王の鍵 [ 3−4 ]
王の鍵

第三章 州都 4
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 お城というものの中にはどうやって入るのだろうと、聖堂にいたころのユーシアは考えたことがあった。旅芸人の一座を宿泊客として迎えた晩のことだ。その芸人たちは、シアランの女州公の城で歌ったことがあると誇らしげに語っていた。
 ヴィラムの南州公家の別邸には、海から船に乗ったまま入ることができた。ディアレス西州の都ダクルートは海に面していない。どうするのだろうとユーシアがひとり考えていると、隣を歩くウォルカーンがそれを読んだようにささやいた。
「緊張をときなさい。ここはもう西州公閣下の居城の中だ」
 ユーシアはぎょっとして左右を見回した。そこは質素な身なりの人や荷車が行き交う、ごく普通の街道のただ中だったのだ。ターシュやナクザと比べると人も車も多く、建物の背も高いが、人々が暮らしを営む雑然とした空気は変わらない。
「この者たちはみな、閣下に仕える者とその家族だ」
 ウォルカーンはさらに信じられないことを言い、正面を見据えた。ユーシアもそれに倣った。
 石造りの巨大な建造物が、さほど離れていない先に待ち構えていた。形はほぼ真四角で、積み上げられた石の最上部は鋸の刃のような線を描いている。その上にはやはり真四角の幾まわりか小さな石組みがあり、さらにその上には立てられた棒の先に旗がなびいていた。模様まではよく見えないが、色は濃い青と緑だ。ユーシアが思い描いていたのとほとんど変わらない城の姿だった。
 その麓まで来ると、巨大な木の扉の前を四人の男が守っているのが見えた。いずれも白銀色の鎧を身につけ、同じ色の兜で頭部を隠している。いちばん手前にいた男がウォルカーンに気づいたらしく、姿勢をあらためて道を開けた。他の三人も同じようにした。
 開いた扉を抜けたユーシアの目には、上下左右に張りめぐらされた石の壁だけが映っていた。ここが自分の両親が暮らした城、自分が生まれた場所なのだろうか。風雨にさらされ、日に焼けた石たちは、代々の西州公と妻子を守ってきた年月を語ってはいたが、今ここで暮らしている人々、それほど昔ではない時まで暮らしていた人々のことは、何も教えてくれそうになかった。
 石の壁の内側に入ると、ウォルカーンは振り向いて告げた。
「まずは着替えを用意させよう。閣下にお目通りを願うのにふさわしい姿でいてもらわねば」
 ユーシアはふたりの女性の手で沐浴させられ、別のふたりの女性の手で衣装を着つけられ、髪を結い上げられた。衣装の生地は生成の白で、胴の中心と袖におそろしく細やかな模様が織り込んである。南州公が貸してくれた彼の姉妹の衣装も美しかったが、この衣装はユーシアを浮きたたせるよりも緊張させるものだった。
 女性たちに案内されて城の中を歩いていると、左から甲高い少年の声が響いてきた。
「怠慢だぞ、ウォルカーン卿。『王の鍵』を捕らえたのなら、なぜ真っ先にぼくのもとへ連れてこない?」
 ユーシアはうんざりして足を止め、声の主が近づいてくるのを待った。
 エリアス・ハルバート――西州公の嫡男にして、ライの異母弟――は、ユーシアの姿を見るとさらにわめき立てた。
「親切に身なりまで整えてやったのか。ここは貧民に慈悲をくれてやる場所ではないぞ」
「この方はミュリエール卿の娘御です、公子」
 エリアスの後をついてきたウォルカーンが、辛抱強く抑えた声で言った。
「閣下に拝謁を賜るのに、ぼろを着せたままというわけにはいきますまい」
「謀反人の娘だろう」
 エリアスはユーシアの前まで歩いてくると、顔を近づけて吐き捨てるように言った。
「この女の父親は、州公の命に背いて勝手に『王冠』を封印した。事がすべて済んだら、父の咎を娘に贖わせるべきだ」
 ユーシアは黙って顔を背けた。エリアスの大声も言葉も怖くなかったが、近くでそれを浴びていると耳を塞ぎたくなった。二度会っただけでこれほど嫌いになれる人物ははじめてだ。
