鞠と琴
二
早咲きの梅の香りを嗅ぐころ、わたしの裳着の儀式が盛大に行われた。右大臣のひとり娘の祝い事だけあって、邸にはおおぜいの人が集まってくれた。
それから十日と経たないうちに、わたしは後宮へ移った。
わたしはまず外郭を通って大内裏に入り、いくつもの官庁の間を抜けて内裏にたどり着いたようだ。ようだと言うのは、輿に乗せられていて外の景色がまったく見られなかったからだ。
ようやく降りることを許されたわたしは、広げた扇の端からちらりと周囲を盗み見た。
内裏の中で帝の后妃が住まう場所、世に言う後宮は、七殿五舎から成り立っている。それぞれの殿舎にはいずれ劣らぬ美しさの女御が据えられ、才長けた女房たちが女御とその住まいを磨きあげ、帝の清涼殿に招かれる、あるいは帝がおいでになるのを待ちわびている。百花が咲き乱れる常春の園。
北野の物語でその美しさを胸に焼きつけていたわたしは、自分の目に映ったものの凡庸さに拍子抜けした。わたしが降ろされた簀子からは、内を向けば閉ざされた格子、外を向けは渡された高欄しか見えず、つまりはそれまで住んでいた邸と何ら変わりない光景だったのだ。人影と言ったらわたしに付いてきた女房たちくらいで、美しい女君も凛々しい公達の姿も見えない。
「これが後宮?」
わたしは思ったままを口に出した。
「さあさ、姫さま。中へお入りくださいませ。お疲れになりましたでしょう」
「主上にごあいさつをしなくていいのかしら」
わたしが言うと、女房たちはどっと笑った。
「畏れ多くも主上のもとへこちらから出向くだなんて。姫さまはまだ童女のように無垢でいらっしゃいますね」
「じゃあ、他の女御さまたちには? これから近くに住まわせていただくのだもの。ごあいさつをしてもいいでしょう」
女房たちが返事に詰まってお互い顔を見あわせた。わたしはその一瞬の隙をついた。
「あっ、姫さま!」
簀子を足早に抜け、渡殿を通っておねえさまの登花殿を目指す。わたしに与えられた飛香舎は登花殿にそれほど遠くない。入台の前に女房たちが教えこんでくれたおかげで、内裏の地理はしっかり頭に入っていた。同じく女房たちが教えてくれた、膝をつかった優雅な歩き方のほうは、すっかり頭から逃げ去っていたけれど。
「お待ちを、姫さま」
追いついた女房のひとりが、わたしの前にまわって身をかがめた。
「まず、わたしどもが登花殿に参り、あちらの方々にお伺いをたてて参ります。姫さまはお許しをいただいてからお越しに」
「中にいらっしゃるのはおねえさまよ。そんな面倒なことをしなければ会えないの?」
「いくら昔なじみと申しましても、あちらは古参のときめく女御さま、姫さまは今日いらしたばかりですので」
わたしは不満に思いつつも、登花殿の手前の簀子で女房が呼んでくれるのを待った。
後宮は思い描いていたほどきらびやかな場所ではなかったけれど、その凡庸さがかえってわたしの中の思い出をかき立てた。おねえさまと過ごした幼いころの思い出だ。
最後におねえさまにお会いしたのは三年前だ。童女だったわたしが裳着を済ませた女君としておねえさまにお会いするなんて。おねえさまは何と言ってくださるだろう。少しは大人っぽく、きれいになったと褒めてくださるだろうか。それとも、変わらないわね、鞠姫、と呼んで、懐かしそうに微笑んでくださるだろうか。
「――なんだか、騒がしゅうございますね」
待ちきれずそわそわしていたわたしの耳に、聞き慣れない女人の声が忍びこんできた。
左右を見まわしてみても、近くにいるのはわたしの女房だけだ。声は簀子と隔てられた格子の向こう、更にその奥から聞こえてくるようだ。
「どこぞの雑仕女でも迷いこんだのでしょうか」
「いいえ、今日は確か、飛香舎に新しい姫君がお入りになる日ですよ。右府さまの大君でいらっしゃる」
わたしは気がついた。わたしがうろついていたのは登花殿の隣にある、弘徽殿の前の簀子だ。話しているのは弘徽殿の女御の女房たちだろうか。
弘徽殿の女御はおねえさまと同じく、東宮時代から帝にお仕えしている方だ。新参のわたしが騒いで迷惑をかけたのだから、お詫びしに行くべきだろうか。
