ましろき花ぞ [ 5 ]
ましろき花ぞ

第五話 逃げる大人
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 その夜、ましろは初めての経験をした。
 同じクラスの生徒と会話らしい会話をしたのである。
「びっくりしちゃったよお。草の上に二人で座り込んでさ、なんか見つめ合ってるみたいだったんだもん」
 松井(まつい)さんというその少女は、お化け役のましろと雅高を道脇で発見したペアの片割れだった。あの後、彼女と相方は笑って通り過ぎて行き、手持ち無沙汰のましろと雅高は気まずいまま第三班を待っていた。
 そして全てのペアが通過し終えると、お化け役も生徒たちもキャンプ場の広場に引き返してきた。
 松井さんがましろに声をかけたのは、その道中だった。
「高瀬さん、お化け役だったんだねえ。実行委員だから?」
「うん」
「でもなんで篠原先生と一緒?」
「一人で夜道にいたら危ないから、先生とペアを組むようにって」
 蚊の鳴くような声でましろは言った。クラスメイト相手に「うん」と「ううん」と「おはよう」以外の言葉を発したのは、これが初めてだ。
 松井さんは面白そうに笑い、ましろの顔を覗き込んだ。
「どんな話してたの?」
「……」
 ましろは記憶をたぐり寄せてみる。
「キャンプ場での校則について、ちょっと」
「……へえ、真面目だね」
「……」
 嘘はついていない。
「それから、ブラックコーヒー」
「ブラックコーヒー?」
「うん」
 松井さんは首を傾けてから、苦々しく笑った。困らせてしまったらしい。ましろは顔や言葉の表現力が徹底的に欠けている。だから相手にとってはやりにくいのだろう。
 しかし、松井さんはたくましかった。話しにくい相手と無理に話さなくてもいいのにとましろは思うのだが、彼女はそう思わないらしい。聞きたいことは気が済むまで聞いてくる。ましろが二番目に苦手なタイプだ。
「二人っきりだったじゃん?」
「うん」
「ドラマなんかでさあ、教師と生徒が恋に落ちると、ああいうチャンスを狙って告白してたりキスしてたり……」
 壊れたラジオみたいに松井さんの口から語尾が消え、変わりに笑い声が吹き出した。自分で話しながら自分で笑っている。面白い人だ。
「きゃはははっ……ごめん、想像したら可笑しくなっちゃった」
 よほど可笑しかったらしく、松井さんは広場に着くまでずっと笑っていた。ましろは隣を歩きながら、その様子をただ見つめていた。
 広場に着くと、雅高がすでにC組の生徒を並ばせていた。ましろは松井さんと別れ、実行委員として前に出た。
 その時、雅高の周りには何人かの女子生徒が集まり、とっておきの話題に目を輝かせていた。
「高瀬さんと見つめ合ってたってほんと?」
「二人きりだったんでしょ? あんな夜道でさあ」
「何話してたのー?」
 松井さんがいっぱいいる。
「何だっていいだろ。早く並べ」
「ねえ、何話してたのよー?」
 なおも食い下がる松井さん症候群に、雅高は笑って答えていた。
「明日の進行についてとかだよ。高瀬はおまえらと違って真面目だからな」
 嘘つきの、卑怯者。ましろは心の中でなじった。
 その時、松井さん症候群の一人がましろに気付き、慌てて居住まいを正した。
「あっ、高瀬さん。ごめんねー」
 何がごめんねなのだろう。
 無口な高瀬ましろは彼女たちにとって、担任教師よりも苦手な存在らしい。そそくさと雅高から離れ、整列に加わった。
 その間も、列のいたるところから嬉しそうな声は飛び続けていた。
「せんせー、高瀬さんがおとなしいからって無理やり迫ったんじゃないの?」
「生徒に手ぇ出したらクビになるぜ」
 無邪気な中学生は言うことが大胆だ。
「うるさい。余計なお世話だよ」
 雅高が笑っている。
 生徒たちも笑っている。
 近くにいた他の教師も、苦笑交じりに笑っている。
 笑えるのは、それが冗談だとわかっているからだ。『篠原先生と高瀬ましろの恋愛? そんなことになったら、さぞ面白いだろうねえ』みんなの見解はその程度。
 笑っていないのは、ましろだけだった。

 就寝時間は厳守という無意味な約束をした後、サマーキャンプ第一日目はお開きとなった。
 バンガローでましろは、持参してきたルーズリーフノートを広げていた。一緒に泊まっている女子数人はもちろん約束を破って、ペンライトの周りで会議を開いている。ましろはその中には加わらなかったが、明かりのおこぼれがもらえるのはありがたかった。
