ましろき花ぞ [ 1 ]
ましろき花ぞ

第一話 始まりは告白から
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 高瀬(たかせ)ましろは授業の内容を記録するために、ルーズリーフノートを使っている。カード状にばらしたノートをファイルに綴じてまとめられるものだ。利点は、教科ごとに一冊ずつ別のノートを作らずにすむこと。いわゆる主要五教科のノートが、すべて一冊のファイルに収められている。
 そのファイルについ最近、新しいページが加わった。
 冒頭はこうだ。

篠原雅高(しのはらまさたか)。1978年11月23日生まれ、25才。
 2年C組担任、社会科担当。国立大教育学部出身。
 独身、ひとり暮らし、彼女なし。』

「せんせー、愛妻弁当?」
 背後から乱入した声に、雅高が振り向いた。半袖セーラー服の女子生徒が二人、彼の机を覗き込んでいる。
「違うよ。聞いて驚け、これはだな」
 色とりどりのお弁当を、得意げに指差す。
「先生が自分で作ったのだ」
「えー、うそぉ!」
「彼女に作ってもらったんでしょ?」
「嘘じゃねーよ。先生は料理上手なんだぞ。朝も夜もちゃんと自分で作るんだ」

『趣味・特技…料理。お弁当は自作。朝夕も自炊している。』

 ましろのノートに、記述が増えていく。
 昼食を傍らにこんなものを広げていたら小学校ではお叱りを食らうが、中学はその点が自由でいい。ましろはグループ行動もしないので昼休みも一人で窓際に座っている。ノートを覗き込まれる心配も、食べながら適度に話題を探す気遣いもいらない。
 教卓に向かって座る担任教師を、悠々と観察できる。

 篠原雅高は、ましろが二年になると同時にこの中学にやってきた。三ヵ月前の着任式。二十五歳という若さと、偉ぶったところのない明るい笑顔が、女子生徒を騒がせた。
 ましろは祈った。どうか、担任になりませんように。
 結果はこの通り。雅高は毎朝ましろの教室に来てホームルームを仕切っている。昼食も、職員室でとればいいのに毎日ここだ。教卓で自作のお弁当を披露し、生徒たちに囲まれている。
 ましろはその光景を窓際で見つめ、ノートに書き留める。
 だから嫌だったのだ。雅高が担任になれば、こうなることはわかっていた。着任式で初めて見た時から。

『本日決行』

 その四文字を書き終えると、ましろはファイルを閉じた。

「高瀬」
 お弁当箱を片付けていると、思ったとおり声をかけられた。雅高は上体を傾け、ましろと目の高さを合わせている。いつも遠くから見ている顔が、たった三十センチ前にある。
 ましろは緊張すると無表情になるほうだ。全身の体温が下がり、目が見開き、頭の中が真っ白になる。他人には冷静に見えるらしいが、実際はその逆だ。
「今日、日直だったよな? 教材運ぶの手伝ってくれるか?」
 いつもは四十人の生徒に向けられる声が、今はましろ一人に向いている。この瞬間、雅高の声はましろだけのもの。
「はい」
「もう一人の日直は……田中か。いないぞ、どこ行ったんだ。まあ、二人でも持てると思うから。高瀬だけでいいか」
 心の中で小さくガッツポーズ。サボリ魔の田中君に感謝の念を送る。
「じゃ、行こうか」
 こうして、ましろだけのものになった雅高は、にっこり笑って教室の外へ向かった。
 後を追うましろが向けるただならぬ視線に、気付くこともなく。

 遠くから見つめ続けるくらいなら、当たって砕けたほうがいい。ましろの計画は、極秘裏にすみやかに行われた。
 実行日は決まっている。夏休みが始まる前の、最後の日直の日。
 つまり今日だ。

 雅高は社会科の教師だ。一年生の歴史と、二年生の地理を教えている。今日は昼休みの後がましろのクラスの地理の時間で、授業にはいつも大きな世界地図を使う。だから昼休みの間に、日直に手伝わせて教室へ運ばなければならない。もちろん、ましろはそこまで計算済みだ。
 資料室に向かう前に、二人は職員室に寄った。
「期末テストを返すんだよ」
 藁半紙の束を見せて、雅高は笑った。
「楽しみだろう。高瀬は自信あるか?」
「――まあまあです」
「落ち着いていられるのも今のうちだぞ」
 落ち着いてなんかいないよバカ。
 おとなしげな表情からは読み取られない悪態をついてみる。
 もっとも、数分後に落ち着いていられなくなるのは雅高のほうだろう。
 連れだって資料室に向かい、世界地図を探す。ましろはともかく雅高は毎日来ているので、すぐに見つかった。巨大な巻物状の地図。立てかけるとましろの背とほとんど変わらない。
「あー、高瀬は地図持たなくていい。こっちだ」
 巻物を抱えようとしたましろに、雅高は手にしていた本を差し出した。
「教科書と資料集と、今日配るプリントな。テストと地図は先生が持つから」
「はい」
 返事したつもりが、唇が動いただけだった。声が出なくなっている。この狭い資料室で、雅高はましろだけを見ているのに。
 早く言葉を出さないと、この瞬間が終わってしまう。
「じゃ、行くか」
 地図を担ぎ、テストの束を腕にひっかけた雅高は、資料室の戸を開けて振り返った。ましろが先に出るよう促しているのだ。
 出るわけにはいかないのに、足が勝手に出口を求めてしまう。
 戸の前で雅高の隣に立った時、ましろは足を止めた。
 雅高は今、不思議に思う。『どうした? 早く行くぞ、高瀬』。ましろの顔を覗き込んで笑う。
 その前にこっちが動かなくては。ましろだけのものになった雅高を、このまま三十九人の生徒たちに返してはいけない。
 雅高が『どうした?』の『ど』の形に口を開くのと、ましろが資料室の戸を閉めたのは、ほぼ同時だった。
 雅高は『ど』を『た』に変えて、ましろの顔を覗き込む。
「高瀬? 何か忘れ――」
「先生、好きです!」
 顔を上げた瞬間に叫んだ。
 それが、始まりの言葉。

