鞠と琴 [ 3 ]
鞠と琴


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 飛香舎でのわたしの暮らしは悲嘆とともに始まり、平穏とともに過ぎていった。嫌がらせをされたのは最初だけで、その後は女房たちの心配をせせら笑うように何ごとも起きなかった。自分の殿舎から出ることもなかったので、他の女御や更衣、女房たちの声を聞くこともなかった。
 今上帝の後宮には、新参のわたしを含めて五人の女御がいた。局は登花殿、弘徽殿、承香殿(しょうきょうでん)凝花舎(ぎょうかしゃ)、飛香舎だ。
 帝は登花殿に入り浸りというわけでもなく、わたしのいる飛香舎にも一定の間合で訪ねてきてくださった。女房たちが聞いてきた話によると、他の女御たちにも同じようにしているようだ。しかし、それは定められた日に公卿が出仕するようなもので、義理を通したら残りの日はすべて登花殿でお過ごしのようだった。
「いくら美しいと言っても、あちらは二十歳を過ぎた年増ではないか。お若い主上には、花の蕾のような我が姫こそがふさわしいというのに」
 飛香舎を訪ねてきたわたしの父は、陰ることのない登花殿の栄華をたいそう悔しがっていた。いずれは自分の娘にも寵愛をと息巻く父に、わたしは本当のことを話すつもりにはなれなかった。帝はわたしの幼さ、世慣れなさを面白がられるばかりで、わたしを女君として見なされる様子はいまだ窺えないのだと。
 わたし自身はそのことを少しも気に病んでいなかった。妹のように慈しんでくださる帝に甘えることでじゅうぶん満たされていた。父や女房たちのように、登花殿へのご寵愛を羨んだり、妬んだりする気持ちも起こらなかった。
 ただ、ひとつだけわたしの胸を締めつけるものがあった。夜半に殿舎の外から聞こえてくる琴の音だ。
 帝が登花殿にお渡りだと聞いた日は、夜になると必ずそれが始まった。幼いころに何度も耳にした音色をわたしが聴きちがえるはずがない。おねえさまの和琴だ。おねえさまが登花殿で帝にお聴かせしているのだ。
 そのことを思うたび、わたしは飛香舎の自分の寝床で、初めて知る痛みを持て余した。
 これは嫉妬なのだろうか。わたしは後宮入りした女君の例に漏れず、寵愛をひとりじめする女御を妬んで、憎んでいるのだろうか。この気持ちを消すことができずのさばらせておけば、やがて人の殿舎に小石を撒くまでになってしまうのだろうか。
 日増しに膨らんでゆくその黒い靄は、秋口に飛びこんできた報せで一気に広がった。
 登花殿の女御が、再び懐妊したというのだ。
「喜んでおくれ、藤壺。わたしに子ができる」
 飛香舎にやって来られた帝は、妹と喜びを分かちあうように告げた。わたしは女房たちから聞いて知っていたので、あらかじめ備えておいた笑みでそれに応えた。
「お喜び申し上げます、主上。お健やかな皇子(みこ)さまがお生まれになりますよう」
 一年足らず前におねえさまが死産した子を除いて、今上帝には皇子も皇女(ひめみこ)もいらっしゃらない。これから生まれてくる御子が皇子ならば、間違いなく東宮になれる。おねえさまは国母となられ、女人の栄華を極められるのだ。
 後宮中が、いやおそらく都中が、この報せに色めきたっていた。これで今上の世は安泰だと喜ぶ者もいれば、登花殿の立后がついに揺るがなくなったと嘆く者もいただろう。
 わたしはと言うと、胸に広がった靄をひとりで抱えこんでいた。
 登花殿の華々しい噂を耳にするたび、わたしの胸に浮かぶのはおねえさまの顔ではなく、御簾の向こうにいたであろう美しく冷たい女君だった。あの方が帝の御子をお産みになるのだ。
 朝夕の空気が冷え、夜に鈴虫の声を聞くようになると、それまで毎夜のように響いていた琴の音は聞こえなくなった。登花殿の女御がお産のために里下がりなさったのだ。
「簀子に出て聞いてごらん、藤壺。良い音だ」
 飛香舎の廂で、帝が格子を持ち上げておっしゃった。登花殿の女御が後宮を空けているあいだ、帝はわたしを含む他の女御のもとへ普段よりは頻繁にお渡りになっていた。
「主上は虫の音よりも、琴がお好きなのではございませんか」
「かわいいことを言うね。そなたが弾いて聴かせてくれるということか」
「いいえ。わたしは、琴は得手ではありません」
 主上がお聴きになりたいのは、登花殿の女御さまの琴なのでしょう。
 わたしはその言葉を呑みこみ、自分の中の靄がいっそう濃くなっていくのを感じた。
 それからわずか数日後のことだった。
 登花殿の女御が、再び御子を死産したという報せが届いたのは。

