王の鍵
第一章 祭り 4
聖堂に続く人気の少ない小道を、ユーシアはひとりで歩いていた。薬草を届けてまわるうちに時間が経っていたようで、あたりはすっかり暗くなっている。
歩いている間、オースとティオの会話がずっと頭の中で続いていた。
騙されていたと知っても、ティオに対する怒りはなかった。ティオは船大工の息子で、漁師の一家であるオースとは家族ぐるみのつきあいがある。誰からも頼りにされ、いずれ村の中心になるであろうオースに、気の優しいティオが逆らえるはずがない。あの場で一緒に笑っていた他の若者たちも同じような事情だろう。
オースにしたところで、今さら怒る気にはなれない。彼の誘いを断って本当に良かったと思うだけだ。
ユーシアの胸に刺さったまま抜けないのは、最後に聞いたオースの言葉だった。
『本当の巫女でもないくせに』
巫女であればこんな目に遭うことはなかったのだろうか。聖堂で暮らしながら巫女ではない、村の娘たちの一員にもなれない、不確かな人間だからなのだろうか。
聖堂の門の前まで来てユーシアは足を止めた。聴き慣れない歌声が中から響いてきている。
食堂や巫女たちの寝室を含めた建物全体を聖堂と呼んでいるが、本来の聖堂は巫女たちが聖歌を捧げる一室を指す。二階建ての建物の中でここだけが吹き抜けになっており、円形の天窓から射す光の中で巫女たちは『古いことば』で精霊に祈る。
その聖堂の中から、若い男の声で聖歌が聞こえてくるのだ。
聖堂は前庭から直接出入りできるようになっている。その開け放たれた扉の陰から、ユーシアは中を覗き見た。
歌っているのはライだった。聖堂の中心、天窓の真下で月明かりを浴びながら、普段からは考えられない真摯な表情で歌っている。彼のまわりを取り巻くように何人かの巫女が立っており、壁際に備えつけられた長椅子には商人の夫婦が座っている。
ユーシアも聴いたことのある聖歌だった。旅の安全と、訪ねた土地での良い出会いを祈る歌詞だ。おそらく行商をして歩く夫婦のために歌っているのだろう。
落ち着いていて聴きやすく、よく伸びる声だ。何よりも『古いことば』の発音が素晴らしい。何年もかけてよく学び、歌い慣れているのだろう。軽薄そうなところはあるが彼も本物の巫人なのだ。
ユーシアは聖堂の中に入ることができなかった。あの中にいたとして、ユーシアは聖歌を歌う者でも、聖歌を聴く者でもない。そう思うと、扉の陰から密かに中を窺うことしかできなかった。
祭りの日、夕刻になるとユーシアは予定どおりに着替え、聖堂を後にした。ティオと祭りに行くことにしたと大巫女に伝えてしまったので、形だけでもユーシアが出かけなければ心配をかけてしまう。
聖堂から続く小道には、ユーシアとは逆方向に歩く人がちらほら見かけられる。祭りの間、巫女たちは夜を徹して聖歌を捧げ続けるので、それを聴きに来る者も多いのだ。
「出かけるのかね、ユーシア?」
前から近づいてきた家族の父親が、歩き続けながらユーシアに話しかけた。
「はい。――約束があるので」
「ティオだろう。聖堂であんたの歌を聴けないとは残念だ。でも、あんたも年ごろの娘だからね」
楽しんでおいで、と母親が言い、子どもたちも手を振ってくれる。ユーシアは礼を言いながら彼らとすれ違い、村に向かって歩き続けた。
なだらかな坂を下りて角を曲がろうとした時、背後から追いかけてくるような足音が聞こえて振り返った。
「ああ良かった、追いついた」
ユーシアの側まで駆け寄って立ち止まり、息を整えているのはライだった。
「どうしたの?」
「祭りに行くんだろう。一緒に行こう」
ライははじめて会った時と同じ外套を身に着け、背嚢を背負っている。祭りを見物して、そのまま旅立つつもりだろうか。
「あなたは巫女さまたちと歌うのだと思っていたわ」
「気が変わった。村まで一緒に行かせてくれ。きみと恋人の邪魔はしないから」
