王の鍵
第四章 王冠 1
『歌って、ユーシア。歌いなさい』
頭の奥のほうで、声がしていた。
ユーシアはその声を無視しながら、あるいは聞こえるに任せながら、細い土の道を歩き進んだ。背中に担ぎ上げたライは少しも動かず、呻き声も小さな吐息ひとつも漏らさなかった。
ライは細身に見えるほうだったが、それでも自分より背丈があり、意識のない人間を背負って歩くのは骨が折れた。ユーシアは息を切らしながら、やわらかい土の上を一歩ずつ、足を引きずるように進んだ。
ライの腕の中で目を覚ました時に見えていた人家は、ほとんど変わらないほど遠くにあった。それでも少しずつ近づいてきているはずだった。
一瞬で別の場所にいたという不思議な感覚と、弱っていく人を前にした時の絶望感には、覚えがあった。もうはるか昔の、生まれてから最初の記憶と言ってもいいほど古いものだ。打ち捨てられた小屋の中に、自分によく似た女性が横たわり、泣きじゃくる自分を諭しているのが見えた。その女性は同じ歌を繰り返し、繰り返しユーシアに聞かせ、ユーシアにもそれを歌わせようとしていた。
『歌いなさい。いつか、あなたの歌が必要になる時が来る』
ユーシアは歌った。呂律がまわるようになったばかりの小さな舌で、耳に入れたばかりの難解な歌詞を懸命になぞった。頭の中をその歌だけでいっぱいに満たしたため、他の記憶がすべて追い出されたように感じたほどだった。
自分がその歌を覚えれば、母は生きてくれると思っていた。しかし実際はその反対で、ユーシアが完全に歌えるようになると、母は冷たくなって二度と目を開けなかった。ユーシアは何度もその体を揺すって泣きじゃくり、この世にひとり取り残されたような恐ろしい夜をいくつか明かし、数日して空腹に耐えかねてふらふらと小屋を出た。そして、おぼつかない足どりで、どこへ向かうとも知らずやみくもに歩いた。
今の十六歳のユーシアは、自分がどこに向かっているのかわかっていた。遠くに見えるあの村がどんな名前なのか、島のどこに位置しているのかはわからない。しかし、人が住んでいる。人が住む場所には聖堂があり、どんな旅人も病人も迎え入れてくれる。そこへたどり着けばライを助けることができる。
肩が、腕が、脚が悲鳴を上げていたが、ユーシアは気づかないふりをして道を進んだ。前の景色しか目に入らなかった。頭がずきずき痛み、耳も聞こえなくなっていた。だから背後から呼びかけられていると気づいた時には、もうその相手はすぐ後ろまで近づいてきていた。
「おい、大丈夫かね、あんたたち」
ユーシアは振り向けなかった。ライを背負った状態で体の向きを変えるにはよほどの力がいる。もたついているうちに、背後にいた人が前へまわってくれた。
「その人は病人かね?」
「気を失っているのか?」
農具を手にしたふたりの男だった。ひとりは壮年で、ひとりはまだ若いところを見ると、父と息子だろう。顔つきはどちらも厳めしいが、ユーシアたちを心から心配そうに見つめている。
それを目にするとどっと体の力が抜け、ライもろともその場に崩れ落ちそうになった。
「大丈夫か、おい」
父親のほうがユーシアの前に駆け寄り、息子は背後にまわってライの身を預かってくれた。
「体が冷たいぞ」
「いかんな、早くアネイラさんのとこへ運ぼう」
親子が口々に言うのを聞きながら、ユーシアは道の上に座りこみ、ぼんやりと繰り返した。
「アネイラさん……」
「そうだ。立てるかね、娘さん」
農夫の親子はひとりがユーシアの手を引き、ひとりがライを担いで人家の群れまで連れていってくれた。
遠くから見えていた時の印象どおり、そこは小さな村だった。家は点在し、道と呼べるほどの道もなく、抜きん出て高い建物も見あたらなかった。波の音も潮の香りも感じないことから、海の近くではないということはわかった。
親子は慣れた足どりでひとつの家に向かい、屈まなければ通れないほどの小さな扉を叩いた。
「アネイラさん、いるかね?」