「飛香舎にお入りになる方が、どうしてこんなところへ」
「登花殿にお伺いになるのではないですか。右府さまの大君と登花殿の女御は確かいとこですから」
「お会いになるのかしら。あのお高くとまった中宮さまが」
ひときわ甲高い声が響き、わたしは思わず身をすくませた。いとこなのはおねえさまとわたしではなく、その父親どうしだなどという些細な点は、声の高さと鋭さにすっかりかき消されてしまった。
「女御さま、そのようにお呼びしては……まだ決まったことではないのですから」
「決まったようなものでしょう。ご当人がすっかり中宮さまになったおつもりで、あたくしたち他の女御のことは鼻にもひっかけないのだから」
するとこの甲高い声は、弘徽殿の女御の声なのだろうか。
「それは、まあ……登花殿の女御さまは、今をときめくお方ですし……」
「いいえ、こちらの女御さまだって、いずれは」
「あたくしのことはいいのよ。それより、飛香舎の方がおかわいそうだわ。懐かしいいとこを慕って参られるのでしょうに、果たしてそのいとこは入台の前と同じ女君なのかしら」
弘徽殿の女御の声は格子をくぐり抜け、内裏中に響きわたるのではと思うほど高かった。ここにいるわたしに聞かせるつもりでわざと声高に話しているのだろうか。
女御の言葉はわたしにはわからないものも多かったが、おねえさまが悪く言われているということはわかった。お高くとまっているだの、中宮さまになったつもりだの。
後宮とは帝の寵愛をめぐって、たくさんの妃たちが争うところだ。それは知っていたつもりだったけれど、生身の女人の悪意を肌で感じたのは、これが初めてだった。
おねえさまは帝のご寵愛を一身に受けていらっしゃる。愛されるということは、他の妃に妬まれるということでもあるのだ。
「姫さま」
身をこわばらせていたわたしの前に、登花殿から女房のひとりが戻ってきた。
「お許しをいただきました。あちらへ」
わたしはうなずき、先導する女房に続いて登花殿の前へ進んだ。
早くおねえさまの声が聞きたい。弘徽殿の女御の甲高く鋭い声が、まだ耳の中に残っている。春の陽気を音にしたような優しい声を聞いて、許されるなら懐かしい琴も聴かせていただいて、耳に残った傷跡を消し去ってしまいたい。
上げられた格子を抜けて廂に入り、垂れ下がった御簾を見つめる。この向こうにおねえさまがいる。
「ここまででございます」
御簾を突き破る勢いで進もうとしていたわたしを、隣から聞こえた知らない声が打った。
「え?」
「ここにお座りくださいませ、藤壺の女御さま」
一瞬、それが自分に向けられた言葉だとはわからなかった。飛香舎は藤が植えられていることから藤壺とも言う。その場所に住まいを賜るわたしは、今日からおねえさまや弘徽殿の方と同じ、女御さまと呼ばれることになるのだ。
それが自分のことだとはわかっても、言われた内容まではまだ理解できなかった。
高貴な女君は他人にたやすく姿を見せず、客のおとないも御簾ごしに迎えるものだ。それはもちろん知っているけれど、おねえさまと御簾を隔ててお話したことなんて、覚えている限り一度もない。
「おねえさ――登花殿の女御さまは、今いらっしゃらないの」
「いいえ、こちらにおいでです」
「お加減でもお悪いの?」
「お健やかでいらっしゃいます。ご用件はわたしにお伝えくださいませ、藤壺の女御さま」
ふたつめの質問への答えは御簾の向こうから聞こえてきた。おねえさまの声ではない。内裏へ来てからおねえさまについた女房だろうか。
「おねえさま」
わたしは御簾に向かって語りかけた。
「わたしです。二条のお邸で、いつも琴を聴かせていただいていた……おねえさまと北野は、鞠姫と呼んでくださっていました。覚えておいででしょう? 約束したのに、一度もこちらに来られなくてごめんなさい。今日からこちらの飛香舎で暮らすことになったので、ごあいさつに伺いました。どうか、お側へ参らせてください」
知らず知らず緊張していたのか、思っていたより堅い言葉になってしまった。お邸でお話する時はもっと気安く、姉妹のように話しかけていたというのに。