「御子は一年前と同じく、皇子さまであられたそうです」
 飛香舎の母屋の中で、わたしは女房の話を聞いていた。外では秋の長雨が続き、殿舎の屋根や高欄を叩く音が響いていた。
 登花殿の女御が宿した御子は、一年前と同じく月足らずでこの世に出られ、生き永らえることができなかった。
 そして、再び御子を失った女御も、同じ夜のうちに息をひきとった。
 報せを受けて十日以上が過ぎた今も、わたしはまだ何が起きているのかよくわからなかった。ただ、弔意を示す内裏の方々にならって、薄墨色の衣を身につけ、いっさいの遊戯を控えていた。
「ご葬儀は左府さまのご差配で、二条のお邸で行われたそうです」
「左府さまと北の方さまは、ひどくお嘆きになっているのでしょうね」
「いいえ、それがそうでもないようですよ」
 女房は苦笑して声を低めた。
「聞いた話では、左府さまはご葬儀が済むや否や、中の君の入内を打診なさったそうで」
「……本当なの?」
 左府さまの中の君は登花殿の女御の妹だが、母君が違う。二条のお邸には住んでいなかったので、わたしはお会いしたことがなかった。母君のご身分は低くないようだったが、確かわたしよりも年下だったはずだ。
 左府さまは女御の喪も明けないうちに、そんな幼い妹姫を入内させようとしているのだろうか。
「さすがに内裏の方々も不謹慎だと思われたようで、この件はいったん保留にされたようですが」
「当然だと思うわ」
 帝はどうお思いになるのだろう。最愛の妃を亡くして間もないうちに、舅からその妹を押しつけられるなんて。
 悲報を聞いてからほとんど初めて、わたしは自分の心が動くのを感じた。

 帝が飛香舎にやって来られたのは、それから幾日も経たない夜だった。簀子でともに虫の音を聞いた晩からは、二十日近くが過ぎていた。
「主上、このたびはお悔やみ申し上げます」
 わたしはいつものように両手をつき、いつもとは違う言葉で帝をお迎えした。
 登花殿の女御とその御子の悲報が届いて以来、帝は後宮のどこの局にもお渡りになっていなかったと聞いた。不幸に遭われた帝が最初に訪れる妃に選ばれたことに、わたしはかすかに誇りのようなものを感じ、同時にそんな自分を深く恥じた。
「ありがとう、藤壺。そなたも悲しんでいるのであろう。登花殿とは姉妹も同然の仲だったと聞いた」
「いいえ、主上」
 最愛の妃と御子を亡くされた帝の悲しみに比べれば、わたしのそれなど取るに足らないものだ。
 それより何より、わたしには自分の悲しみがよくわからないのだった。御簾の向こうにいた女君と自分の知るおねえさまとが結びつかない以上、儚くなられたのはあくまで登花殿の女御さまであり、おねえさまは今も二条のお邸にいらっしゃるような気がしてならなかった。
「ところで――藤壺」
 帝は悲しげに微笑まれたと思うと、おもむろに声色を変えてわたしにお尋ねになった。
「左府の中の君のことを、そなたは何か知っているか」
「……中の君ですか?」
「そなたは左府の邸に幾度も通い、登花殿と親しくしていたと聞いた。中の君の姿も見たことがあるのではないか。登花殿に似ているのだろうか」
 わたしは帝の声を聞きながら、中の君の入内の噂を思い出した。不審な気持ちを抱かずにはいられなかった。帝のお顔がどこか楽しげに見えたからだ。
「中の君は左府さまのお邸にお住みではなかったので、わたしはお会いしたことがございません。存じているのは、登花殿の女御さまとは年が離れていらしたことくらいです」
「離れているというと、どのくらい」
「――確か、今年で十三になられたかと」
「十三。そうか」
 帝は微笑みを浮かべたまま、おひとりでうなずいていらっしゃる。

