王の鍵
第二章 海 3
ユーシアとライを乗せた船は、陸地が遠くに見える程度の海上を進んだ。南州公家の別邸を目指しているのなら、おそらく北東から南西へ向かっているのだろう。
そんなことをユーシアが考えているうちに、船は少しずつ陸に近づいていた。目に見えてきたものの大きさに、ユーシアは圧倒された。
天まで届きそうな尖塔をいくつも持つ、石造りの城だった。聖堂の十倍、いや二十倍はあろうかというほどの広大さだ。
「別邸に向かうって言っていたけど、州都のお城まで来たの?」
小声で尋ねると、ライは不思議そうな顔をした。
「州都はまだだいぶ先だよ。これはヴィラムという州境の街にある、南州公家の別邸のひとつだ」
城の壁は海に面しており、船のまま入れる空洞が設けられていた。漕ぎ手がその中に船体を滑り込ませると、やはり石で組まれている船着き場に、ふたりの男性が立っているのが見えた。ひとりは四十代くらいの大柄な男で、ウォレフと同じような服装をして、腕を組んで海のほうを向いている。もうひとりはユーシアよりも若そうな少年で、城に通じているのであろう木の扉を背に、大柄な男の影のように控えている。
「早かったな、ウォレフ。交渉はうまくいったのか」
船が完全に停まるのを待たずに、年上のほうの男が声を響かせた。
「交渉はわけあって中断となりました。ですが、かわりに珍しいお客を連れてきましたよ」
ウォレフは船の上に立ち上がると、視線をライに向けた。
船着き場にいる男の顔が、一気に輝いた。
「ライではないか。本当に珍しいな。今度こそ依頼を受けてくれるのだろうな」
男は話しながらユーシアに目を移し、笑みを深めながら続けた。
「なんだ? 嫁を連れて挨拶に来たのか」
「違います。この人はミュリエール嬢――魔術師夫妻の娘御です。お久しぶりです、南州公閣下」
ライの言葉を聞いて、ユーシアはすぐ船上で立ち上がった。揺れている上に慌てたので危うく倒れそうになったが、ウォレフが物慣れた様子で手を貸してくれた。
どうにか体勢を整え、船着き場にいる大きな男を見上げる。ほとんど黒に近い褐色の髪を撫でつけ、同じ色の口髭を蓄えた男は、ユーシアがこれまでに見たどの男性とも雰囲気が違っていた。けれども、想像していたような高貴で近寄りがたい人物ではない。ターシュに何人もいた豪気な漁師に威厳を足し、身なりの質をいくぶん押し上げたという感じだ。
それでも、州公家の人――まして州公本人の御前に立ったことなど、当然ながらユーシアには一度もない。何が礼儀に値するのかもわからないなりに、ユーシアは船上で軽く膝を折った。
「ユーシア――ミュリエールと申します、閣下。お目にかかれて光栄です」
「アルスタ・グラヴリーだ。そう緊張しなくていい。ミュリエール嬢、そこの小生意気な魔術師の嫁になってくれるつもりはないかね。早く身を固めてこのエレンシア南州に落ち着くよう、奴に言ってやってくれると嬉しいのだが」
ユーシアは思わず小生意気な魔術師――ライを見た。彼は無表情で肩をすくめ、さっさと船着き場に上がろうとしている。
「気にしなくていいよ、挨拶がわりだから」
「そう言うな。このヴィラムに来たからには一晩は話につきあってくれるだろう?」
「その前に、彼女に着替えをお借りできませんか? それから食事も」
ライは南州公アルスタと並んで立ち、まだ船にいるユーシアを見下ろしていた。大柄なアルスタの隣にいるとそれなりに背の高い彼も小さく見えたが、州公を前にしてひざまずきも屈みもしないこと、顔も見ずに頼みごとができるということだけで、ユーシアを充分に面食らわせた。
アルスタがユーシアに手を伸ばし、からりと笑った。
「そうだな。グラヴリー家の館へようこそ、お嬢さん」
船着き場から城の中へ通され、現れた女性ふたりに案内されて階段を上った。アルスタとウォレフがまた後にと言って別れてすぐ、ライがユーシアの隣に来て口を開いた。
「すまない」
「え?」
「まだ説明も終わっていないのに、何度も危険な目に遭わせて。しかも、そのたびきみに助けられている」
ユーシアは一瞬きょとんとし、それから思わずほほえんだ。聖堂にいた時のライは口が巧いだけに見えていたが、言うべきだと思ったことも惜しまずに言える人なのだ。
「助かったのはクリースさんのおかげでしょう。あなたは南州公閣下の知り合いだったの?」
「西州にいたころの縁でね。そうだ、閣下のことでも悪かった」
「なんのこと?」
「おれの妻だなんて誤解されて――いや、そもそも、ナクザではおれが進んでそう言っていたわけだけど」
