王の鍵 [ 3−3 ]
王の鍵

第三章 州都 3
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 建物の角を何度も曲がり、港が見えなくなり、どのくらい走ったのかわからなくなってきたところで、ユーシアはライの手から解放された。思わず壁に手をついて呼吸を整えたが、ライのほうはそれほど息を乱していなかった。ただ顔をうつむけ、ユーシアと目をあわそうとしなかった。
「……あの」
「どこか宿を探そう」
 ユーシアの口を封じるように、ライはそれだけ言い、歩きはじめた。
 ふたりが今いる場所は建物に挟まれた狭い路地で、馬車はもちろん小型の荷車も通っていなかった。そのぶん歩く人は多いが、誰も自分の用で頭がいっぱいのようで、黙りこくって歩く若い男女にいちいち気をとめたりしない。
 ライははじめて会った時と同じ背嚢を右の肩に下げていた。
「あの、大丈夫?」
 ユーシアが横から顔を覗きこんでも、ライは目線もよこさなかった。
「何が」
「さっきの馬の脚――あなたがやったんでしょう?」
 エリアスを乗せた馬車が急に動かなくなったのは、明らかにライの魔術によるものだろう。
「あれはすぐに解ける。倒れたりはしないから、安心して」
 ユーシアはほっとした。ライの具合が悪くないことよりも、彼がまともに答えてくれたことに。
 そのくらい今のライは表情がなく、人を寄せつけない張りつめた空気を持っていた。

 まだ日も高くなっていないというのに、宿屋の主人はふたりを親切に迎えてくれた。清掃が終わったばかりだという部屋に案内し、食事は一階で別料金だと告げた。食堂も兼ねているらしい。
 素性を尋ねられたりはしなかったが、ナクザでそうしたのと同じように、親戚を訪ねに行く夫婦だとライがさりげなく伝えた。ライは宿屋の者たちとそつなく話していたが、今までのような笑顔も軽口も見せなかった。
「しまった」
 宿屋の主人が階段を下りる音が途絶えると、ライが唐突につぶやいた。所在なく部屋を見回していたユーシアは、びくりとして振り返った。
「どうしたの?」
「部屋をふたつと言わなかった。夫婦だと名乗ったら、こうなるに決まってるのに」
 宿屋の主人は当然のごとくふたりに何も尋ねず、寝台がふたつ置かれた一部屋に通したのだった。ユーシアは急にうろたえ、やり場に困った視線を並んだ寝台に落とし、ますます混乱した。
 聖堂でも館でも船でもふたりの部屋は別々だった。同じ空間で眠ったのは、ナクザの港で勝手に寝床を借りたあの晩だけだ。あの時は状況が状況だったので特に気にもならなかった。
 今の状況も、あの晩に劣らない切迫したものではあるのだが。
「今からでももう一部屋借りよう。言ってくる」
「あ、待って」
 背を向けたライに手を伸ばし、ユーシアは思わず彼の腕をつかんだ。その直後に我に返り、慌てて手を離した。
「ごめんなさい」
「――いや、こっちこそ」
 ライはユーシアを見下ろし、すぐに目をそらして床を見つめた。
「本当にごめん。わかってるよ。ちゃんと話すのが先だ」
 ユーシアはうなずき、ライの言葉の続きを待った。
 ライはすぐに話しはじめず、寝台の片方に腰を下ろし、ユーシアを目で促した。ユーシアが隣の寝台に座ると、ライは再び口を開いた。
「あれは――馬車にいたあいつは――エリアス・ハルバート。西州公ノートン・ハルバートの嫡男だ」
 ユーシアはうなずいた。エリアスのことは本人から聞いている。いちばん聞きたいのは別のことだ。
「弟さんなの?」
 ライは小さく息を吸い、観念したように吐き出して答えた。
「そうだ。生まれた日は一年も違わないけど」
「あなたは西州公のご子息――公子なの?」
 ウォルカーンがエリアスをそう呼んでいたことを思い出しながら、ユーシアは慎重に尋ねた。