きっと、御簾に隔てられておねえさまのお顔が見えないせいだ。お側へ行って目と目をあわせれば、昔のように言葉を交わすことができるに決まっている。
春だというのに手が冷たい。廂の板間についた指先が震えている。
「――女御さまは、こう仰せになっています」
御簾の向こうから聞こえてくる声が、沈黙を破った。
「右府さまの姫君の入台にお祝い申し上げます。内裏での暮らしには慣れずに戸惑うことも多いでしょうが、お心を尽くして主上にお仕えなさいますよう、と」
暗闇に閉じこめられたような気持ちで、わたしは目を見開いた。前にある御簾が、決して明けることのない夜の帳に見える。
「――おねえさま? 会ってくださらないの?」
「女御さまは仰せになっています。今日はご自分の殿舎でご心身を休め、一日も早くこの場に慣れられますよう、と」
「おねえさま? せめて、お声を聞かせてください」
女房の声を遮るようにして、わたしは廂から腰を浮かせた。
その時だった。
「鞠姫」
御簾の向こうでそれまでとは違う声がした。廂にいた登花殿の女房も、わたしの女房たちも、いっせいにその声に顔を上げた。
おねえさまの声だ。お弾きになる琴の音と同じくらい美しい、優しいおねえさまの声。
「おねえさま――」
「お戻りなさい、あなたの殿舎に」
廂の上に膝で立ったまま、わたしは凍りついた。
「あなたとここで会いたくはなかった。あなたは、ここに来るべきではなかったのに」
言われていることの意味がよくわからなかった。わたしの入内を望んだのは父だ。後宮で暮らすことにも、帝の妃になることにも、わたし自身は興味がない。わたしがここに来た理由はただひとつ、おねえさまにお会いしたかったからだ。
そのおねえさまが、わたしに会いたくないと言っている。
「飛香舎にお戻りなさい。そして、二度とわたくしを姉のように呼んではなりません。あなたとわたくしは今日よりともに主上にお仕えする身です」
弘徽殿の女御の高く鋭い声が、頭の中に響く。
『飛香舎の方がおかわいそうだわ』
『果たしてそのいとこは、入内の前と同じ女君なのかしら』
おねえさま。御簾の向こうにいらっしゃるのは、おねえさまではないのだろうか。聞こえてくるのはわたしが覚えているのと同じ声なのに。
「姫さま」
女房のひとりが見かねたようにわたしを呼んだ。
どうやって飛香舎まで戻ってきたのか覚えていない。たぶん登花殿へ向かった時と同じく、女房たちに前後を守られ、渡殿や簀子を歩いてきたのだろう。
上げられた格子をくぐって廂に踏み入れた時、足の裏に妙な感触を覚えた。
「あっ」
次の瞬間、わたしは声を上げ、廂の板間にお尻をぶつけていた。踏みつけた何かに滑って転んだのだと気づくと同時に、痛みが腰のあたりまで響いてきた。
「姫さま、大事ございませんか」
「お怪我は……まあ、これは」
女房たちが目を開いて見つめる足もとに、わたしも視線を向けた。格子から母屋へと続く、飛香舎の廂の中心のところに、わたしの掌に載るほどの平たい小石が散らばっていた。
「いったい誰がこんなことを」
「あら、誰かがわざとやったと思うの?」
「それはそうでしょう」
口々に言いあう女房たちの声を聞いて、わたしはこれが自分への嫌がらせなのだと気がついた。新しく入内した妃に対する、他の女君からの仕打ち。自分の身にこんなことが起きるなんて。
北野がくれた後宮の物語には、こんなことは書かれていなかったのに。
帝が飛香舎においでになったのは、次の晩のことだった。
わたしは母屋にしつらえられた寝床の隣で、女房が梳ってくれた髪に何度も指を通していた。これほど早くこの時が来るとは思わず、さすがに緊張していたのだ。
女房たちは帝の仰せに従うようにと言い含めただけで、他には何も教えてくれなかった。帝位につかれて一年になられる今上帝のことを、わたしは何も知らない。数え十六の若盛りであられるということと、おねえさま――登花殿の女御をご寵愛なさっているということだけだ。
