王の鍵
第四章 王冠 2
イネッドというこの村は、州都ダクルートから歩いて五日はかかる場所にあるとわかった。島の中心部にかなり近く、なおかつ北州と南州どちらとの境からも離れているらしい。
ユーシアにそれを教えてくれたのは、アネイラに持病の腰痛を診てもらいに来た老婆だった。彼女は行商人の家に生まれ、たまたま両親と立ち寄ったこの村で夫と出会い、そのまま身を固めることになったという。
「めったに人の出入りのない土地だよ、ここは」
老婆は腰をさすりながら、ユーシアとライを物珍しそうに見た。ふたりをそんな目で見るのはこの老婆だけではなかった。それでも、誰も立ち入ったことを訊いてくることはなく、視線を投げかけるだけでそれ以上の関心は示さなかった。
ライは一日のほとんどを眠って過ごしていた。アネイラは決まった時間にやってきて、ライの様子を確かめ、『古いことば』を唱えたが、三日ほど経ったころ、もう魔術をかける必要はないだろうと言った。同じ日にライは自分で薬草茶を飲めるようになり、次の日にはユーシアが匙ですくった粥を口に入れた。
それでもユーシアは安心できなかった。母も魔術の代償で倒れた後、ユーシアに歌を教えるだけの時間はあった。そう考えると、ライから目を離す気にはまだなれなかった。
ライが眠っている時も、目を開けてぼんやりしている時も、ユーシアは歌を歌った。聖歌だろうと俗歌だろうと構わず、歌詞の意味もほとんど気にとめず、知っている限りの歌を思いつくまま歌った。歌を聞かせるとライの顔が穏やかになるような気がしたからだが、何よりも歌っていると自分の気分も落ち着くのだった。
「娘さん、いい声ですね」
歌い終えた時に話しかけられることもあった。アネイラの患者やその家族が、いつの間にかユーシアの歌に耳を澄ましているのだった。
「巡礼の巫女の方ですか?」
そう尋ねられることもあったが、ユーシアは首を振り、特に説明は加えなかった。ライと自分の素性について、ふたりの関係について、何らかの説明をしておくべきかとは思ったが、夫婦だと偽るのにはそろそろ嫌気が差してきていたし、かと言って事実をそのまま話すことはできそうになかった。それで口をつぐんでいたが、村人たちも決して詮索してこようとはしなかった。ただ、ユーシアがライの側で歌っていると、いつの間にか治療師の家に人が増えており、何をするでもなく耳を傾けていることが多かった。
イネッドに来てから七日ほど経ち、ライが寝台の上に身を起こせるようになると。ユーシアもようやく病床を離れても安心できるようになった。アネイラに代金を払う時が来たと感じたので、治療師の家を毎日掃除し、薬草を保存するのを手伝い、時にはアネイラの下の子どもたちと遊んでやった。
アネイラが家族と暮らしている家へは、治療師の家の裏口からそのままつながっていた。食事の時になるとアネイラが家族の食卓へ招いてくれたが、ライが起きている時は必ず寝台の側で一緒に食べることにした。
ユーシアがアネイラの娘と一緒に準備した食事を、ライはユーシアの倍の時間をかけて食べ、半分以上残してユーシアに盆ごと返した。
「すまない。少しずつ良くなっているから、心配しないで。看病してくれてありがとう」
ライは寝台に身を横たえながら言い、ユーシアはうなずいて盆を脇に置いた。起き上がって食事がとれるというだけでも大きな進歩なのは明らかだった。
「わたしこそありがとう。あの時、助けに来てくれて」
ライがこれほど大きな代償を払うことになったのは、ユーシアを救い出すためだったのだ。ずっと礼と詫びを言わなければと思っていたが、アネイラや彼女の患者が近くにいる時は言えなかった。今は珍しく、治療師の家にいるのはライとユーシアだけだった。
「ひとりで勝手なことをして、あなたに魔術を使わせることになって、ごめんなさい」
「いいよ。それこそおれが勝手にしたことだから」
ライは寝台からユーシアを見上げ、思い出したように付け加えた。
「ここまで運んできてくれたのもきみ?」
「途中まではね。道でこの村の人たちに会って、連れてきてもらったの」
「ありがとう。大変だっただろう」
