王の鍵
第三章 州都 1
明くる朝、ユーシアとライはアルスタに礼を言って城を後にし、ヴィラムの港から大型商船に乗り込んだ。
話をつけてあった船長はふたりを快く迎え、水夫たちに命じて寝泊まりする船室に案内してくれた。ライは他の乗組員と相部屋だが、ユーシアは女性であることを配慮されたのか個室を与えられた。恐縮しつつもありがたく使わせてもらうことにした。
「この船は、グラヴリー南州公家のものなんですか?」
船の中を案内してくれる副船長に、ユーシアは訊いてみた。快活で気さくな船長と比べて、副船長は口数の少ない人物だったが、ユーシアの問いには丁寧に答えてくれた。
「いいえ。エレンシア南州の都リエザの商家のものです。三代前の州公の時に南州公家に召し抱えられ、南州公家が西州から取り寄せる商品のほとんどを運んでいます」
「南州公閣下のご依頼で、わたしたちのような旅人を乗せることは、今までにもあったんですか?」
「旅人はめったにないですね。閣下のご側近、たとえばウォレフ・クリース卿は頻繁にお乗せしますが」
首を傾げるユーシアに、副船長は厳めしい顔つきを少し和らげ、説明してくれた。
「南州公閣下は海の向こうに情熱のほとんどを注いでいる方ですから。クリース卿は西州と東州に足を運び、港の責任者に話をつけて観測台を置く役目を担っておいでなのです。その観測台でめぼしい成果がないか確認するお役目も」
はじめて会った時、ウォレフがナクザの港で住民と話していたのは、おそらくその交渉だったのだろう。
副船長も船長も、彼らの側に控える部下から下働きの水夫まで、乗組員はみなユーシアとライに親切だった。アルスタが海に並々ならぬ関心を注ぎ、その命を受けたウォレフが船の関係者と懇意にしていたおかげだろう。
西州までの船旅を助けてもらうかわりに、厨房や洗濯場で自分にもできる仕事があれば手伝おう。ライがアルスタの研究を助ける予定とはいえ、自分も何かしなければ申し訳ない。ユーシアはそう思っていたが、はじめて乗った大型の船は想像していたよりも揺れ、沖に出る前に気分が悪くなってしまった。耐えられないほどではなかったが、ライや船長に勧められて初日は横になって過ごすことにした。
与えられた部屋でまどろんだり起きたりしているうちに日が沈み、いつの間にか夜も過ぎ去り、目を覚ましたときには窓枠の隙間から白い光が差し込んでいた。
ユーシアは寝台から抜け出し、ひとりで着替えて部屋を出た。前日にユーシアを苛んだ揺れはだいぶましになっており、それとともにユーシアの気分もすっきりと落ち着いていた。
甲板に上がる梯子段に手をかけた時、ユーシアは気がついた。階上から、男たちの声のそろった歌声が聞こえてくる。
木板を持ち上げて頭を出すと、早朝の光が四方から目を刺した。遮るものが何もない海上で、朝日が水面に弾かれて船のまわりを輝かせていた。
その光の中で、水夫たちが忙しく立ち働きながら歌っていた。甲板を掃く者も、手すりを磨く者も、帆の調子を確かめる者も、一緒に口を動かして同じ旋律を唱えていた。精霊たちに祈る『古いことば』で紡がれた、聖歌を。
「おはよう。気分はどう?」
不意に木板が軽くなったと思うと、頭上でライの声がした。甲板に立ち、空を背にしてユーシアを見下ろしている。
「おはよう。良くなったわ。ありがとう」
ユーシアはライの手を借りて梯子を上りきり、甲板に立った。近くにいた水夫の何人かがユーシアに気づいて会釈してくれた。
「この船の人たちは、みんな聖歌を歌えるのかしら」
聖堂と祭り以外の場所で、これほど多くの人が一緒に聖歌を歌うのをはじめて見た。巫人や巫女でない人は『古いことば』を教わらずに生涯を終えることも多い。だからこそ、精霊の恵みにすがりたい時は、聖堂に行って巫女たちに歌ってもらうのだ。
「船旅には安全が欠かせないからね。海の精霊、風の精霊に導いてもらえるよう、毎朝みんなで歌うらしいよ」
そう話しているライは、この光景を見慣れているようだった。昨日の出港後に船が揺れても平然としていたし、彼は船に乗った経験が少なからずあるのかもしれない。