しばらくすると、中からほっそりしたひとりの女が現れた。黒っぽい髪を後ろで縛り、色あせた衣服にあちこち染みのある前掛けをつけている。年はおそらく三十ほどで、来客を見ると少し眉を動かしたが、それ以上の表情は見せなかった。
「病人かい?」
「そうらしい。重症かもしれん。早く診てやってくれ」
「寝台まで運んで」
女は親子に命じた。ライが家の中へ運ばれていくと、彼女は玄関に立ち尽くしているユーシアを見つめた。
「あんたも具合が悪いのかい?」
「いいえ」
ユーシアは首を振り、そのおかげで朦朧としていた頭が冴えた。
「わたしは何ともありません。あの人を早く診てあげてください」
女はまだユーシアを見つめていた。あいかわず表情は動かなかったが、それでも不思議と冷淡そうには見えなかった。
「中へ入って座って」
ユーシアはその言葉にうなずき、女に続いて家の中へ進んだ。
そこはターシュにもあったような、一家族が暮らすありふれた民家だった。裕福な商家でもない限り庶民の家は一間しかなく、そこにいくつもの寝台を並べて家族全員が眠る。この家にも寝台はあったが、そのうち半分はしばらく使った形跡がなく、生活感が見あたらなかった。壁には乾燥させた何種類もの植物が吊してあり、そのうちいくつかはユーシアも名前を知るものだった。
使っていない寝台のひとつに座らされるころには、ユーシアもようやくここがどこなのかわかってきた。
医者にかかるような余裕のない庶民は、たいてい聖堂で巫女や巫人に診てもらう。しかし、この村には聖堂らしい高さの建物は見あたらなかった。こういった小さな村では、他の家業のかたわら村人を診る治療師がいる。たいていはいちばん近くにある聖堂まで出かけ、巫女たちから医術や薬術を教わるらしい。ターシュの聖堂にそうした客が来たことはなかったが、そういうこともあるとユーシアは聞いたことがあった。
アネイラと呼ばれていた治療師の女は、寝台に横たえられたライの脈をとり、額に触れ、それからユーシアを振り返った。
「この人の持病は?」
「――ありません。旅でひどく疲れただけです」
「それにしては弱りすぎてる」
ユーシアはアネイラの視線を受け、答えに困った。魔術の代償を払って倒れたのだ、などと言うわけにはいかない。
ユーシアが言い淀んでいると、アネイラが再びライに目をやった。ユーシアも立ち上がり、アネイラの隣に並んだ。
「回復しますか?」
「本人次第だね。疲れているだけならとにかく休ませるしかない」
アネイラはライの首まで上がけを引き上げた。それから口を開き、病人の青白い顔に何かを唱えた。
「――え?」
ユーシアは自分の耳を疑った。聞き間違いだったのだろうか。アネイラの口から飛び出したのは、『古いことば』だったように思う。
思わず左右を見回したが、ここへ連れてきてくれた農夫の親子も、ユーシアに白湯を渡してくれた十二歳くらいの娘も、平然としていた。
「魔術を見るのははじめて?」
アネイラに問われ、ユーシアはまごついた。
「はい――あ、いえ、はい――」
「心配しなくていいよ。州公のお役人もこんな田舎まで取り締まりには来ないから。万一見つかったとしても、しょっぴかれるのはあたしだけだ」
「あの……ここはどこですか?」
ユーシアはまず尋ねるべきだったことに気づき、おそるおそる口に出した。アネイラは眉をひそめ、農夫たちの息子のほうが呆れた声を出した。
「イネッドだよ。あんたたち、道に迷っていたのか」
「イネッド……」
「ディアレス西州の奥地にある村だ」
州都であるダクルートからはどれくらい離れているのだろう。奥地と言っても、南州と北州のどちらに近いのだろう。
ユーシアがさらに尋ねるべきか迷っていると、ユーシアの顔を見ていたアネイラが口を開いた。
「あんたは荷物も持たず、そんな姫さまみたいななりで、どこへ続くかわからない道を歩いてきた。連れのこの人は怪我も病気もしていないのに、死にそうなくらい弱ってる」
ユーシアは思わずうつむいた。怪しまれるのはあたりまえだ。自分たちの今の境遇はどうやっても説明のつけようがない。
