ましろき花ぞ [ 2 ]
ましろき花ぞ

第二話 戦う少女
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「高瀬さん、入ってください」
 教室の中から声がする。
 ましろは戸を開き、中を覗いた。窓際に二つの机と椅子が向かい合わせになっている。
 その一組に座る若い男性は、数日前に初めて顔を見た相手。
 彼はましろに気がつくと、にっこり笑顔を見せた。
「入っておいで」
 ましろは礼をし、戸を閉めて窓際に向かう。
 ネクタイを締めた若い男性は、向かいの席を手で示した。ましろはもう一度頭を下げてそこに座った。
「高瀬ましろさん。いい名前だね」
 彼――篠原雅高は、ファイルから一枚の書類を取り出した。高瀬ましろ、と名前が大きく書かれている。
「新学期早々、一人一人呼び出されて先生と話すなんて、面倒だったよね。去年の先生はこんなことしなかっただろ?」
 雅高は顔を上げてましろを見た。ましろははいともいいえとも言えない。緊張のあまり、いつもの無口無表情に磨きがかかっている。
 だって、こんなのは予想外だ。
 数日前の着任式で、初めて顔を見た新任教師。担任にならないでほしいと心底願ったのに、ましろと同じ二年C組に来た先生。それ以来ましろは自分の心の忠臣となって、視線で彼を追いかけざるを得ない学校生活を強いられた。その原因が今、ましろのおよそ一メートル正面に座っている。ましろだけを見てましろだけに話しかけている。
「……だから、みんなには悪いけど、どうしても一人一人と話したかったんだ。先生はこの学校に来たばかりだしね……」
 新米教師の熱意に溢れた演説も、耳を通り過ぎていく。今のましろは一メートル前の雅高の外身を観察することに忙しかった。意外と肌が白いなあとか、ネクタイがものすごく几帳面に締められているなあとか、黒髪は以前色を抜いたのを染め直したなとか。自宅に帰ったら早速、ルーズリーフノートに書き加えなければ。
「それで、高瀬は」
 雅高の声色が変わった。ましろの姓から敬称も取れている。演説を終えて本題に入るらしい。
 ましろも居ずまいを正し、雅高の声に耳を寄せた。
「一年の時の成績は、かなりいいね。特に主要五教科はよくがんばってる」
「――はい」
「すごく真面目で礼儀正しい子だって、去年の担任の先生も仰ってたよ。まだ数日しか過ごしてないけど、先生もそう思う」
「――はい」
「教室ではおとなしいよね。クラスの子と話しているのも、ほとんど見たことがないし――」
 ほとんどなんて控えめな言い方、しなくてもいいのに。
 ましろは二年になってから、クラスの生徒と一度も言葉を交わしていない。
「――そろそろ仲良しグループが決まってきたみたいだけど、高瀬はいつも一人でいるよね? しゃべるのは苦手?」
 ましろは心の中で小さく呻いた。胸に広がっていく重たく陰気なもの。これは失望。
 雅高もしょせん、世の多くの教師と変わらないのだ。『高瀬、いつも一人なんて寂しいだろう? 待ってるだけじゃ友達はできないんだぞ、自分から声をかけて――』。ほっといてよ。
「――苦手そうだね」
 答えないましろに雅高は苦笑すると、すぐにそれを消した。
「質問を変えようか。しゃべるのが苦手だから、グループに入れなくて一人でいるの? それとも、一人でいるのが好きなの?」
 時間が止まったような気がした。雅高は今、四十人の生徒のうちの一人に話しかけているんじゃない。高瀬ましろに話しかけている。高瀬ましろに質問をし、高瀬ましろの答えを待っている。
「――好きだから」
 重い唇を割って出たのは、たったの五文字。
 それだけで雅高はわかったようだった。
「そっか」
 それでいいのか、とも、そんなんじゃだめだ、とも言わない。
 それならいい、とも、もう何も言わないよ、とも言わない。
 雅高はそれきり、この件のことは聞かなかった。話題はましろの家族構成に移っていった。
 話を聞き流しながら、ましろは思った。遠くから観察してルーズリーフノートに記録するだけでは、耐えられなくなる。そう遠くない将来、この気持ちは爆発してしまう。

