ましろき花ぞ [ 4 ]
ましろき花ぞ

第四話 幽霊とキスシーン
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 雅高は特にもてるわけではない。しかしさっぱりもてないわけでもない。中・高・大学とついでに就職浪人時代も、それなりに恋愛してきた。
 めでたく成就したものもあれば、片道に終わったものもあった。突然終わりを告げられたものもあれば、自分の手で終止符を打ったものもあった。だからもちろん、相手も様々だった。
 しかし、十二も年下の少女を相手にするなど、想像したこともなかった。
 よりによって十三歳の中学生を。よりによって自分の教え子を。
 八年間もの夢だった教師という仕事。初めて受け持った可愛い生徒たち。ましろはその中の一人だ。
 こんなはずでは、なかったのに。
 はずではなかったと言えば、今のこの状況もそうだ。
 サマーキャンプの初日はお約束の肝だめしで締めることになっている。これはいい。
 生徒たちはペアを組んで熱くなったり涼しくなったりする役なので、お化け役は教師たちが受け持つことになる。これもいい。
 雅高は若いという理由から、一番疲れそうな役どころを押し付けられた。これもまあいいとしよう。
 しかし、持ち場である山道の草陰で、隣に高瀬ましろがいる状況はいいと言えないと思う。
「お化け役が足りないので、実行委員から何人か指名されたんです」
 脈絡もなくましろが言う。雅高の無言の訴えを聞き届けたように。実際、聞いていたのだろう。雅高は先ほどから、疑問を隠せない顔でちらちらとましろを見ていた。
「でも生徒が一人で夜道にいたら危ないから、先生とペアを組んで待機するようにって」
「それって人員補充の意味がなくないか……」
 雅高のため息は、山の暗い夜に消えていった。
 本当に、こんなはずではなかったのに。
 ましろに告白された時、浮かれながらも冷静に対処したつもりだった。教え子に慕われるのは嬉しいが、危険なことだ。適度に距離を保っておかなければ大変なことになる。
 ましろが突然サマーキャンプの実行委員になったのは、予想外だった。だが考えてみれば、それは特別な状況でもなんでもない。四十人の生徒のうち誰か一人がなるものなのだから。二人そろってお化け役になったのも、別にましろが仕組んだことではないだろう。
 それなのに、自分はどうして落ち着かないのだろう。学校行事に生徒と二人で取り組んでいるだけではないか。
「来ました」
 唐突にましろが言い、雅高は現実に引き戻された。
 そう。これはただの学校行事だ。
 山道の向こうから、ペンライトの光が近付いてくる。ターゲットの第一班がやってきたのだ。
 雅高の使命は、顔をすっぽり隠す長髪を頭に着けて、道脇から彼らに飛びかかることだった。誰が考えたのか知らないが、これで中学生が怖がるのか激しく疑問である。しかし彼らの興味はくじ引きによって決められた相方のほうにあるようだから、正体が明白なお化け役などどうでもいいのだろう。
「よかったら高瀬がやるか?」
「似合いそうだからですか」
「……いや、その」
「よく言われるので慣れてます」
 白く細く、暗い山道では幽霊に見えなくもない少女は、自嘲気味に言った。
 明かりが大きくなってくる。
「じゃあ先生が出るから、高瀬は声を頼む」
「叫べばいいんですか?」
「ヒステリックによろしく」
 小声で打ち合わせを済ませると、雅高は草場から立ち上がった。ターゲットの姿を確認し、長髪を頭に着けようとした瞬間。
 彼らが道の途中で立ち止まっていることに気が付いた。
 見つかってしまったのかと冷や汗をかいたが、どうやらそうではないらしい。並んでやってきた少年少女は、お互いしか見えていないようだったから。
 二人は山道で向かい合っていた。二つの顔が、触れ合う寸前まで近付いていた。
 慌てて叫びを押し込め、再び草場に隠れる。隣で、高瀬ましろが静かに言った。
「……すごいですね」
 少女の顔には表情がない。
「驚かすつもりが驚かされたな」
 雅高は手にした長髪を草の上に置いた。あれでは出て行けそうにない。キャンプ場でいちゃつく中学生カップルの前で、馬鹿げた幽霊を演じたいとは思わない。
「最近の中学生はませやがって」
「先生、注意しないんですか?」
「……注意?」
 雅高は少しだけ顔を持ち上げた。ペンライトの明かりは、未だに動いていない。