「無理に話せとは言わないよ」
アネイラが言った。そっけないが突き放すような響きはない声だった。
「何にせよ、この人をよく休ませないと」
「ありがとうございます。でも、あの……」
ユーシアはアネイラの顔を見上げたが、もうひとつの言いづらいことを思い出して言い淀んだ。
「お代のこと?」
アネイラは言った。こんなことはよくあることだと言いたげな口ぶりで。
「あんたは何ができる?」
治療師が言おうとしていることを察し、ユーシアはぱっと顔を上げた。
「家事はたいていなんでもできます。それと、治療のお手伝いもできると思います」
「じゃあ、この人の心配がいらなくなったら手伝ってもらおう」
アネイラはにこりともせずに付け加えた。
「その前に、あんたも少し休んだほうがいいよ」
アネイラは寝台のひとつを貸してくれると言ったが、ユーシアはそこに横たわらなかった。ライが眠る寝台の側に椅子を置いてもらい、そこに腰を下ろしてライの寝顔を見守った。
ライは決して目を開けず、声も出さなかった。耳を顔に近づけてみないと、息をしているのも確かめられないほどだった。何度か薬草茶を飲ませようとしてみたがだめだった。アネイラが昼間から行火を用意し、寝台に入れてくれたが、体温はほとんど戻っていないように思えた。
ユーシアは上がけごしに彼の体をさすり、血の気のない顔に話しかけて時を過ごした。
アネイラは等間隔でライの寝台を見に来たが、容態に変化がないことは彼女に訊かなくてもわかった。治療師の家には他にも患者が何度かやってきたが、彼らは余所者のユーシアとライに不思議そうに目をやり、特に話しかけようとはせず去っていった。アネイラも必要以上にユーシアと話をせず、日が落ちて暗くなる前に家から姿を消した。ユーシアは意識のないライの側に残り、顔色や呼吸に変わりがないか片時も目を離さずにいた。
部屋の中が暗くなってきたと思ったころ、裏口の扉からアネイラが蝋燭を持って現れた。片手に大きな皿の載った盆を抱えており、蝋燭をライの枕もとに置くと、盆のほうをユーシアの前に出した。皿の中では穀物を煮込んだ粥が湯気をたてていた。
「ありがとうございます。でも、この人はまだ食べられないと思います」
「あんたのだよ。看護人こそしっかり食べないと」
アネイラは皿に匙を添えて持ち上げ、ユーシアの手に持たせた。ユーシアは礼を言って受け取った。食欲はまるで感じなかったが、匙を取り、粥をすくって一口食べた。味はほとんどわからなかったが、温かさが喉から体中に染み渡った。
この粥も、この家の雰囲気も、ターシュの聖堂とどこか似ている。一口すくって食べるごとに、目に熱いものが浮かんできた。
アネイラはユーシアが食べているのを見届けると、今度はライの寝台を覗きこんだ。今までも何度かそうしたように脈をとり、体温を確かめ、そして最後に『古いことば』を唱えた。
「いつも、治療に魔術を使うのですか?」
ユーシアは食べる手を止め、アネイラに声をかけた。アネイラが振り返った。
「いつもではないね。魔術をかけなくても助かる患者の時は、精霊に頼んで回復をちょっとばかり速めてもらう。助からない患者の時は、できるだけ苦痛を減らしてもらう」
ライはどちらなのだろうと、ユーシアは考えた。どちらにしろ、アネイラが『古いことば』を唱える前と後で、ライの様子に大きな変化があるようには見えなかった。
「『古いことば』は、どこで学ばれたんですか? この村には聖堂がないようですが」
「ここから歩いて二日はかかる、隣の村の聖堂だよ。医術を覚えるついでに教えてもらった」
アネイラは別の寝台の側から椅子を持ってきて、ユーシアの椅子の隣に置いた。そこに腰を下ろすと、ユーシアの顔を見つめた。
「州公家が禁じていることなのに、と思ったんだろう」
「あ、いいえ――ごめんなさい」
「あんたのまわりにはいなかったのかも知れないけどね、魔術を使う治療師は、この島であたしひとりってわけじゃないと思うよ」