 雅高は沈黙する。長く長く果てしなく。ましろの顔を上から見つめて。ましろの身長が百五十五センチ、雅高は百七十五・六だから、その差は優に二十センチ。立ち位置の距離も約二十センチ。
 長い沈黙の後、彼は微笑し、口を開く。
 ましろの読みはここまでだ。
 雅高の口が『ありがとう』と言うか『ごめんな』と言うか、そこから先はわからない。
 ましろはただ、待っていた。
 一生よりも長い数秒間を、雅高の口が開くまで。
 そして、その時はやってきた。
 雅高の口を開いた言葉は、『ありがとう』でも『ごめんな』でもなかった。
 笑い声だった。
「あははははっ。高瀬でもそんな冗談言うんだな。いつもはおとなしいから、びっくりしたぞ」
 びっくりしたのはましろのほうだ。
 乾き目になるくらい大きく見開いて、何も言うことができないましろに、雅高は更に続ける。
「そんなこと言っても、テストの点は変わらないぞ。もう採点しちゃったからな」
 あまりの言われように、ましろは言い返すこともできず突っ立っていた。
 『ありがとう』と言われることはあっても、『ごめんな』と言われることはあっても、『そんな冗談』と笑われることがあるなんてどうして考えただろう。ましてや、『テストの点は変わらない』だなんて。
 悲しいのか悔しいのか情けないのかもわからず、ましろは雅高を見上げたまま凍り付いていた。二十センチの距離で二十センチ上を見上げるのだから、角度はおよそ四十五度。首が痛い。
「じゃあ、今度こそ行くぞ。昼休みが終わっちまう」
「待ってください……」
 奈落の底から生還した後の、渾身の一声だった。虫の音のようなか細い声だっただろうが、二十センチ四方の至近距離のおかげでちゃんと聞こえていたらしい。
「なんだ?」
 ましろは、深く息を吸い込んだ。
「冗談じゃ、ありません……。テストの点も関係ないです。ちゃんと、答えてください」
 声を出せば緊張がほぐれると聞いたことがある。どうやら嘘ではないらしい。台詞を進めるに従って、ましろの口調は強くなっていった。
 雅高は再び沈黙する。今度は短かった。さっきの一生に比べたら、赤ん坊が中学生になるまでの間くらいだ。
 予定していたようにごく自然に、雅高の顔に笑みが浮かんだ。
「そうか。ごめんな、冗談なんて言って」
 さっきの軽口とは比べ物にならない、柔らかい声だった。静かに大地を潤す小雨のような、温かに身体を包む毛布のような。
 ましろはこれに聞き覚えがあった。四十人の生徒に向けられる、優しい篠原先生の声。
「高瀬の気持ちは、すごく嬉しいよ。ありがとう。でも高瀬は、大事な可愛い生徒だから。先生の彼女になんかできないよ。気持ちだけもらっておく。本当に、ありがとうな」
 マニュアル通りの、優しくて、美しくて、残酷な言葉。
「じゃ、行こうか」
 資料室の戸が開く。
 考えることを放棄した頭の代わりに、足が動き出した。ましろは逃げるように廊下に出る。雅高がそれに続く。後ろで扉が閉まる。雅高は再び、四十人の生徒のものになってしまった。
「高瀬? 行くぞ?」
 雅高に肩を叩かれるまで、ましろは凍結していた自分に気がつかなかった。大きな手の温かさによって融解し、現実に引き戻される。
 ましろはようやく、自分がたったいま失恋したのだと理解した。