「……ティオは一緒じゃないわ」
ユーシアが言うと、ライの顔から笑みが消えた。どんなふうに察したのかはわからないが、何を言うべきか迷っているようにも見える。
「じゃあ、おれと一緒にいてくれる?」
ライはあらためてほほえみ、言った。いつもの軽口のように聞こえないことはないが、目線がどこか優しげに見えたので、ユーシアは思わずうなずいてしまった。
村の中心を貫く通りは、すでに人でいっぱいだった。二百人に満たない住民のほとんどが、祭りの晩はみな外へ繰り出すのだ。
熱い。ライとともに人の流れに入ったユーシアは、その熱気に思わず怯んだ。人々が押しあいへしあい、大きなひとつの生き物のようにうねり、熱を生み出している。口々に祭りのことを話し、笑い、時に歌っている。その声もまた熱気をはらんで人の流れの中に溶けていく。
立ちすくみかけていたユーシアの腕を、ライが軽くつかんで引き寄せた。
「大丈夫?」
「あ……はい」
ライは人混みには慣れているらしい。ユーシアの手を引いて、器用に人を避けながら先へ進んでいく。おかげでユーシアも少しずつ歩き慣れてきて、周囲を眺める余裕もできた。
通りを歩く人はさまざまだ。楽器を手にした若者の集団、幼い子どもを両脇に連れた母親。ユーシアと同じ年ごろの娘と若者が寄り添って歩く姿も見える。年老いた夫婦は互いをいたわりながら、人波に揉まれないよう通りの端を進んでいる。幾人かの顔見知りはユーシアと目があうと、笑ったり挨拶してくれたりもした。このまえ生糸屋の前でぶつかった娘たちは、同じ三人の顔ぶれで歩いている。一緒に行く若者は見つからなかったのか、それともこれから見つけるのだろうか。
ティオやオースに会いませんように、とユーシアははじめ祈っていたが、やがてそんなことは頭から消えていた。村のほとんどの住人を一度に目にしたのははじめてだ。小さな漁村がこれほど多くの人間を抱えていたことに、ユーシアは目を見開かずにはいられなかった。人の汗と息が潮のにおいと混ざりあい、いつもの村とは明らかに違う空気をつくり出している。
「きみの手を引っぱりながら何なんだけど」
ユーシアの半歩前を歩きながら、ライが大きめの声で言った。
「この人たちはどこへ向かっているのかな」
「海のほうだと思うわ、たぶん」
思ったとおり、人波は通りを抜けると角を曲がり、漁港へ向かう道に続いた。このころになると日はすっかり落ちており、灰色の海の上には星がひとつ輝きはじめていた。
港に面した幅広の道は、先にやって来ていた人の姿で埋め尽くされていた。波止場の近くに陣取った若者たちは、持ってきた楽器を手に歌ったり踊ったりしている。たどたどしい『古いことば』で聖歌を口ずさんでいる者もいる。
漁業組合の事務所がある建物からは灯りが漏れていた。そちらを見ると嫌なことを思い出しそうになるので、ユーシアは一瞥しただけで目をそらした。
「ここが祭りの本会場?」
ターシュにやってきたばかりのライは、海を見渡しながら不思議そうにしている。
「ええ。もうすぐ始まると思うわ」
祭りがどんなものなのか、ユーシアも人から聞いたことがあるだけだ。それでもここにいればいいものが見られるということはわかる。
近くで大きな声がしたかと思うと、職人風の男たちが何人かで杯を傾けていた。その向こうでは子どもたちが大きなパンを頬張っている。祭りの晩はほとんどの商店が閉まっているので、みな思い思いのものを持ち寄って祭りを見ながら飲み食いするのだ。
「はい」
目の前に何かが差し出され、ユーシアはその腕をたどって持ち主の顔を見た。ライが笑顔で見下ろしていた。
「今日、きみにもらったものだけど」
ライが差し出していたのは、広げた布に載った何枚かの焼き菓子だった。巫女たちが聖堂の厨房でつくったもので、ユーシアも手伝った。ライに食べさせたら例の調子で褒めちぎるので、呆れながら残りを包んであげたのだ。