 ライはユーシアの目を見なかった。斜めにそらした視線を床に落としたまま、ゆっくりと答えた。
「おれは公子じゃない。父は州公だけど、母は州公妃ではなかったから」
「え……?」
「おれは、精霊の祝福を受けずに生まれてきた子どもだ」
 何を言ったらいいのかわからず、ユーシアは黙りこんでしまった。
 島に住む男女は夫婦になる時、精霊たちに誓いを立てる。たいていは聖堂で、ごく稀には別の場所で、巫人や巫女に聖歌を捧げてもらうのが婚姻の儀式となる。そうすれば精霊たちが祝福してくれて、ふたりの営む家庭は幸福で安全に、生まれてくる子どもは健やかになるという。
 その過程を経ていない、つまり、婚姻を結んでいない男女の間に生まれた子どもは、不幸な生涯を送ると言われている。生まれた時から世を去るまでずっと、精霊の祝福を受けられないというのだ。
「聖堂で育ったきみに、こんな話を聞かせてすまない」
 ライがそう言ったが、ユーシアは首を振った。話しているライこそが辛いのは見ていて明らかだった。
「おれの母は――おれが物心つく前に亡くなったから、人から聞いた話だけど――バルテス北州から流れ着いた芸人で、西州の城で偶然ノートン・ハルバートの目にとまって、そのまま城に住むことになったらしい。幸運な女性だったと、誰もが言ってる」
「あなたはお城で生まれたの?」
「そうらしい。一年と開けず州公妃に嫡男が――エリアスが生まれたけど、生活とか教育に関しては、おれは異母弟と変わらない扱いで育ててもらった」
「それで――魔術を?」
「そうだ。学べと言われたわけではないけど、父の城には密かに魔術を研究する者がたくさんいたから」
 ライははじめて、父という言葉を使った。
 ユーシアが会ったことのない西州公ノートン・ハルバート。『王』の地位を欲し、『王冠』をルシアス・ミュリエールにつくらせたその人が、ライの父親なのだ。
「エリアスと扱いは変わらなかったけど、エリアスが出席する催事や式典に、おれは出なくても済んだから。それで余った時間を使って魔術を学ぶことができた」
 ライは注意深く言葉を選んでいる。
 出なくても済んだ。学ぶことができた。肯定的な言い方をして、自分が恵まれていたことを強調している。だが彼の表情を見れば、それを進んで話したいと思っていないことは明らかだった。
 なぜ今まで思いあたらなかったのかと、ユーシアはこれまでのことを振り返った。西州公の城で魔術を学び、島の歴史などにも通じていて、南州公とも旧知の間柄にある。そして、ユーシアに両親のことを聞かせる時の様子から、肉親には恵まれていなかったことが窺えた。思えばそのすべてが、ライの出自を指し示していたのだ。
「それで、『王の鍵』のことを知って、わたしを捜しに旅に出たの?」
 ユーシアが尋ねると、ライの顔がわずかに動いた。しかし目線は床に落とされたままだった。
「そうだ」
「あなたは」
 ユーシアは言葉を切り、息を呑み込んだ。
「『王冠』が……欲しいの?」
 いちばん知りたいこと、いちばん訊かなければならないことは、それだった。
 ライを兄上と呼んだ時、エリアスは言ったのだ。
 おまえには、『王冠』を手に入れることは絶対にできない、と。
「あなたはわたしの父の――ミュリエール卿の弟子だと名乗ったわよね」
 ライは目を上げなかった。
「ミュリエール卿の遺志を継いで『王冠』を滅ぼすために、わたしを捜し出してここへ連れてきたのでしょう?」
 自分の声が熱くなっていることにユーシアは気づいていた。ライがそうだとうなずくに決まっていると、その考えに知らず知らず縋っていたのだ。
 エリアスの言ったことなど信じなくてもいい、自分たちははじめに誓ったとおり『王冠』を滅ぼしにここに来たのだと、ライにあらためて肯定してほしかった。
 長い沈黙の後、ライがようやく目を上げた。ユーシアと目をあわせた。
「欲しいと言ったら、きみはどう思う?」
