王の鍵
第二章 海 2
扉を叩く音で、ユーシアは眠りから覚めた。身を起こしている途中で、ここが見慣れた聖堂の寝室とは違うことに気づく。前日の夜に自分の身に起こったことが頭によみがえると、一気に目が冴えた。
一夜の宿を借りた隣村の、漁業組合の事務所。その引き戸が外から何度も叩かれている。閂をかけておいたので開けることができないのだろう。叩いているのはきっと、この建物に用がある村の住民だ。早く行って開けなければと思っていると、隣の寝台から素早く立ち上がった影が引き戸に向かい、閂を外した。
「おはようございます」
外に立っている人たちに向かって、ライが言っている。後ろ姿なので顔は見えないが、声からするともう体調は戻ったようだ。
「おはよう――いや、あんたは誰だ?」
「旅の者です。すみません、勝手に泊まり込んだりして」
ユーシアは慌てて駆け寄り、ライの隣に並んだ。外にいたのは青年から壮年の、日に焼けた四人の男だった。おそらくは漁師だろう。
「昨夜、遅くにこの村に着いて。聖堂も宿屋も閉まっている時間だったので、やむを得ずここをお借りしました」
「ごめんなさい、勝手に」
先頭にいた四十くらいのがっしりした漁師は、ユーシアの存在に気づくと少し表情を和らげた。
「夫婦連れか。ずいぶん若いようだが、旅の目的は何だね?」
夫婦じゃありませんと口を開こうとしたユーシアは、ライの手が肩に回るのを感じて押し黙った。
「妻とふたりで、エレンシア南州にいる親戚を訪ねに行くところです。結婚した報告に」
横目でそっと窺うと、ライはにこにこしていた。聖堂でユーシアに質問したり、世辞を言ったりしていた時と同じ顔だ。きっと彼はこういうことが得意なのだろう。機嫌良く相手に話しかけ、その場を和ませることが。
実際、漁師たちはつられて笑顔になり、それはおめでとうさん、などと口々に言っている。
「朝飯がまだだろう? 今から聖堂に行けばお相伴に預かれると思うが」
「ありがとうございます」
「その前に、掃除と洗濯を手伝わせてください。勝手に寝台をお借りしたので」
ユーシアがすかさず口を挟むと、漁師たちはからからと笑った。
「構わんよ。それよりあんた、奥さんに服を買ってやれ。新妻なのにひどい格好だぞ」
ユーシアが着ているのは聖堂にいる時と同じ、腕と脚を覆う飾り気のない長衣だ。ついでに気がついてみると、灰茶色の髪は下ろしたままで、起き抜けなので少し乱れている。
ユーシアの顔が赤くなったためか、漁師たちが笑い声を立てた。隠れたいとユーシアが思った瞬間、ライが肩に手を回したまま向きを変え、ユーシアと自分の背を漁師たちに向けた。
「そうだな。可愛い奥さんには何でも買ってあげよう。どんなのがいい?」
漁師たちに何度も礼と詫びを言って、ふたりは煉瓦の建物を出た。
すでに日は昇っており、起き出してきた住民たちは一日の仕事を始めている。ナクザの村はターシュよりやや小さいようだが、そっくり同じ光景だ。視線を動かしてみたがあの黒ずくめの男たちは見あたらなかったので、とりあえずほっとした。
「布地屋はあっちみたいだよ。服を仕立てに行こうか、奥さん」
例の調子で繰り返すライに、ユーシアは呆れ果てた。
「もう夫婦のふりをする必要はないでしょう」
「でも、いい考えだっただろう? 商人だと言えば売り物を持っていないのを怪しまれるし、巡礼の巫人だと妻を連れているのはおかしいし」
「そもそも、あなたは巫人ではないのよね」
まだすべての説明を聞き終えたわけではないが、少なくともそれはわかった。信仰に生涯を捧げた巫人や巫女は、容姿や気質にかかわらず共通した独特の雰囲気を持っている。ライにははじめからそれを感じなかった。『古いことば』をあれほど巧みに操れるのは、巫人ではなく魔術師だったからだ。
ライはほほえんだだけで、ユーシアの質問には答えなかった。
「奥さんはともかく、きみは着替えたいだろう。それとも朝食が先のほうがいい?」
「ターシュの聖堂に戻りたいわ。巫女さまたちが心配しているでしょうから」
いちばん考えていたことをユーシアが言うと、ライの表情が急に曇った。
「すまない。きみを帰すわけにはいかないんだ」
「え?」