「ありがとう」
ユーシアはライの手から一枚取り、かじった。蜂蜜の甘さとともに、摘みたての薬草の香りが口に広がる。隣を見るとライも嬉しそうに食べている。
一緒に祭りに来た若者と娘とは、こんな感じなのだろうか。ユーシアは思いかけて慌てて否定した。ライは精霊に仕える巫人だし、何よりいつかこの村を出て行く人だ。
二枚目の焼き菓子を飲み込んだ後、ユーシアは思いついて言った。
「蝋燭は持っていない?」
「持っているけど、なんで?」
「あったほうがお祭りが楽しいわ、きっと」
ライが背嚢を地面に下ろし、中から蝋燭を取り出した時、ちょうどそれが始まった。
「母さん、見て!」
前のほうにいた子どもがいち早く叫んだ。そのかわいらしい声に導かれ、周囲にいた老若男女も次々と前を見る。ユーシアも人々の頭の間を縫って視線を送った。
波止場よりも向こうの海に、赤々とした光が浮かんでいる。はじめはひとつだったそれがふたつ、みっつと次々に現れ、海上の光景を映し出す。幾艘もの漁船が波の上に浮かび、その上に立つ者が火を灯した蝋燭を掲げているのだ。
「あれは……漁師たち?」
目を凝らして海を見るライに、ユーシアはうなずいた。
「熟練の漁師の中から、毎年八人が選ばれるの。漁師の家族は一緒に船に乗せてもらえるのよ」
蝋燭を捧げ持つ漁師の脇には、岸に向かって手を振る子どもの姿も見える。
最後の船に灯りがついたのと同時に、岸にいた人々が声をそろえて歌いはじめた。精霊に捧げる聖歌だ。
聖堂で暮らす巫女でなくても、その土地に伝わる主だった聖歌は住人なら歌うことができる。親から子へ口承で伝わるので歌詞を理解している者は少ないが、自分が歌っているおおまかな意味は誰もが知っている。
村の住民を育んでくれる海の精霊に感謝を。漁師たちの無事を守ってくれる風の精霊に感謝を。
おそらくはこの漁村が始まって以来、長年に渡って歌い継がれてきた祈り。
ユーシアも人々と声をあわせて歌った。周囲にいた何人かが振り返り、歌っているのがユーシアだと気づいて、近くの者と示しあわせて視線を向ける。歌が終わるとユーシアにほほえみ、小さく拍手してくれる者もいた。
「すごいな、きみは。人気者だ」
ライに言われ、ユーシアは思わず笑った。
「巫女の歌は聖堂に行かないと聴けないから、珍しいのよ。わたしは巫女ではないけど、『古いことば』は学んでいるから」
「それだけじゃないと思う。きみの声がきれいなんだよ」
「あなたは? さっきの歌は知ってる?」
「聴いたことはないけど、もう覚えた。次があれば歌えるよ」
「良かったわ」
「なんで? それに、これはいつ使うの?」
ライは手もとを示した。携帯用の手燭台の上に、火のついていない蝋燭が立ててある。
「これからわかるわ、たぶん」
ユーシアも祭りのことは人から聞いたことがあるだけだ。それによれば、これからがいよいよ祭りの本番のはずである。
左右を見回すと、居合わせた人のほとんどがやはり蝋燭を手にしている。
前方の、海との境のあたりで明るさが増した。同じ場所で、先ほど歌い終えた歌が再び繰り返される。
「やり直し?」
「待ってて。そのうちこっちに来るから」
手早く説明する言葉が見つからず、ユーシアは取り急ぎライを黙らせた。
その予想は正しかったようだ。光と歌はしだいに大きくなり、海から陸地の内側へと近づいてきた。
波止場近くに集まった人々が、手にした蝋燭から蝋燭へ火を移してゆく。それと同時に口を開き、歌われていた聖歌の声に合流する。海から陸へ、灯火と聖歌が細波のように広がってゆく。
ユーシアたちの前にいた二人組が振り返った。二十代後半くらいの、若い職人風の夫婦だ。どちらの手にも火を灯した蝋燭があり、それぞれ唇を動かして聖歌を口ずさんでいる。
「はい」
横から急に火のない蝋燭を差し出され、ユーシアは顔を上げた。ライが手燭台を手にユーシアを笑顔で見下ろしている。