 絶望するよりも先に、ユーシアは戸惑った。質問に質問で返されるとは思っていなかった。
「『王冠』を滅ぼさず、自分のものにしたいとおれが言ったら、きみはおれを軽蔑する?」
 弱々しい声だった。これと同じような声をどこかで聞いたと思い、ユーシアはしばらくして気がついた。
 ターシュの港で仲間たちと話していた時のティオだ。ユーシアを陥れることに気が進まず、けれど村でいちばん優れた男に逆らうこともできず、縮こまって気弱に、卑屈になっていたティオ。
「わたしに先に訊くのは、卑怯だと思うわ」
 ユーシアはゆっくりと言った。
 ティオを連想させるライの様子は痛々しい。けれど、彼が欲しがっている答えを与えることはできなかった。
 ライの目の色が急激に変わった。焼けつくような射るような鋭い視線には、ユーシアに対する苛立ちと見下しが入り交じっていた。
 これも見たことがある、とユーシアは感じた。ユーシアを口説き落とせないと悟った時のオースが、今のライとそっくり同じ目をしていた。
「欲しがって何が悪いんだ」
 畳みかけるようにライは言った。
「島のすべてを自分のものにできる強大な魔術だ。男なら誰だって手に入れたいと思うに決まってる。どうしておれだけが、欲のない高潔な男でいなければならないんだ」
「ライ――」
「いや、おれが手に入れるべきなんだ。父よりも、弟よりも」
 ライは言葉を切ろうとしなかった。ユーシアも口を挟むのをあきらめ、圧倒されるようにライの声に聞き入った。
「両親が正式な婚姻を結ばなかったことは、母が父の正妻ではなかったことは、おれが選んだことじゃない。おれには変えることもどうすることもできない。それなのに、おれは精霊の祝福を受けられず、不幸な子どもだと誰からも憐れまれる。おれのほうが年上なのに、おれのほうが秀でている部分もあるのに、エリアスが父から譲られるものを、おれは何ひとつ手にできない」
「だから、『王冠』が、欲しいの?」
 ユーシアはやっとの思いでそう尋ねた。
「きみにはわからない」
 ライは身を乗り出し、寝台から立ち上がりかけていた。
「きみは、両親にも周囲にも祝福されて生まれてきた子どもだ。誰もが生まれつき持っているものを一度も持ったことのないおれの――」
 ライは急に言葉を止めた。ユーシアの目を戸惑ったように見つめている。ユーシアが孤児だということを思い出したのか、それとも怯えていることに気がついたのだろうか。
「……すまない」
 しかし、上げかけた腰を再び下ろすことはせず、ライは寝台から立ち上がった。
「部屋をもうひとつ借りてくる。きみはここで休んでいて」
 何か言わなければ、とユーシアは思った。けれど言葉がひとつも浮かんでこないまま、部屋を出るライの背中を黙って見送っていた。

 少しの時間が経った後、ユーシアは階段を下りて宿屋の一階に向かった。
 ライが隣の部屋にいることは物音でわかったが、出てきて再び話そうとする様子はなく、ユーシアも自分から話しに行こうとは思えなかった。
 ひとりでいても、どうしようもないことを考えてしまうだけで、物事が何も先へ進まない。それならせめて時間を無駄にせず、宿の仕事のひとつでも手伝わせてもらおうと思った。
 食堂にいた宿屋の主人にそう告げると、相手は怪訝な目で訊いてきた。
「それよりも食事は? ずいぶん早い時間に来てくれたけど、何か食べてきたのかね?」
「あ……」
 思い返してみれば、昨日の就寝前にウォルカーンに捕らえられてから、ずっと何も口にしていなかった。今の今まで特に気にとめずにいたが、他人から指摘されると急に空腹を感じるから不思議だ。
「パンとスープくらいならすぐできるよ。賄い用だから、料金もおまけできる」
「ありがとうございます。お代はちゃんと払います」
「旦那さんも呼んできたらどうだね」
 答えるのが一拍ほど遅れた。そういえば、自分とライは若い夫婦で通しているのだった。
