王の鍵 [ 4−4 ]
王の鍵

第四章 王冠 4
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 ライは両手の上に腕輪を載せ、体ごとユーシアのほうを向いた。
「きみの父上がつくられたものだ」
 目の前に差し出されたそれを、ユーシアは見つめた。
 側面に刻まれた歌詞は、幼いころから何度も口ずさんできたので知っていた。あらためて腕輪そのものを見つめると、こんな細く小さなものによくこれだけの文字が書けたものだと思った。父がこの腕輪そのものを制作したとは思えないが、文字を刻んだのは魔術による力だったのだろうか。
 『王冠』を完成させた時、父はどう思ったのだろうか。どの魔術師にもできなかったことを成し遂げたという誇りを感じただろうか。それとも、そんなものを味わう暇もなく、後悔と恐怖に襲われたのだろうか。
 いつか、『王冠』が必要になる時は来るかもしれない。そう父は言ったのだと、ライは話していた。その時まで『王冠』を守るために、ルシアス・ミュリエールは、それを壊すよりも封じることを選んだ。
 今がその時なのだろうか。西州公家の筆頭魔術師であるウォルカーンが、ライに『王冠』を差し出し、『王』になってほしいと懇願している。ライのためではなく、西州のため、この島のために。
 ライがこの腕輪を嵌め、ユーシアが歌えば、それは叶えられる。すべての精霊が『王』であるライに従うようになる。
 ユーシアは腕輪から顔を上げ、ライの目を見た。焼けつくような視線を感じながら、ユーシアは不意に思い出した。
 ライは、ユーシアがいれば『王冠』はいらないと、そう言っていた。
 そして自分は、その返事をまだライに伝えていない。
 ユーシアは再び口を開いたが、やはり声が出なかった。それ以前に、何を言うべきなのかもわかっていなかった。
 ライはユーシアから目を離さなかった。その目が決して揺らがず、自分に何かを伝えようとしていることに、ユーシアは気がついた。
 胸の奥から感情がこみ上げてきた。この時はじめてユーシアは、それを抑えずに溢れるに任せた。
 『王冠』のかわりにされるのが怖くて、ずっと受け入れられなかった。けれども今、そうではないとわかった。自分はこの人が好きだ。それを認めてももう傷つくことはない。
 数秒の間、その視線を受け止めた後、ユーシアは小さくうなずいた。
「歌ってくれる?」
「ええ」
 ユーシアが答えると、ライは一歩下がってユーシアから離れた。ウォルカーンが決して目をそらさずにふたりを見ているのが気配でわかった。
 ユーシアとライはもう一度、お互いにうなずきあった。そして、ライが腕輪から両手を離すのと同時に、ユーシアは歌いはじめた。
「何を――」
 ウォルカーンが叫びかけたが、彼はその場に縫いとめられたように動かなかった。ライの手から落ちた腕輪が、石の床にぶつかって音を立てた。それが石の上で小刻みに動き、やがて静止するのを見つめながら、ユーシアは母から教わった歌を歌い続けた。
 やがて腕輪に変化が起きた。刻まれた歌詞の文字がひとつひとつ光を放ち、腕輪そのものから離れはじめたのだ。光は空中で寄り集まり、しばらく漂った後で霧のように消えた。ユーシアが最後の一節を歌い終えると、腕輪に残っていた最後の文字も光となって浮き上がり、やがて消えた。
 『王冠』は、何も刻まれていない簡素な銀の輪になって、ユーシアとライの間に転がっていた。
「――何ということを」
 ウォルカーンがふたりのどちらにともなくつぶやいた。彼はまだ、立っていた場所から動けずにいた。
「そなたたちは、ルシアス・ミュリエールの魔術の結晶を滅ぼした。何百年もの間、多くの魔術師が苦労を重ね、しかし完成させられなかった魔術を」
「父が望んでいたことです」
 ユーシアはウォルカーンに向きあい、はっきりと言った。今は自分でもそれを確信していた。
「精霊の恵みは、巫人や巫女だけではなく、州公家だけでもなく、たったひとりの『王』だけでもなく、島のすべての人の上に降り注がれるべきもの。父が遺したかったのは、魔術ではなく『古いことば』だったはずです」
 『王冠』がここにある限り、それを手に入れて『王』になろうとする者は現れ続ける。エリアスがそうならなかったとしても、別の西州公、北州公、あるいは他の州公家の者や、まったく別の力を持つ者が『王冠』を求めないとは限らない。