ユーシアはライから目をそらし、前を、上を向いた。城に仕えているらしい女性たちがふたりを先導して階段を上っている。
「わたしは気にしていないわ。必要があったからそう言ってくれただけでしょう」
ライの顔を見ることができず、ユーシアは上っていく階段だけを見ていた。
今になってはじめて気づいたことを、ライに打ち明けるわけにはいかなかった。ナクザの漁師たちに、道で会った女性たちに、アルスタに、ライの妻として扱われて、ほんのわずかに嬉しいと感じたということを。
ターシュの聖堂で暮らしていたユーシアは、巫女でもなければ村の女でもなかった。誰の娘でも、姉妹でも、恋人でも、妻でもなかった。それを寂しいと思ったことはないが、どこか心もとないと感じていたことに、今日はじめて気がついた。
誰かの何かでいられることは、心地良いものなのだ。安心できる場所なのだ。
そう思ったことを、ライに知られるわけにはいかなかった。
ユーシアは女性たちの手を借りて着替え、再び階段を下った。
大きな木の扉を開けられて広間のような場所に通されると、ライとアルスタが立ち上がるのが見えた。ふたりとも長い卓を囲んで座っていたようだが、ユーシアが入っていくと席を立って体ごと振り向いた。ライが戸惑ったような目を向けているのが歩み寄るにつれてわかった。
「これは見違えたぞ。ミュリエール嬢」
アルスタもユーシアを見つめていたが、ライよりはるかに余裕のある様子でほほえんだ。
「ありがとうございます、閣下。こんな素敵なお衣装を貸していただいて」
「わたしの姉か妹のものだったはずだが、何年も袖を通していなかったからな。美しいお嬢さんに着てもらって服も喜んでいるだろう」
ユーシアは襟ぐりが広く開いた、薄紅色の衣装を身に着けていた。裾は引きずるように長いが、生地は軽く肌に添うような着心地が素晴らしい。部屋に案内してくれた女性たちにこれを着るよう言われ、ユーシアはためらったが、同時に心が踊るのも抑えられなかった。ターシュの聖堂では色が地味で飾り気もない服しか着たことがなかったのだ。
女性たちは手早くユーシアに着つけると、洗いたての髪も拭いて衣装にあうように結い上げてくれた。磨かれた鏡に自分の姿を映した時、ユーシアは信じられないと感じながらしばらくそれに見入ってしまった。
アルスタに促されて席のひとつに向かうと、ライがまだ見つめていることに気がついた。彼もこざっぱりとした服装に着替え、ユーシアが示された向かいに席を取っている。ユーシアが席に着きながら彼の顔を見ると、ライは我に返ったように自分も腰を下ろした。
「ちょうどこやつを口説いていたところでな。お嬢さんも良ければ力を貸してくれんかね」
歩み寄ってきた給仕に杯を取らせながら、アルスタが口を開いた。卓の上には多くの皿と銀器が並び、何人もの人が忙しく立ち回って料理や飲み物を運んでいる。
「口説く……?」
「彼女は関係ないと言ったでしょう、閣下。結婚しようがしまいが、おれはここには住めません」
「この城に収まってくれるなら妻子ともども生活は保障するぞ。そなたほど魔術に詳しい者はディアレスにもなかなかいないだろうからな」
何の話をしているのかわからず、ユーシアはライとアルスタの顔を見比べた。ライは肩をすくめてさっさと食事に取りかかっている。
魔術に詳しいライを、南州公アルスタは手もとに置きたがっているのだろうか。
そう考えて、ユーシアは恐ろしいことに気がついた。
西州公は『王』の座を求め、魔術師に命じて『王冠』を完成させた。
北州公もその『王冠』を狙い、黒ずくめの男たちを放っている。
まさか、南州公アルスタ・グラヴリーも、彼らの例に漏れないのだろうか。
「また海ばかり眺めているんですか、閣下。そんなことよりご自分こそいい加減にお妃を迎えたらいかがですか」
「妃などいらん。姉と妹にあわせて五人も息子がいるからな。州公はその甥たちのどれかに継がせれば良い」
ライとアルスタが気安く口を利きあうのを見て、ユーシアは首を傾けた。想像していたのとは少し違うようだ。
「ミュリエール嬢。海の果てに何があるか知っているかね」
南州公に水を向けられ、ユーシアは緊張しながら答えた。
「いいえ、閣下」
「わたしもだ。だから知りたい。海の向こうにはこの島と同じような陸地があり、我々と同じような人間が暮らしている、そういう可能性があるとは思わんかね。現に、この島の各地に残る伝承には、海上に出た船乗りが水平線上に人影を見たとか、島とは別の陸地で夢のような数日を過ごしたとか、そういった話が少なくない」