ユーシアは首を振った。
「わたしは母を置き去りにしたから。同じことを二度としたくなかったの」
ライの顔つきが明らかにこわばるのを見て、ユーシアは自分の推測が間違っていなかったことを知った。
「母上が亡くなった時のことを聞いたのか」
「ええ。父のことも」
「エリアスから?」
「いいえ、ウォルカーン卿から」
ユーシアは急いで言い、無理やりほほえんだ。
「心配しないで。いつかは知らなければならないことだったのだから」
「すまない。こんなことになるなら、おれが早く話しておけば良かった」
「いいの。わたしのために黙っていてくれて、ありがとう」
ユーシアは心から言った。
母のことは薄ぼんやりと思い出しただけだが、自分の目の前で動かなくなった時の絶望感は生々しく残っていた。それだけに、同じ魔術を使って倒れたライが助かって、本当に嬉しかった。
「気を失う前におれが言ったこと、覚えている?」
ユーシアは急にうろたえ、うなずいた。忘れられるはずがなかった。むしろ、ライのほうがあの時は朦朧としていたので、自分の言葉がわかっていないのではないかと思っていた。
「良かった。おれも覚えてるよ」
ユーシアの考えを読んだように、ライが言った。寝台のまわりがしばらく静まりかえった。
ユーシアはどう振る舞えばいいのかわからず、今すぐ椅子から立って姿を消したくなった。こういった感情を打ち明けられるのは、はじめてではないはずなのに。
「すぐに信じてもらえないのはわかってる。おれは今まで調子のいいことばかり言って、肝心なことをきみに何も話さなかったから」
ライは奇妙なほど落ち着き払った顔で、ユーシアを見上げていた。
「おれは生まれつき、精霊の祝福を受けられない。だから――」
「そんなことは関係ないわ」
ユーシアが慌てて遮ると、ライはほほえんだ。驚いたことに。
「きみがそれを気にしないことは知ってるよ」
頭が混乱して、おかしなことを口走ってしまいそうで、ユーシアは何も言い出せなかった。
求愛している人間が落ち着いていて、求愛されている人間がうろたえている。こういうものなのだろうか。
「だから、他のことが原因でおれを受けつけられないなら、遠慮なくそう言ってほしい。でも、もしそうでないなら、少しでも考えてみてくれないかな」
ユーシアは黙った。言葉が出てこないのではなく、純粋に何と言えばいいのかわからなかった。
その沈黙をどう受け止めたのか、ライは唐突に真顔になった。
「寝台から下りて、ひざまずけるようになってから言うべきだった?」
「そんなことしなくていいわ」
ユーシアは慌てて言ったが、それ以上は続けられなかった。
ライは小さく息をつき、急に疲れた顔になった。
「少し眠るよ。返事はいつでもいいから、考えておいて」
ユーシアはうなずこうとしたが、その必要はなかった。ライはすでに目を閉じていて、安心しきったような穏やかな眠りの中に落ちていた。
ユーシアはふたりぶんの盆を持って裏口を抜け、隣に立つアネイラの家に移った。歩いている間ずっと、ライが言ったことと、その時の彼の目を反芻していた。
やがて、明かりが灯るように嬉しいという感情が生まれ、それが少しずつ体じゅうに広がっていくのに気づいて、ひどく戸惑った。熱くなった頬を冷ますために首を軽く振ると、アネイラのいちばん上の娘が母親そっくりの顔を傾けた。
ライに何も答えられなかったのは、嬉しかったからなのだろうか。嬉しいと感じるのは、自分も同じ気持ちだからなのだろうか。
ユーシアは嬉しいという感情を噛みしめつつ、しかしそれをどこか醒めた目で見ている自分に気がついた。
年ごろの娘としてユーシアを求めた最初の男はオースで、その次がティオ、そして――あれを数に入れていいものなら――エリアスだった。どれもこれも楽しい思い出とは言い難い。ライが彼らと同じだとは思っていないが、彼の言葉には気にかかるところがあった。
きみがいてくれるなら、『王冠』はいらない。ライはそう言ったのだ。
ライは、ユーシアに愛されることを何かの証のように――それこそ『王冠』のかわりのように思っているのではないだろうか。
