ましろき花ぞ [ 3 ]
ましろき花ぞ

第三話 タマネギと涙
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 学校行事の観光バスとは、色んな意味で恐ろしい。
 二年C組担任の篠原雅高は考えていた。
 その一、教室と違って席に指定がない。
 もちろん当日までに決めておくのだが、好きな者同士二人一組で座っていいことになっている。この「好きな者同士」「二人一組」が曲者だ。多感な中学生――特に女子生徒たちは笑顔の下で無言の戦いだろう。
 その二、にぎやかすぎて鼓膜が破れかかる。
 四十人の少年少女がこんな狭い空間に詰め込まれているのだから当然だ。ゲームを進行する係の声に菓子袋を開ける音が重なり、不協和音の校歌が聞こえてきたと思えば後部座席では悲鳴が上がる。
 その三、車酔いの神に取り憑かれた生徒が必ず一人は名乗り出る。これは言わずもがな。
 その四、教師陣の席は強制的に一番前。
 出発してから二十分は過ぎただろうか。雅高はバスの最前列で、金縛りにあったように固まっていた。
 原因は、通路を挟んで斜め後ろの席に座っている。
 時おり思い切って振り返ってみるのだが、彼女は決して目を合わせない。だが向き直ってしばらくすると、再び視線の矢が襲ってくる。
 前から二列目、すなわち教師の真後ろの席というのは人気がないものだ。また、好きな者同士で席を決めるので、パートナーに恵まれない生徒は売れ残った席に売れ残り同士で座ることになる。
 篠原先生の斜め後ろに座った不運な生徒は、C組で一番おとなしい高瀬ましろだった。

「高瀬、さっき先生のほう見てなかったか?」
 金縛りから解放されて数分後。つまりバスを降りてから数分後、雅高は何気ないふりをしてましろに話しかけた。キャンプ場に着いて生徒たちは列を成しているが、実行委員は人数を確認するため教師の側で待機している。
 雅高はその機会を狙ったのだった。いつもと変わらず、にこやかに、さりげなく。
「――数えてきます」
 ましろは答えず、顔を背けて離れていった。
 父親に対する反抗期の娘とはあんな感じだろうかと、雅高は笑顔をひきつらせる。
 クラスメートの列を後ろから確認していくましろは、トレードマークの無表情だ。本当にあの少女だったのだろうかと思う。夏休み前の最後の教室で、雅高に言葉と視線の矢を浴びせたのは、本当にそこにいるのと同じ少女だろうか。
 しかし雅高の記憶が正しい限り、高瀬ましろはC組にも全校にも一人しかいない。それ以前に、ましろ自身のあの態度が終業式に何があったかを強く訴えていた。
 ましろは許してくれないだろう。雅高が終業式のことを持ち出し、謝るのを。かと言って、忘れることも許しはしない。
『逃げるな、卑怯者』
 無視されても無視しても、金縛りからは逃れられないことを雅高は知っていた。



