Flower Days [ 1 ]
Flower Days

1.Primrose
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 毎朝7時45分。
 あのひとが、お店の前を通る時間。

花穂(かほ)、これ、店の前に出しておいて」
「はーいっ」

 お父さんの言葉に即効で返事して、
 わたしは、小さな鉢のたくさん入ったボール箱を抱え込む。
 苗用のポットの中には、ピンク色の小さい花。
 届いたばかりのサクラ草たち。
 お行儀よく並んだ花は、わたしに話しかけてくれているみたい。

 はじめまして、わたしは花穂。
 今日からこの花屋〈Flower Days〉が、あなたたちのおうち。
 素敵なお客様の手に渡るまで、しっかり、お世話するからね。

 いけない。
 もう45分を過ぎちゃった。

 どうか、信号が赤でありますように。
 どうか、あのひとが立ち止まっていますように。

 わたしはそんなことを祈りながら、
 サクラ草を抱えてお店を走る。

「こら、花穂! 花を持って走るな!」
「ごめんなさーいっ!」

 奥からお父さんの声が飛んだけど、気にしていられない。
 だって、朝だけなの。
 あのひとが、お店の前を通るのは。

 入り口のガラス扉を開けて、サクラ草を置く。
 今日も春らしく、いいお天気。
 わたしは、前の歩道に飛び出して。
 交差点の角に、あのひとの姿を探す。

 ……いた!

 よかった。まだ行ってなかった。
 横断歩道の前で、向こうを向いて立ち止まっている。
 グレイのスーツの背中は、今朝もちょっと気だるそう。

 もう1ヵ月くらい前なのかな。
 毎朝、あのひとを探すのが、わたしの日課になったのは。

 交差点の角にある、わたしの家でお花屋、〈Flower Days〉。
 その側の横断歩道を、毎朝7時45分に通っていく。

 時間にきっちりした人なんだな、とか。
 そのわりにいつも眠そう、とか。
 いつも運悪く、赤信号に引っかかるな、とか。
 毎朝、目で追ううちに、いろんなことが見えてきて。
 知れば知るほど、もっと知りたくなった。

 年は、いくつくらいなんだろう。
 社会人だよね。
 でも、顔立ちはまだちょっと幼い。
 大学を出たばかりの22〜3歳くらいかな。

 何のお仕事をしてるんだろう。
 ごく普通のサラリーマン?
 いつもスーツだから、お店とか現場の人じゃないよね。

 会社までは、どうやって通ってるんだろう。
 どこに住んでいるんだろう。
 ご家族も一緒に暮らしてるのかな。
 彼女さんは……いるのかな。

 見つめていると、いろんなことが気になってきて。
 いつの間にか、それだけじゃ足りなくなっていた。

 もっと知りたい。
 もっと話したい。
 もっと近付きたい。

 この気持ちは、なぜだかとってもよくばり。

「おはようございます」

 わたし、信号の前まで歩いていって。
 スーツ姿の背中に、声をかけた。

 広い肩が、びっくりしてはね上がって。
 ゆっくりとわたしのほうを向く。

「……ああ、あんたか」

 ぶっきらぼうな声。
 服装はきちんとしてて、真面目そうなのに。
 これも、話すようになって知ったことのひとつ。

「あんたじゃないです。わたし、小林(こばやし)花穂ですってば」
「もう聞いたよ。そこの花屋の子だろ」
「そのとおりです! 今日もいいお天気ですね」

 水色の空に、ぽつぽつと浮かんだ雲。
 もうすっかり、季節は春。
 お花たちもいちばん元気な季節。

「見てください、これ。届いたばかりなんです」

 ボール箱から持ってきた、サクラ草の鉢のひとつ。
 細い茎の上に、小さな小さな5枚の花びら。
 淡くて、薄くて、可憐な花。

「サクラ草っていうんです」
「……桜なのか、それ」
「いいえ。形が似てるからサクラ草っていうの。英語ではプリムローズ。可愛いでしょう?」

 サクラ草は、桜じゃなくてプリムラの仲間。
 花は桜に似てるけど、ずっとずっと小さい。

「小さい花だな」
「これなら、おうちの中でお花見ができるでしょう?」

 もちろん、買ってもらえないのはわかってるんだけど。
 ついつい、商売娘の顔が出ちゃう。

「花見か。春なんだな」

 わたしの手に乗せた鉢を見て。
 ぽつりとつぶやく、低い声。

「そうです。春ですよ」

 のんびり言葉を交わすうちに。
 前の信号が、青に変わる。

 行かないで。
 もう少しだけ。

 叶わないことを願っていると、

「あんたは、1年中、春みたいだな」

 ……え。

 なんて言われたのか、わからないまま。
 スーツの後ろ姿は、横断歩道を渡りはじめる。

「……また来てくださいねっ!」

 思いっきり叫んだら。
 まわりにいた人たち、みんなわたしのほうを見て。
 あのひとは、不機嫌そうに振り返った。

「……元気だな」
「元気ですっ!」

 手を振りながら、背中を見送る。
 グレイのスーツが、横断歩道の向こうへ消えるまで。

「――花穂!」

 背後から、お父さんの叫ぶ声。

「何やってるんだ。早く準備しないと、章子(あきこ)ちゃん迎えに来るぞ」
「あ――はーいっ!」

 わたし、あわててお店に走る。
 あのひとと見た、サクラ草を両手で持って。

 春にふさわしい、あたたかなお花見日和。

 今日はなんだか、いいことがありそう。


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