鞠と琴
一
春の訪れも近いと思わせてくれる日和。わたしがおねえさまの住む邸を訪ねていくと、母屋の中にはいくつもの琴が並べられていた。
「おねえさま、何をなさっているの」
座りこむ場所もないほどだったけれど、わたしは御簾をくぐり抜けて、ひょいひょいと琴をかわしながらおねえさまの側へたどり着いた。こんなふるまいが許されるのは、わたしが数えで十一にしかならない童女だから、それに毎日のように遊びに来ているおねえさまの母屋だからだ。
琴の向こうにお座りのおねえさまは今日もお美しかった。萌黄色の小袿の上に、たっぷりと長い髪が流れている。わたしを見て微笑まれるまなざしは外の日差しよりもあたたかい。春を先どりした今日の陽気はおねえさまが呼びこんでくださったのかと思うほどだ。
「弦の調子を見ていたのですよ、鞠姫さま。そろそろ後宮にお持ちするものも揃えなければなりませんからね」
わたしに答えてくれたのはおねえさまではなく、その隣にいた北野だった。三十を過ぎた古参の女房で、お年ごろのおねえさまに仕えるには年がいっているが、茶目っ気があって話が面白く、おねえさまもわたしも北野が大好きだ。
北野が手で示した琴は、数えてみると七面あった。和琴が三面、筝と琴が二面ずつだ。おねえさまは弦楽の名手で、中でも和琴は当世に並ぶものがないとまで賞されている。
北野の言葉を聞いて、わたしは名残惜しくおねえさまのお顔を見上げた。
「おねえさま、本当に東宮さまのもとに行ってしまわれるのね」
おねえさまとお呼びしているこの方はわたしの姉君ではない。おねえさまの父君とわたしの父が従兄弟どうしにあたる。親戚で住む邸も近いおねえさまをわたしは姉のように慕い、おねえさまもわたしを妹のように可愛がってくださる。わたしには兄ばかりで姉妹はいないし、おねえさまの妹君たちは年が離れていて母君も違うのだ。
同じ藤原の氏族ではあるけれど、わたしの父が出世でやや遅れをとっているのに対し、おねえさまの父君は時の左大臣だ。
その大君にして、十七の今までお独りのおねえさまは、この春、後宮にお入りになる。数え十三で元服なさる東宮さまの添臥に選ばれたのだ。
「さびしくなるわ、鞠姫。里下がりの時にはこれまでのように会いに来てね」
「里下がりまで待つのはいや。後宮まで遊びに行きます」
おねえさまは北野と目をあわせ、ふたりはにっこり笑った。
「鞠姫さまがいらしてくださったら、後宮もさぞ賑やかになることでしょうね」
「北野、今日は面白いお話はないの? おねえさまと一緒に聞きたくてやって来たの」
「それより鞠姫さま、和琴のお稽古はよろしいのですか。お父君はそのために鞠姫さまをこちらにお連れになるのでしょう」
わたしは並べられた琴を見てしかめっ面をした。
父がわたしをおねえさまのところへ寄越すのは、わたしの琴の上達を期待してのことだと知っている。けれど、わたしは琴を弾くのが好きではない。ついでに言うなら、和歌も、手習いも、縫い物も、貴族の姫君が嗜んでおくべきものはどれも好きになれない。
鞠姫と呼ばれているのもそのせいだ。わたしには三人の兄がいるが、ある日その兄たちが従者を交えて庭で蹴鞠を楽しんでいた。まだ七つほどの幼さだったわたしは、その中に加わりたくて仕方がなかった。雛遊びよりもはるかに面白そうに見えたのだ。
わたしは乳母の目を盗んで庭に出て、兄が下手な方向に飛ばした鞠をつかまえた。そして、ぽかんとしている兄たちに向かって、それを思いきり投げつけたのだ。蹴鞠では手を使ってはいけないなどということを、幼いわたしが知るはずもなかった。
このできごとからわたしは、雛よりも鞠を好むおてんばな姫、鞠姫と呼ばれることになった。父はその呼び名を嘆いているけれど、わたしは決していやではない。特に、おねえさまや北野に愛情をこめて呼ばれる時は。