 ましろの嫌いなもの。その一、作り笑い。その二、美容院。その三、直射日光。その四、ALTの授業。
「高瀬さーん、それ切っといてね」
 その五、タマネギ。
 食べるのは決して嫌いではない。ましろは偏食はほとんどない。問題は、包丁で切る時だ。まな板の上にごろりと載った二つの白い球を見つめ、包丁を握りしめる。
 キャンプ場での行動はクラスで決めた五人班(ましろの嫌いなものその六)で共にすると決まっており、食事の準備はそのメインと言っていい。
 ましろの班には、他に二人の女子生徒がいた。だがタマネギとましろを調理場に残して、黄色い声をあげながらどこかへ行ってしまった。同じく二人の男子は、少し離れた流し場で神妙に米を研いでいる。
 理不尽さを訴える相手はタマネギしかいなかった。剣を構えるように包丁を両手で持ち、切っ先で白い球をつついてみる。こんなことをしても、丸い野菜はカレーの具にはなってくれない。
 ましろはあっさり敗れ、白い球に刃を立てようとした。別の調理場でざわめきが起こったような気がしたが、それどころではないので無視する。
 だが、次に聞こえてきた叫び声は聞き流すわけにはいかなかった。
「篠原先生!」
 タマネギを放置して声の主を見る。ましろを振り向かせたのは、ざわついている調理場にいた一人の女子生徒だった。そして、彼女の側に走り寄る若い男性。中学生の少年よりはずっと背が高い。
「どうした、大丈夫か?」
 人だかりをかき分けて飛び込んだのは、誰でもなく雅高だった。彼の注意ははるか向こうの調理場に向けられている。ましろは今、この調理場でタマネギと二人きり。
 雅高が走り寄った先にいたのは、叫んだ少女だけではなかったらしい。彼女の足元に、くにゃりとした大きな棒がころがっている。その棒には手足と髪があり、ましろと同じ学校指定の体操服を着ていた。
「貧血でしょうか?」
「大丈夫?」
「保健の先生呼んできて!」
 いくつかの言葉が飛んだ後、雅高は再び人だかりから出てきた。腕に、意識のない女子生徒を抱えて。
 嫌いなものその七、貧血で倒れる少女。たった今追加。
「大丈夫か? すぐ、涼しいとこに連れてくからな」
 腕の中のお姫様に話しかけながら、ましろの横を素通りしていく篠原先生。包丁を持った少女が自分を睨んでいるなど、彼は気付いてもいないだろう。
 ましろは雅高から目をそらし、今度はタマネギを睨んだ。カレーの具どころかみじん切りにしてやりたい気分だ。
 白い皮に刃を当てて両手でそれを落とす。きれいな切り口が現れ、タマネギは真っ二つになった。湿っぽい刺激が目と鼻を突く。すぐに涙が溢れそうになったが、必死でこらえる。
 平らな切り口をまな板に当て、安定したところで次の一撃を加えた。右端から約二センチ間隔でざくざく刃を入れていく。くし切りなんて知ったことか。野菜切りをましろ一人に押し付けた他の班員が悪い。ましろは今、地球上の誰よりも機嫌が悪いのだ。
 半球を切り終えた時には、ましろの両目は涙でいっぱいになっていた。
 大量の水で遮られた視界には、もうまな板の上は映っていない。代わりに、どんなに拒否しても浮かんでしまう。自分を呼ぶ声にすぐ応えて走り寄った雅高。女子生徒を抱き上げて運んでいった雅高。心配そうに彼女に声をかけていた雅高。
 倒れたのがあの子でなくてましろでも、雅高はまったく同じ行動を取っただろう。
 つまり、そういうことだ。
 あの子は雅高にとって四十分の一。ましろも同じ四十分の一。それ以上でもそれ以下でもない。
 倒れた生徒に優しいように、告白してきた生徒にも同じように優しいのだ。
 怒鳴ったりするんじゃなかった。体力を無駄に消耗しただけだ。ましろが叫ぶ想いも痛みも、雅高には四十分の一の雑音でしかない。
 溜まった涙の粒が、とうとう目から溢れて頬を落下した。
 あんたのせいだ。と、ましろは罪なき野菜を睨みつける。悲しいのも悔しいのも涙が出るのも、全部タマネギのせいなのだ。
「高瀬? どうした?」
 声につられて横を向くと、一瞬にして涙が吹き飛んだ。さっき素通りしていった担任教師が目の前に立っていたのだから。その距離およそ七十センチ。
「目が真っ赤だ。泣いてたのか?」
 倒れたお姫様をいたわっていた王子様は、そのいたわりを今ましろに向けている。何があった? 誰に泣かされた? 心からそう聞いている。
 ましろは三回まばたきした後、まな板の上を指差した。ぶつ切りにされたタマネギを認め、雅高はああ、という顔をした。
「班の仲間は?」
 ましろはためらいがちに、流し場にいる二人の男子を指した。
「女子は?」
「……」
「……逃げたか」
 雅高は調理場全体を見渡し、ため息をつく。
 そして次に、側にあったもう一本の包丁を握った。
「もたもた切ってるから目にしみるんだよ。こうさっさとやれば、泣いてる暇なんかないだろ」
 文字通りさっさと切っていく雅高の手つきには慣れが見える。料理上手は本当らしい。ルーズリーフノートに書くことがまた増えた。
 四つの白い半球はあっという間にカレーの具の元となる。
 ましろは隣に立って見ていただけだった。まな板とタマネギと包丁と、それを操る雅高の手と顔を。
 それなのに目が痛くて仕方ない。枯れたはずの涙が再び湧き出してくる。
「大丈夫か? 敏感なんだな」
 そう言う雅高は、自ら刻んだというのにまばたき一つしていない。タマネギのくせに相性というものがあるらしい。
「なんで嫌だって言わなかった? 体質なんだから仕方ないだろう」
「――そういうのは、苦手です」
 やっと声が出せた。涙で耳ものども使い物にならなくなっていたが、変な声にならなかったことを祈る。
 雅高は肩をすくめ、ましろに半歩近寄った。距離はおよそ二十五センチ。
「……教師に向かって怒鳴るくせに」
 ましろは無表情のまま仰天した。
 二十五センチの距離を保ったまま、二人はしばらく沈黙に浸される。
 こんな時でも雅高の観察をやめない自分の目が憎かった。ネクタイはさすがに締めず、黒のTシャツに青の半袖シャツ。覗いた鎖骨の辺りに日焼けの跡が見える。指先の爪は丁寧に切られていてとてもきれい。
「あのな、この間は悪かった」
 突然の声を聞き、ましろの視線は雅高の指から上へ移動した。雅高はどの感情にも落ち着けない中途半端な顔で見下ろしている。
「ごまかすつもりじゃなかったよ」
 何のことを言っているのか、すぐにわかった。調理場に満ちた雑音の洪水も周りから消えた。
「でも、高瀬が聞きたいことには答えられなかったな。ごめん。お説教と変わらないことしか言えなくて」
 二十センチ上から見つめる雅高の目に、形だけではない償いの気持ちがあることははっきりわかった。
「私こそ、怒鳴ったりしてごめんなさい」
 雅高はにっこり笑った。
 この笑顔が大好きだった。作っていない、生徒に媚びていない笑顔。大人の表情の影に少年のような不安や未熟さが見え隠れして、だから決して子供を見下さない。
 初めて見たときから、ずっと好きだった。
 ましろの目から再びしずくが落ちた。
「……本当に大丈夫か?」
 覗き込まれ、逃げるように目元を手で隠す。
 大好きだった。この優しさが。でもそれは、四十人の生徒みんなに向けられるもの。
 ましろが泣く理由も知らないで、一番鋭い凶器を突きつけてくる。すべてタマネギのせいにして。
 やっぱり、卑怯者だ。


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