「魔術師が見せた惑わしだったっていう説が有力ですよ」
ライが投げやりな様子で口を挟んだ。彼は南州公のこの話を聞き慣れているのだろうか。
「だから、どこまでが魔術で、どこからが魔術でないか見極める必要があるのだ。魔術に詳しい者の力を借りてな」
「おれは協力できませんよ。他にしなければならないことがあるんです」
ライはアルスタを軽くあしらうと、ユーシアを見て言った。
「それより、きみをこんなところまで連れてきたわけを説明しないと。昨日は途中で邪魔が入ったから」
「その前に食べなさい、お嬢さん。遠慮はいらない」
アルスタにそう言われ、ユーシアは自分が空腹であることに気がついた。卓の上を見ると、木の実を混ぜて焼いたパンや冷製の魚料理、色鮮やかな果物を盛りつけた皿が並んでいる。
ユーシアはアルスタに礼を言って手を伸ばした。
「きみの父上――ルシアス・ミュリエール卿が、十三年前に『王冠』を完成させた。ここまでは話したね」
ライの話が始まると、ユーシアはパンをちぎる手を止めてアルスタを見た。
「閣下はすべて知っているよ。知っていて興味がないんだ」
「わたしの心は海の上にしかないからな。こんな小さな島の『王』になりたがる者の気が知れん」
アルスタの言葉にひとまず安堵して、ユーシアはライに向き直った。
「『王冠』が完成したのに西州公が『王』になっていないのは、わたしの両親が立派だったからと言ったわよね。どういうこと?」
「ミュリエール卿は西州公の命令で、父祖から受け継いだ研究を続けていたけれど、本当は西州公が『王』になることを良いとは思わなかったんだ。千年前と同じく、その座をめぐって四州が争うことになるかもしれない――現に北州公家は『王冠』の存在を嗅ぎつけてそれを奪おうとしているから、ミュリエール卿の予見は完全に正しかったんだろう」
「でも、完成させてしまったのよね。『王冠』を」
「そうだ。だが、『王冠』を見せろと迫った西州公を、ミュリエール卿は説得した。この魔術は使うべきではないと」
「自分で完成させたのに?」
「いつか、この島のために『王』が必要とされる時が来るかもしれない、けれどもそれは今ではないと、ミュリエール卿は西州公に言ったそうだ。そして、自分が生み出した『王冠』を別の魔術で封じて、それを解かなければ誰も『王冠』を手にできないようにした」
十三年前のできごとを、ライはその場で見ていたかのように話していた。
「西州公はもちろん激怒した。そして、ミュリエール卿の身を捕らえ、『王冠』を封じた魔術を解く方法を言えと命じたんだ。でも、その時、封印を解くことができるただひとりの人間は、ディアレス西州から密かに脱出していた」
「誰なの?」
「ミュリエール卿の妻だ。カリーナ・ミュリエール――きみの母上だよ」
ライは辛そうに声を絞り出した。
「ミュリエール卿夫人は聖歌の優れた歌い手で、若いころは巫女になることを望まれていたんだが、ルシアス・ミュリエールと出会ったことで同じ魔術の研究者になった。ミュリエール卿は『王冠』を解き放つ魔術を自分の妻に覚えさせて、西州の外に逃がしたんだ。西州公を『王』にしないために。西州公はそのことを突きとめて夫人を追ったけれど、夫人は頼る者もいない旅路を必死で逃げた。まだ三つのひとり娘を連れて」
自分の胸が大きく高鳴る音を、ユーシアは確かに聞いた。
「きみは十三年前、あの漁村にひとりでいるところを保護されたと言ったよね」
ユーシアはライにうなずいた。ターシュの聖堂で、ライは軽口を交えながらユーシアの身の上をあれこれ聞きたがった。
「ええ。名前と年の他は何も覚えていないけれど」
「もうひとつ、あるだろう。きみの故郷やご両親を知る手がかりが」
胸の音が高くなっていくのを、ユーシアは抑えることができなかった。
聖堂に引き取られた時から三歳の自分が口ずさんでいたという歌。誰に教わったのかもわからない『古いことば』で書かれた歌。はじめて会った時に、ライが驚愕した表情で聴いていた歌。
『きみは、今の歌をどこで』
「『王冠』の封印を解く魔術を、ルシアス・ミュリエールは歌にして自分の妻に覚えさせたんだ。カリーナ・ミュリエールは逃走の途上で娘にそれを教えたんだろう。きみが歌っていたあの歌が、『王冠』を手に入れて『王』になるために必要な魔術――『王の鍵』だ」
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