「話が途中だったな。どこかに座ろうか。人気のないところで」
「――あのう」
急に聞き慣れない声がして、ユーシアとライは同時に前を向いた。
声をかけてきたのはふたり連れの女性だった。どちらも二十代前半といったところで、ひとりは腕に赤ん坊を抱えている。生成りの前掛けをしているところを見ると、商売の準備する手を止めてやって来たようだ。
「ユーシアさんじゃありませんか? ターシュの巫女さま」
子どもを抱いていないほうの女性が明るく尋ねた。ユーシアは自分が驚くより先に、ライの体が隣でこわばるのを感じた。
「あたしたち去年、ターシュにお祭りを見に行って、聖堂で巫女さまたちの歌も聴かせてもらったんです。この子を授かる前だったんですけど、精霊のお恵みを分けてもらえたらと思って」
「とても素敵なお声でした。今年も聴きたくて亭主たちも連れて行ったんですけど、あなたがいなくてがっかりしました。お具合でも悪かったんですか?」
ターシュの祭りはそれなりに有名で、旅人が見物のために立ち寄ったり、近くの村や街の住民がわざわざやってきたりもする。女性たちはそうした人々の一部だったのだろう。ユーシアは巫女ではないが、確かに去年は聖堂で巫女たちと一緒に歌っていた。
どう答えるべきか悩み、ユーシアはライを見上げた。ライはユーシアを見ず、再び肩に手を回して抱き寄せた。
「失礼ですけど、人違いだと思います。この人はおれの妻で、聖堂で暮らしたことはありません」
「え、でも――」
「こんなふうに男といちゃつく巫女なんていませんよ」
ライはそう言うと、空いていたほうの手をユーシアの頭に添え、自分の胸にユーシアの頬を押しつけた。
ユーシアは思わず声を上げそうになったが、必死でこらえた。ライがまた嘘を言っているのは、たぶん何かを警戒しているせいだ。わからないなりに彼と調子をあわせようと、ユーシアは寄り添ってほほえんで見せた。
女性たちは互いに顔を見合わせ、同じ結論に達したようだった。
「間違えたみたいですね。すみませんでした」
「――いいえ」
「さっき、ユーシアさんを知ってるかって人に訊かれたんです。だから何かのご用でこの村に来ているのかなと思ったんですけど」
離れかけていたライの体が凍りついたように固まった。ユーシアも少しずつ事態が見えてきて、身震いするのを抑えきれなかった。またあの黒ずくめの男たちから逃げなければならないのだろうか。
「ユーシアという巫女は有名なんですね。訊いてきたのはこの村の人ですか?」
「いいえ。見かけない顔――だったわよね?」
「ええ」
「旅の商人か巡礼かな。もし同じ方角に向かうなら道連れができて嬉しいんですけど。どんな人ですか?」
笑顔を崩さずにライが訊くと、赤ん坊を抱いた女性が屈託なく答えた。
「白い外套を羽織った老人でした。髪も髭も真っ白で、すごく長くて。きっとその人も、ユーシアさんの歌を聴きたかったんでしょうね」
女性たちが背を向けて去っていくと、ライが低い声でつぶやいた。
「まずい」
「知っている人なの?」
黒ずくめの男たちでなかったことに安心していたユーシアは、ただならぬ様子のライを見つめた。
「知っているというか――おれと同郷で、同業だ」
ということは、ディアレス西州国の魔術師か。
「その人も――狙っている? 同じものを」
「もちろん狙ってる。昨日のあいつらよりもまずい。早くこの村から出ないと――ああ、先にきみにすべて話したいのに、時間がない」
ライは今までにないほど狼狽していた。笑顔が消え、言葉も途切れがちになっている。
ユーシアは彼につられないよう息を深く吸い、吐いた。自分だけでも落ち着かなければならない。
「この村の西側に向かう? 来た時とは反対側」
「そうしよう。すまない、話が終わっていないし、朝食も着替えもまだなのに」
「いいの」
小さな村では余所者はそれだけで目立ってしまう。外見が人目につくだけではなく、住民の口から口へ伝わる情報も恐ろしい。
『王冠』を狙っている黒ずくめの男たちも、ライを狼狽させている老人も、この村ですぐにふたりの居場所を見つけてしまうかもしれない。
「走ると目立つ。歩こう」
ライは落ち着きを取り戻してきたらしく、ユーシアの手を取って向きを変える。