おねえさまのことを思い出すと、きのう抉られたばかりの胸がひどく疼いた。けれどもその瞬間だけは、帝をお迎えする緊張を忘れることができた。
御簾が上がり、衣擦れの音とともにすらりとした影が近づいて来た時、わたしは両手をついて顔を伏せていた。
「そなたが右大臣の大君か」
若々しい声だった。香に疎いわたしでも明らかに極上のものとわかる香りがする。
「面を上げなさい」
わたしは命じられたとおりにした。
影から想像していたよりもきゃしゃな、ほっそりした方だった。眉も目も優しげで、わたしをいたわるように細められている。そのまなざしにいくらか安心したものの、父と兄の他に男君を近づけたことのないわたしは、まだ緊張から自由になれずにいた。
「かわいい人だ。そんなに硬くなって」
帝が腰を下ろして目線をあわせてきたので、わたしはいよいよ動けなくなった。女房たちに練習させられた口上が一言も出てこない。
「そう怖がらなくてもいいよ。そなたのようなあどけない人に妃のつとめをさせるつもりはない」
「え……」
わたしは思わず帝のお顔を見つめた。
幼くして入内して、形ばかりの妃として後宮に身を置く女君はめずらしくない。緊張でこわばっていたわたしの頭はそんなことも思い出せなかったのだ。
「なんだ、そうだったのですか。良かった」
気がつくと、思ったままを声に出していた。慌てて口を閉ざしたけれどもう遅い。父がこのことを知ったらひっくり返ってしまうだろう。
帝は目を丸くしてわたしを見つめ、微笑みを浮かべた。
「かわいらしい人だね。童のように正直だ」
「申し訳ありません。世間知らずに育ったもので、まだ童女の気分が抜けないのです。でも、ここに置いていただく以上は、主上のお心に沿えるように……」
「もっと近くにおいで。話をしよう」
わたしのたどたどしい弁解を遮り、帝はわたしを招き寄せた。
わたしは膝を立てて帝のお側へ参ろうとした。が、姫君らしい淑やかな動きにまだ慣れず、前のめりに倒れてしまう。
「いたっ」
「どうした」
手首を押さえたわたしの顔を、帝が覗きこんできた。
左の手首を痛めたのは昨日、廂に撒かれた小石に滑って転んだ時だ。その直後は腰とお尻の痛みに気をとられていたけれど、体を支えようと伸ばした左手も少しひねっていたらしい。
「怪我でもしているのか」
わたしはなんと答えるべきかわからなかった。小石のことを帝に話せば、後宮に住むどなたかに虐められたと告げ口することになってしまう。けれど、帝に対して嘘を申し上げるわけにもいかない。
「――誰かに陥れられたんだね?」
「違います、これは」
驚いて否定しかけたわたしの手を、帝がお取りになった。そのまま、崇めるようにご自分の額に近づける。
「かわいそうに」
あまりのことに動けないわたしの手に、帝は語りかけた。
「こんな幼い人にまで、惨い仕打ちを」
「……わたしの他にも、同じ目に遭われた方が?」
「新しい妃が入るごとに繰り返されているようだ。父の世にもそうだったと聞いたことがある」
帝はお辛そうに眉を寄せられた。
「後宮とは恐ろしいところだね。花にも劣らぬ美しい女人たちが、なぜああも醜く争うようになってしまうのだろう」
わたしの心には、昨日のおねえさまのことが浮かんでいた。
おねえさまは変わってしまわれた。後宮にお入りになり、帝のご寵愛を受け、末は中宮になれると持て囃されて。わたしの知っていた春のように優しいおねえさまは、もうこの世のどこにもいらっしゃらない。
「泣かなくてもいいのだよ、かわいい人」
帝に言われるまで、わたしは自分の涙に気がつかなかった。
言われたこととは真反対に、わたしはいよいよ本気でしゃくり上げはじめた。おとなになった女君はこんなふうに声を上げたりせず、霧雨のように優雅に泣くものだと知っていたけれど、抱き寄せてあやしてくださる帝の手が優しくて、それにすがって泣きじゃくることをやめられなかった。
おねえさまを失った痛みを癒してくれる手がここにある。今のわたしには、それだけが何よりも大切だった。
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