王の鍵
第二章 海 4
食卓を囲む広間いっぱいに、ユーシアの歌声は響きわたった。
天井が高く、家材道具が最小限に抑えられた広間は、聖堂とつくりがよく似ているのだろうか。巫女たちとともに歌った時と同じように、自分の声が高らかに伸びていくのがユーシアにもわかった。
歌い終えて口を閉ざすと、手を打ち慣らす乾いた音が聞こえてきた。南州公アルスタがゆっくりした動きで拍手をしていた。
「素晴らしい声だな、ミュリエール嬢。『王の鍵』でなくとも手に入れたいほどだ」
「ありがとうございます、閣下」
ユーシアはうつむきがちに言い、椅子に再び腰を下ろした。
歌声を褒められたことは何度もあるが、州公のような高位の人から賛辞を受けたことはもちろんない。しかし今は誇らしさよりも、自分の歌について知った事実のほうが、頭の中の広い部分を占めていた。
「この歌が、『王の鍵』――『王冠』を手に入れるための魔術なの?」
「そうだ。西州公家も、機密を知った北州公家も、『王』になるためにきみの行方を追っている」
「でも、これは歌だわ。『古いことば』は節をつけて歌にすれば、精霊の耳には届かないのでしょう?」
「それがミュリエール夫妻のすごいところなんだ。魔術である『王冠』を、卿は別の魔術で封じて西州公が触れられないようにした。魔術は精霊に命じて自然界のありようを変えるもの、つまり『王冠』は、ミュリエール卿に命じられた精霊が守っている。卿が綴った『古いことば』に夫人が節をつけて、精霊にそれを覚えさせたんだ。そして、それを耳にしない限りは『王冠』の封印を解かないようにと命じた。『古いことば』だけなら文字に書き起こして伝えることができてしまうけど、節をつけて歌にすればもう一手間かかるからね」
「母はどうして、わたしにこの歌を教えたのかしら?」
話を聞いていると、両親は『王冠』を決して世に放したくなかったように思える。ならば『王の鍵』は母ひとりが永遠に胸に秘めておくべきだったのではないか。
「封印されていても、『王冠』がそこにある限り、手に入れようとする者は必ず現れる」
ユーシアの向かいで、ライが言った。
「たぶん、きみの父上は、『王冠』を完成させてしまったことを悔やんでいたんだと思う。だから『王の鍵』を母上に託して西州の外に逃がしたんだ。いつか、封印を解いて『王冠』そのものを消せる日が来るように」
「母はその役目を、わたしに引き継がせようとしたの?」
「そう思う。きみにすべてを教える前に、力尽きてしまったようだけど」
なめらかに話していたライの声が急に詰まり、目が痛ましそうに細められた。ユーシアの母親の死をほのめかしているのに、ライのほうが辛そうだった。
ユーシア自身は両親はいないものと思ってきたので、ライのようには悲しみを実感できない。両親がどこの誰なのかわかっただけでも幸運だったとさえ思う。
そうして知ることができたのが、想像を遙かに越えた事実であっても。
「黒い服の男の人たちも、あなたと同じ魔術師のご老人も、わたしが『王の鍵』を握っているから追ってきたのね」
「そうだ。西州公家も北州公家も、この十三年間、ミュリエール夫妻の子どもを捜していたんだ」
「でも、あの人たちに『王の鍵』を渡してはいけない。『王冠』を州公家の誰かが手に入れる前に、封印を解いて滅ぼさなければならないのよね」
ユーシアが言うと、ライが目と口を軽く開いた。アルスタも椅子の背もたれから身を乗り出してくる。
「なかなか聡明なお嬢さんだ。これは話が早いぞ」
「来てくれるのか? 『王冠』を――滅ぼすために、ディアレス西州まで」
畳みかけるライに向かって、今度はユーシアが首を傾げた。
「そのためにわたしをここまで連れてきたのでしょう? あの黒い服の人たちから守りながら」
「そうだ、充分な説明もせずに、きみを――本当にいいのか? 西州はきみが住み慣れた村からいちばん遠いところだぞ」
「いいとか良くないとかじゃないわ。わたしにも関係のあることだもの」
両親が魔術師で、『王冠』を、『王の鍵』を生み出した人だからではない。
『王冠』をめぐって州公家が争うことになれば、千年近くも保たれた島の平和が崩れてしまう。ユーシアを育ててくれた巫女たちも、ターシュの住人たちも、無事ではいられないかもしれない。
「あなたも、そのつもりでわたしを捜していたのではないの?」
ミュリエール夫妻の弟子を自認するからには、ライは彼らの遺志を受け継いでいるのだろう。西州公家の魔術師でありながら、州公の意に背いて『王冠』を葬り去ろうとしている。
そこまで考えが至るのは自然なことだと思うが、ライはまだ戸惑いの表情を消さず、しかし思い直したように口を開いた。
「そういえば、自分のことをまだ話していなかったな。おれは西州公家の城で、ミュリエール卿が遺した書物で『古いことば』を学んだ魔術師だ。『王冠』と『王の鍵』のことを知って、一年前からきみを捜して四州を旅していた」
