王の鍵 [ 1−2 ]
王の鍵

第一章 祭り 2
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 ユーシアが水さしを手に階段を上がっていくと、ちょうど客室の扉から巫女のひとりが出てくるところだった。
「旅の疲れが出ただけだと思うわ。少し休ませておけば大丈夫でしょう」
「そうですか」
「ユーシア、看病をお願いできる? わたしたちは午後の務めがあるから」
「はい。もちろんです」
 ユーシアは巫女を見送ると、客人が眠っている部屋の扉と向きあった。
 目の前で倒れた若者が気を失っているのを認めると、ユーシアは聖堂に入って最初に会った巫女に助けを求め、彼女とふたりで若者を中に運び込んだ。医術にいちばん詳しい巫女を呼び、客室で診てもらったところだ。
 ユーシアは扉を叩くべきか迷ってやめ、できるだけ静かにそれを開けた。
 聖堂には急な客のための部屋が五室ある。一室の広さは巫女たちが寝起きしているのと同じだが、寝台がふたつしか置かれていないので広く見える。
 そのうちのひとつに、黒髪の若者が横たわっていた。ユーシアが歩み寄っても身動きひとつしない。よく眠っているようだ。
 小さな円卓の上に水さしを置き、ユーシアは病人の顔を覗きこんだ。診察をした巫女が施したのか、額に水を含んだ布があてがわれていた。少し息は浅いが顔色は悪くないように見えた。
 看病と言っても特にすることはないのだが、目を覚ますまではついていようと思う。はじめての場所で目覚めてまわりに誰もいないと不安になるだろう。
 気温が上がってきているので、窓のひとつを開けて空気を入れる。背もたれのない椅子を運んできて腰を下ろし、病人の寝顔をじっと見つめる。
 気を失う寸前、この人はユーシアに訊こうとしていた。今の歌をどこで、と。
 どうしてそんなことを訊こうとしたのだろう。この人もあの歌を知っているということだろうか。
 気になって仕方がないのは、ユーシア自身がその問いの答えを知らないからだ。
 十三年前、ユーシアはターシュの港近くで泣いていたところを、漁師たちに拾われたらしい。聖堂に連れてこられて念のための診察を受け、あたたかい食事をもらって寝台に寝かされた。幼い女の子どもだったからか、客室ではなく巫女たちと同じ部屋だった。自分でもなんとなく、寝かしつけてくれる優しい声や、遠くから聞こえてきた聖歌のことを覚えている。
 自分の名前と年齢は言えたが、どこからやって来たのか、両親はどうしたのかといった問いには、いっさい答えられなかった。これは大巫女イオナが数年後に話してくれたことだ。
 着ていたものはまるで巫女のような飾り気のないもので、身元の手がかりになるような物は何ひとつ持っていなかった。ただひとつ、特徴と呼べそうなことがあった。それがあの歌だ。
 『古いことば』で書かれた歌詞だったが、当時の聖堂にいた巫女の誰もその歌を知らなかった。『古いことば』は口語とは文法も発音もかなり違うので、数年かけて学ばなければ巫女でも歌うことは難しい。それを、三歳のユーシアはすらすらと歌ったのだという。
 誰にその歌を教わったのかという問いには、もちろん答えられなかった。
 あの歌は、ユーシアの生まれを知るための、名前を除く唯一の手がかりなのだ。
 この話をイオナに聞いたのはずいぶん成長してからだったが、だからと言ってユーシアは自分の出自を知りたいとも思わなかった。各地を旅して歩く商人や芸人や、貧しさを理由に故郷を離れた者が、食い扶持を減らすために我が子を置き去りにするのは珍しくない。自分はそんな不運な子どもたちのひとりだったのだろう。土地が変われば巫女たちの知らない聖歌はいくらでもあるだろうから、歌のこともとりたてて不思議とは思わない。
 自分には両親はいない。しかし、この村で優しい巫女たちに育ててもらうことができた。ユーシアはその事実にじゅうぶん満足していた。
 なぜ今になって、あの歌を知る人が現れたのだろう。
 ユーシアが見つめ続けていると、心の声が届いたかのように、若者の目が開いた。身じろぎして頭を起こそうとするので、ユーシアは立ち上がって声をかけた。
「気がつきました?」
「……たぶん」
「もう少し寝ていたほうがいいです。疲れているだけみたいだから、すぐ回復すると思いますけど」
「きみは巫女?」
「巫女ではありませんが、ここで暮らしています。この聖堂ではいつも旅の方をお泊めしているので、安心してください」
 ユーシアがほほえみかけると、若者は頭を枕に戻した。ずれ落ちた額の布をユーシアは元に戻してやった。
 あの歌のことを知っているんですか? どうしてわたしにそのことを訊いたんですか?