「あの人は――今は食べないと思います。疲れて休んでいるので」
「喧嘩かね。結婚して早々に」
 宿屋の主人は訳知り顔でほほえんだ。笑うと目尻や口もとの皺が目立つ。声や身のこなしは若々しいが、思ったより老齢なのかもしれない。
 主人は奥にいた女性に声をかけ、自分も一緒に姿を消した。夫婦で宿屋と食堂を営んでいるらしい。
 ひとり残されたユーシアは、食堂に並ぶ円卓と木椅子のひとつに腰を下ろし、料理ができあがるのを待った。
 宿屋の主人が運んできてくれたスープは、何種類もの野菜がたっぷり入り、湯気とともに素朴な香りを漂わせていた。それほど食欲があるとも思えなかったのに、ユーシアは気がつくときれいに平らげていた。
「とても美味しかったです。ありがとう」
 飲み水を運んできてくれた女将に礼を言うと、相手はにこりともせず目だけでうなずいた。夫とは違い無口なたちのようだ。しかし、決して悪い感じはしなかった。
「旦那さんにも運びましょうか。喧嘩中でもものは食べないと」
 すっかり、ユーシアたちは喧嘩中の夫婦にされていた。真相を訊かれても困るので黙っていたが、親切にされると偽っていることが後ろめたくなる。
「ありがとうございます。後でわたしが声をかけるので」
「何があったのか知らないけど、先は長いからね。ゆっくり時間をかけてお互いわかりあえばいいよ」
 いつの間にか宿屋の主人も側に来て、経験者の教訓めいたことを言っている。
 ユーシアが苦笑しつつ礼を言おうとすると、思いもよらない言葉が続いた。
「うちの息子も、生きていればあの旦那さんくらいの年でね。奥さんみたいなかわいい嫁をもらうところを見たかった」
 主人の隣で、女将も表情を変えないままうなずいている。
「今日が命日なんです」
 ふたりの視線が食堂の隅へ同時に走る。夫婦が見つめる先には、大人の膝ほどもない、幼い子どもの丈にあう小さな椅子があった。木の継ぎ目が少しずれていることから、職人ではない誰かの手製だとわかる。
「あの」
 ユーシアは立ち上がった。
「息子さんのために、聖歌を歌ってもいいですか?」
「聖歌?」
「わたし、聖堂で育ったので歌えるんです。親切にしていただいたお礼に」
 夫婦が顔を見あわせたが、妻のほうが先にユーシアにうなずいた。
「歌ってやってください。ここ数年は息子のために聖堂に行くこともなかったから」
 ユーシアは姿勢を正し、隅に置かれた小さな椅子を見つめ、口を開いた。
 夭折した子どもの魂を慰める聖歌は、聖堂で巫女たちとともに何度も歌ってきた。医療の行き届かない漁村では、幼い子どもが不意に命を落とすことが珍しくない。彼らの魂が精霊に抱かれて安らかに眠れるよう、遺された親たちがそのことを信じて穏やかになれるよう、できる限り心を込めて歌うように努めてきた。
 歌いながらユーシアは、階上にいるライのことを思わずにはいられなかった。
 正式な夫婦のもとに生まれながら世を去った子どもと、夫婦ではない両親の間に生まれ、そのことに苦しめられながら育った子ども。
 精霊たちは本当に、前者には祝福を与え、後者には与えないのだろうか。

 完全に昇った日が傾きはじめても、ライが部屋から出てくる気配はなかった。ユーシアは何度か扉を叩き、声をかけたが、返ってくる言葉はなかった。本当に眠ってしまっているのかもしれない。
 ユーシアも隣の部屋で少し横になったが、昨夜はずっと眠らずにいたというのに、数時間もせず目が覚めてしまった。少しでも気が紛れるよう、宿屋の夫婦に雑用を手伝わせてもらったり、彼らに請われていくつか聖歌を歌ったりした。ウォルカーンやバルテスの兵たちがふたりを捜しているかと思うと歌うのは危険なのかもしれなかったが、歌っている間はさまざまなことから解き放たれて、ターシュで歌っていた時と同じ自分に戻れる気がした。