 それからまた数日後、わたしのもとに意外な訪客がやってきた。
「北野? 本当に北野なの?」
 御簾の内側で面を上げた相手を見て、わたしは声高に叫んだ。
「鞠姫さま――いいえ、藤壺の女御さま。ご無沙汰いたしております」
 話し上手の年かさの女房は、記憶にある顔よりも老けこんでやつれていた。最後に会ったのはわたしの裳着と入内より前で、それから一年近くが経っている。後宮の物語を綴った冊子を届けてくれたのも、その時が最後だった。
「元気にしていたの?」
「おかげさまにて。ただ、近いうちに仏門に入り、髪を下ろそうかと考えております。今日こちらに参りましたのは、ひとつにはその前にごあいさつを申し上げるためです」
 わたしは一瞬、なんと答えたらいいのかわからなかった。
 おねえさまの側仕えを降ろされたのは、北野にとってそれほどの痛手だったのだろうか。北野のような才のある女房ならば、左府さまのお邸でも重宝されていると思っていたのに。
「今ひとつは、こちらをお届けするためです」
 北野は言い、かたわらに置いてあったものを両手で押し出した。
 北野の顔に見入っていたわたしは、その時までそれに気づかなかった。弦を張りかえた跡が見られる、使いこまれた和琴。
 ひとめでわかった。おねえさまのものだ。
「登花殿の女御さまのお形見でございます。ご自分にもしものことがあった時、こちらの女御さまにこれをお譲りしたいと」
 わたしは和琴と、北野の顔を見比べた。
「北野。あなたがおねえさまから仰せつかったの?」
「はい」
 わたしの疑問を感じとったのか、北野は力なく笑って続けた。
「女御さまには正しくお伝えしておりませんでしたが、わたしに暇をお出しになったのは、姫さまではなく左府さまです」
 北野はおねえさまのことを、昔のように姫さまと呼んだ。
「姫さまが後宮に入られてまもなくのことです。左府さまが姫さまの御身まわりを一新なさるとおっしゃって、わたしを含む三人の女房が年や才を理由に暇を出されました。姫さまがご期待以上にご寵愛をお受けになっていたので、その妨げとなり得るものは遠ざけねばとお考えだったのでしょう。
 女房ばかりではなく、姫さまのご装束もお使いの小物も、少しでも珈のあるものは徹底して取り除かれました。姫さまがお気に召していらして、取り上げないでほしいとおっしゃっても。これはおまえのものではなく、東宮さまのものだと、左府さまはおっしゃったのだそうです。姫さまの御身を取り巻くものは、姫さまご自身と同じく東宮さまのお持ちものだと。だから東宮さまのお気に障るものを置いていてはいけないと」
 その話にはわたしも身に覚えがあった。入内の支度を整える父は、帝のお気に召す装束、帝のお気に召す品物を揃えようと気負い立っていた。入内させる娘そのものも取り替えたいと言い出しかねない様子だった。
「でも、おねえさまは、主上に愛されていらしたのでしょう」
 自分を愛おしんでくださる方のためならば、少しくらいの努力や譲歩は苦にならないはずだ。
「愛されていた。ええ、あれをそう呼んで良いのでしたら」
 北野は饒舌になっていた。自分のいる場所が当の帝の後宮だということも、忘れているのかもしれなかった。
「主上は確かに、添臥のその夜から姫さまをお気に召され、毎夜のごとく姫さまの局へお通いになりました。姫さまのお加減が悪い時にまで、強引にお会いになろうとなさるほどに」
