王の鍵
第一章 祭り 3
ユーシアが客室の扉を叩くと、中から「どうぞ」と返事がした。
中に入ると、寝台に腰かけていた若者はすでに振り向いていた。ユーシアを見てにっこりと笑う。
「おはようございます。朝食です」
「おはよう。いつもありがとう」
若者に見られているのを意識しながら、ユーシアは朝食の盆を円卓に置き、水さしから水を注いだ。
彼がこの聖堂に運び込まれてから、今日で三日目になる。昨日の朝に再び目覚めた彼は、ライと名乗った。巡礼のために西州から旅してきた巫人で、各地の聖堂に立ち寄っては聖歌を捧げているという。まだ寝台の上にいるが顔色はすっかり戻っており、言葉もよく出るようになっている。出すぎるほどに。
「今日も一緒に食べてくれる気はないのか。昨夜あんなに頼んだのに」
ひとりぶんの朝食を見て、ライは悲しげな声で言った。食事を運んでくるたびにこれなので、ユーシアは呆れ果てるしかない。
「ひとりで食べるのが寂しいなら、階下の食堂まで降りてきてください。もうそのくらいお元気そうに見えますよ」
「階下で食べることにしたら、きみにこの部屋まで運んでもらえなくなるだろう。ふたりきりで話す時間がなくなるじゃないか」
ふたりになったところで、何を話すというのか。
ライは昨日からずっとこの調子で、ユーシアが世話に来るたび親しげに話しかけてくる。巫女ではないのになぜ聖堂にいるの? いつからいるの? 祭りには行くの? 行かない? きみほどの美人なら誘ってくる男はおおぜいいるだろうに。
信仰に身を捧げた巫人とは思えない調子の良さだ。こうなると、最初に目覚めた時ユーシアの声を褒めたのも、単なる世辞だったような気がしてくる。
そのくせ彼は、ユーシアがいちばん気にしていることを、いまだに訊いてこなかった。あの歌をどこで知ったのか、と。
自分から切り出してみるべきかと思いつつ、ユーシアもそれができずにいた。大巫女から聞いた話が頭の中にひっかかっているせいだ。
自分は捨てられた子どもではなかったのかもしれない。それどころか、裕福な両親に大切に育てられた子だったのかもしれない。
では、それほど大切にされていた娘が、なぜ知りあいもいない漁村にひとりで残されていたのか。
それを探っていくと何か恐ろしいことに行き当たりそうで、ユーシアは自分から踏み出すことができなかった。
「いい香りだ。きみがつくったの?」
穀物の粥に顔を近づけて、ライは言った。食事は巫女たちと一緒につくっていると昨日も言ったのに。
もっとも、香りがいいというのは同感だ。朝食の準備をともにした巫女も嬉しそうに言っていた。畑の香草が急に元気になって、たくさん採れたのだと。
「いつも同じようなものしかなくてごめんなさい。今日の夕食にはお魚を出しますので」
「構わないよ。きみのつくったものならなんでも美味しい」
「――それと、今日から別のお客さまがこの階に泊まられます。この部屋とは端と端に離れているので、ご迷惑にはならないと思いますが」
「へえ。どんな客?」
「行商のご家族です。ご夫婦とお子さんがふたり。下の子は赤ちゃんです。もしかすると、夜遅くに泣いたりするかもしれませんが」
「気にしないって。にぎやかになっていいね」
ライは笑顔のまま即答した。なんとなく信用ならないような若者だが、気がいいことは確かだと思う。
しかし、こうなると、はじめて会った時の深刻そうな様子は何だったのかと思う。その歌をどこで、と訊いた時のライは、明らかに狼狽していた。倒れる寸前で朦朧としていて、自分の言っていることがわからなかったのか。本当はユーシアの歌に深い意味などなかったのだろうか。
「何?」
ライが急に言い、ユーシアははっとした。自分でも気づかないうちに彼の顔を凝視していたらしい。
「おれの顔に興味がある?」
「いいえ、じろじろ見てごめんなさい。食べ終わられるころにまた来ます」
名残惜しそうなライに背を向け、ユーシアは客室を後にした。
食堂での朝食を終えると、ユーシアは巫女たちとともに厨房に戻り、後片づけに取りかかった。空になった鍋や皿からは、まだ良い香りが漂っている。
「やれやれ、嬉しい悲鳴だわ。しおれてしまったと思った草が、急にあんなに伸びてくるなんてね」
「ユーシア、悪いのだけど畑に行って、伸びた分を切ってきてくれる? 傷んでくる前に収穫して乾燥させてしまいましょう」