 それを見越していたからこそ、父は母に『王の鍵』を託し、母はそれをユーシアに託したのだろう。いつか『王冠』の封印を解き、この世から滅ぼすために。
「そなたは自分の生まれた家を見限るのか、ライ」
 ウォルカーンはライひとりに矛先を向けた。
「これで西州公家はあの怪物のものになってしまう。ディアレス西州は滅亡したも同然だ」
「だったら、そうならない道を、あなたが他の者と考えてください。ノートン・ハルバートのましなほうの息子に押しつけるのではなく」
 ライは冷たく言い放つと、ユーシアの手を握った。ライに目で促されてうなずき、ユーシアは彼と並んで歩きはじめた。西州公の遺骸が安置された部屋の出口に向かって。
「出て行くのかね」
「出て行きますよ。この城にははじめから、おれの座る席はなかったんだ」
「わたしには時間がない」
 ウォルカーンの声が急に弱々しくなった。
 ライが足を止め、ユーシアもその隣で立ち上がった。
「魔術を使うのとひきかえに、残りの時間のほとんどを精霊に捧げ渡した。見てのとおり、わたしはもう老人だ。そなたの父上よりはるかに若いというのに」
 ユーシアは驚いてウォルカーンの姿を見つめた。
 はじめて見た時から、年齢の割には頑健な体つきだと思っていた。どれほど魔術を使ってもライのように倒れず、平然と立っていられるのも不思議だった。
 それらはすべて、精霊に時間を渡したことによるものだったのか。そんな魔術が存在するのか。
 ユーシアとともに振り返ったライが、握った手に力を込めた。その目はウォルカーンから決して離れなかった。
「あとどのくらいですか」
「一年、持つかどうか。そなたの弟を育て上げるのには、とうてい間に合わないだろう」
「ご苦労をお察しします、ウォルカーン卿」
 ライはユーシアがはじめて見る顔になっていた。
「それから、魔術を教えてくださったことに礼を申し上げます。もうお会いすることはないと思いますから。おれは『古いことば』をミュリエール卿の書物で学びましたが、魔術はあなたから学びました」
「弟子の自覚がありながら、師を捨てるのか」
「弟子はいつか巣立って行くものです」
 ライは再びユーシアを促して歩きはじめた。ユーシアはライを見上げたが、その顔からは感情が読みとれず、かけるべき言葉がわからなかった。
 出口の手前まで来た時、再び背後から声がした。
「ミュリエールのお嬢さん」
 振り返ると、ウォルカーンはまだ棺の側に佇んでいた。沈んではいたが、ライに懇願していた時の切迫した雰囲気は消えていた。
「ダクルートから東に三日ほど行くと、エレンシア南州との境の手前に、レイダスという街があってな。そこに、カリーナ・ミュリエールの弟とその妻が、子どもたちとともに住んでいる」
 ユーシアはとっさに何も言えなかった。告げられた内容も、ウォルカーンがそれを口にしたという事実も、思いもよらないことだった。
「レイダスの知事をしている、そなたの叔父一家だ。その気があったら訪ねてみるといい」
「ありがとうございます」
 ユーシアは少しの間の後、心から言った。
 ウォルカーンがなぜ最後にそんなことを言うのか考えかけたが、すぐにその必要はないと悟った。この魔術師はライの師匠だったのだ。ユーシアに親切にしてくれる理由はそれだけで充分だった。
 ライはユーシアの隣でウォルカーンを振り返っていたが、今度は何も言葉を発しなかった。

「西州公閣下のご葬儀に出なくて、本当にいいの?」
 城から出て、ダクルートの街を歩きはじめてすぐ、ユーシアはライに尋ねた。
 州公の喪に服した街はあいかわらず活気に乏しかったが、それでも人々は今日という日を営むための活動を始めていた。露天商が広げた品物に多くの人が群がり、職人たちは仕事道具を打ち鳴らし、子どもたちは棒きれを振り回して親に怒鳴られていた。ユーシアと同い年くらいの娘ふたりが身を寄せあって歩き、どちらかが言ったことに声をひそめて笑っていた。
 つい先ほど、城の中で島の命運を左右する一大事が行われたなど、この人たちは永遠に知らないまま生きていくのだろう。ユーシアはそれを思うと奇妙なほど心が落ち着いた。馴染めていたとは言い難いターシュでの暮らしが懐かしかった。