その意味を理解すると同時に、ユーシアは口を開いた。
「あなたの燭台よ。あなたが持って」
「ここへ連れてきてくれたのはきみだ」
「わたしは来年もここにいるかもしれないから」
「おふたりさん。譲りあうのはいいことだが、祭りが進まんよ。どうしても決められないならふたりで一緒に持ったらどうだい」
振り返った夫婦のうち夫のほうが、歌うのを休んでふたりに助言した。
ユーシアはしばしライと目をあわせた後、手燭台の持ち手に自分の手を添えた。ライが手を動かして持ちかえてくれたおかげで、ユーシアの指は難なくその隙間に入ることができた。指先がほんの少しだけ触れあい、緊張で堅くなったことをライに悟られないようユーシアは願った。
ふたりで燭台を持ち上げると、夫婦の妻が自分の蝋燭を傾けた。
火が灯ると同時に、ユーシアは歌いはじめた。再びライを見上げると、彼も同じように口を動かしている。驚いたことに、本当に一度聴いただけで覚えてしまったらしい。
ふたりは注意しながら背後を向き、そこにいた老姉妹の蝋燭に火を移した。
波止場が明るくなるにつれ、聖歌を捧げる声も大きくなる。人々の手から手へと灯りが移され、それとともに歌声も広がっていく。
再び海のほうを向いたユーシアとライは、どちらからともなく目をあわせてにこりと笑った。
聖堂で耳にした時も思ったが、ライの聖歌は『古いことば』の発音が素晴らしかった。ユーシアも他の人々よりは歌い慣れているので、ふたりの歌声は周囲の人の耳を惹くらしく、あちこちで振り返る人の顔が見えた。
自分の声がいつもと違うことに、ユーシアは気づいていた。歌う場所が異なるからではない。ライが一緒だからだ。ライの落ち着いた声とユーシアの細い声がぴたりと添い、まるでひとりの人間の声のように響いているのだ。細い糸をよりあわせてつくった飾り紐のように。
ライも同じことを感じているのか、目があうと彼は笑みを深めた。燭台の下でときどきこすれあう指先よりも、声のほうがずっとお互いの近くにいると感じた。
光と歌が端まで行き渡ったらしく、波止場の人々は一度目よりも大きな声で、精霊に歌を捧げていた。
ユーシアは不思議だった。この場にいる人々はほとんどが村の住人だが、話したことのある人はごくわずかだ。それも必要なやりとりと世間話をいくらかしただけで、残りは口を利いたこともない相手ばかりだ。一年前の祭り以来、ユーシアに冷たくあたっていた者たちもこの中にいるだろう。
それでも、同じ場所にいて、同じ歌を口ずさんでいると、そんなことはどうでも良くなっていく気がした。彼らは古くからこの地に住み、これからもこの地で生きていくのだ。海の恵みを糧にし、お互いを支えあい、精霊に祈りを捧げながら。
両親も故郷も知らないユーシアは、本来はここにいるべき人間ではないのかもしれない。それでも、歌っている間は自分が紛れもなくこの村の一部だと感じることができた。
聖歌は歌い終わるたびにはじめに戻り、繰り返されている。集まった人々は飽きるまで精霊に歌を捧げ、この後は飲んで踊って騒ぐのだ。何組かはすでに歌い続けながら移動を始めている。
右手のほうから黒い影が近づいてきたのを感じ、ユーシアは歌いながら目を向けた。
旅人風の外套を身に着けた、二人組の男だった。その外套も、頭に載せた帽子も、偶然ちらりと見えた靴も、何もかもがみごとに真っ黒だった。まわりが明るいので顔かたちはよく見えたが、ふたりとも年齢や表情が読みとりにくい、これといって特徴のない男だった。
蝋燭は持っていないが、祭り見物に立ち寄った旅人だろうか。なんとなく目で追いかけるユーシアの前を通り過ぎる時、彼らのひとりが声を発するのが聞こえた。
「赤毛の若造の隣。あれが『王の鍵』だ」
どこかで聞いた言葉だ。ユーシアがそう思うと同時に、隣で聞こえていた歌声が途絶えた。見上げると、口を閉ざしたライがひどく険しい顔をして、歩いていくふたりの男の背を見つめていた。