「わかりました」
「お客さまの盆はわたしが下げに行くわ」
ユーシアが外の畑に向かうと、そこには確かに昨日までと違う光景があった。しおれかかっていた草がよみがえり、縦にも横にも伸びてたくさんの葉を茂らせている。朝食に使った香草も、その他の薬草も同様だ。早めに摘んで使わなければせっかく育ったのが無駄になってしまう。
持ってきた籠を左の腕にかけ、右手で鋏を持って畑に入ろうとした時だった。視界の端にひょろりとした人影があるのに気づき、ユーシアは振り返った。
「ティオ」
「ごめん。いい加減しつこいよね」
ティオはそう言いながら歩み寄ってきた。畑は聖堂の裏側にあるが、門から入って庭を横切れば誰でも近づくことができる。聖堂は男子禁制というわけでもないし、村人たちに開かれた場所なのだ。
昨日と今日は朝一番にライの様子を見に行ったので、井戸に行ったのはいつもより遅い時刻だった。ティオに会わなかったのは彼があきらめたからだと思っていたが、もしかするといつもの時間にユーシアを待っていたのだろうか。
「きみに言われて考えたんだけど――やっぱり、お祭りに誘いたい子を思いつかないんだ。きみの他には」
「そんなことないでしょう、ティオ」
ユーシアは畑から出て、ティオの前に立った。
「あなたと一緒に行きたいと思っている子はいると思うわ。気づいていないだけで」
「いや――もしそうだとしても、ぼくはきみと行きたいんだよ、ユーシア」
たどたどしいながら心のこもった言い方に、ユーシアは思わずほほえんだ。ライの軽口とも、オースの強引な口説き方とも違う。ティオは真面目で優しくて、信頼できる若者だ。
「ありがとう、ティオ。とても嬉しい」
「前にも言ったけど、別に深い意味はないんだ。ただお祭りの日だけきみと一緒にいたいだけで」
「でも、わたし、お祭りに着ていけるような服も持っていないし」
「きみは着飾っていなくたってきれいだよ」
そう口にするや否や、ティオの顔はほのかに赤くなった。
本当はこんな世辞を言う性格ではないのに、ユーシアのために無理をして言ってくれたのだ。ユーシアは胸があたたかくなるのを感じた。
「わかったわ。ありがとう、ティオ」
本人の言うとおり深い意味はないのだし、一緒に祭りに行くだけなら頑なに拒む理由もない。ユーシアが村の若者と祭りに行くと知れば、大巫女も安心してくれるだろう。
「本当に? いいの? ユーシア」
「ええ。ティオがわたしでいいのなら」
「ありがとう。ありがとう。嬉しいよ――」
ティオはほっとしたように礼を繰り返し、駆け出さんばかりに喜んでいた。待ちあわせの場所と時刻を決めて颯爽と出ていく彼の背中を、ユーシアはほほえみながら見守った。
「今のが恋人?」
急に別の声が聞こえ、ユーシアは向きを変えた。背を向けていた畑とユーシアの間に立っていたのは、ライだった。
「もう起きてきて大丈夫なんですか?」
「きみが男と話しているのが聞こえて飛んできた。なるほど赤毛が好きなのか」
「ここの声は客室まで聞こえないと思いますよ。それに、彼は恋人じゃありません。一緒にお祭りに行く約束をしただけです」
「恋人も同然じゃないか。どこの村の祭りでも若い男と娘が一緒にいれば、あれは夫婦になるんだろうと誰もが考えるよ」
ターシュでもそれは同じだ。若者が娘を祭りに誘うことを、事実上の求婚ととらえる人は多い。だからこそ、オースの誘いを断ったユーシアは、身のほど知らずだと詰られたのだ。
「そうだと思いますけれど、ティオはそんなのじゃありません。話していて楽しいから一緒に出かけるだけです」
「ティオか。覚えておこう」
「どうしてですか?」
「恋敵の名前だからだよ」
とりあうのも馬鹿馬鹿しくなって、ユーシアは畑に向きあった。
信仰に身を捧げた巫人ならば、生涯伴侶を持たず精霊に仕えるはずなのに。この人は巡礼の先々で若い娘を見つけては軽口を利いているのだろうか。
「いい畑だね。今日の朝食に入っていた香草?」
「これがそうです。あちらのは疲労に効く薬草で、その隣は痛み止め。後でどれかお持ちしましょうか?」
「いや、もう良くなったからいい。ぜんぶ刈り取ってしまうの?」
「元気なうちに切って、乾燥させてしまうんです。そうすれば次の季節まで使えますから」