「鞠姫、それならわたくしの琴を聴いてくれない? 弦の調子を見なければならないし」
「おねえさまのなら、喜んで」
わたしは言い、北野の隣にぱっと並んだ。
自分が弾くのは嫌いだけれど、おねえさまの琴を聴くのは大好きだ。琴だけではない。おねえさまの詠む歌、おねえさまの合わせた香、おねえさまの好む花。どんなものでもおねえさまを通して見ると美しく、愛おしく思える。
梅の花も終わり、春がすっかり地に腰をおろしたころ、おねえさまは後宮にお入りになった。年下の東宮さまとご一緒になられるために。
「東宮さまは添臥の姫君をいたくお気に召したらしい」
「末は中宮に据えると早くも公言なさっているとか」
「なにしろ絶世の美女にして、並ぶ者なき和琴の弾き手だ」
「さすがは左府さまご自慢の大君ですこと」
わたしのもとに届くのは、おねえさまの良い評判ばかりだった。お若い東宮さまはおねえさまの美しさと聡明さに惚れ抜いていらしゃるようだ。
噂を聞かせてくれるのが兄や女房の時、わたしは胸を張ってこう言った。
「おねえさまだもの。東宮さまだろうが主上だろうが、骨抜きになるに決まっているわ」
「姫さまもあのような女君になられるよう、今からお心がけなさいませんと」
「わたしはいいの。おねえさまのようになれるはずがないもの」
おねえさまが人に褒められれば自分のことのように嬉しい。けれど自分がおねえさまのようになりたいとは思わない。だってわたしはわたし、鞠姫だから。
春を過ごし、宵闇の涼しさが愛おしくなった夏、わたしは廂に出て夜空を見上げていた。月は出ていなかった。
朔の月を恐ろしいと言う人もいるけれど、わたしは好きだ。おねえさまが前にこうおっしゃっていたから。
『朔の月は目に見えないだけで、いないわけではないのよ。ちゃんと空にいて、わたしたちを見下ろしているの』
見えないけれどそこにいてくれる。それはあたたかくて、どこか懐かしい。
それに、朔の夜は星たちがいっそう輝いていて、特に夏のは銀箔をちりばめたようでとてもきれいだ。
おねえさまも今ごろ後宮で、東宮さまとこの空を眺めていらっしゃるのだろうか。
「姫さま」
いつの間にか女房のひとりが側に来ていた。
「お客さまがおいでになっていますが」
「わたしに?」
母屋で迎えた人物を見て、わたしはびっくりした。現れたのはおねえさまに従って後宮入りしたはずの北野だったのだ。
「北野、久しぶり。あなたがここにいるということは、おねえさまも里下がりなさっているの?」
入内からまだ半年も経たないし、東宮さまはお気に入りのおねえさまを片時も離さないという噂だ。そんなはずはないと思いつつ尋ねると、北野はさびしそうに微笑んだ。
「いいえ、姫さまは内裏においでです。わたしだけがお暇をいただいてきたのです」
「どこか体の具合でも良くないの?」
「いいえ、姫さまの御為です。わたしのような年かさの者がお側にいては、ご寵愛に障りがあるかもしれませんので」
わたしはまじまじと北野を見つめた。
おねえさまが北野を手放すなんて考えられない。北野は三十過ぎで確かに若くはないけれど、明るく溌剌としていて健康そのものだし、話の巧みさはどんな若い女房にも劣らないのに。
「後宮仕えというのは大変なことなのです。他の方々も東宮さまのご関心を惹くために、若く美しい女房たちを揃えておいでで」
「だからって……」
確かに後宮とは、帝や東宮さまのご寵愛を女人たちが競いあう場所だ。幼いわたしにもそれくらいはわかる。
でも、今でさえ東宮さまのご寵愛をひとりじめのおねえさまが、それを失うまいと馴染みの女房に暇を出すなんて。
「それで、北野は今どうしているの」