考えながらぐずぐずしていると、アネイラが歩み寄ってきてユーシアから盆を受け取った。
「まだ人並みには食べられないみたいだね」
「あ、ごめんなさい」
ユーシアは我に返って慌てた。
「少しずつ良くなっています。すぐ疲れてしまうみたいで、今はまた眠っているけれど」
「気長に待つんだね。もうあたしやあんたにできることは全部したから、あとは本人がよく休んで治さないと」
「すっかりお世話になってしまって、ごめんなさい。もっとお手伝いできることがあるといいんですけど」
アネイラは盆を片づけながら、ユーシアのほうを見ずに言った。
「それなら、ここの人たちにもっと歌を聴かせてやって」
「歌ですか?」
「この村には聖堂がなくて、聖歌を聴けることはめったにないからね。このところ大して具合が悪くもないのにうちにやってくる人が多いのは、あんたの歌を聴かせてもらいたいからだよ」
ユーシアは思い返してみた。確かにライのために病床で歌っていると、居合わせた村人たちが耳を傾けていることはよくあった。
「ときどき、うらやましくなるよ」
アネイラはユーシアの顔を見て、かすかに笑った。
「どんな薬よりも魔術よりも、歌のほうが患者を治す力があるんじゃないかってね」
それから数日の間にライは目に見えて回復した。健康な人間と同じくらいに食べられるようになり、一日のうちで身を起こして過ごす時間が長くなった。ユーシアが村人に請われて聖歌を歌っていると、一緒に歌ってくれることもあった。
ダクルートにある『王冠』のことにも、自分の告白のことにも、ライは決して触れようとしなかった。
「きみの歌は本当にすごいな」
ユーシアが寝台に座って髪を編んでいると、ライが横たわったまま話しかけてきた。ライの容態に心配がなくなってからも、ユーシアは毎晩隣の寝台を借りて眠っていた。
枕もとの蝋燭をつけたまま、ユーシアは身を横たえた。今日は特に歌を聴きに来る人間が多かった。長患いの子どもをアネイラに診せに来た母親などは、ユーシアが回復を祈る聖歌を捧げると涙を流していた。
「この村の人たちは聖歌をめったに聴けないから、熱心に聴いてくれるのよ」
「それだけではないと思う。きみの歌は、なんというか――きみそのもののように思える」
きみの宝は、誰にも奪われることがない。ユーシアは船上でライが言ってくれたことを思い出した。
あの時のユーシアは、ライが『王冠』を求めていることなど知らなかった。もしかしたら彼は、ユーシアには歌声があるが、自分には何もないと思っていたのかもしれない。そう考えると胸が痛かった。
「あなたにもあるでしょう」
しかし、ユーシアがそう言ったのは、同情ではなく本心からだった。
「何が?」
「あなたの一部みたいなもの――わたしにとっての歌のようなもの。あなたみたいに『古いことば』を上手に使える人は、どの聖堂にもいないと思うわ」
魔術は禁じられており、使うことは許されない。だがそれを使うための『古いことば』に関する知識は、ライが努力して身につけたものだ。
「何の役にも立たないよ。魔術は禁じられているから――」
ライは言いかけ、ふと思い出したように表情を変えた。
「そういえば、あの治療師のアネイラさん、『古いことば』をそのまま唱えていなかった?」
「ええ。あなたの回復もそれで手伝ってくれたのよ」
アネイラが治療のために魔術を用いるということ、聖堂や州公の目を盗んで魔術に手を出す人間は少なくないらしいことを、ユーシアはライに話した。アネイラは自分自身で戒めをつくり、魔術を使うべき時を見定めているということも。
「すごいな」
ライは素直につぶやいた。
「よほどの覚悟がないと、そんなことはできないよ」
「ええ。わたしも、魔術をどんな場面でも使うか、まったく使わないか、どちらかしか選べないと思う」
「おれもだ。そういう人間は、そもそも魔術に手を出してはいけなかったんだ」
ライは表情をなくした顔で蝋燭の火を見つめていた。
彼を励ましたくてたまらなくなり、ユーシアは寝台から身を乗り出した。
「魔術を実際に使わなくても、その知識だけでも活かせる場所はあるわ」
「あるかな。どこ?」
「南州公閣下」