「あのさ、その丁寧な話し方はやめにしないか? きみとおれは同い年くらいだと思うんだけど」
「わたしは十六です。あなたは?」
「ほら、同じだ」
ライは嬉しそうに笑った。晴天のような青い瞳が鮮やかに輝く。人好きのする笑顔だった。
ユーシアは口を開きかけてやめ、再び畑に向かった。話しやすい若者ではあるが、やはりあの歌のことを尋ねる勇気は出ない。
「『王の鍵』」
急にライの声が聞こえ、ユーシアは振り向いた。
ライは立ち去るでもなく、手伝うでもなく、同じ場所に立ってユーシアの仕事を眺めている。
「え?」
「きみは、『王の鍵』という言葉を聞いたことがある?」
ユーシアは首を振った。
「いいえ」
「そうか」
ライは笑みを残すと、きびすを返して聖堂の建物に入っていった。
その晩の夕食はにぎやかになった。今日から聖堂に泊まる行商人の家族が加わったからだ。三十前後と見られる夫婦は、子どもを連れて金物を商う旅を続けているという。久しぶりの集団の宿泊客を巫女たちは喜んで出迎え、夫婦の幼い子どもたちにまなじりを下げていた。
「三日後がお祭りなんですね。いい時に泊めてもらいました」
下の子である赤ん坊をあやしながら、商人の母親が言った。上の子である七歳くらいの娘は父親の隣に行儀良く座っている。
食卓に並ぶほとんどの皿は空になっていたが、この一家のおかげで和やかな会話が続いている。ライも新たな客が気になったのか、食堂まで降りてきて皆と同じ席に着いている。
「ここのお祭りはなかなかの見物ですよ。よろしかったら夜に娘さんたちを連れて、港へ行ってみてください」
「巫女さまたちはお祭りの日はどうなさるんですか?」
「わたしたちはここで精霊たちに感謝の歌を捧げ続けます。ご興味があれば残って聴いていただいても構いませんよ」
「そちらのお若い巫人のお客さまも?」
水を向けられたライは食卓をゆっくり見回した。最後にユーシアを見て、意味ありげに笑う。
「まだ決めてないんですよ。ここでみなさんと一緒に聖歌を捧げてもいいですか?」
「せっかくこの時季に来られたのだから、お祭りをご覧になっては? あなたの聖歌も聴かせていただきたいとは思いますが」
大巫女がライに言った時、商人の赤ん坊が急に声を上げてぐずり出した。母親が慌てて立ち上がり、我が子を揺すり始める。
「よしよし、どうしたの。お乳もおむつも済ませたばかりなのに――」
「母さん、歌ってあげれば? きっと眠いのよ」
赤ん坊の姉である女の子が無邪気に言うと、母親は困ったように我が子と巫女たちを見比べた。聖堂の中で歌っていいのは、『古いことば』で精霊たちに祈る聖歌だけだ。口語を使った俗歌を歌うことは禁じられている。
母親の困惑を見て取ったイオナは、鷹揚にほほえんだ。
「かまいませんよ。赤ちゃんのためなら精霊たちも許してくれるでしょう」
「ええ、でも――」
「ユーシア」
イオナに促され、ユーシアはさっと立ち上がった。
いくら大巫女の許しがあろうとも、巫女たちは聖堂の中で俗歌を歌うことにためらいがある。巫女ではないユーシアだからこういう時にできることもあるのだ。
ユーシアは母子のもとへ歩み寄り、ぐずっている赤ん坊を覗きこんで歌いはじめた。ターシュで育った者なら誰でも知っている、いちばん有名な子守歌だ。聖堂で育ったユーシアはこの歌にあやされたことはないが、村で母親が我が子に聴かせるのを何度も耳にした。
歌声にきょとんとしていた赤ん坊は、やがてゆっくりと目を細めていく。それにあわせて少しずつ歌声を落としていくと、歌い終えるころには赤ん坊は目を閉じ、すやすやとかわいらしい寝息を立てていた。
「巫女さま、素敵なお声!」
「すごい……いつもは何度も歌ってやらないと眠らないのに」
赤ん坊の姉と母親が口々に言う。
母親が再び座るのを見届けると、ユーシアは自分の席に戻った。
「本当にいい声だ。ここの巫女さまは俗歌の練習もしているのですか」
「その娘は巫女ではないのです。わけあってこの聖堂で預かっているのですが、幼いころから歌は誰よりも上手でした。聖歌も俗歌も」
イオナの説明を受け、ユーシアは客人の一家にほほえんだ。歌声を褒められるのはよくあることだが、大巫女にあらためて言われると少し照れる。
「本当にすごい。まるで――魔術のようだ」
赤ん坊の父親がつぶやき、すぐに慌てて言い添えた。
