王の鍵 [ 3−2 ]
王の鍵

第三章 州都 2
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 船は予定どおり、朝の早い時間に港に着いた。
 水夫たちが入港の準備を進める間も、縄ばしごを伝って桟橋に降りる間も、ユーシアの側には常にウォルカーンがいた。戒められているわけでも武器を突きつけられているわけでもなかったが、ウォルカーンがすぐ近くにいるというだけで下手な行動には出られなかった。
 乗員の誰よりも先に港に降り立ったユーシアは、先ほどまで乗っていた商船を見上げた。甲板の端に水夫たちが立ち並び、ユーシアを心配そうに見下ろしている。船長と副船長の姿もある。
 縄ばしごからいちばん遠い舳先に立たされているライは、身を乗り出して食い入るようにユーシアとウォルカーンを見ていた。今にも駆けだして縄ばしごを降り、ユーシアたちを追いかけそうに見える。
 ユーシアは彼を見上げ、かすかに首を振って見せた。
 ユーシアにとってはライと船乗りたちが、ライにとってはユーシアが人質に取られている状態だ。お互いに身動きはとれないが、少なくともユーシアは危害を加えられることはない。『王の鍵』を西州公のもとへ運ぶのがウォルカーンの使命なのだから。
 ライが舳先から動かないのを確認すると、ユーシアは船に背を向けた。船長と副船長、水夫たちにきちんと礼を言えなかったのが心残りだが、とにかく船から離れれば彼らを巻き添えにする心配はない。
「行こう。ミュリエールのお嬢さん」
 ウォルカーンに促され、ユーシアは港の道を歩きはじめた。
 西州でも最大の港のひとつと聞いていただけあって、大型の船がいくつも見られ、その上でも陸地でも多くの人が忙しく立ち働いていた。桟橋から石の段を上がると街道が続いており、そこではさらに多くの人や馬車が行き来していた。これほどの賑わいを見せる街に来たのは、ユーシアにとってはじめてのことだった。
「ダクルートまで――」
 歩きながら、ユーシアは思いきって口を開いた。質問をしたくらいでウォルカーンに咎められるとは思わなかったが、それでも自分からこの老人に声をかけるのは勇気が要った。昨夜から一睡もしていないため声もかすれている。
「西州公のお城まで、ここからどのくらいかかるのですか」
 先を歩いていたウォルカーンは、振り向いて答えた。
「この街はダクルートに隣接しておる。街道をまっすぐ北に走れば、馬車で半日もかからん」
「馬車……?」
 ユーシアの疑問に答えるように、目を向けたすぐ先にそれはあった。
 二頭の青毛の馬が引く、ユーシアが見たこともないような美しい車体だった。ターシュの村に時おりやってきていた裕福な商人も、これほど立派な馬車には乗っていなかった。車体の角と屋根の縁には銀の装飾が施され、扉の部分には植物を象った模様が描かれている。
 ウォルカーンは馬車の隣に立つと、その扉を叩いて呼びかけた。
「公子、お連れいたしました」
「――遅い」
 不機嫌そうな言葉とともに、馬車の扉が内から勢いよく開いた。同時に、中に乗っていた人物とユーシアは目があった。ユーシアと同じくらいの年格好の少年で、馬車と同じくらい高貴な服装に身を包んでいた。
 少年はユーシアの姿に目をとめると、頭から足もとまでをざっと見て、ふーん、とつぶやいた。
「貧相な女だけど、思ったほど汚らしくはないね。これならまあ馬車に乗せてもいいよ」
「恐れ入ります」
 ウォルカーンは少年に一礼すると、ユーシアに向き直った。
「こちらは西州公ノートン・ハルバート閣下のご嫡男、エリアス公子。ご挨拶を」
 ――公子。
 ユーシアはその単語を頭の中で繰り返した。
 州公家の人に出会うのは南州公アルスタ・グラヴリーに続いてふたりめだ。アルスタは側近とほぼ変わらない服装をして、情熱を傾けている海について語る、気さくな男だった。目の前にいる少年――エリアスは、華美で鮮やかな衣装に身を包まれ、ユーシアには一言も声を発さず、荷物でも見るようにユーシアを見下ろしている。
 ユーシアは軽く膝を折っただけで、口を開くことはしなかった。名前を名乗るべきかとも思ったが、この少年はユーシアの言葉など耳にも入れないような気がした。何よりこの公子は、ユーシアが誰なのかすでに知っているはずだ。
「公子に失礼して、乗せていただきなさい」
 ウォルカーンがユーシアを促す。エリアスは座席から少しも動かず、物珍しそうにユーシアを観察している。