 外がすっかり暗くなり、宿屋に来た他の客たちと夕食を済ませると、ユーシアは客室のある二階に戻った。女将が用意してくれたライの食事を持って。
 盆を片手に載せ、空いた手で部屋の扉を叩いたが、やはりライからの返事はなかった。
「ライ?」
 声をかけてみたが、沈黙は変わらない。
「女将さんが食事を持たせてくれたから、それを置く間だけ入ってもいい? 丸一日何も食べていないでしょう」
 ライが許そうが許すまいが、ユーシアは中に入るつもりだった。とにかく彼に何か食べてもらわなければ。
 返事はやはりなかった。ユーシアは取っ手を回し、扉を押して中に入った。
 部屋の中に明かりはなかった。寝台の脇の小卓には燭台があるはずだが、火は灯されていない。閉められた窓の隙間から月光が入り込んでくるおかげで、なんとか周囲を見渡すことができた。
 ライは寝台の端に、ユーシアに背を向けて座っていた。
「ここに置くわね」
「ありがとう」
 ユーシアは盆を置く手を止め、顔を上げた。聞き間違いではなかった。ライは寝台から動いていなかったが、ユーシアの言うことを聞いているようだった。
「わたしが隣の部屋でいいの? あちらのほうが広いみたいだけど」
「いいよ」
 ライは短く答えた。無視するつもりはないようだが、振り向くつもりもないようだ。
「わたしが逃げるとは思わない?」
 ユーシアはライの背に尋ねた。
 『王冠』を求めているのなら、ライも『王の鍵』を逃したくないはずだ。エリアスやウォルカーンや、黒ずくめの兵たちと同じように。
「逃げたいなら、逃げればいい」
 ライに言われて、ユーシアは気がついた。
 このまま宿を出て、ディアレスを離れ、ひとりで逃げることもできるのだ。ウォルカーンたちから身を隠し、どこかの街へ行って聖堂に助けを求めれば受け入れてもらえる。ターシュに戻ることはできないだろうが、よく似た別の場所で暮らしていくことはできるだろう。
 しかし、ユーシアはこの部屋を出ていく気にもならなかった。ライのほうにわずかに歩み寄り、再び彼の背に口を開いた。
「ターシュにいた時、わたしは誰の何でもなかったの」
 ライは動かなかった。けれどユーシアの言葉を聞いているのは気配でわかる。
「巫女さまたちは優しくしてくれたけれど、わたしは巫女ではなかった。村の人たちとかかわることはあったけれど、やっぱりわたしはその一員ではなかった。あなたが両親のことを話してくれるまで、わたしは誰の娘でも、姉妹でも、妻でもなかったの」
「それが何?」
 ライがはじめて声の量を上げた。
「おれときみが同じだって言いたい?」
「同じではないと思う。両親がいないことと、両親が夫婦ではないことは。でも、わたしにはあなたのことがわかる気がする」
「わからないよ」
「わかるわ。あなたの奥さんと呼ばれた時、わたしは嬉しかったから」
 ユーシアは寝台をまわり、ライのすぐ背後まで近づいた。顔を覗きこむことはせず、こわばった肩に話しかけた。
「誰かの何かであることは居心地がいいし、安心できるわ。あなたにとっての『王冠』は、これに似ているのだと思う」
「……そうかな」
「少なくともわたしは知ってる。あなたは誰の何にもならなくてもいいということ。『王冠』を手に入れなくてもいいということ」
 ライが急に顔を上げ、ユーシアを見た。暗くて表情はよくわからなかったが、振り向いてくれたことに力を得て、ユーシアは続けた。
「あなたは努力家だし、自分で思っているより誠実な人だと思う。『古いことば』の発音も、人と仲良くなるのも上手だわ」
「それが何? 両親が婚姻を結ばなかったことは、おれの努力では変えられない」
「それは、あなたには何の関係もないことだわ」
 ライの語気が荒くなるのにつれ、ユーシアも必死で応じた。
「誓いを立てずに結ばれた男女の子に精霊は祝福を与えないなんて、わたしは信じていない」
「聖堂の教えに逆らうのか?」