水夫たちは歌い終えると、同じ歌をまたはじめに戻って唱えはじめた。歌詞は船旅の安全を祈るもので、ユーシアがターシュで巫女たちと歌ったのとよく似ている。二周目を聞き終えるころには、ユーシアはその歌詞も旋律もほとんど覚えてしまっていた。
気がつくと、ユーシアは口を開き、水夫たちの声に自分の歌声をあわせていた。男たちの太い声の中で、ユーシアの声はかき消されることなく、波に乗る小舟のように自然に寄り添った。多くの水夫が顔を向け、ユーシアが一緒に歌っているのに気づいて目を丸くしたが、誰もが口を閉ざすことはせず、何人かはほほえみを浮かべて一緒に歌ってくれた。
「良い声ですね、お嬢さん。精霊の恵みがたっぷりありそうだ」
歌が終わると水夫たちは手を叩き、口々にユーシアの歌を称えた。
ユーシアは自分の頬が熱いことに気がついた。歌声を褒められたからではない。聖堂ではない場所で、一緒に暮らしている巫女たちではない人々と、こんなふうに声をあわせて歌ったのははじめてだった。昨日はじめて会ったばかりの、ほとんどは名前も出身も知らない、おそらくは船旅を終えればもう会うこともない人々だ。その人たちの中にユーシアは難なく身を置き、彼らの一員になれたように感じている。歌を一緒に歌っただけで。
ターシュにいた時のユーシアも、歌う時は無心になれた。自分が巫女たちの一員でもなく、世俗の娘でもないことを忘れていられた。歌うことが好きだということだけが自分の居場所だった。
歌うという拠りどころがあれば、まるで知らない人の輪にも、恐れず入っていけるのだ。
「素晴らしい宝をお持ちですね、ミュリエール嬢」
畏まった声が聞こえて、ユーシアも、ライも、水夫たちの顔を向けた。あの厳めしい顔つきの副船長が甲板に出てきて、ユーシアたちに向かって歩いてくるところだった。
「ありがとうございます」
「『人体は最良の楽器、人の声は最高の名演』。リエザでは優れた聖歌の歌い手をそう評します」
大仰な賛辞に、ユーシアはさすがにはにかんだ。副船長の登場に、それまでくだけた調子でユーシアに声をかけていた水夫たちも、一様に口を閉ざしている。
ただひとり、動じていないのがライだった。副船長の言葉に深くうなずき、真剣な目でユーシアを見つめている。
「副船長の仰るとおりだ。きみの宝はすごい。誰にも盗めない」
「え?」
「名演奏家から名器を盗むことはできても、人から声を盗むことはできない。きみの宝は、誰にも奪われることがないんだ」
頬の熱が一気に顔中に広がった。ライの話しぶりは大げさでもなく、芝居がかってもおらず、心からの言葉だとわかるものだった。そんなふうに褒め称えられればさすがに気恥ずかしくなる。
「ありがとう」
ユーシアはなんとか笑みをつくって言ったが、ライはほほえまなかった。何か重大な発見をしたようなまなざしでユーシアを見つめていた。
「お嬢さん、もう一曲いかがですか」
水夫のひとりがためらいながら声を上げた。彼につられて、甲板にいた者が口々に同意する。
「そうだ。もっと聴きたい」
「歌ってください」
「聖歌でも俗歌でもいい」
ユーシアは判断を仰ぐように副船長を見上げた。何か言ってくれるかと思ったあては外れ、水夫たちをただ厳めしく眺めている。朝の仕事を指揮するために甲板に出てきたのではなかったのだろうか。
副船長さんが許すなら一曲だけ、と言おうとして、ユーシアは急に思いついた。歩み寄り、ライの腕をつかむ。
「一緒に歌って」
「え?」
「あなたも聖歌が上手だもの。一緒に歌いましょう」
ライがユーシアの目を見つめ、きょとんとする。
しかしそれは一瞬だけで、すぐに笑顔になった。
「いいよ。何を歌う?」
仕事の手も止めて顔を向ける水夫たちの前で、ユーシアとライは声をあわせ、祈りの言葉を紡いだ。
ふたりを乗せた商船は航路を順調に進んでいるようだった。ヴィラムを発って四日目の晩、明朝には予定どおり西州の港に着くと、船長がふたりに伝えてくれた。
ユーシアは二日目から船の厨房を手伝っていたが、夕食の後片づけが終わると早めに引き上げて眠ることにした。