「いいんだ」
 しばらく間を空けて、ライは答えた。
「別れはさっき済ませたから」
 ライがあの部屋で別れを告げたのは、実父である西州公ではなくウォルカーンではなかったかと、ユーシアは考えた。だが、それを口に出すことはやめておいた。
 ライが急にユーシアの手を引き、進む方向を変えた。建物と建物の間にある細い路地に導かれながら、ユーシアは振り返りざま見つけた。ダクルートの雑踏の中に、黒ずくめのふたりの男が紛れ込んでいるのを。
「面倒だな。『王冠』が滅んだことを、北州公に早く嗅ぎつけてもらわないと」
 ユーシアを自分の身で隠しながら、ライはつぶやいた。
 その路地は人がすれ違えないほど狭く、ふたりの他に人影は見あたらなかった。先ほどまで歩いていた通りは数歩先にあるが、そこからは切り離されているようにユーシアは感じた。
 バルテスの偵察兵が通り過ぎるのを、ユーシアはライの肩ごしに見届けた。
「これからあなたはどうするの?」
 危険が去っていくと、ユーシアはライの顔を見上げて尋ねた。
「ヴィラムに行って、南州公閣下の研究を手伝うよ。とにかく船を借りたぶんは働かないと」
 ばつが悪そうではあったが、まんざら嫌がってはいないライの表情を見て、ユーシアは楽しくなって笑った。
「きみはどうする? レイダスに叔父上の一家を訪ねるなら、送っていくけど」
 ライは真顔に戻ってユーシアに訊いた。その声は落ち着いており、ユーシアの感情を窺ったり、何かをほのめかしたりするような色は、まったくなかった。
「わたしはターシュに帰るわ。巫女さまたちがきっと心配しているから」
「そうか」
 ライは短く言い、小さく笑ってユーシアから目をそらした。
 ユーシアは急いで続けた。
「ターシュの聖堂に行って、巫女さまたちに無事の姿を見せたら、あなたに会いにヴィラムに行ってもいい?」
 ライがユーシアに目を戻した。陰になった狭い路地でもわかるほど、その目は熱っぽく輝いていた。
 彼はユーシアに向かって両手を広げかけ、しかしためらうような表情を見せてそれを引いた。かわりにユーシアが手を伸ばし、ライの背中を抱きしめた。前はライがこうしてくれたのだから、今度は自分がそれをする番だ。
 すぐにライの手が背にまわされ、ユーシアは両腕の中に包みこまれた。イネッドの近くで目覚めた時とは違い、その腕はあたたかかった。
「きみが好きだ」
「ありがとう。わたしもあなたが好き」
 短い言葉を交わしあった後、ふたりはどちらも口をきかなかった。路地の中でお互いを抱きしめながら、ダクルートの街の喧噪を遠くに聞いていた。

 ライは、ターシュまでユーシアを送っていくと言い張った。陸路でエレンシア南州を横断していくというのに、その途上にあるヴィラムを素通りするのかとユーシアが問いただしても、まるで聞かなかった。
「ヴィラムとターシュはそれほど離れていないから、一度ターシュまで行って引き返しても同じだよ」
「だったら、まずヴィラムに寄って、南州公閣下にご挨拶をしたら?」
「だめだ。きみをターシュの聖堂に帰すのが先だ」
 ターシュに顔を出すことは一瞬の用では済まないだろうと、ユーシアは思った。祭りの夜に姿を消し、それから何十日も戻らなかった理由を巫女たちに説明しなければならない。その上にユーシアがターシュを出て行くと知ったら、巫女たちはなんと言うだろう。
 少なくとも大巫女は喜んでくれるとユーシアは知っていた。彼女はユーシアに自分たちと同じ信仰の道を歩ませるより、世俗の娘としての幸せを手に入れてほしいと願っていた。しかし、それをターシュではなく、シアラン東州でさえなく、遠く離れた土地で叶えることになるとは彼女も思わなかっただろう。
「今から歩きはじめれば、日が完全に昇るまでにはダクルートを出られる。きみは平気? 少し休んでからにしようか?」
「わたしは大丈夫。少しでも先へ進みたいわ」
「じゃあ行こうか。――あ」
「どうかした?」
 ユーシアが尋ねると、ライは笑って答えた。
「あの海沿いの街に行って、宿屋に寄らないと。荷物をみんな預けてあるんだ――ミュリエール卿の書物も」



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