「どうかしたの?」
「行こう。ここから離れるんだ」
ライはユーシアの手から燭台を奪い、片手で煽って火を消した。足もとに置いていた背嚢を持ち上げて背負うと、ユーシアの手首をつかんで歩きだした。男たちが去ったのとは逆の方向に。
「待って、いったい何なの」
ユーシアが声を上げても、ライは気にとめず足早に進んでいく。
再びユーシアが口を開こうとした時、背後で若い女の悲鳴が聞こえた。
振り向くと、ユーシアたちが立っていた場所より遠くで、それは起こっていた。先ほどの黒ずくめの男たちが、村の娘を押さえ込んでいる。ひとりは二の腕を鷲掴みにして、もうひとりは大きな手を口もとにかぶせている。
「リデル!」
娘と一緒にいたらしい若者が、彼らの側で叫んでいた。たくさんの蝋燭の火に赤毛を照らされている彼は、ユーシアを祭りに誘っていたティオだ。オースの命令どおり別の娘と一緒に祭りの場に来ていたらしい。
その別の娘はふたりの男に羽交い締めにされ、逃れようと必死でもがいている。異変に気づいた何人かの人々が顔を向けているが、彼らの手にした蝋燭の火は消えておらず、歌声がやむ気配もない。村の娘のひとりがさらわれようとしている中、戸惑いの表情を浮かべながらも祭りの儀式を続けている。
「振り返らないで。急いで歩いて」
ライに強く手を引かれ、ユーシアは前を見た。
「あの人たちは誰? あなたの知っている人?」
「黙って。――奴らが本当に連れ去りたいのは、きみだ」
再び振り返りそうになるのを、ユーシアは必死でこらえた。
ターシュの住人の多くは、ユーシアがティオと一緒に祭りに来ると思っていた。実際にティオの隣に立っていたのは、オースが差し向けたリデルだ。そのリデルが今、見知らぬ二人組の男に連れていかれようとしている。
『王の鍵』
数日前にライから聞いた、ユーシアの知らない言葉。あれは自分のことだったのだろうか。
「待って」
ユーシアは立ち止まり、ライに声をかけた。
ライは頑として歩き進もうとしたが、ユーシアが動かないので足を止め、苛立たしそうに振り向いた。
「早く隠れないと、きみが」
「リデルを助けないと」
今ある限りの情報をかき集めて考えると、リデルはユーシアの身代わりにさらわれようとしているのだ。
特別に仲の良かった娘ではない。むしろオースに憧れる娘のひとりだったので、一年前からはきつく当たられることもあった。それでも、見知らぬ男たちに連れ去られるのを放っておくわけにはいかない。
ライはユーシアの顔を数秒見つめ、短く息を吐き出すと、背嚢と蝋燭を地面に投げ捨てた。そしてユーシアの手を放し、走り出した。待ってと声をかける間もなく、来た道を戻って遠ざかっていく。
祭りの聖歌はまだ続いていた。その中をライは駆けていくと、リデルと男たちの手前で止まり、口を開いた。
その声は、おおぜいの歌声の中でもなぜかはっきりと、ユーシアの耳に響いた。
聖歌に使われているのと同じ『古いことば』。それをライは節をつけずに口にした。歌っていた時と同じ、聞き取りやすい美しい発音で。
黒ずくめの男たちが悲鳴を上げ、それぞれ自分の目を押さえた。視覚を失ったかのように手をばたつかせ、よろめいている。腕が離れた隙にリデルが彼らから離れるのが見えた。
自分が何を目にしているのか、ユーシアははっきりとわかった。
『古いことば』で精霊にじかに語りかけ、自然界を動かす手段。
これは魔術だ。
「走って」
気がつくとライは側に戻っており、荷物とユーシアの手をつかんで走り出した。
必死についていきながら、ユーシアはライの背中に声をかける。
「あなたは――」
ライは振り向かずに答えた。
「魔術師。そして、きみのご両親の弟子だ」
Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.