 確かに、四十や五十のベテラン教師だったら、顔面蒼白になって彼らを戒めるのかもしれない。
 だが雅高は若かった。
「まあ、別に校則違反というわけでもないし……」
「キャンプ場でのキスは禁止なんて、校則には書いてませんよね」
「……まあ、そうだな」
 いったい何の話をしているのだろう。
 雅高は密かにましろを伺った。月の光を受けていつもより青白く見える。肩も腕も、びっくりするほど細い。
 いったい自分は何を考えているのだろう。
 こんなはずでは、なかったのに。
 ふと気が付くと、草の茂みの向こうで明かりが動いていた。ペンライトの二人組が移動を始めたらしい。すぐに雅高とましろの持ち場から去っていった。
「驚かせなかったな」
「そうですね」
 残念でも何でもなく、二人は呟き合った。
 第二班が来るまで、数分の間があるはずだ。
「そうそう。目は大丈夫か?」
 突然思い出して雅高は言った。その話題を見つけたことが、なぜか救いのように思えた。
「……目?」
「タマネギの。だいぶ腫れてただろ?」
 ましろは夕食の野菜切りを押し付けられて、苦手なタマネギで目を真っ赤にしていた。あまりひどいので養護教諭のところに行かせたが、それきり雅高とは接触がなかった。
「……大丈夫です。冷やしたらすぐに引きました」
 低めの声でましろが言う。微かに不機嫌な気がするのは、気のせいだろうか。高瀬ましろの感情はいつも読み取りにくい。
「そうか。今度はちゃんと嫌だって言えよ?」
 雅高がにこやかに言うと、黒い目がいきなり睨んだ。もともと大きく黒目がちなので、まっすぐ見据えられると少し怖い。
「どうした?」
「キャンプ場でキスしても、別に校則違反じゃないんですよね」
 雅高の思考と動きがたっぷり三秒は停止した。
「――は?」
「さっきそう言いました」
「――言った」
「じゃあ、いいんですね」
「え?」
 確認する間もなく、ましろの顔がズームインで近付いてきた。
「ちょ――っと待て!」
 反射的にましろの両肩を押さえた。
「なな、何をするんだ、高瀬」
「校則違反じゃないことを」
 止められたましろは真顔でそう説明する。
 平静でいられなくなっている自分に気付かないふりをするのも、もう限界だった。明らかに自分は動揺している。
 これは仕事なのだ。学校行事の一環でこのキャンプ場に来て、生徒たちを楽しませるために夜道に潜んでいるだけ。隣に高瀬ましろがいるのは、ただ実行委員だからに過ぎない。
 自分とましろは教師と生徒だ。今のも、子供の可愛い悪ふざけに過ぎない。
 雅高は自分に言い聞かせ、教壇用の笑顔を貼り付けた。
「そういうことは十年経ってからするんだな。中学生なんて子供なんだから」
 返答がないので見てみると、ましろは冷めた目で草場を睨んでいた。
「……自分だって、子供のくせに」
 拗ねた口調に、雅高は掠れ声で笑った。
「なんだと?」
「コーヒー、ブラックで飲めないでしょう」
 これには雅高もあっけにとられた。
「なんで――」
「職員室でいつも見てました」
 ましろは呼び出しや日直で職員室に来ても、用件を済ませるだけで無駄なコミュニケーションは一切取らない。おとなしく変わった子だと雅高は思っていたが、その少女が自分のデスクでそんなところを見ていたとは。
「先生のことなら、何でも知ってます」
 更にましろは、声を高めた。
「実家で犬を二匹飼ってることも、携帯メールの絵文字が嫌いなことも、お酒に弱いことも、ロッカーに置き傘がなぜか三本もあることも、全部知ってます」
「俗にそれをストーカーって言うんじゃないか……」
「先生のことが好きだとストーカーって呼ばれるんなら、それでいいです」
 ましろはもう一度、雅高を見た。
 この少女は幽霊ではない。冷めているようで熱い、生きた二つの目を持っている。それが雅高を捕らえるように見つめている。
 自分は何を考えているのだろう。
 この少女を見て、何をしようとしている? 
「た――」
 何を言おうとしている?
 ましろの黒い目がめいっぱい開かれた。
 こんな、はずでは。
「か」
 せ、が出る前に、背後がにわかにざわついた。
 二人はいっせいに後ろを向いた。草の茂みが動き、ペンライトの光が現れる。それに照らされて、少年と少女が一人ずつ姿を見せた。第二班が来てしまったらしい。
「先生、何やってんの?」
 そんなことは、雅高のほうが聞きたかった。


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