「すみません。悪い意味ではないんです」
「わかっていますよ。わたしたちもときどき思います。歌と魔術は似ていると」
イオナにそう言われ、商人の父親はほっとしていた。不穏な言葉に固まっていた食卓の空気も再び流れ出す。
魔術のようだ、魔術に似ていると言いながら、実際にそれを目にしたことのある者はいない。この場にいる人間が誰ひとり生まれていない昔に禁じられているからだ。
精霊たちに捧げる聖歌に使われている『古いことば』。はるか昔、人々は節をつけずに『古いことば』を使い、精霊たちに語りかけていたという。雨を降らせてほしい、作物を実らせてほしい、病を治してほしいという具合に。巫人や巫女であろうとなかろうと、人々は精霊たちに願って自然界を動かす言語を持っていた。
時代は経て、『古いことば』が使われるのは、聖堂で精霊に捧げる聖歌だけになった。そして、節をつけずに『古いことば』を使うことは、自然のありようを歪める悪事だとされ、魔術と呼ばれて禁じられるようになった。聖堂で巫人や巫女が『古いことば』を学ぶ時、何よりも先に教わるのは、節をつけずに発音してはいけないということだ。節をつけて歌にすれば純粋な祈りになるので、魔術にはならない。そのかわり、精霊たちの耳に本当には届かないとも言われているが。
ユーシアが赤ん坊に聴かせたのは節のある歌で、しかも『古いことば』を使っていない俗歌だ。だが、声を使って赤ん坊を眠らせた様が、父親にはまるで魔術のように見えたのだろう。前にも同じようなことを言われたのでユーシアも気にしていない。
聖歌にしろ俗歌にしろ、歌には何かしらの祈りが込められている。心の底からそれを歌えば、精霊たちの耳に届くことはなくても、魔術のような働きをすることがあるのかもしれない。ぐずっていた赤ん坊を泣きやませて眠らせてしまうように。
ふと視線を感じたユーシアは、食卓の端に目を向けた。ライが凍りついたように動かずユーシアを見つめていた。
夕食が済むと、ユーシアは巫女のひとりに頼まれて使いに出た。たくさん採れた薬草を必要としている場所に届けに行くのだ。聖堂の夕食は早いし、日の長い季節なので、外はまだ薄暗い程度だった。
短く切って瓶に詰めた薬草を、病人や老人のいる家に配り歩く。聖堂は商売ができないので代金を受け取ることはないが、豊作の時に薬草や香草をお裾分けするのはよくあることだ。
最後にユーシアが向かったのは、波止場の近くに立つ煉瓦づくりの建物だった。漁業組合の事務所があり、漁師たちの溜まり場にもなっている。海の事故に備えて薬や医療器具を常備しているので、ここにも薬草を持っていけば喜ばれる。
組合の雑務をしている女性が裏口から出てきたので、薬草の瓶は彼女に預かってもらった。表にまわって帰ろうとしていた時、ユーシアの耳にその声が飛び込んできた。
「ユーシアをとうとう落としたのか、ティオ! すごいじゃないか」
若い男の声だった。表の戸口が開け放たれており、声はその中から聞こえてくるようだ。
「おれをふっておいて、おまえみたいな愚図の誘いにはついていくなんて。本当に見る目のない女だな」
続く声に、ユーシアは本能的に身をすくませた。不機嫌に押し殺された、けれどよく通る男の声。一年ほど前、毎日いやになるほど聞かされた声だ。
「まあよくやったな、ティオ。これでおれの計画どおりだ」
「――やっぱりやめよう、オース。こんなことやりたくないよ」
今度はティオだった。ユーシアをきれいだと言ってくれた時と同じ、優しくて少し自信なさげな声だった。
「何言ってんだ。おれが去年、あの女に何をされたか覚えてるだろ?」
「覚えてるよ。でも、だからってこんな、騙すようなこと……」
「今さらやりたくないとは言わせないぞ。計画どおり、おまえは祭りの日はリデルと一緒にいろ。あの女が話しかけてきても無視するんだぞ」
「いくら何でもひどくないかな、こんな……」
「ひどいもんか。うぬぼれ女にはいい薬だ。ちょっと見てくれがいいぐらいでもったいぶりやがって。本当の巫女でもないくせに」
ユーシアは向きを変え、組合の建物に背を向けて歩きだした。背後から男たちの笑い声が、追い討ちをかけるように響いてくる。
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