 ライの兄弟なのだと思うと、彼に対する新しい感情が湧き上がってきた。ライはこの少年とともに育てられ、しかし彼に与えられるものの半分も与えられなかったのだ。
「公子、まずは彼女を、閣下の前に連れていかねばなりません」
 ウォルカーンはエリアスの発言には特に反応せず、冷静に少年を諭した。
 エリアスは鼻を鳴らしてユーシアから離れた。
「それなら、さっさと行けばいい」

 連れて行かれたのは城の最上階にある一室だった。大きな木の扉の前には、外で見たのと同じ甲冑のふたりの兵士がいた。彼らが脇によけると、ウォルカーンが扉を開き、まずエリアスが中に踏み入れた。ウォルカーンが扉を押さえたまま目で促し、ユーシアも続いて部屋に入った。
 聖堂で巫女たちと寝起きしていたのとさほど変わらない広さの部屋だった。がらんとして見えるのは、中にたったひとつの寝台しか設えられていないせいだろう。それは部屋のほぼ中心部にあり、その上に痩せ細った白髪の男が横たわっていた。開け放たれたふたつの窓から光が入り込み、寝台の上がけや男の髪をいっそう白く見せていた。
 ウォルカーンが先に進み、寝台に歩み寄った。
「閣下。お加減はいかがです」
 ユーシアは我に返り、今さらのように寝台の男に見入った。
 ウォルカーンに支えられながら身を起こした男は、エリアスにもライにも似ていなかった。目は落ちくぼみ、表情はうつろで、ゆるやかな寝間着の上からでも骨と皮ばかりなのがわかった。同じく老齢のウォルカーンが壮健そうなだけに、いっそう痩せ衰えて見えた。
「ユーシア・ミュリエール嬢です、閣下。ミュリエール卿夫妻のご息女です」
 ウォルカーンの声に、ユーシアは無意識に膝を折った。
 西州公その人と目見えた時、どのように振る舞うかなど考えていなかった。記憶が確かならば、この男は禁を破って魔術を研究させた悪人で、ユーシアの父母の身を滅ぼした張本人だ。けれど寝台に起きているのがやっとの老人を前にすると、抱くべきだと思っていた強い感情は湧いてこなかった。
「ご病気なのですか?」
 西州公の目はユーシアを見ておらず、薄い唇は少しも動かなかった。この場に誰がいるのか、自分がどこにいるのかもわかっていないように見えた。
 ウォルカーンが目でうなずいたが、彼は説明を加えようとしなかった。
 かわりに、エリアスが甲高い声で口を挟んだ。
「もういいだろう。さっさと終わらせよう」
 彼は寝台の側のウォルカーンとも、ユーシアとも数歩離れた位置に、所在なさげに立ち尽くしていた。ウォルカーンのことはちらちらと見ているが、寝台の上の父親にはわざと目をやろうとしていないようだった。
「どうせじきに死ぬんだ。一瞬だけでも『王』の気分を味わわせてやれ」
「公子」
 ウォルカーンが声を尖らせると、エリアスは決まりが悪そうに顔を背けた。
 ユーシアは似ていない父と子をしばらく見比べたが、やがて自分がここに来た理由を思い出し、口を開いた。
「『王冠』の封印を解かせてください。どこへ行けばいいですか?」
「ここでいい」
 ウォルカーンがそう言い、西州公の身を再び寝台に横たえた。それからユーシアが見ている前で、西州公の寝間着の袖を引き上げた。
 ユーシアは歩み寄り、ウォルカーンの背後から寝台を覗きこんだ。あらわになった老人の右腕は痛々しいばかりに痩せていた。その衝撃から覚めるとすぐに、西州公の手首に腕輪が嵌められているのに気がついた。
 それは銀色の細い腕輪で、萎びた西州公の手が簡単にくぐれそうな大きさだった。石などの装飾は何もついていないが、よく見ると外側に無数の文字が彫ってあった。おそろしく細かいそれは『古いことば』で、ユーシアにも見覚えのある文句だった。
「……歌だわ」
 物心ついた時から歌っていた、あの歌の歌詞だった。父がつくり、母がユーシアに教えたものだ。『王冠』の封印を解く『王の鍵』が、西州公の腕輪に刻まれている。
「これが『王冠』だ」
 ユーシアは目線を腕輪から上げた。