 だから、伝えなければ。

 実行に移した日から一週間近くが過ぎ、終業式がやってきた。中学生たちは蒸し鍋のような体育館から放たれた後、担任から通知表と戒めの言葉をもらって夏休みへ飛び立っていく。
 もちろん校内に残っている生徒もいた。部活に励む者。図書館に寄っていく者。友達との終わらない会話を楽しむ者。その理由はいろいろだ。
 ましろにも正当な理由があった。サマーキャンプの実行委員であるましろは、来週に迫った当日に向けて準備を急がなくてはならない。担任の篠原先生と教室で二人きりになっても、誰にも咎められる覚えはない。
 たとえその目が、脅迫するように担任教師を睨んでいても。
「先生の顔、何かついてるか?」
 雅高は笑顔で常用文句を口にする。
 ましろは無言で首を振った。
「……じゃあ、何か言いたいことがあるのかな?」
 雅高は、あくまで笑顔を崩さない。
「キャンプのしおりは、ホームルームでちゃんと配っただろ? 集合場所と時間も百回くらい確認した。名簿はこの通り完成してる」
 雅高が指で叩いたのは、ましろの前の机に置かれた白い紙。キャンプ中の点呼のために新しい名簿が必要だということで、雅高が作ったものだ。
 その雅高は今、前の列の椅子を後ろに向けてましろと机を挟んで座っている。およそ五十センチ。見つめられたら無視できない距離だ。
「高瀬はよくやってくれたよ。ご苦労さん。もう帰っていいぞ」
「聞かないんですか?」
 ましろの小さな声が、雅高の笑顔を凍らせた。
 読みが当たった。雅高はたぶん、この時を予感していたのだ。予感して、恐れていたはずだ。
「どうして実行委員になったのか、聞かないんですか? 今さら変わるなんていろいろ面倒だし、そのせいで作業も少し遅れたのに」
 冬の水たまりにできたプレート程度だった雅高の顔が、スケートリンクの厚くて固い地面になった。
 凍り付いている人間というものは、案外攻めやすいものだ。相手は動くことができないのだし、冷やせば凍結が進み、熱せば溶けてしまう。
 何より、氷は突けば砕け散る。
「聞いていいですよ」
 砕けたな、とましろが確信したのは次の瞬間だ。雅高は振り切るように視線を外し、机から名簿を取り上げた。
「……聞くことはない。帰っていいぞ、高瀬」
 完全スルーで来た。
 ましろがこの展開を読んでいなかったわけがない。その時の対策も、しっかり練ってきた。
「私は、聞くことがあります」
 立ち上がりかけた雅高が、再び凍結した。
 第一段階は予想通り楽勝でクリア。可愛い生徒が質問したいと言っているのに、優しい篠原先生がそれを無視するはずがない。
「何だ?」
 居ずまいを正し、雅高は再び笑顔を見せる。
 難関はこの先の第二段階だ。ましろは息を吸い込んだ。
「この前私が言ったこと」
「……ああ」
「あれの答えを、ちゃんと聞かせてください」
「……」
 雅高は笑顔のまま、体操のように首をひねった。
「その時言わなかったかな?」
「先生にとっては答えでも、私にとっては答えになっていません」
 言葉を押し出すたびに、緊張の波が引いていく。
 この時を待っていた。長い夏休みに入る前に、雅高を自分だけのものにして話せる日を。
「あれでは納得できないってこと?」
 雅高の顔からは、笑みがはがれ落ちている。
「頭では理解できても、気持ちはおさまらないってことです」
 マニュアルを聞かされたって、納得するわけないじゃないか。
 だってこんなに好きなのに。
「答えてください。お願いします」