 問いつめたい気持ちはもちろんあったが、今はやめておこうと思った。まだ目つきも声もはっきりせず弱々しい。元気になったら相手のほうからまた触れてくるだろう。
 水を飲むか尋ねたらうなずいたので、ユーシアは杯を傾けて飲ませてやった。行き倒れた旅人を聖堂で看たことは前にもあったので慣れている。
「これから昼食の準備をするので、できあがったらこの部屋にも持ってきますね。それまで、ゆっくりお休みになってください」
 目を覚ました病人に声をかけたら、あとはユーシアにできることはない。椅子を元に戻し、寝台から離れようとした時だった。
「待って」
 ユーシアは足を止め、再び寝台を見た。あの歌のことを尋ねられるのだろうか。
「もう少し聴きたい」
「え?」
「きみの声。聴いていると安心できる。もう少し、何か話してくれないか」
 歌声を褒められたことは何度もあるが、地の声をもっと聴きたいと言われたのははじめてだ。
 もしかすると、あの歌のことと何か関係があるのだろうか。
 そう思ったが、見上げる若者の目は心細そうで、熱がある時に大人に甘える子どものようだった。
 十三年前の自分もきっと、こんな目をしていた。両親に捨てられ、知らない村に取り残されて、聖堂の巫女たちの優しい声に慰められて眠ることができた。
「わたしは、ユーシアと言います。ここターシュは小さい村ですが、おいしい魚がたくさん穫れます。五日後には豊漁を祝うお祭りがありますから、それまでに元気になってご見物していってください」
 思いつくままにしゃべったが、若者の表情は目に見えて穏やかになった。本当にユーシアの声そのものに安らいでいるらしい。
「……ユーシア」
「はい。元気になったら、あなたのことも教えてくださいね。ここの巫女たちは旅の方をお迎えするのが好きですから、旅のお話をぜひ聞かせてください」
 若者はまだ目を閉じない。他に話すことも思いつかず、ユーシアは途方に暮れた。もともとおしゃべりが得意なほうでもないのだ。
 その時、開け放たれた窓から歌声が聞こえてきた。『古いことば』で歌う聖歌。巫女たちが昼の務めで精霊に捧げているのだ。ユーシアも用がない時は彼女たちとともに歌うので、この歌も知っている。
 ユーシアは唇を開き、巫女たちの声にあわせて歌いはじめた。
 海の平穏と豊穣を精霊たちに祈る、この漁村でもっともよく歌われる聖歌だ。
 今日の漁が安全でありますように。漁師たちが無事に家族のもとに帰り、海の恵みが村を豊かに育んでくれますように。
 旅の疲れで横たわっている若者には何の関係もない歌だ。そもそも彼が『古いことば』を理解できるのかどうかもわからない。しかし、祈りの歌というのは人の気持ちを鎮める効果があるらしい。歌いはじめてそれほど経たないうちに、病人は目を閉じた。
 ユーシアは声を落として歌い続け、若者が眠ったのを見届けると、静かに立ち上がって客室を出た。

 昼食の席でユーシアは、病人が目を覚ましたこと、しかし名前や旅の理由はまだ話していないことを、巫女たちに報告した。彼のぶんの食事は診察をした巫女が客室に運んでくれている。
「商売道具は持っていないようだし、巡礼の巫人かしら。ずいぶん若そうだけど」
「連れはいないんでしょうか」
「お祭りの時までここにいてくれると嬉しいんですけどね」
 祭りを前にはじめての客が現れたので、巫女たちの一部ははしゃいだ雰囲気になっている。若者の姿を見た者は見ていない者にその詳細を伝え、どこから何のためにやって来たのか勝手な想像をして楽しんでいる。