 この馬車に乗せられて、ユーシアは西州公の城へ向かうのだろう。知らない場所へ連れられていくという実感がまだ湧かず、恐怖は感じなかった。それよりも見ず知らずの少年の視線が気にかかり、いささか緊張していた。
「待て」
 馬車に足を入れようとしたのと同時に、エリアスの声がした。ユーシアに言ったようだったが、続く長い言葉はウォルカーンに向けられていた。
「乗せてもいいと言ったけど、まず本物の『王の鍵』なのか確かめたい。ここで歌わせてみて」
「公子、それはなりません」
 ウォルカーンが馬車に歩み寄り、声をひそめる。
「バルテスの偵察兵がこの街にも来ているという報告があります。彼らの目を引くような行為は避けねばなりません」
「ここで聴かれても気づかれることはないよ。奴らは『王の鍵』の歌詞も節も知らないんだから」
「――お言葉ですが、公子もご存じではないでしょう」
「そうだけど、おまえにはわかるだろう。この女が本物の『王の鍵』かどうか、歌わせて確かめてみたか?」
「いいえ。しかし、この娘は母親のカリーナ・ミュリエールとよく似て――」
「顔かたちなんてどうにでもできる。ミュリエールの娘を騙って、州公の城に忍び入ろうとする偽者かもしれないじゃないか」
 ユーシアは呆気にとられながらふたりの会話を聞いていた。手荒なやりかたで自分を捕らえた人物だというのに、ウォルカーンに同情したくなってしまっていた。彼の言い分のほうが理に適っているのはユーシアにもわかる。しかし、州公の嫡男である少年を前にして、老練な魔術師であるはずの彼が何も言えなくなっている。
 ウォルカーンが答えないことに業を煮やしたのか、エリアスは大儀そうにユーシアに目を移した。
「おい、歌ってみろ」
 初対面の人物に失礼だと気づきつつ、ユーシアは少年の目をまじまじと見つめた。
 体の中から重たく不愉快な塊がこみ上げてきた。今まで感じたこともないそれが怒りなのだと気づくのに時間はかからなかった。
 ユーシアにとって、歌とは自分や大切な人のために歌うものだ。聖歌だろうが俗歌だろうがそれは同じ。
 こんなふうに命じられて、何かの申し開きのように歌うものではない。
「歌うのは構いませんが」
 気がつくと口を開き、エリアスに向かって話していた。自分でもぎょっとするほど鋭い声だった。
「ここでこんなふうに時間をとられていていいのですか? わたしが船を降りてからまだ半時間も過ぎていません。すぐ近くの港にはライがいて、わたしを助け出そうと動いてくれているはずです」
「ライ? ああ、あいつね」
 エリアスはその名前に反応したが、小さく眉を動かしただけだった。
「あの男が何を言っておまえを連れ出したのか知らないけど、あいつはウォルカーンの足もとにも及ばない出来損ないの魔術師だ。あいつひとりでおまえを取り戻すことなんてできるはずがない」
「ライだけではなく、船の人たちもわたしを心配してくれていました。魔術ではなく別の方法でわたしを助けようとしてくれるかもしれません」
 『王の鍵』のことを除いても、ウォルカーンとエリアスがしていることは純粋に誘拐だ。こういった大きな街には治安を守る常駐兵がいるはずだし、市民たちも罪人の味方にはならないだろう。州公家の嫡男や重臣を逮捕することはできなくても、騒ぎが起こればそれだけ人の目を引く。ウォルカーンが危惧したとおり、バルテスの者たちにも気づかれる。そうなったら、エリアスたちはユーシアを密かに城に連れていくことはできなくなるだろう。
 ユーシアは城に連れていかれることよりも、今ここで命じられて歌わされることが耐えられなかった。
「どうしても歌えと言うなら、大きな声で、時間をかけてゆっくり歌います。たくさんの人が聴いてくれるように」
 挑むように見上げると、エリアスの表情がゆっくりと変わった。無機質な荷物を眺める目から、荷物についていた小さな傷を見つけた目になった。
 次の瞬間、ユーシアの首に何かがぶつかった。エリアスの手で首を鷲掴みにされたのだとすぐに気がついた。
「面倒な女だな。誰の前に立っているのかわかってる? 未来の『王』だぞ」
「公子、なりません」
 背後からウォルカーンのたしなめる声がする。
「『王冠』を手に入れればこの島はぼくのものだ。おまえの喉を潰して二度と歌えないようにすることだってできる」
「わたしが歌えなかったら、あなたは『王』になれないわ」
 首を圧迫されたまま、ユーシアは声を絞り出した。苦しさはあったが恐ろしくはなかった。ウォルカーンには恐怖を感じたが、エリアスには感じなかった。