「左府さまのお心遣いで、お邸での楽な仕事をいただいています。余暇もできましたので、手すさびに書き物などして……」
北野は思い出したように、脇に置いた冊子を取り上げた。
「今日はこれをお届けに上がったのです。又聞きした短い話ばかりですが、鞠姫さまにお読みいただければと」
北野が書いてきてくれた話の多くは、後宮にまつわる物語だった。
帝と美しい女御のきらめくような恋、妃たちと女房たちによる華やかな催しの数々、出入りする公達の面白おかしい失敗談、若い親王が目撃した不思議で妖しいできごと。さすがは話し上手の北野だけあって、声で聴かせてくれる時と同じくらい魅力的な物語だった。わたしは夜おそくまで燈台の側で読みふけり、すっかり夢中になった。
北野はおねえさまに従って後宮入りし、短い間とはいえそこで寝起きをした。その時に経験したことや聞いた話をもとにこれを書いたのだろうか。だとすれば、後宮とは噂にたがわない、素晴らしく魅惑的なところなのだろう。お美しいおねえさまにふさわしく、きらびやかで華やかな場所だ。
そこで幸せにお暮らしのおねえさまは、昔のことなどすっかり忘れてしまわれたのだろうか。だから古い馴染みの北野を遠ざけたりなさったのだろうか。
いいえ、悪いほうにばかり考えるのはよそう。
北野も言っていたが、後宮に仕えるのは大変なことなのだ。東宮さまのご寵愛を受けて御子を上げ、立派な宮さまにお育て申し上げる。おねえさまはその尊い使命を果たされるために心を砕いておいでなのだ。
美しく聡明なおねえさまならば、すぐにそれも叶えられるだろう。北野の物語に出てくる女御のように。
すっかり満ち足りた気持ちになったわたしは、冊子を枕辺に置いて横になった。燈台のあかりがそれを見計らったかのように消える。
お若い東宮さまは元服から二年後、譲位を受けて今上帝となられた。帝位につかれてもおねえさまへのご寵愛はあいかわらずで、他の女御たちやその父である公卿たちが不満に思うほどだという。
おねえさまは三度目の春にご懐妊なさったが、その御子は月足らずで生まれ儚くなってしまわれた。
「主上は失望なさるどころか、それ以来ますます女御さまを慈しんでおいでのようです。お産の後はしばらく里で過ごすものなのに、慣例よりも早く女御さまをお呼び戻しになったそうで」
母屋の中で火鉢に手をかざしながら、わたしは女房たちの話を聞いた。今は年の暮れだ。新しい帝をお迎えした年が終わろうとしている。
おねえさまは夫君が帝位に上られるのに伴い、登花殿の女御と呼ばれるようになっていた。
「おねえさまのお加減はどうなのかしら。良くなられたのならいいけれど」
「ええ、もうご快癒あそばしたようですよ。左府さまも主上のご催促を受けて、喜んで女御さまをお戻しになったそうです」
わたしはほっと胸を撫でおろした。
後宮まで遊びに行くというおねえさまとの約束を、わたしは一度も果たせずにいた。それどころか、お産のために里下がりなさったおねえさまを訪ねることもできなかった。父が許してくれなかったのだ。
会えないのはさびしいけれど、おねえさまがお幸せならばそれでいい。わたしはそう思うようになっていた。
「姫さま、お父君がこちらにおいでに」
「この昼間に? 今日は内裏に出仕なさっていたはずだけど」
女房たちが慌ただしく屏風や几帳を動かし、火鉢をもうひとつ用意する。わたしは小袿の裾を整え直して父の訪れを待った。父はこの二年あまりで出世して右大臣となり、おねえさまの父君である左大臣と権勢を並べるようになっていた。
御簾をくぐって母屋に入ってきた父を、わたしは両手をついて迎えた。
「お父さま、お勤めご苦労さまにございます」
「姫や、喜びなさい。おまえの入内が決まったのだよ」
頭を上げたわたしはそのまま石のように固まった。ふくふくしい顔に似合う笑みを浮かべた父を呆然と見つめる。