 昼食のパンをゆっくり手でちぎりながら、ユーシアは端の席にいるイオナを見た。倒れる前の若者にあの歌について訊かれそうになったことを、イオナには話しておくべきだろうか。
「ユーシア」
 そのイオナがにわかに自分を見たので、目があったユーシアは慌てていずまいを正した。
「はい、大巫女さま」
「そのお客のお世話はあなたにお願いできる? 旅の疲れで寝込んでいるだけならすぐ回復するとは思うけれど」
「わかりました」
「いつも仕事ばかりさせて悪いわね」
「いいえ」
 ユーシアはほほえんだ。幼いころから、同じ年ごろの子どもと遊ぶよりも、聖堂で巫女たちの手伝いをしているほうが好きだった。
「大巫女さま」
 会話が終わらないうちに、ユーシアは言った。やはり話しておくべきだろう。
「あとで少し、お時間をいただけませんか」

 ユーシアが若者に訊かれたことを話すと、イオナはさすがに顔色を変えた。
 食堂にはまだスープと香草の匂いが残っているが、卓の上は片づいており、他の巫女たちもすでにいない。時間がほしいと言ったユーシアの話を、イオナは昼食の後すぐに聞いてくれたのだ。
「目を覚ました時にも、同じことを訊かれた?」
「いいえ。まだ疲れているように見えたので、こちらからも触れませんでした」
 けれど、回復したらおそらくまた訊かれるだろう。あの歌をどこで知ったのか、と。
 イオナに話しながら自分でも振り返ってみたが、問いかけた時の若者はただならぬ表情をしていた。目を見開いてユーシアを見つめ、その場から一歩も動かなかった。
 彼はユーシアと同じ歌を知っているだけではなく、他にも何か重要なことを知っているのだろうか。ユーシアが歌っていることに驚いたということは、あの歌を知っていることが何かを意味しているのだろうか。
「聞いた話ではどうやら、そのお客は他の州からやって来たようね」
 イオナの言葉にユーシアはうなずいた。
 一緒に病人を運んだ巫女も、診察した巫女も言っていたが、彼の服装にはこの地方とは違う特徴がいくつかあった。刺繍がないかわりに染めの色が鮮やかで、上衣の丈がやや長く、靴底の厚みがずいぶん小さかった。
 ユーシアが暮らしている漁村ターシュは、四つの州から成る楕円形の島の片隅にあるという。州はその方角にあわせて北州、南州、東州、西州と呼ばれ、ターシュが属するのはシアラン東州だ。四州にはそれぞれ城があり、そこに住む州公が代々その州を治めている。
 村で育った者ならこの程度の知識はあり、ユーシアも年長の巫女から教わったが、自分の住む村の外のことを想像するのは難しい。州公の城もこの村からはるか遠くにあるらしく、今の東州公についても女性であるらしいとしか知らない。まして、他の州のこととなると、海の果てのほうがまだ近いように思えるほどだ。
「わたしの知っているあの歌は、他の州で歌われているものなんでしょうか。聖歌は土地ごとに少しずつ異なるのですよね」
「精霊に祈りたいことはその土地によって変わるから。そうなると、ユーシア。彼はあなたの同郷の人かもしれないわね」
 うっすら考えていたことをイオナに言われ、ユーシアは言葉に詰まった。
「自分の生まれ故郷を知りたくない?」
「……知りたくないと言ったら、嘘になります。でも、どうしても知りたいかと言われると……」
 なぜ今なのか、という気持ちのほうが強い。捨てられた子であるという事実を受け入れ、聖堂での暮らしに満足していたのに。
「あなたがこの聖堂に連れてこられた時」
 ユーシアの顔を見つめながら、イオナはゆっくりと語った。