 雅高は、教室に落ちた沈黙と睨み合っていた。前には夏服姿のか細い女子生徒が一人。早くこの停止した光景を動かしたいのだが、それができるのは自分の言葉だけだと知っているからどうにもならない。
『答えてください。お願いします』
 その言葉を放ったきり、ましろは無言待機を決め込んでいる。
 参った。
 そうとしか言いようがないほど、雅高は参っていた。
 ましろが告白してきたのは一週間余り前。その場での返事は完璧だと思っていたのに。直後に実行委員に名乗り上げてきた時から予想はしていたが、やはりましろはこの機会を待っていたのだろう。
 蝉の合唱と、敷地前を走る車の騒音と、運動部員のかけ声。それらは沈黙を埋めるどころか、引き立てているように思えた。早く言葉を出せと雅高を脅しているように。
 もっとも、最大の威圧感を放っているのは前にいる少女の二つの目だが。
 雅高は息をついた。
 納得できないというましろの気持ちはわからないでもない。要するに、マニュアル通りの流暢な答え方が気に障ったのだろう。確かに器用に答えすぎたかなと、雅高は反省する。
 それなら、時間はかかっても誠意を持って説明するしかない。
「――わかった、高瀬」
 ようやく沈黙を崩すことができた。
「もう一度、ちゃんと返事をするよ。ちょっと長くなるけど、聞いてくれるかな?」
 大きな目の少女は、無言で首を前に倒す。
 雅高はもう一度深呼吸してから、口を開いた。
「高瀬が、先生のことを好きって言ってくれたのは、本当に嬉しかった。これは前にも言ったな? 相手が誰であれ、そう言われたら嬉しいもんだろ? ましてや、高瀬は大事な生徒だから、なおさらだ」
 文節を区切りながら、ゆっくりと話す。
「でも、嬉しいってことと、じゃあ付き合いましょうってことは、別なんだよな。わかるか? 高瀬は大事な生徒だから、先生の、彼女にはできない。高瀬のことは、好きだけど、それは生徒としてなんだ」
 ここで一度言葉を切り、ましろを見る。雅高を睨んでいた二つの目は、いつの間にか膝の上に落ちていた。うつむいた顔を覗き込んで気遣いながら、雅高は続ける。
「先生は、生徒みんなのことが好きだから、高瀬一人と、特別仲良くなるわけにはいかないんだ。わかるよな? みんなが嫌な思いをするし、高瀬だって、居心地が悪くなるかも知れない」
 ましろは目線を落としたまま顔を上げない。
 さあ、あと一息だ。
「だから――残念だけど、高瀬の気持ちだけもらっておくよ。本当に、嬉しかった。ありが――」
「――ずるい」
 何が自分の台詞を遮ったのか、一瞬わからなかった。前にいる少女が発した声だと気付いたのは、射殺すような勢いで自分を睨みつける黒い瞳を見た時だ。
「高瀬――」
「ずるい! 優しく言い聞かせれば、私がおとなしくあきらめると思ったんでしょう」
「た――」
「私への返事なんて、夏休み前の一仕事だとしか思ってないんでしょ!」
 廊下にまで響くような声を張り上げながら、ましろは椅子から立ち上がった。見下ろしていた雅高は一瞬にして見下ろされる立場になっていた。
 無口でおとなしく、不健康なほど細く白いましろ。この少女のこんな声は初めて聞いたと、場違いなことを考える。
「私が聞きたいのは、そういうことじゃない」
 細い腕を震わせて、ましろは雅高に言葉を浴びせる。
「私のこと好きじゃないなら、はっきりそう言えばいいじゃない。嬉しかったとか生徒だからとか、そんな無難な言葉でごまかさないで。優しいお説教はもうたくさん!」
 切り揃えた黒髪が、頬の横で小刻みに揺れている。逆光になっているので顔色は見えず、二つの目だけが雅高に的を当てて光を放った。
「逃げるな、卑怯者」
 もはや声を出せない雅高を睨むと、ましろは制服を翻して教室から飛び出した。戸を開けた音が雅高の鼓膜を切り裂き、遠ざかっていく足音が追い討ちをかけるように響いてくる。
 雅高は、一人で座っていた。
 逃げるなと言って自分は飛び出していった少女の声が、疼くようにしつこく響いている。
 雅高は一人で、教室に座っていた。
 何を言われたのか思い出すまでもなかった。白いと思っていたものが実は黒だったように、一瞬にしてあまりにも大きく世界が反転した。
 撫でてやるつもりで手を出した猫に、鋭い目で睨まれ爪で切り裂かれたような気分だった。自分が持っていた軽い余裕、優越感、傲慢さ、そういったものを突き返され、激しく蔑まれた気がした。
 蝉の合唱と車の騒音と、運動部員のかけ声が、雅高を沈黙の中に取り残していた。


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