけなのに。
 中塚さんは鳥井君に告白し、対等に返事を求め、成就すればみんなに祝福されて付き合うことができる。
 ましろにはその権利がない。
 同じ土俵に立つことすら許されていない。
 好きになっただけなのに。この気持ちは中塚さんたちと何も変わらないのに。
 どうして届かないのだろう。
 ただ十二年遅く生まれただけで。
 ただ教師と生徒だというだけで。


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