「体を洗ってあげた巫女たちが口々に言っていたのよ。こんなきれいな子どもは見たことがないって」
「やめてください、大巫女さま」
「いいえ、顔だちの話ではないの。もちろん、あなたはなかなか美人だと思うけれど――巫女たちが話していたのはね、あなたが大切に手をかけて育てられた子ではないかということ。旅の途中にしては日に焼けていないし、手も荒れていなければ足にまめもできていない。髪もきれいに切りそろえてあって艶がある。着せられていた服だけは質素だったけれど、商人や芸人の子どもには見えないし、口減らしをするほど貧しい親の子とも思えないって」
 ユーシアは大巫女の目を見つめた。はじめて聞く話だった。
「わたしは、捨てられた子ではなかったということでしょうか」
「わからないわ」
 イオナは皺を目に寄せて笑った。
「ユーシア。知りたくないなら知らないままでもいいのよ。その若者はまた尋ねてくるかもしれないけれど、はぐらかすことだってできる。でも、自分の故郷を知らずにここで生きていくのなら、そろそろ行く道を選ばないと」
 二年ほど前から折に触れてイオナはユーシアに言い聞かせていた。このまま聖堂で巫女として暮らすか、それとも別の将来を選ぶか、数年以内に決めなければと。今のユーシアの立場は特殊だ。聖堂で巫女たちとともに暮らしながら、巫女ではない。
 巫女になるのに年齢の制限はない。子どものうちに聖堂に入る者もいれば、老婆になってから信仰の道を選ぶ者もいる。
 しかし、巫女にならず村人たちと交わって暮らすなら、早めに決断しなければならない。年が行けば嫁にもらってくれる男を見つけるのは難しくなるだろうから。
 それを考えると気が重くなる。このまま聖堂に残って巫女になるか、村の男と一緒になって所帯を持つか、道はふたつしかないのだろうか。
「このまま、ここにいさせていただいてはいけませんか? 巫女ではないからこそ何かとお手伝いできることもありますし」
「あなたがいてくれるのはとても助かるけれど、それはだめ。わたしたちの手伝いをして老いていくのではなく、自分の生きる場所を見つけないと」
 大巫女の声は明るかったが、有無を言わせない強さがあった。ユーシアを心配してくれているのだ。
「今年のお祭りにも出かけないつもりなの? さっきも言ったけれど、あなたはなかなか美人よ。誰かに誘われてもおかしくないのに」
「――実は、ティオが誘ってくれました。一緒に行こうと」
「ティオ。船大工の息子の、あの赤毛の青年ね。返事はしたの?」
「はい、断りました。わたしはみなさんと一緒にここにいたいので」
 イオナはため息をつき、上目遣いでユーシアを見て笑った。聞き分けの悪い愛し子を見る母親のような目だった。
「仕方がないわね。でも、気が変わったらいつでも言いなさいね」
「ありがとうございます、大巫女さま」
 イオナはたぶん、ユーシアに巫女ではなく世俗の女として生きてほしいのだろう。噂好きな娘のようにあれこれ訊いてくるのも、ユーシアを想ってのことだ。しかし、ユーシアが信仰を選ぶと決めたら、それはそれであたたかく受け入れてくれるに違いない。
 問題なのは、ユーシアが自分の選びたい道を決められないということだ。聖堂で巫女となって聖歌だけを歌う自分も、村で誰かと暮らして俗歌だけを歌う自分も、どちらも想像できない。
 あるいは、自分の生まれのことが少しでもわかれば、何か別の道が見えてくることもあるのだろうか。


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