 ウォルカーンが寝台から顔を上げ、ユーシアを振り返っていた。
「ルシアス・ミュリエールは閣下の命に従い、『王冠』を目に見える形につくり上げた。この腕輪を嵌めたものが『王冠』を手に入れ、すべての精霊に従う『王』となる。もっとも、今は封印されていて魔術が働かないがな」
 ユーシアにもわかってきた。
「この腕輪に向かってわたしが歌えば、『王冠』の封印が解けるのですか」
「そう。その時にこの腕輪を嵌めていた者が『王』だ」
「誰も嵌めていない状態で歌ったら?」
 ウォルカーンの目がユーシアを見つめた。
「その時は、『王冠』の魔術は霧散し、やがて消えてなくなる」
 腕輪を嵌めた西州公の手を、ウォルカーンは強く握った。
「閣下はもう何年もこの腕輪を身に着けておいでだ。『王冠』を奪って逃げようと言うなら、閣下のこの手からまず腕輪を抜き取り、五百もの兵がいるこの城から抜け出さねばならんよ」
「『王冠』を奪って逃げる!?」
 ユーシアが身構えるより先に、エリアスが叫び声を上げて近寄ってきた。
「この女、しおらしく従うようになったと思ったら、そんなことを企んでいたのか!」
 エリアスはユーシアの編んだ髪をつかみ、引いて振り向かせた。
「どうなんだ。『王冠』を盗むつもりだったのか。本当のことを言え!」
 ユーシアはエリアスに髪をつかまれたまま、ウォルカーンを見た。老魔術師の手は西州公の手をしっかりと握っていた。
「ライに絆されたのかね、お嬢さん」
 その言葉にはユーシアよりエリアスが先に反応し、髪をつかむ手が急に緩んだ。
「は? ライ?」
「彼を憐れに思って、彼のために『王冠』を奪おうと思ったのかね」
 ユーシアはウォルカーンの手もとを見つめ、ゆっくりと言った。
「それしか、できることはないと思ったのです」
 ライにかけるべき言葉はすべてかけた。それでも彼の気持ちを変えることはユーシアにはできなかった。
 それなら、『王冠』そのものを持ってきて、ライに差し出してみるしかない。
 それがライのためになるのかどうかはわからない。ライはそれを見て満足するかもしれないし、こんなものは欲しくなかったと気づくかもしれない。何がライにとって良いことなのかはユーシアにはわからない。
 それでも、他にできることは何も思いつかなかった。だからユーシアはここへ来たのだ。
「おまえ、あいつに惚れてるのか」
「え?」
 背後のエリアスの声に、ユーシアは振り返った。
 思いもよらない言葉だった。けれどエリアスは言い当てたと思ったらしく、可笑しそうに顔を歪めてユーシアを嘲笑った。
「馬鹿な女だな。あいつは『王』どころか、州公にもなれないかわいそうな奴だ」
「あなたのお兄さまでしょう」
 ユーシアは冷静に応えた。自分に対する誤解よりも、エリアスの兄に対する言いようのほうが気になった。
「あんな奴が兄なものか。芸人の女が産んだ子だぞ。ぼくが広間で父上の賓客をもてなしている時に、あいつは黴くさい書庫で『古いことば』を必死に覚えていた。あの時のぼくたちの姿をおまえに見せてやりたいよ」
 エリアスは急に表情を変えたと思うと、いっそう深く笑った。何か思いついたらしい。ユーシアに手を伸ばし、今度は髪ではなく肩を両手でつかむ。
「よし、わかった。約束どおり『王冠』の封印を解いたら、おまえを妻にしてやろう」
「――え?」
「どうせ父上はもう長くない。その次に『王』になるこのぼくの、妃にしてやると言っているんだ。芸人の息子と一緒になるのとどちらがいいか、わかりきっているだろう」
 ユーシアは呆気にとられて聞いていたが、やがてふつふつと怒りが湧き上がってきた。肩に触れられているのも耐えられなくなり、身を捻ってエリアスから離れ、数歩後に下がった。
「なんだ、無礼だぞ」
「あなたの妻になるくらいなら、謀反人の娘として牢につながれるほうがましだわ」
 自分でも驚くほど強い声が出た。
 エリアスの顔から笑みが消え、かわりに歪んだ怒りが現れた。