 この少年は、まだ手に入れてもいない美しい衣装を見せびらかしたがる子どもに過ぎない。誰かが仕立て、誰かが着せかけてくれるものを誇示するだけで、自分の身に何ひとつ備わっていないことに気づいていない。誰かのために歌ったことも、自分の手で日々の糧を稼いだことも、努力して何かを学び取ったこともないのに違いない。
 同時に気がついた。ユーシアがこのまま西州公の城へ連れていかれれば、いずれこの少年が『王』の地位につくことになるのだ。
「公子、どうか」
 どちらが先に視線を外すか、ユーシアとエリアスが根気を比べあっているうちに、ウォルカーンの声がふたりの間に割り入った。
 エリアスがため息をつき、ユーシアの首から手を離して、馬車の座席に身を戻した。
「早く乗れ」
 その言葉に従うべきか否か、ユーシアが迷っていると、思わぬところから声がかかった。
「ウォルカーン卿」
 ユーシアも顔を向けると、馬車の前部から初老の男が振り返り、当惑したような顔を見せていた。この馬車を操る御者のようだった。
「馬が動きません」
 いち早く行動に出たのはウォルカーンだった。ユーシアの両肩をつかみ、エリアスの声も無視して馬車の中に押し込んだ。そして馬車の扉を慌ただしく閉めた。
「なんなんだ?」
 ユーシアに押しのけられるかたちで席をずらしたエリアスも、怒るというより呆然としていた。
 馬車の扉の上部は窓になっており何もはめこまれていない。ユーシアはエリアスには構わず窓から顔を出して外を覗いた。そして、息を呑んだ。
 ウォルカーンは先ほどと少しのずれもない位置に立っていた。走り去っていく足音が聞こえたのは気のせいだったのだろうか。それよりもユーシアを驚かせたのは、ウォルカーンの隣に彼に腕をつかまれているライがいることだった。
 ライは馬車の中にいるユーシアの姿を認めると、ウォルカーンに向き直って口を開いた。
「彼女を解放してください」
「馬の脚に細工をしたくらいで、逃げられると思ったのかね」
 ウォルカーンはライの言葉などものともせず、憐れむような目線をライに向けていた。
「そのくらいと言いますが、あなたはともかくエリアスは馬車がなければどこにも動けないでしょう。彼女を馬車から降ろして、おれに引き渡してください。馬の脚を元に戻すのはその後です」
 毅然として訴えるライの背後では、道を行く人々が足を緩めたり、止めたりして、目や耳をこちらに向けている。ただでさえ人目を引く馬車のまわりで何が起きているのかわからないなりに、何か穏やかではない空気は感じ取っているのだろう。
 ユーシアは馬車の扉に手をかけ、とっさに考えた。自分はここでどうするのが最良だろう。どういう行動をとればライの意図にもっとも添うことができるだろうか。
 考えているうちに体を横へ押しのけられた。同じ馬車の中にいたエリアスがユーシアを押しやり、窓の外に顔を向けたのだった。
「これは、誰かと思えば」
 身を起こしたユーシアが見たのは、唇の端をつり上げたエリアスの横顔だった。
「ここまで『王の鍵』を運んできてくれたんだってね。ごくろうさま」
「エリアス」
 聞いたこともないこわばった声に、ユーシアはエリアスの脇から窓の外を見た。ライはウォルカーンに腕をつかまれたまま、エリアスを見上げて顔を凍りつかせていた。
「もういいよ。この女はこっちで預かるから。消えてくれる?」
「その人を放せ。手荒な真似をしたらおまえを許さない」
「あれ、すごい剣幕だね? もしかしてこの貧相な女に執着してる?」
 ユーシアをつまらなさげに観察していた時とは打って変わって、エリアスは楽しそうに笑みながら言い募っていた。ライの表情が険しくなったのを見て、ますます声を高める。
「そんなわけないよね」
 エリアスは急にユーシアの編んだ髪をつかみ、力任せに引っぱった。
「おまえの考えていることくらいわかるさ。欲しいのはこの女の歌声だろう」
「やめろ、エリアス」
 ユーシアは痛くなかった。ふたりの若者の、特にライのただならぬ様子に目を奪われて、痛みを感じる余裕がなかった。
「やめてほしかったら、馬の脚にかけた魔術を解け」
 エリアスはあいかわらず楽しそうだった。ユーシアの髪をつかんだまま、ライに向かって昂然と命令した。
 ライはエリアスとユーシアの顔を交互に見比べ、迷っていた。ウォルカーンはライの腕を放さなかったが、ふたりのやりとりに口は挟まず、ライが次に動くのを待っているようだった。
 エリアスの隙間から窓の外を見ていたユーシアが、はじめに気がついた。
「あ――あの人たち」