「そして、ターシュでわたしを見つけたのね」
「あれは本当に偶然だった。疲れて宿を求めようとしていた時にあの歌が聞こえてきて、心底驚かされたよ」
ライはいったん言葉を切り、椅子から立ち上がってユーシアの前で背筋を伸ばした。
「ユーシア・ミュリエール嬢、正式な要請が遅くなって申し訳ない。どうか、おれと一緒にディアレス西州の都ダクルートまで来てほしい」
「わかったわ。ただ――」
「何?」
「わたし、物心ついてからずっとターシュの聖堂にいたから、他の場所のことは何も知らないの。地理もわからないし、旅費を稼ぐ方法も思いつかない。あなたにたくさん迷惑をかけるかもしれないわ」
ユーシアにできることと言ったら、炊事洗濯と歌うことだけだ。ライのように知識があるわけでも、魔術が使えるわけでもない。
「そうでもないと思うぞ、お嬢さん」
声に顔を向けると、アルスタが杯を手に笑みを浮かべていた。
「さっきから話を聞いていると、あなたはずいぶんしっかりしている。ライ、早くこういう女性と一緒になれ。それでこのヴィラムに身を落ち着けろ」
「またその話ですか」
ライはうんざりした表情になったが、すぐに切り換えてアルスタに言った。
「ここに永住するつもりはありませんが、期間を設けてご研究を手伝うことはできると思います。ダクルートに行って目的を遂げてからになりますが」
「ほう。ならさっさと行って済ませてこい」
「そのかわり、報酬をいただけませんか。前払いで」
「それは報酬によるな。何がほしい?」
ライは南州公に向かって言い放った。
「船を貸してください」
その日の午後、ユーシアはライとともにヴィラムの港を見てまわった。案内してくれたのはウォレフ・クリースだったが、なぜか南州公本人も軽装に着替えてついてきた。
ヴィラムはターシュやナクザと同じく南の海に面しているが、漁業よりも海運で栄えているらしい。州公家の館を抱えるだけあって大きな街で、港にはユーシアが見たこともないような大きな船が何隻もあった。エレンシア南州が他の三州と取り交わす商品のほとんどは、このヴィラムの港を通じて出入りしているという。
ウォレフは一隻の船長と話をつけ、明朝出発するという彼の商船に、ユーシアとライを乗せてくれる約束をとりつけた。船は西州の都ダクルートにほど近い港町に向けて出発すると、その船長が直々に説明してくれた。
日が落ちると再び広間に通され、晩餐を振る舞われた。酒が入ったアルスタが海の果てについて熱く語り、話を振られたライが面倒そうに答えるのを、ユーシアは笑いながら聞いた。
和やかな雰囲気で晩餐を終えると、ユーシアはライとともに広間から引き上げ、階段を上った。すでに日は落ち切っているので室内は暗闇に近く、案内してくれる女性たちの手には蝋燭があった。
「明日の朝、ずいぶん早く船に乗ることになったけど――大丈夫? もう何日か泊めてもらって休んでからにしようか?」
隣を歩くライが訊いてくれたが、ユーシアはほほえんで答えた。
「わたしは平気。あなたは?」
「おれはきみが大丈夫ならいい」
「南州公閣下はいい方ね。急に押しかけたのに嫌な顔もなさらず、船の交渉も引き受けてくださって。いつ知り合ったの?」
「二年前、閣下が州公会議でダクルートに来られた時だ。『古いことば』を研究していると言ったら目の色を変えて、それ以来ヴィラムに来いとそればかりだ。親切なのはおれに研究の手伝いをさせたいからだよ」
言葉とは裏腹に、ライはアルスタをそれほど鬱陶しがっていないようだった。鷹揚な態度でライをからかうアルスタと、面倒そうにしながらも律儀に答えるライは、父親と息子、というより年の離れた兄弟のようだ。
「四州公がみんなああいう方だったら、『王冠』なんて生まれずに済んだのかもしれないのに」
海の果てにしか興味はない、狭い島の『王』になりたがる者の気が知れないと言ったアルスタを思い出し、ユーシアは思わず口にした。
ライが隣で顔を向けた。
「『王冠』はやっぱり滅ぼされるべきだと、きみも思う?」
「思うわ。わたしが父と母の娘でなくても、同じように思ったと思う」
ルシアス・ミュリエールとカリーナ・ミュリエール。ライが教えてくれたふたりの名前を、ユーシアはまだ自分の両親のものだと実感できずにいた。彼らが州公家に仕える身分の者だったことも、禁じられている魔術を研究して、あろうことか『王冠』を生み出してしまったということも。
だが、その『王冠』を西州公の手に渡さなかったのだから、両親は正しい判断をしたのだろうと思う。
「ご両親のことでは、話す順序を間違えて本当に悪かった。きみに期待を持たせてしまって」
両親が生きているかもしれないと一瞬でもユーシアに思わせたことを、ライは未だに悔やんでいるらしかった。
「そのことはもういいの。気にしないで」
「もっといい話を――きみの思い出になるようなことを話せたら良かったのに。あいにくミュリエール夫妻の家庭生活のことは、何も記録に残っていないんだ」