 篠原雅高は職員室でコーヒーを飲む時、ミルクと砂糖を必ず入れる。ミルクはコーヒーフレッシュを一ケース、砂糖はグラニュー糖を一袋。利点はもちろん、苦味が消えて飲みやすくなること。全てをカップに入れてスプーンでかき回すと、甘そうなカフェオレもどきのコーヒーが完成する。
 授業の合間に職員室でコーヒーを飲むのは、学生時代からの密かな夢だった。できればブラックにしたかったが、こればかりは味覚の問題だから仕方ない。
 今日も全ての授業を終えた雅高は、デスクの椅子でマグカップを手にしていた。
 冷房の効きすぎる職員室では、この季節でもコーヒーに氷はいらない。窓の外で西日が校庭を焼いているのを見ると、ここは天国だ。
 念願の教職を手にして最初の学期が終わろうとしている。期末テストの返却も保護者面談も終え、通知表も全てつけた。来週には終業式だ。
 それだけでも十分ほっとする理由になり得るのに、今日の雅高は上乗せで機嫌が良かった。
 中学生くらいの女の子は、教師を好きになりやすいと聞いたことがある。同年代の男子が子供っぽく見える年頃だから、対象は自然と年上の者になる。一番身近なのはやはり、学校の教師だ。
 教員免許取得を目指していた学生時代、自分の身にそれが起こるのを想像したことがないと言えば嘘になる。可愛い教え子に慕われるなんて、考えただけで気持ちが和んでしまう。
 国立大をストレートで出たものの、教員試験の狭き門にぶつかって就職浪人。三年の受難の後、ようやく中学教師と呼ばれる職に就くことができた。二歩も三歩も遅れた社会人デビューからはや四ヵ月。思い描いた夢が次々と現実になっていく。
 それを叶えてくれた生徒が彼女だったことは、少し意外だったが。
 高瀬ましろ。
 その名前が持つイメージに違わず、おとなしい少女だ。極端に口数が少なく、教室ではどのグループにも属していない。昼休みも一人でノートを広げ、何やら熱心に書きものをしている。
 真面目なのか、成績は悪くないほうだ。今日返却した地理の期末試験でも、上の中と言える点数を取っていた。
 身長は平均よりやや下、体型は平均よりはるかに細く、夏服から伸びた手足は透き通るように青白い。だが顎のところで切り揃えたまっすぐな黒髪と、話す時にまばたきもせず見つめてくる大きな目が印象的だった。
 クラスの生徒は男子も女子も、若い雅高に懐いてくれている。授業の脱線話が受けなかったことはないし、教室で昼食をとっていれば必ず誰かが声をかけてくる。
 その例外が、高瀬ましろだった。
 教室の談笑からは常に孤立しているし、雅高が声をかけても無表情で必要以上にしゃべらない。嫌われているのかと不安を抱えていた時だった。
 日直の仕事で二人きりになった資料室。いつもにも増して無口だったのは、緊張していたせいかもしれない。せっかく開けた扉を閉めなおして、雅高の声を遮って叫ばれた言葉。
『先生、好きです!』
 なんて初々しい告白の仕方。
 思い出しただけで、頬が緩んでしまう。
「篠原先生、何かいいことありました?」
 などと、テレビドラマのお約束よろしく聞いてくる教師もいる。
「――いえ。今学期の終わりでほっとしているだけですよ」
 誰にも話すつもりはない。嬉しすぎてもったいないということもあるが、それ以上に危険だった。
 そう、危険。
 雅高は思わず、緩んだ顔を引きしめた。
 教え子に慕われるのは嬉しいことだ。だがその対処の仕方を誤れば、恐ろしいことになる。下手をすれば、苦労して手に入れた教職を失うことにもなりかねない。
 それだけはごめんだった。
 自分でも、先ほどの返事は完璧だったと思う。ましろは何も答えなかったが、食い下がらなかったことを考えると理解してくれたのだろう。
 かわいそうだが、教師への恋愛感情など実るほうがどうかしている。
 ましろはまだ中学生。これから何人もの相手を好きになれるし、そのいくつかは成就することもあるだろう。そして今日のことを思い出し、子供だったなあと懐かしく笑うようになるだろう。
 雅高は自分に言い聞かせると、甘いコーヒーを飲んで一息ついた。
 そろそろ現実に戻らなくては。夏休みだからといって仕事がないわけがない。まずは七月の末に、夏休み恒例のサマーキャンプが待っている。二年生全員が山地のバンガロー村で二泊三日を過ごすという行事だ。
 確か、クラスの実行委員に放課後集まるよう言ったはず。
 そう言えば遅いなあと、雅高はきっちり閉められた職員室の扉を見た。その瞬間、眼力が働いたようにそれが開いた。
 現れたのは、セーラー服を着た華奢な女子生徒。
 雅高は口を開けて彼女を見た。
 失礼しますと下げた頭に揺れるまっすぐな黒髪は、見間違えるはずもない。今日、雅高に告白してきた生徒のものだ。
「……高瀬?」
 ましろは雅高の上に視線を止め、机の間を縫って静かに歩いてきた。
「どうした?」
「サマーキャンプのことで来ました」
「は?」
 雅高は記憶を確認する。実行委員に決まっていたのは、確か他の生徒だったはずだ。
 まさか、と思いながら、脇に立ったましろを見上げた。ましろの顔は固まったように表情がない。ただ黒目がちの二つの目だけが、捕らえるように雅高を見つめてくる。
「実行委員を代わってもらいました。よろしくお願いします、篠原先生」
 礼儀正しく言って、ましろは頭を下げた。


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