 何と呼べばいいのかわからず、こんな言い方になった。路地のずっと向こうのほうに、全身を黒い服で包んだ男が歩いている。今日はひとりだけかと思えば、その後方にもうひとり、そして、角からさらにひとりが現れた。
「バルテスの――」
 エリアスが言い終わらないうちに、ライとウォルカーンは体勢を変え、バルテス北州の偵察兵三人と向きあっていた。
 三人のうち、馬車にいちばん近い者がすぐ気づき、急に足を早めて駆け寄ってきた。ユーシアはこの時、彼らの顔をはじめて近くで見た。ターシュやナクザでは遠かったし夜の暗い時だったので、いま間近にいるのがあの時と同じ男かどうかはわからない。しかし、同じ黒一色の衣服を身に着けた彼らは、奇妙なほどお互いに似通っているように見えた。
 すぐにウォルカーンが『古いことば』を唱え、彼らをなぎ払うだろうとユーシアは思った。西州公家に使える彼にとって、北州に『王の鍵』を奪われることは何よりも避けたいはずだ。
 その予見は当たらなかった。ウォルカーンはひとことも声を発さず、体の向きだけを黒ずくめの男に向けて、まるで彼を待ち構えているように見えた。
 かわりにライが口を開きかけたのを見て、ユーシアはすぐさま叫んだ。
「ライ、待って!」
 彼にこれ以上の魔術を使ってほしくない。そう思ったユーシアは馬車の扉を押し開け、弾かれるように路地に降り立った。エリアスは北州の襲撃に気をとられ、ユーシアの髪からはとっくに手を離していた。
 ユーシアの姿を認めると、黒い男たちの顔つきが変わった。彼らは一様に無表情で、それがより彼らを似て見せていたのだが、明らかに目が動くのがユーシアにはわかった。それと同時に自分のとるべき行動にも気がついた。
 エリアスも、ウォルカーンも、北州の偵察兵たちも、欲しいのはユーシアの歌声だ。ユーシアの身柄を捕らえたいという目的のためだけに彼らは動いている。
 ユーシアは走った。街道の端にはユーシアの腰ほどまで石垣が組まれている。その側を駆けてゆるやかな坂を上り、ある地点までたどり着くと、石垣に手をかけてその上に立った。
 石垣の外側は切り立った絶壁で、地上からは建物の三階ほどの高さがある。船着き場、桟橋、そして海面がはるか下のほうに見える。ユーシアはそれらをざっと見渡すと、石垣の上に立ったまま馬車を振り返った。
 黒ずくめの男たちが、次いでライが、ユーシアを追って坂を上がってきている。
「近づかないで。来たら飛び降ります」
 バルテスの黒い偵察兵たちに向かって、ユーシアは叫んだ。彼らはそれぞれのいた地点で立ち止まり、ぴたりと静止した。
 ライも同様だった。ただ、表情の窺えない彼らとは違い、ライは当惑した顔をユーシアに向けていた。
「その人を通してください」
 ライの一歩前、ユーシアにいちばん近い場所にいた兵に、ユーシアは静かに告げた。
 ユーシアが石垣から身を乗り出せば、『王の鍵』が永遠に失われる。誰も『王冠』を手にすることができなくなる。
 目論見は外れなかった。黒ずくめの兵はゆっくりと身を引き、ライのために道を開けた。その間もユーシアから目は離さなかった。
 彼らの後方ではウォルカーンが馬車のかたわらにたたずみ、坂の上の一幕を見守っている。エリアスは馬車の中から姿を現さない。
 ライは兵の横を通り抜け、坂を上がってユーシアに近づいてきた。その目には当惑に混じって賞賛、それ以上の安堵が浮かんでいた。
 ライが手を差し出してきたが、ユーシアは首を振った。
「わたしはこのままこの上を歩くわ。あなたはあの人たちを見ていて」
 ユーシアがいつでも飛び降りられることを示しながらであれば、彼らに見つめられながらでもこの場を離れることができる。
 ライがうなずき、身を返して後ろ向きに歩きはじめた。
 嘲るような声が追いかけてきたのは、それからすぐだった。
「捕らえた女に助けられるなんて。せっかく覚えた術が形無しだね」
 ユーシアも思わず石垣の上で振り向いた。
 エリアスが馬車から顔を出し、ライに向かって叫んでいるようだった。ウォルカーンが取りなすように手を伸ばすが、それも鬱陶しそうに振り払う。
「おまえにできるのはせいぜい『王の鍵』の運び屋だ。『王冠』を手に入れることなんて絶対にできない――お忘れのないようにね、兄上!」
 ユーシアが自分の耳を疑うのと同時に、ライの手がユーシアの腕を引いた。石垣から路上に下ろされ、足の衝撃に耐える暇もなく、今度は手を握られて道の先へ進む。
 駆け出したふたりの背に、エリアスの乾いた笑い声が降りかかってきた。


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