明日にはとうとうディアレス西州に着く。島の西部に位置するそこは、ユーシアが育ったシアラン東州からいちばん遠く離れた土地だ。それとともに、ユーシアが両親から生を受けた場所でもある。
ライの話を聞き、父が著した書物を見せてもらい、両親の存在を身近に感じることはできた。けれども、ディアレス西州という土地のことはまだ何ひとつわからない。『王冠』をつくらせたという州公家のことも、その住まいである城のことも。
ライがどんな計画をたてているのかはわからないが、『王冠』を滅ぼすからには、州公家の城に入らなければならないだろう。西州公がアルスタのような人物であるとは思えない。『王冠』を完成させながらそれを封じ、自分の命令に背いたミュリエール卿の娘を、西州公はどう思っているだろう。
いや、どう思うかなどということは関係がない。西州公にとってユーシアは『王の鍵』だ。『王冠』を手に入れるために是が非でも捕らえなければならない者。
ターシュでの祭りの時から執拗に追ってきた黒ずくめの男たちを思い出し、ユーシアはぞくりとした。あの男たちは西州の者ではなく、バルテス北州の兵だとライが言っていた。『王冠』の噂を聞きつけて横取りしようとしている北州までがあの執念で追ってくるのだ。当の西州公家の執着はあれとは比べものにならないだろう。そんな人たちに自分は狙われているのだ。
気分が深く沈みそうになるのを、ユーシアは首を振って打ち止めにした。自分はライの求めに応じて船に乗った。乗ってしまった以上は陸を目指して進むしかない。船が着きもしないうちから心配ばかりしても仕方がないのだ。
不安を追い払い、部屋の扉を開いて、ユーシアは息を呑んだ。
船長が勧めてくれた個室の中央に、ひとりの老人が立っていた。髪が白く、髭も白く、引きずるように長い外套もやはり白い。老いてはいるが体つきはしっかりとしており、ユーシアを見る目は夜行性の獣のようだった。
あなたは、と言おうとしたが、声が出てこなかった。驚いたということもあるが、老人の名前が思い出せなかった。
「またお会いしましたな。ミュリエールのお嬢さん」
張りのある低い声で、老人はつぶやいた。
「挨拶がまだだった。わたしはハルバート西州公家の筆頭魔術師、ロード・ウォルカーン」
そうだった、ウォルカーン卿。ライはこの老人のことをそう呼んでいた。
「どうやってこの船に乗ったんですか?」
硬直した喉を動かして、ユーシアはやっとそれだけ訊いた。ユーシアとライを除いてこの船に乗っているのは、持ち主である商家の者と乗組員たちだけだ。密航者を防ぐために出港の前には出入りが厳しく監視されてもいた。ウォルカーンのような目立つ老人がたやすく潜りこめたとは思えない。
いや、この老人は魔術師なのだ。こんなふうに問いかけること自体が愚かなのかもしれない。
「姿を消すのはそう難しいことではないのだよ、お嬢さん」
ユーシアの予想どおり、ウォルカーンは答えた。
姿を消して船に乗ったとしても、船旅の間の食事や寝床はどうしていたのか、という問いは口に出せなかった。ウォルカーンのたたずまいからは、そうしたことなど些末な問題だと思わせるような何かがあった。
「わたしがここにいる理由はおわかりですな」
ウォルカーンは白い裾を引きずり、ユーシアに歩み寄った。
もちろんユーシアには理由がわかっていた。『王の鍵』を捕えるためだ。ウォルカーンが仕える西州公は、自分がつくらせた『王冠』を当然ながら手に入れたがっている。
だが、ユーシアは尋ねずにはいられなかった。
「ここは海の上です。わたしを捕まえても、逃げる場所はないはずです」
思いがけずしっかりと声が出せたことに、ユーシアは驚いた。老練な魔術師を前に喉がこわばっていて、震えた声しか出ないのではないかと危ぶんでいたのだ。
ウォルカーンはしかし、ユーシアの問いなどものともしなかった。
「お嬢さん、あなたはこの船の者たちにとって、南州公アルスタ・グラヴリーの大切な客人です。それに見たところ、水夫たちにもずいぶん好かれているようだ」
「わたしを人質に?」
「そういうことだ」
「でも、わたしは『王の鍵』です。あなたがわたしを傷つけるわけにはいかないことを、少なくともライは知っています」