「……入内?」
「そうだとも。おまえは後宮に入るのだ、かわいい姫」
「後宮……どこの?」
「これ、阿呆のようなことを言うでない。後宮と言えばこの世にただひとつ、主上の妃たちが住まう場所において他にないではないか」
隅に控えていた女房たちが、まあ、と声を上げたり、嬉しそうに手をあわせたりしている。父は幸せそうな微笑みはそのままに、おお寒いと言って火鉢にすり寄っている。
わたしはその光景を、ただ見つめることしかできなかった。
わたしが、後宮に入る。帝のお妃になる。他のたくさんの女御たちと、寵愛を競いあう。
「おまえも年が明ければ十四だ。鞠姫などと呼ばれておったが、ちかごろはまあ、見違えるように女らしくなったではないか」
父はわたしの姿を上から下まで、舐めるように眺めまわした。
確かにわたしはこの一、二年で髪も背も伸びた。肌もしっとりと白くなり、童女のようなあどけない赤色よりも、あでやかな呉の藍が似合うようになっていた。
けれども、それは見かけだけだ。父が弾かせたがっている琴はちっとも上達しないし、和歌も香も手習いもあいかわらず好きではない。今も叶えられるなら庭を駆けまわりたいと思っている、おてんばな鞠姫のままのわたしなのに。
「まずは入内に先がけて、裳着の儀式を盛大に行う。腰結の役は最高の方にお願いしなければ」
父の言葉に、わたしはふと心を動かした。
文字どおり裳の腰を結ぶ腰結役は、女子の成人を祝う裳着でもっとも重要な役割だ。縁のある貴人や徳で聞こえた人に頼むのが通例となっている。
「お父さま、腰結の役はおねえさま――登花殿の女御さまに、お願いできないでしょうか」
おねえさまは今上帝の寵愛を一身に受ける、都中でもっともときめく女君だ。わたしとは父親どうしが従兄弟という親戚だし、父もわたしをおねえさまのもとへ通わせ、おねえさまのように育てたがっていた。
心からいい考えだと思ったからこそ、わたしはそれを父に話した。
ところが父は、顔を真っ赤にしてわたしを怒鳴りつけた。
「馬鹿を言うな。おまえは主上の妃のひとりとなるのだぞ。これから競いあわねばならぬ敵に腰結の役を頼んでどうする」
わたしには、父の言葉がよくわからなかった。
後宮に入って帝の妃になれば、ご寵愛をめぐって他の妃と争わなければならない。中でも登花殿の女御――おねえさまは、いちばん手強い敵になる。
けれど、わたしがおねえさまに勝てるはずがない。後宮には他に何人も美しい妃がおいでだろうし、鞠姫のわたしが帝のご関心をいただけるとはとても思えない。
こんなことを考えているから、わたしはいつまでも童女なのだろうか。立派におとなになられた女君ならば、父の期待に応えて己を磨き、帝のご寵愛を受けるために心を砕くのだろうか――おねえさまのように。
母屋の中でぼんやりとしていたわたしは、ふと散らばっていた冊子に目をとめた。北野が書いてきてくれた物語だ。北野はあの後も左府さまのお邸に仕え、新しいものを書いたと言ってはわたしに届けてくれていた。
わたしはその中の一冊を取り上げ、ぱらぱらとめくった。きらびやかで明るい後宮の物語。美しい妃たちが住まう場所。おねえさまにふさわしい場所。
わたしは気がついた。入内すればおねえさまに会える。昔のようにお互いのもとへ行き来して、おしゃべりしたり笑いあったりできる。わたしはおねえさまの琴を聴き、おねえさまはわたしの言葉をおかしがってくださる。
わたしが後宮に似つかわしくなくても、帝の寵愛を受けられなくても、おねえさまの近くにいられるのなら、入内も悪いことではないのかもしれない。
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