「本当に馬鹿な女だな。母娘そろって『王』の求婚を蹴るなんて」
「公子、その話は」
 黙っていたウォルカーンが、ユーシアの背後から口を挟んだ。
 だがユーシアは、エリアスの口から出た意外な言葉を聞き逃さなかった。
「母娘?」
「おまえの母親――カリーナ・ミュリエールも同じ過ちを犯した。ルシアス・ミュリエールを捕らえ、『王の鍵』のことを知った父上は、ミュリエールの妻に慈悲深くも言ってやったんだ。『王冠』の封印を解けば、自分の妃にしてやると。おまえの母親はおまえと同じくらい愚かだな。州公妃に――そして『王』の妻になれる機会をみすみす棒に振るなんて」
 その場にいたわけでもないだろうに、エリアスは見てきたようにすらすらと語った。
「あげく、娘を連れてこの城から出るために、分不相応な魔術を使って命を落とすなんて――」
「公子!」
 ウォルカーンが今度こそ声を上げ、エリアスの話を遮った。
 ユーシアはすばやく振り向き、ウォルカーンの目を見た。自分は今、聞きたくないけれど聞かなければならない事実に面している。ならば、それはエリアスではなく、ウォルカーンの口から聞きたかった。
「どういうことですか? 魔術で命を落とした?」
「空間を移動する魔術のことだ」
 ウォルカーンは低い声で、しかし急いで言った。
「魔術の中でももっとも代償が大きいもののひとつで、使った者は命を失うことさえある。カリーナ・ミュリエールはこの城から逃れるためにそれを使った」
 ユーシアとともに逃れるためだ。
 ターシュの港で保護された時、ユーシアはひとりだったという。母親の姿は誰も見なかった。
 母は魔術でこの城から東州へ飛び、誰にも助けを求めずに力尽きたのだろうか。人里離れたどこかに身を隠し、娘に歌を教えた後ひとりで行かせ、自分は息をひきとったのだろうか。
 確かなのは、母が命を落としたのは、ユーシアと『王の鍵』を守るためだったということだ。
 南州公の城で話を聞かせてくれた時、ライは両親の死については口にしなかった。彼はこのことを知っていたのだろうか。
 もちろん知っていただろう。知っていて、ユーシアのために黙っていてくれたのだ。
 思いいたらなかった自分が愚かだったのだ。両親のことは想像さえせずに育ったので、どんな形で命を落としたのかなど考えもしなかった。
「ウォルカーン卿」
 ユーシアは老魔術師に呼びかけた。
「わたしの父は、どのように亡くなったのですか。教えてください」
「ルシアス・ミュリエールは、獄中で死んだ」
 ウォルカーンはためらう様子もなく、ゆっくりと言った。
「閣下は彼を処刑するつもりはなかったが――『王の鍵』のことを聞き出すための拷問にかけられ、そのまま手当ても受けられずに息をひきとった」
 ユーシアは胸の前で自分の手を握りしめた。誰に怒りを向ければいいのかわからなかった。
 この城で父は殺され、母も命を削る行為に追い込まれた。だが、それをさせた人物は病と老いにやつれ、朽ちた木の枝のように横たわっている。その息子は誰かの死を可笑しげに語り、こちらが涙を見せれば嬉しそうにほほえみそうな人間だ。
 この場でただひとり、ユーシアの怒りが理解できそうなのはウォルカーンだった。しかし、彼は憐れみの入り交じった静かな目でユーシアを見つめており、その目に強い感情をぶつける気にはなれなかった。
 誰も口を開かず、部屋には沈黙が満ちていた。
 その沈黙を破る物音が、壁の向こうから聞こえてきた。耳を澄ませているとその音はどんどん近づいてきていた。複数の人間の足音のようだった。
 がたりと大きな音を立て、部屋の扉が乱暴に押し開かれた。
 西州公を除く全員が扉を見た。外套がずれ落ち、息を弾ませたライがそこに立ち、背後には甲冑をつけた複数の兵士が追ってきていた。
「ライ」
 ユーシアが最初に口を開いたが、その後に続ける言葉がとっさに浮かばなかった。もう日は高く昇っている。ライはあの宿屋で目覚め、ユーシアがいないことに気づいて慌てて追ってきたのだろうか。