「わたしは巫女じゃないもの」
 そう言ったが、聖堂で育ったからこそ感じることでもあった。
 ユーシアが聖歌を捧げてきた精霊たちが、祝福を与える相手を選ぶとは思えない。ましてや、婚姻という人間が定めたものに従うとは、とうてい信じられない。
「『王冠』を手に入れられなくても、あなたはもうたくさんのものを持っているわ」
「ありがとう」
 ライはすぐに答えた。一瞬の間も置かず、ユーシアを見つめたまま、ただそこにあるものを眺めているだけの目で。
「話はそれだけ?」
 ユーシアは肩を落とした。これ以上の言葉を見つけることはできなかった。
「それだけよ。邪魔してごめんなさい」
 ライは何も言わず目をそらし、頭の向きを変えた。
 ユーシアは静かに彼から離れ、部屋を出て扉を閉めた。

 隣の自分の部屋に入ると、ユーシアはまず蝋燭に火を点けた。丸く広がった暖色の灯りが、かすかに差していた月の光を窓から追い出した。
 ユーシアは窓の木枠をきっちりと閉じ、自分の着ているものに手をかけ、そして気がついた。自分にはいま身につけているものの他には何もないのだ。ごく自然に寝支度をしようとしていたことに、疲れた笑いが出てしまった。そして笑いがおさまると、ユーシアは蝋燭の火をじっと見つめた。
 ここで一晩を明かして、明日になったら自分たちはどうするのだろう。ライは自分を西州公家の城へ連れていくのだろうか。『王冠』を手に入れるために。
 ライに騙されていた、利用されていたという感情は、ユーシアの中になかった。何よりもユーシアを打ちのめしているのは、ライがユーシアを別の部屋に置き、間違っても縛りつけようなどとしていないことだった。ライは言ったのだ。逃げたければ逃げればいい、と。
 ライは、『王冠』を手に入れられないことよりも、ユーシアがその価値を理解していないことに傷ついている。
 『王冠』とは何だろう、とユーシアは考える。
 ユーシアの父が密かに生み出した強大な魔術。この世のすべての精霊を従え、それゆえにすべてを手に入れることができ力。頭ではそうわかっていても、それがどういうものなのかユーシアにはわからない。西州公も、北州公も、エリアスも、そしてライも、どうしてそんなものを欲しがるのだろう。
 いくら考えてもわからなかった。ただ、このまま夜明けを迎えるわけにはいかないことはわかっていた。
 ユーシアは蝋燭の火を吹き消した。そして、そのままの格好で部屋を後にし、宿屋から外に出た。
 すっかり日の暮れた路地に人の姿はほとんどなかったが、満月に近い月の光が路面や建物を照らしてくれていた。そのおかげで、少し歩いただけで見つかった。建物と建物の間から現れた、長く白い髪を持つ老人の姿を。
「どうして、宿まで入ってこなかったのですか?」
 ユーシアはウォルカーンに尋ねた。この老魔術師ならば自分たちの居所などとっくに突き止めていただろう。
 ウォルカーンはそれには答えなかった。
「ひとりかね。ミュリエールのお嬢さん」
「はい」
「ライを見限る気になったのか。ノートン・ハルバートのもうひとりの息子、憐れな妾腹の子を」
 そう言うウォルカーンの声にこそ、憐れみが含まれているようにユーシアには聞こえた。西州公の城で、ウォルカーンとライはどういう間柄にあったのだろうと、これまで浮かばなかった疑問がよぎった。しかし、今はそれを考える時ではなかった。
「あなたにお願いがあって来ました。ウォルカーン卿」
「願い?」
「西州公閣下のお城に、わたしを連れていってください」
 ウォルカーンの表情は動かなかった。
 ユーシアは胸が強く打ちはじめないうちに、畳みかけるように続けた。
「閣下の前で、わたしに歌わせてください。『王冠』の封印を解きます」


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