 ファイルを開き、例のページを広げてみる。この一日で仕入れた雅高の情報を記録しておくつもりだったが、それはやめにした。
 代わりに、まずこう書いた。
『考察1 篠原先生と高瀬ましろの恋愛は、可笑しいことなのか。』
 笑っていた雅高。笑っていた生徒たち。あの時、ましろが前に出て『冗談ではないですよ。私は本当に先生が好きです』と言っていたら、どうなっていただろう。やっぱりみんな笑っただろうか。『高瀬でもそんな冗談言うんだな』と、いつぞやの雅高のように。
 そんなに有り得ないことだろうか。
 そんなに滑稽なことだろうか。
 笑いのネタにされるほど、現実離れしたことなのだろうか。
 では、ましろのこの気持ちは何なのだろう。冗談でもなんでもなく、雅高のことが好きなのに。この気持ちを何だと言うのだろう。
 ひとしきり考えたが、結論は出なかった。やり場のない想いだけが残っている。
 ましろは次に書いた。
『考察2 高瀬ましろの一連の行動は、篠原先生に迷惑をかけているか。』
 生徒に手を出したらクビになるぜ、と生意気な男子生徒は言っていた。そんなことはましろだって知っている。
 だが、どの程度の関係でどの程度の責任に問われるのだろう。ましろはルーズリーフノートに書きながら、一つ一つ考察してみた。
 告白されただけで職を失うとは思えない。それは教師にとって不可抗力なのだから。きちんと誠意を持って断れば教師に罪はないはずだ。承諾した場合はそうもいかなさそうだが。
 キスをされたらどうだろう。生徒にとっては校則違反にはならないが、教師にとってはどうなのだろう。例え生徒のほうから迫ったとしても、してしまった以上は教師の責任になるのだろうか。
 自分が雅高にしてきたことについて、ましろは考えた。
 観察。情報の記録。告白。実行委員になって近付いた。返事を求めた。怒鳴った。キャンプ場でキスしかけた。
 あの時もどの時も、雅高は器用に切り抜けているように思えた。ましろはそれが嫌だった。卑怯者だと思ったから。
 本当にそうだったのだろうか。さっきも雅高は笑っていた。だが、心から余裕を持って笑っていただろうか。
 冗談だと思っていたから、生徒たちも他の教師も笑った。あれが冗談ではないと知れたら、どうなっていただろう。雅高はそれを想像しなかっただろうか。もししていたら、一体どんな気持ちだっただろう。
 ましろはシャープペンシルを持ち直し、こう書いた。
『結論 迷惑をかけている。』
 句点を打つ時に手が震えて、変に大きな丸になってしまった。
 会議中の少女たちから細い悲鳴が上がり、笑い声が溢れ、「しーっ」という音が続いた。そしてくすくす笑いが残った。
 ましろは彼女たちから離れたところで、大きな句点をただ一人見つめていた。



 サマーキャンプの最初の夜、雅高はろくに眠れなかった。遅くまで会議があった上、交替で生徒のバンガローを見張っていたからだ。学校行事は教師が楽しむものではない。
 中途半端に目が覚めて二度寝する気にもならず、仕方なく起き上がった。他の教師を起こさないよう、忍び足でバンガローを出る。
 朝のキャンプ場は、空気が湿っていた。見上げると分厚い雲が空を覆っている。雨にならなければいいが、と顔をしかめた。キャンプの中間日に会場が水浸しなんて、冗談じゃない。
 本当に冗談ではなかった。このキャンプが始まってから。いやもしかしたら、始まる前から何もかも。
 自分が一体、何をしたというのだろう。念願の教職に就いて、精いっぱい仕事をこなしてきた。生徒にも自分なりに誠意を持って接してきた。例え、相手がどんな子供でも。
 例え、相手が自分に告白してきた少女でも。
 それなのに、冗談ではない。どうして自分が冷や汗をかかなくてはならないのか。クビになるなどと生徒たちにからかわれ、同僚から苦笑を浴びなければならないのか。
 中学生と恋愛して職を失うなんて、馬鹿なロリコンか少女漫画のヒーローのやることだ。雅高はどちらでもない。ただの善良な二十五歳の中学教師だ。
 欠伸しながら水場に向かい、顔を洗う。頭が覚めたところで背後に妙な気配を感じ、振り返った。
 高瀬ましろが立っていた。
 やっぱり、と雅高はなんとなく思った。この程度の神出鬼没ではもう驚かない。
「おはよう。どうした?」
 笑顔を付け替えるのにももう慣れた。