「人はそれほど平静を保てる生き物ではない、お嬢さん」
また一歩、ウォルカーンはユーシアに近づいた。
「よく知る者が目の前で危害を加えられそうになっている時、人間の理性がどこまで持ちこたえられるか、これからお目にかけよう」
食堂の扉をユーシアが開けると、中にいた男たちがいっせいに顔を向けた。
夕食の後、ユーシアは早めに部屋に引き上げたが、水夫たちの多くは席に残って飲んだり語らったりしていた。ライも彼らの中に交わっており、今もすぐに姿が見つかった。
「――ウォルカーン卿」
ユーシアを見て真っ先に立ち上がったライは、ユーシアの背後にいる老魔術師を射抜くように見つめた。
水夫たちも次々に席を立ち、顔を見あわせ、「密航者か」「いったいどこから」とささやきあっている。船長に知らせに行こうというのか、食堂のもうひとつの扉に走る者もいる。
彼らの目に映っているのは、ユーシアの背後に見知らぬ老人が立っているという光景だけだろう。この状況が何を意味するのか、正確に理解しているのはライひとりだった。
「その人から離れてください、ウォルカーン卿」
ライは言った。
「何が望みですか。あなたの話はおれが聞きます」
「望みなど、わかりきっているだろうに」
ユーシアの背後で、ウォルカーン卿の低い声がした。
「ミュリエールのお嬢さんに、ダクルートにある西州公家の城まで来ていただく。予定どおり船を港につけさせたら、お嬢さんはこのままわたしに預けなさい」
「できるわけがないでしょう」
「なら、その考えを改めてもらおう」
首に冷たいものがあたるのを、ユーシアは感じた。それは刃物でも、鎖でもなく、皺が刻まれたウォルカーンの片手だった。
水夫たちの多くが殺気立ち、身構えた。ウォルカーンがユーシアの首を締めるか折るかしようとしているように見えたのだろう。それが見せかけに過ぎず、ウォルカーンの意図が別のところにあることは、ユーシアとライだけが気づいていた。
「魔術を使うつもりですか」
水夫たちを制しようとしたのか、彼らの前に立ってライは言った。
「『王の鍵』を傷つけたりしたら、西州公はあなたを許さないだろうに」
「閣下が欲しているのはこのお嬢さんの歌声。それを損なうことさえせねば許されるはず。たとえば」
ウォルカーンの手がユーシアの首から肩へ、腕へ移る。
「腕の一本が折れても、歌うことはできるだろう」
「待て!」
ライではなく水夫のひとりが叫び、ユーシアと老人に向かって走り出した。次の瞬間、彼の体は宙を飛び、食堂の壁に叩きつけられていた。
「やめてください」
ユーシアは掴まれた腕のことを忘れて振り向き、ウォルカーンに訴えかけた。
「船のみなさんを巻きこまないでください。この方たちには何の関係もないことです」
「聞いたかね、ライ。さすがはミュリエール卿夫妻の娘御だ」
倒れた水夫に仲間たちが駆け寄り、助け起こしている。痛みに顔を歪めているが意識はあるようだった。
ライはその光景をじっと見つめていたが、ユーシアとウォルカーンに目を戻して言った。
「こんなことをして、あなたの何になるんです」
ユーシアはライの顔を見て怪訝に思った。ライの目に浮かんでいたのは、ウォルカーン卿に対する恐怖でも、怒りでもなく、純粋な疑問だった。
「あなたは代償を払いすぎている。残されているものはもうわずかでしょう。そうまでしてあの方――西州公を『王』にして、あなたにどんないいことがあると言うんです」
ユーシアも気がついた。魔術を使えば精霊たちに代償を払わなければならない。黒ずくめの男たちを撒くために魔術を使ったライは、それから一晩中も寝込むことになっていた。
なぜウォルカーンは、この老人は、人ひとり吹き飛ばすような魔術を使って、平然と立っていられるのか。
「わたしの心配はいい、ライ」
背後で再び聞こえた声は、思いのほか優しかった。
「選びなさい。このお嬢さんを無傷のままわしに渡すか、それともこの場で船もろとも沈めるか」
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