 北野は勢い及んで言い、わたしを気遣うようにちらりと見た。
「そのために他の女御さまの父君たちから疎まれていることを、姫さまは察していらっしゃいました。一度などは、呪詛めいた文を受け取られたこともおありで。姫さまは主上に対して、他の方々にもお気遣いをしていただけるよう、お願い申し上げたのだそうです。けれど、主上は義務のように他の局にお渡りになっただけで、ご寵愛の偏りがなくなることはございませんでした。そればかりか、姫さまは陰で当て擦られもしたのだそうです。登花殿の女御がご親切にも主上にご進言してくださった、さすが今をときめく女君は幅の利かせ方が違うと」
「北野はどうしてそんなによく知っているの。おねえさまのお側にはいられなくなったのでしょう」
「姫さまからお聞きしたのです。お里下がりの折に」
 おねえさまが里下がりを許されたのは、四年の間で二回。帝の御子を宿し、そして亡くされた時だ。
「最初の里下がりの時、姫さまはすでにかなり弱っておいででした。たび重なるご心労の上に、初めてのご懐妊で気分も優れないご様子で。その上に、御子まで喪われて……それなのに主上は、姫さまをすぐ後宮に帰すよう左府さまをお急かしになったのです。姫さまは身も心も深く傷つかれて、寝食もままならないご様子でしたのに。しばらくお待ちいただけないかとわたしどもが申し上げると、左府さまはとんでもないとお怒りになりました。卑しくも主上に仕える者が、そのご所望を退けるとは何事かと。姫さまは一刻も早く後宮に戻り、再び御子を授かるように努めなければならないと」
 わたしはいつしか、相槌を打つことも忘れて聞き入っていた。
 北野は昔から話し上手で、面白い物語を聞かせてはわたしとおねえさまを楽しませてくれていた。けれど、こんな話を聞いたのは初めてだった。
「わたしは、おねえさまは、北野の物語にあるような暮らしをしていらっしゃるのだと思っていたわ」
 わたしがやっとの思いで言うと、北野は辛そうに微笑んだ。
「あれを書いてほしいとおっしゃったのは姫さまです。苦しいこと、悲しいことは書いて残してほしくないと。後宮の楽しいところ、美しいところだけを書いて、鞠姫さまに読ませてさしあげてほしいと」
『北野がそれを書いて鞠姫が読んでくれれば、わたくしは本当に物語の幸せな姫君になったような気がするの。物語の中でだけでも、わたくしは昔のままのわたくしで生きていたいのよ』
 おねえさまのお声が聞こえたような気がした。
「二度目のお里下がりの時、わたしがお目にかかるや否や、姫さまはこれをお託しになりました」
 北野は目を落とし、わたしの前に置かれた和琴を示した。
「ご自分が生きて母君になられることはないと、察していらっしゃったのだと思います」
 わたしはおねえさまの和琴を見つめた。幼いわたしに幾度となく聴かせてくださった琴。おねえさまは登花殿でも毎夜のようにこれを弾いていらした。帝にお聴かせするために。
 よく見ると、手入れが行き届いていたはずの琴には、誤って撥を当てたような傷がいくつもついている。張りかえられた弦はたゆみかかっており、今にも切れそうなほど傷んでいる。
 それを見て、北野を見て、わたしは悟った。
 おねえさまは殺されたのだ。