ユーシアはゆっくりと首を振った。
「わたし、自分は捨てられた子どもだとずっと思っていたの。両親が誰なのかわかる日が来るなんて、考えてもみなかった。教えてくれただけでとても嬉しい。ありがとう」
自分の両親は、生活に困って我が子を置き去りにしたのではなかった。それどころか大巫女が推測したとおり、三歳まで大切に育ててくれたのだ。
そのことがわかっただけでも、信じられないほど幸運だったと思う。
「そうか」
ライは短く言い、階段の上に視線を戻した。ユーシアと違ってほほえんではいなかった。
その横顔を見ながらユーシアは思った。もしかしたら、ライにも両親がいないのではないのだろうか。この話でユーシアをこれほど気遣ってくれるということは、彼も両親を亡くしているか、ひどく辛い形で別れることになったのではないだろうか。
しばらくどちらも声を発しないまま、階段の終わりまで辿りついた。ふたりが借りている寝室はこの階にある。
案内が二手に分かれてふたりをそれぞれの部屋に導こうとした時、ライが思いきったように口を開いた。
「きみに見てほしいものがあるんだ。良かったら、おれの部屋まで来てくれないかな」
ユーシアは小首を傾げたが、特に断る理由もないので、ライの部屋までついていくことにした。案内の女性を断り、ライの後について部屋に入ると、ライはユーシアを入り口に残し、部屋の隅にあった背嚢から一冊の本を出して戻ってきた。
その本にはユーシアも見覚えがあった。ナクザで一泊した時、ライの荷物の中にあったものだ。
ライは本をユーシアに差し出し、かわりにユーシアが持っていた燭台を受け取った。
「西州公家の城にあった、ルシアス・ミュリエールの著書だ」
ユーシアはライの顔を見た。
書物を通じてユーシアの両親に教わったと、ライは話していた。これがその本なのだろうか。
「魔術の本?」
「いや、『古いことば』を学ぶための書物だ。開いてみて」
ユーシアは左手で本を抱え、右手でその表紙を開いた。
ライが言ったとおり、言語としての『古いことば』を学ぶ入門書のようだった。はじめは口語にないいくつかの文字を示し、続いてその発音、それから文法の基礎が学べるようになっている。ユーシアが聖堂で教わった時と同じ手順だが、本の説明はずいぶん親切でわかりやすい。言葉が整然としてかつ易しく、前知識がなくても難なく理解できるようになっている。『古いことば』の習得に苦労していた聖堂の巫女たちも、これがあればずいぶん助かっただろう。
「父は、魔術を研究するためにこの本を書いたの?」
ライは首を振り、書物を覗きこんで頁をめくった。
「いや。これは純粋な語学の本だ。――ほら、ここに献辞がある」
ライの指が示したのは、最初の頁にある一行の文だった。
『すべての人に精霊の恵みを。――ルシアス・ミュリエール』
「ミュリエール卿の狙いは、望む人が誰でも『古いことば』を学ぶことができて、聖歌を口ずさめるようになることだったんだと思う。聖堂で信仰に生きることができない人も、高い教育を受けられない人も。だから自分の仕事の合間にこの本を著したんだ」
書物を覗きこむライの目は熱っぽく輝き、頁に触れる手は宝物を扱うように優しかった。
「ミュリエール卿はたぶん、魔術よりも言語を研究したかったのだと思うよ」
「あなたも、この本で『古いことば』を勉強したの?」
「そうだ。写本も何冊かつくられているはずだけど、これは直筆本だ。きみの父上の字だよ」
そう言われた瞬間、頁に記されている文字が紙から浮かび上がり、自分の目の前に迫ってくるのをユーシアは感じた。この整った読みやすい文字を書いたのが、ユーシアの父親なのだ。父が墨をつけた筆を紙に走らせ、『古いことば』について一頁ずつ綴ったのだ。すべての人が聖歌を歌えるようになるように。
「良かったら、この本はきみが」
ライの声に顔を上げたが、ユーシアはゆるやかに首を振った。
「ううん。これはあなたが持っているべきだわ」
「でも――」
「わたしは見せてもらえただけでじゅうぶん。ありがとう」
ユーシアはほほえんだ。
ライの目と手つき、そして彼の『古いことば』の巧みさを思えば、この書物はライのもとにあるのがいちばん自然に思えた。彼は西州公家の城でこの本を繰り返しめくり、『古いことば』を懸命に学んだのだろう。ルシアス・ミュリエールの弟子を名乗るほどまでに。
「でも、また見たくなったら見せてくれる?」
窺うようにライの目を見上げると、ライもようやくほほえんだ。聖堂にいたころの愛想のいい表情とは違う、こわごわした笑い方だった。
「もちろん、いいよ」
部屋の入り口に立ったまま、ふたりは交互に書物をめくり、そこに記された『古いことば』について語りあい、時に聖歌を口ずさんだ。
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