はじめて来た村の地理などユーシアにはわからないが、ライはわかるらしい。旅で身に着けた勘だろうか。ユーシアの手を握ったまま足を止めずに歩いていく。
早朝の漁村では少しずつ人の姿が増えている。ライは小器用に人を避け、しかしあえて人気のない場所は選ばずに進んでいた。村の住民の中に完全に溶けこむのは無理でも、人の群れの中にいたほうが目立ちにくいからだろう。
ユーシアは懸命に足を動かしながら、不自然でない程度に視線を左右に走らせた。道順はライに任せるとして、自分は少しでも追っ手を警戒しようと思ったのだ。
追っ手という言葉が自分の頭に浮かんだことに、ユーシアは戸惑った。自分にそんなものとの縁ができるなど考えたこともなかった。だが、昨日から目にしている黒ずくめの男たちも、ユーシアのことを訊いて回っているという老人も、追っ手の他に呼びようのない存在だ。
そんなことを考えていた矢先、村の風景の中にそれを見つけた。吸い寄せられるようにその黒い一点に視線が移る。
「ライ。あの人たち」
半歩前を行くライの横顔に声をかける。
ライは振り向かず、小さくうなずいて見せた。
「奴らを見るな。このまま歩き続ける」
黒ずくめの男たちは、幸いにもユーシアたちに背を向けていた。距離も充分に離れており、その間を少なくない人影が行き来している。ユーシアはライに言われたとおり彼らから目をそらし、無心になって足を動かし続けた。
ライが急に立ち止まった時、ユーシアは足もとを見ていた。目を上げてどうしたのと尋ねかけ、途中でやめた。眼前にある光景のおかげで理由がわかったからだ。
ふたりの前には老人が立っていた。白い外套を羽織り、白い髪と髭を長く伸ばして、夜目の効く獣のような視線をユーシアたちに向けていた。年齢は七十は越えているように見えたが、想像していたよりも背の高い、しっかりした体つきの老人だった。
「久方ぶりだな、ライ。無事で何より」
「ウォルカーン卿――やっぱりあなたか」
ライの手がユーシアの手を強く握りしめた。おそらく無意識なのだろうが、おかげで彼がこの老人をどれだけ警戒しているか理解できた。
ライと同じ、ディアレス西州の魔術師。『王冠』を狙っている者のひとり。
「『王の鍵』を見つけたか」
視線を向けられ、ユーシアは立ちすくんだ。手を握るライの力がいっそう強くなる。
「彼女は違います。この人は近くの村の――」
「無駄に時間を使うな。若いころのカリーナ・ミュリエールに生き写しだ。歌声もさぞかし似ているのだろう」
ライが足を動かし、ユーシアと老人の間に立ちはだかった。
「この人はあなたのためには歌いませんよ」
「そして、そなたのためにも。しかるべき場所でしかるべき方に歌ってもらうため、ご同行いただきたい、ミュリエール家のお嬢さん」
老人が言い終える前に、ライはユーシアの手をつかんだまま走り出した。
老人の姿が見えなくなると同時に、背後で短い言葉が聞こえた。声が低すぎて、そして発音が速すぎて聞き取れなかったが、『古いことば』――魔術だ。
「まずい」
ライがつぶやくのを聞いて、ユーシアは本能的に振り向いた。
追ってきているのはあの老人ではなく、黒ずくめのふたりの男でもなく、おそらくはこの村の住人であろう、職人風の三人の男だった。彼らはそろって虚ろな目をして、しかしユーシアとライだけを見つめて頑丈な足で駆けてくる。
「あれも魔術なの? あの人たちは操られているの?」
視線を戻したユーシアは、息を切らしながらライに尋ねた。
ライは答えず、苛立ったように足を速めた。二階建ての民家の角を曲がると急に立ち止まり、ユーシアの手を離して自分だけ振り向いた。
「仕方ない。きみは先に行って」
彼が何をしようとしているか悟った瞬間、ユーシアは手を伸ばしてライの口を塞いだ。
「だめ。あなたはもう魔術を使わないで」
魔術に代償が必要だと知った以上、ライがそれを払うのを見過ごすわけにはいかない。彼の身が心配だと言うより、人が倒れるところを見たくないのだ。
「使わないと逃げられない。あの人にだけは捕まるわけにはいかないんだ」
ユーシアの手首をつかんで引き剥がしながら、ライは怒鳴った。そうしているうちにも三人の男の足音が近づいてくる。