 北野が飛香舎を去って数刻後、殿舎の外から、凄まじい物音が聞こえてきた。几帳か何かが倒れる音と、激しく言い争うような女人の声。
 様子を見に行ってくれた女房が、戻ってきてわたしに報告した。
「弘徽殿の女御さまがご乱心なさっているようです。亡き女御さまを呪詛していたのではないかと、主上に疑いをかけられたのだそうで」
 わたしは扇を手に簀子に出て、弘徽殿の方向を見やった。高欄と渡殿で隔てられた向こうで、確かに甲高い女人の声が響いている。
「――離して! 主上に今すぐ申し上げなければ。あたくしは呪詛などしていないと!」
 また何かが倒れる音がして、女房たちが必死で諫めている声が続く。
「あたくしは、皇子を産まなければならないのに。お父さまのために、皇子を産まなければならないのに!」
 女御の高い声は、張りつめた初冬の空気を切り裂くように響きわたった。
 わたしは耳を塞ぐこともきびすを返すこともせず、高欄に寄りかかってその声を聞いていた。

 帝が飛香舎にやって来た夜、わたしはいつものように両手をついてお迎えしなかった。母屋の奥で壁のほうを見て座り、お尻を向けることこそしなかったものの、現れた帝には横顔を見せる形になった。
「どうしたのだね、そんなところで」
「わたしは怒っているのですわ」
 御簾の手前で立ったまま動かない帝を見ず、わたしはつんとして壁を見たまま言った。
「主上はわたしのことはいつまでも童女あつかいなさるのに、わたしよりもお若い中の君にはご関心をお持ちになるのですもの」
 帝がため息をつくのが聞こえた。顔は見えないので、どんな表情をしているのかはわからない。
「かわいい人。中の君の入内はまだ決まったわけではないよ。もし入内させることになったとしても、そなたのもとへも会いに来るのは変わらない」
「わたしを愛おしんでくださいますか? 一人前の女君として」
「そうするとも」
「登花殿の女御さまになさったように?」
「もちろん」
 帝はわたしの言葉に答えながら、ゆっくりと母屋の奥へ歩み寄ってきた。
 わたしのところまで数歩となった時、
「あっ」
 と叫んで、帝は後ろに倒れてひっくり返ってしまった。はずみで蹴飛ばされた几帳も傾き、派手な音を立てて母屋の中に倒れた。
 わたしは顔を向け、帝が踏みつけた小石を拾い上げた。女房たちが下がった後でわたしが置いておいたものだ。帝が足を踏み入れるであろう場所に。
 ぶつけた腰をさすって顔をしかめる帝に、わたしはにっこり笑いかけた。
「後宮とは恐ろしいところですわね、主上」

 ひとりになった飛香舎の母屋で、わたしは琴を弾いた。
 おねえさまの和琴だ。二条のお邸で何度も聴いた、おねえさまのいちばん好きな曲だ。
 わたしの腕前はあいかわらずで、手にした撥をうまく動かせず、つっかえては妙な音を響かせてしまう。耳に残っていたおねえさまの美しい音色が、わたしの拙い演奏にかき消されてしまう。
 それでもやめることはできず、わたしは和琴に覆い被さるようにして弾き続けた。
「おねえさま」
 童女のころ毎日のようにお会いしていた時、おねえさまからきちんと教わっておけば良かった。
 父の制止など振り切って、後宮までお会いしに行けば良かった。最初のご懐妊で里下がりなさった時、真っ先にお見舞いに行けば良かった。御簾を蹴飛ばしてでも登花殿の母屋に押し入れば良かった。お側にいて、お話を聞いて、おねえさまをお慰めすれば良かった。
 わたしには何ひとつできなかった。今だって、もうこの世にはいらっしゃらないおねえさまに、哀惜の琴を捧げることすら満足にできない。
「おねえさま、おねえさま」
 何度も呼びながら、わたしは憑かれたように弾き続けた。人気のない昼の飛香舎では、わたしの琴の他には何の物音もしなかった。

 おねえさまが世を去られて五年が過ぎ、わたしは今も後宮で暮らしている。
 登花殿にはその後、おねえさまの異母妹である中の君がお入りになった。が、姉君とはあまり似ていない女君であったらしい。帝は他の女御と同じだけの関心しか示さず、現在の後宮には寵愛を一身に受ける妃はいない。
 弘徽殿の女御は二年ほど前、念願の皇子をお産みになった。そのお祝いに伺ったのを機に女御とわたしは親しくなり、お互いの局を頻繁に行き来するようになった。皇子を産むという重圧から解き放たれた女御は、さっぱりした気性の話しやすい女君だった。
 北野は左府さまのお邸を辞し、山寺に入って尼になったそうだ。彼女の心が穏やかであるよう、毎朝わたしは御仏にお願いしている。
 北野が残してくれた後宮の物語は、今もすべてわたしの手もとにある。擦り切れたそれを何度となく読み返したわたしは、ある日、ふと思い立って筆を手に取った。
 都中の人に羨まれた登花殿の女御のことを、今は誰ひとり思い出しもしない。北野は仏門に入ってしまったし、左府さまのご関心は中の君が皇子を授かるかどうかだけだ。おねえさまのことを覚えているのはこの世でわたしひとりになってしまった。
 ならば、わたしがおねえさまのことを書くべきではないだろうか。
 苦しいこと、悲しいことは書いてほしくないと、おねえさまは言った。物語の中でだけでも幸せな姫君でいたいと。
 けれど、おねえさまは物語の人物ではない。苦しみも悲しみも知っている、現身の女君だった。
 わたしが書こう。北野が書かなかった、書けなかった物語を。おねえさまのすべてを。
 そうしてわたしは今も筆を動かしている。北野のように巧くは書けないけれど、書いているうちにおねえさまのことが鮮明によみがえってくる。おねえさまがわたしの筆から抜け出して姿を見せ、琴の音と同じ優しいお声で、わたしを呼んでくださるような気さえするのだ。
 鞠姫、と。



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