豪気な変わり者のアルスタ・グラヴリーを思い出すと、ユーシアは自然に元気づけられた。
ライはそうでもないらしく、あからさまにうんざりした顔になった。けれど、感情のない顔のままでいるよりはずっと良かった。
「どうしてそんなに嫌がるの? いい方じゃない」
「おれだってあの人は嫌いじゃないよ。ただおれは、人に馴れ馴れしくするのは得意だけど、されるのは苦手なんだ」
ユーシアは思わず笑った。それを見てつられたのか、ライの顔にもようやく笑みが戻った。
蝋燭の光ごしにその顔を見ながら、ユーシアは考えた。元気づけたい、笑ってほしいというこの感情は、ライが自分に向けてくれているのと同じものだろうか。
「ダクルートの城で、きみの父上の書物を読んでいた時、考えたんだ。どうして四州公家は魔術だけでなく、『古いことば』も禁じなかったのか」
ユーシアは横たわったままうなずいた。ライとともに旅を始めてから、自分も何度か同じことを考えた。
「『古いことば』がある限り、魔術の誘惑に勝てない人間は現れる。アネイラさんのように覚悟を持って使えるならいいけど、そうじゃない者のほうが多いんじゃないかと思う。島の平和のために魔術を禁じるなら、『古いことば』も絶やすべきだったと思うんだ」
「でも、『古いことば』が使われなくなったら、聖歌も島からなくなってしまうわ」
「今日、きみの歌を聴いていて同じことを思った」
ユーシアが切実に言うと、ライはうなずいた。
「『古いことば』は節をつけて歌にすれば、精霊の耳には届かない。歌詞にどんな祈りが込められていようと、精霊はそれを聞き届けてくれないはずだ。それなのに、人は叶えてほしい願いがあると、聖歌を歌ったり聴きたがったりする」
「そのことだけど――わたしは最近、思うの。精霊たちは本当に、わたしたちの歌を聴いていないのかって」
『古いことば』をそのまま唱えれば魔術になるが、節をつければ精霊には聞こえないので魔術にはならない。効果がないかわりに罪にも問われない。ユーシアが聖堂で繰り返し教わってきたことだ。
願いが叶えられることはないとわかっていながら、人はなぜ聖歌を求めるのだろう。
人々が祈りを込めて捧げた聖歌を、精霊たちは本当に聴いていないのだろうか。
ターシュの聖堂に聖歌を聴きにやってきた人たち。祭りの晩に海に向かって歌声を揃えた住民。船の安全を願って労働の汗を流しながら歌う水夫たち。ひとり息子の魂を慰めるために聖歌を求めた宿屋の夫婦。アネイラの治療にするのと同じくらい、ユーシアの歌に感謝してくれたこの村の人々。
彼らのいる場所で、ともに聖歌に耳を傾けている精霊は、本当に存在しないのだろうか。
「きみのその考えは、聖堂の教えに背くものだよ」
ライが思いのほか真剣な顔で言った。
「わかっているわ。でも、わたしは巫女ではないから」
可笑しくなってそう言うと、ライもほほえんでくれた。
聖堂で暮らしていながら巫女ではない。この曖昧な立場を、こんなふうに笑いに変えることができたのははじめてだった。
「巫女ではないから、わたしは自由に考えることができるの。精霊は聖歌を聴いているかもしれないし、聴いていないかもしれない。どちらだとしてもみんな聖歌を聴きたがるし、歌いたがる。だから魔術が禁じられても、『古いことば』が必要だったのだと思うわ」
ユーシアはそこまで言い、急に気がついた。自分がいま話しているようなことを、ライも考えたことがあるに違いない。
「だから、あなたも『古いことば』を学んだのではないの? 父の――ルシアス・ミュリエール卿の書物で」
ライがあの本を見せてくれた時のことはよく覚えている。
ルシアス・ミュリエールは、本当は魔術よりも『古いことば』を研究したかったのではないかと、島のすべての人が精霊の恵みを感じられるように本を著したのではないかと、ユーシアに話してくれたのはライだった。
「きみの言うとおりだ」
ライは蝋燭からユーシアに目を移し、静かに言った。
「『王冠』を滅ぼさないと」
ユーシアは横たわったまま、うなずいた。
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