 ましろの無口無表情にももう慣れた。すぐに返答が来なくても、こちらも黙って待っていればいいだけだ。
「早く、目が覚めたから」
 ほら。ちゃんと言葉を返してくれる。
 雅高は微かに和んだ。ましろの口が重いのは、自分の言葉と気持ちを大切にしているからだろう。この少女のこういうところは結構好きだ。
「先生もなんだ。起床まであと一時間もあるな」
 雅高は笑ったが、ましろは笑わない。ほんのわずかも動かない表情のまま、じっと雅高を見つめてくる。
「質問があります」
「うん?」
「昨日、何か言いかけましたよね」
「昨日?」
 雅高は首を傾げ、二秒後に固まった。
 ましろが言わんとしているのは、おそらくあの時。肝だめしのお化け役で二人きりになった時のことだ。
「何だったんですか?」
 そのままの顔でましろが言った。
「いや……何って……」
 答えられない。当然だ。あの時の雅高は、自分でも何をしているのかわからなかった。
「返事を、聞かせてもらえるかと思いました」
 言葉に詰まっていると、ましろが言った。
「返事?」
「告白の返事です。まだちゃんと聞いていません」
 今度こそ雅高は黙り込んだ。
 確かに、何だかんだ言ってちゃんとした返事はしていない。
 ここですればいいじゃないか、と自分の中の誰かが言う。二人きりだし、絶好のチャンスだ。ここできちんと断れば、これ以上ましろは雅高から平静を奪わないだろう。
 マニュアル通りじゃなくてもいい。高瀬ましろも篠原先生も傷つかない、きれいな言葉ぐらいちょっと考えたら出てくるはずだ。
 だが何秒経っても、雅高の唇は動かなかった。
 なぜか、今ここで言っては危険な気がした。このまま中途半端にはぐらかすほうが、よっぽど危険なはずなのに。
 本当にどういうわけか、安全な言葉を紡ぐ自信が持てなかった。
「先生?」
 しびれを切らしたのか、それとも雅高の異変に気付いたのか、ましろが声を上げた。
「あー……高瀬、あのな」
 唐突に切り出すと、雅高はまず咳払いをした。落ち着いたところで次の言葉を準備する。
「高瀬がどうしても返事を聞きたい気持ちは、わかるよ。でもどんな返事をしても、高瀬は納得しないんじゃないのか?」
「どういうことですか」
 ましろが少し顎を引いた。
「言い替えようか。高瀬は、納得のいく返事にこだわり過ぎていると思う」
 何も答えないましろに、雅高は頭を抱えた。十三歳の少女には難しすぎただろうか。もう少し言葉を入れ替えてみる。
「……よく、言うだろ? 初恋は実らないほうがいいってさ。きれいに終わる恋愛なんて、なかなかないよ。今は納得がいかなくて辛くても、大人になってから思い出すと、いい経験になったって思えるはずだ」
「先生はそう思えますか? 中学生のころを思い出した時」
「ああ、思うよ」
「やっぱりずるい」
 即座の返答に、雅高は再び凍った。
「初恋は実らないほうがいいとか、いい経験になるとか思い出になるとか、そんなこと、大人になったから言えるんです。自分にはもう終わっちゃったことだから、人事だからそんなふうに軽く流せるんです」
 愕然とした。
 ましろは、以前同じ言葉を叫んだ時のように興奮してはいなかった。むしろ、声も表情も驚くほど冷静だった。二つの黒い目には、怒りを通り越して軽蔑が込められていた。
「やっぱり先生は卑怯者です」
 言い切ると、ましろは回れ右して雅高に背を向けた。
 小さな背中を見送りながら、ましろが残していった言葉を反すうしてみる。それから、自分が言った言葉と照らし合わせてみる。
 確かに卑怯者だ。いい経験になるなんて、終わった者だから言える無責任で傲慢な言葉だ。
 そう思うと、体が震えた。
 いつから自分は変わってしまったのだろう。
 いつから子供であることを放棄して、自分は大人だと思い込むようになったのだろう。
 ましろのように感情だけでぶつかっていく恋愛を、自分も経験したはずなのに。
 いつからそれを、子供の思い出だと見下すようになったのだろう。
 いつからこんなふうに、理屈で恋愛するようになってしまったのだろう。
 二十五歳の篠原雅高と、十三歳の高瀬ましろ。二人を分ける決定的なものは何なのか、雅高にはわからなかった。
 ただわかるのは一つだけ。
 自分はもう、ましろのようには戻れないということだった。


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