アネイラはユーシアを見たまま、はじめて小さく笑った。ユーシアは自分が小さく口を開けていることに気がついた。
「ちょっと想像してみてごらん。目の前に苦しんでいる人間がいて、和らげてやる方法を知っているのに、それをせずにいられる治療師がいると思う?」
「お役人に――その前に、巫人や巫女に知られたら」
「見て見ぬふりをすると思うよ。もしかしたら治療師だけじゃなく、自分のちょっとした願いを叶えるために、『古いことば』で精霊に頼む人間もいるかもしれないね。巫女さまたちもお役人も、それをいちいち咎めていたらきりがないと知っているはずだよ」
「怖くありませんか?」
ターシュの聖堂でユーシアは、『古いことば』を節をつけずに唱えないよう、きつく言い聞かされた。そうされていなくても自分にはできなかっただろうと思う。
自分の言葉ひとつで、動くはずのないものごとが動くなど――ましてや、人の命や、島の行く末を左右してしまうなど――想像するだけでも恐ろしい。
「怖いに決まってる」
アネイラはあっさりと答えた。その目は寝台の上のライを見つめていた。
「だから、あたしが魔術を使うのは、さっき言ったように回復を速めるためか苦痛を減らすためだけだ。もう見込みのない患者を助けるよう精霊に頼んだりはしない」
「頼みたくなったことは――」
ユーシアは言いかけ、率直すぎる問いだったことに気づき、口をつぐんだ。
アネイラはしばらく押し黙った。何かを思い出しているような表情だった。
「あるよ。もちろん」
治療師は口を開いた。
「でも、そうしたことはない。『古いことば』を覚えた時に決めたんだ。患者の命を左右するようなことには、絶対に魔術は使わないって」
それは、はじめから魔術を持たない治療師の、何倍もの自制心を必要とするのではないだろうか。苦痛を減らすためには魔術を使うのに、命を助けるためには使わないでいるというのは。
ユーシアはそう思ったが、口には出さなかった。アネイラがどれほどの覚悟を持ってこの仕事をしているか、彼女の表情を見ればわかったからだ。
「さて、あたしは自分の家に戻るよ。亭主と子どもたちにも粥をよそってやらないと」
アネイラが立ち上がった。家族がいるのかとユーシアは意外に思ったが、考えてみれば当然のことだった。治療師は巫女と違って独り身を貫く必要がない。
「あんたはここで眠るだろう。うちはすぐ隣だから、何かあったら呼びに来て」
「ありがとうございます。あの――名乗るのが遅くなってごめんなさい。ユーシア・ミュリエールと言います」
アネイラはさして興味もなさそうにうなずき、ユーシアから空になった皿を受け取った。
「ご丁寧にどうも。あたしはアネイラ・トレヴァー」
アネイラが裏口から出て行くと、ユーシアは軽い眠気を感じた。よく考えてみれば、二晩も続けてほとんど眠っていなかったのだ。
アネイラの言葉に甘えて、隣の寝台で休ませてもらおう。そう思って立ち上がりかけた時、横たわっているライの顔が視界に入った。彼は目を薄く開けていた。
「ライ、気がついたの? わたしがわかる?」
ユーシアは寝台に覆い被さるようにして、ライの顔を覗きこんだ。
ライはしばらく視線をさまよわせた後、ユーシアと目をあわせ、小さく息を吸い、言った。
「行かないで」
「ここにいるわ」
「弟は――きみを傷つけることくらい、なんとも思わない。あいつのところには行くな」
ユーシアは彼の言おうとしていることを理解した。
ダクルートの宿屋でユーシアがいないことに気づいてから、ライはずっとこうしてユーシアを案じ、今も案じ続けてくれているのだろうか。
「行かないわ。もう大丈夫、逃げてきたから」
ユーシアがささやくと、ライの目から力が抜けた。そのまま閉じてしまったのでユーシアは一瞬ぞっとしたが、すぐにライの寝息が聞こえてきた。先ほどまでよりもずっと深い、確かな呼吸だった。
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