ユーシアは所在なく左右を見回した。そして、かすかに漂ってくる潮の香りに気づき、あることを思いついた。
「海へ逃げましょう」
「海?」
「波止場へ行けば、使われていない漁船や小舟が必ず一艘はあるわ。あの男の人たちは漁師ではなさそうだから、船の扱いは知らないと思う」
「きみは知っているのか?」
「知らない。でもなんとかする」
ライに魔術を使わせることなく追っ手から逃れるためなら、どんなことでもする。
ユーシアは今度は自分からライの手をつかみ、それを引いて走り出した。ライは戸惑いながらも立ち止まらずについてくる。潮の香りと風の向きを頼りに進むと、思ったよりすぐに海が見渡せる場所へたどり着いた。
途中で角をいくつか曲がったせいか、三人の男はまだ追いついてきていない。けれど現れるのは時間の問題だろう。ユーシアはつながれている何艘かの船に急いで目を走らせた。見慣れているのは漁船だが、すぐに操れそうなのは櫂が放置された小舟だろうか。しかしそれではあの男たちも同じ方法で追ってくるかもしれない。
「ちょっと待った――もしかして」
一緒に船を物色していたライが、急に顔を上げて別の方向を見た。
波止場のまわりには人影は皆無ではなく、船の手入れをしに来た漁師たちや、ユーシアたちが宿を借りた漁業組合の人たちが行き来している。ライはその中で、桟橋の側で話しこんでいるふたりを凝視していた。
「やっぱりそうだ。来て」
「知っている人なの?」
ライは答えずに先に走り出していた。追いかけようとしたユーシアは、視界の端に恐れていた姿が現れたのに気づいた。老人の魔術に操られている三人の男たちだ。
「クリースさん!」
ライは走り続けながら、桟橋にたどり着く前に叫んだ。呼びかけられたふたりは同時に振り向いた。
ひとりはこの村の漁師らしい、日に焼けた壮年の男だった。もうひとりは二十代後半くらいのすらりとした青年で、ユーシアの目には見慣れない服装をしていた。丈の長い襟つきの上着、細身の下衣、腰の帯には黒々と光る短刀の鞘が見える。
互いの顔がわかるところまで近づくと、青年はライを見て笑顔になった。
「誰かと思ったらライですか。こんなところで奇遇ですね」
「船ですか?」
「はい?」
「船で来てますよね、お願いです、乗せてください。後で説明します、ここを離れなくちゃいけないんです」
無我夢中で言われるままに動いた後、気がつくとユーシアは船の上で揺られていた。
青年が乗せてくれた船は漁船よりもひとまわり大きく、十人は運ぶことができそうだった。しかし今の乗員はユーシアとライ、漕ぎ手がふたり、そして当の青年だけで、空いた場所にはいくつかの荷袋が積まれていた。
「助かりました、ありがとうございます」
呼吸を落ち着けてからライが言うと、青年はにこりとした。濃い茶色の髪をきれいに整えた、知的な雰囲気の男性だった。
「アルスタさまがお喜びになりますよ。このままヴィラムに向かいますが、よろしいですね?」
「構いません。むしろ、今日だけでも置いていただけると助かります」
ライはそう言い、向かいに座るユーシアに目を移した。青年の目線も自然とユーシアのほうを向く。
名乗るべきか迷っていたユーシアよりも先に、ライが再び口を開いた。
「こちらはユーシア・ミュリエール嬢。ミュリエール卿ご夫妻の娘御です」
「『王の鍵』ですか」
青年は間髪を入れずに答えた。笑顔は消えていないが、黒っぽい目にはいくらかの緊張が走っていた。
『王の鍵』。そう呼ばれるのは二度目か、あるいは三度目だっただろうか。追っ手をなんとか撒けたのは良かったが、まだまだわからないことが多すぎる。
「はじめまして、ミュリエール嬢。グラヴリー家にお仕えしている、ウォレフ・クリースと申します」
ユーシアの困惑をなだめようとするように、青年はほほえみながら言った。
「グラヴリー家……?」
「エレンシア南州の州公家だ」
ライがすかさず答えると、ウォレフは微笑を深めた。
「おふたりにはこれから、ヴィラムにあるグラヴリー家の別邸に来ていただきます。南州公閣下が喜んでお迎えになりますよ」
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