「何しに来た? ああ、おまえも『王冠』を盗みに来たのか」
 エリアスが異母兄に向かって言い、つかつかと歩いて寝台の側に移った。腕輪を嵌めた西州公とライの間に立つように。
「憐れなものだなあ、生まれが賤しいからって、『王冠』を手に入れて補おうとするなんて。おとなしくぼくに従っていれば、『王』の家臣くらいにはしてやるのに――」
 エリアスが話している間に、ライは足早に寝台のほうへ駆け寄ってきた。ウォルカーンがユーシアの隣で身構え、背後にいた兵たちも部屋に入ってきた。
 ライは寝台にまっすぐに駆けてきて、横たわる西州公のもとへ、腕輪に向かって――ではなく、寝台のかたわらに立つ者の側へやってきた。ユーシアのもとへ。
「え?」
 思わず声を出したユーシアの腕を、ライの手がつかんだ。
「帰ろう」
 ライはユーシアの手を引いて寝台から離れ、入ってきた扉に再び向かった。そこにいた兵たちは予想外の事態にたじろぎながらも、隙間なく並んで出口を塞ごうとする。
「そいつを逃がすな! 『王の鍵』が盗まれる!」
 背後でエリアスの高い声がした。
 兵たちが甲冑を揺らして音を立てながら、ユーシアとライに歩み寄ってくる。
 ユーシアはライの顔を見た。それと同時にライが口を開き、『古いことば』が聞こえた。
 今度は声を上げる暇もなく、ユーシアは視覚を失っていた。

 目が開くようになった時、ユーシアは誰かの腕の中にいた。地面に横たわり、背後から伸びる腕にくるまれていた。身をひねって振り向こうとしても、強く絡みついた腕がそれを許してくれなかった。
 前方の景色に目をやった。地面に片耳をつけた状態で見えるのは、土埃の立つ細い道と、その脇に広がる収穫の近い畑、ずっと遠くにあるいくつかの人家だった。
 強固な石の壁に守られた、西州公家の城とはまるで違う。
 どうやってここへ来たのだろうと考え、ユーシアは恐ろしいことに気がついた。必死で身をよじり、自分を抱きしめる腕の持ち主に呼びかけた。
「ライ、離して。起きて。大丈夫?」
 それがライであることははじめからわかっていた。しかし彼は腕の力を緩めず、ユーシアの背後に横たわってわずかにも動かなかった。
 意識がないのかと考えて絶望しかけた時、か細い声が聞こえてきた。
「……行かないで」
「目が覚めているの? わたしを離して、あなたの様子を診させて」
 どうやってここへ来たのかはもうわかっていた。西州公の城にいた最後の瞬間、ライは『古いことば』を唱えたのだ。
 空間を移動する魔術はもっとも代償が大きく、使えば命を落とすこともある。ウォルカーンの言葉を思い出しながら、ユーシアは必死で気持ちを落ち着け、ライの腕から逃れようとした。
「ねえ、お願いだから離して。あなたが心配なの」
 ライの腕はぴくりとも動かなかった。ユーシアは目に熱がこもるのを感じた。
「どうしてこんなことをしたの? 『王冠』がそこにあったのに」
 『王の鍵』だけを取り戻しても、何にもならないのに。それどころか、こんな魔術を使えば命さえ失いかねないのに。
「いらない」
 絡みついている腕にさらに力がこもった。
「『王冠』はいらない。だから、行かないでくれ」
「――え?」
「きみがいてくれるなら、『王冠』はいらない。魔術を失ってもかまわない」
 どういう意味なのかユーシアが理解できる前に、ライの腕が不意に緩んだ。自分を強く締めつけていた手が、目の前に力なく垂れ下がるのを見て、ユーシアは慌てて身を起こした。
 ライは目を閉じて、乾いた地面に横向きに寝そべっていた。両腕はユーシアを抱きしめていた形のまま、枯れ木の枝のように体の横に伸びていた。顔色はぞっとするほど青白く、唇に息が通っている気配はなかった。
「だめ」
 ユーシアはライの体を揺すった。ずっと昔に、同じことをしたような記憶を感じながら。
「死なないで。お願い、置いていかないで」


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