親愛なる元婚約者 [ 8 ]
親愛なる元婚約者

8.最後の手紙
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親愛なるフィリス・ウォード嬢

 お手紙をありがとうございました。あなたからこんなに長い手紙をいただいたのははじめてですね。
 いいえ、手紙に限らず、あなたのお話をこんなにゆっくりお聞きしたことも、これまでに一度もなかったように思います。もっと早く、婚約者としていつでもお会いできた時に、あなたの言葉に耳を傾ければ良かった。今はそれが悔やまれてなりません。

 あなたからの手紙を読み終えた後、ぼくは長い間ひとりで部屋に閉じこもっていました。返事を書くべきだと思いましたし、何を書くべきかもわかっていたのですが、それよりも自分の知らない感情が渦巻いていて、手を動かすことがなかなかできませんでした。
 結局この日はペンを手にすることもできず、誰かにこの件を相談することもせず、一日を終えました。
 変化が起こったのは、その翌日です。
 執事に来客を告げられて、ぼくは客間のひとつに向かいました。両親には内密に、ぼくだけを呼んでほしいと言づかっていると聞いたのです。
 客間で待っていた人物を見て、ぼくは驚きました。
「ご無沙汰しています、アーネストさま」
 あなたは何も聞いていないと思います。本人の許可は得たので書きますが、この時ぼくを訪ねてきてくれたのは、あなたの弟のアレンでした。
「アレン。どうしたんだ、急に」
 ぼくは歩み寄り、矢継ぎ早に尋ねました。
 アレンがこの家に来てくれたのは、婚約解消の時以来です。もしかしたら、あなたの身に何かあったのではないかと思い、いてもたってもいられなくなったのです。
「急に押しかけてしまってすみません。姉のことでお願いがあって」
「フィリス嬢に何かあったのか?」
「姉は元気です。もうそろそろ、姉の書いた手紙が届くころかと思ったもので」
 ぼくはいったん黙り、アレンに座るよう勧めました。
 するとアレンは、あなたの手紙がぼくのもとに届くのを見計らって、ぼくと話をしに来たということでしょうか。あなたからの手紙に何が書いてあったのかも、彼は知っているのでしょうか。
 お茶を運んできたメイドが下がるのを待って、ぼくは口を開きました。
「手紙は届いたよ、アレン。姉君の――これまでのことについて、詳しく読ませてもらった」
「お詫びします。姉が出すぎた真似をして、申し訳ありませんでした」
 なぜ、アレンもあなたも、この件についてぼくに謝るのでしょうね。何も知らず助けられていたのはぼくのほうだというのに。
「謝ってもらうことなんてない、アレン」
「姉は、どんなふうに書いていましたか?」
 あなたの手紙に書いてあったことを、ぼくはかいつまんでアレンに話しました。
 あなたが幼いころから、数字や数学が好きだったこと。
 それが高じて経済や金融にも興味を持つようになったこと。
 しかし、そのことを他人には明かさないようにしていたこと。
 スターリング氏を通じてぼくを助けてくれていたこと。
 アレンの予想とぼくの話は、だいたい重なっていたようです。話を聞き終えると、アレンはいずまいを正してぼくに言いました。
「今日はお願いがあって参りました。姉との関係を、今後もこのまま続けていただけないでしょうか」
「関係――というと」
「これまでのように、姉が投資のことに口を出すのを許していただけませんか。手紙を通して――スターリングさんにはもう迷惑をかけられないので、直接ということになりますが――姉の名前でやりとりするのが問題なら、封筒の差出人名だけはぼくの名前にしておきます。姉にこの役割を続けさせてやってもらえませんか」
 思ってもみなかった申し出に、ぼくは驚きました。
 アレンがあなたのことでぼくに頼むことと言ったら、もっと別のことだと思っていたのです。
「あなたと手紙で投資の話をするようになって以来、姉は今まででいちばん楽しそうでした。父が亡くなってから――いいえ、子どものころからいちばんかも知れません」
 アレンは、手紙には書いていなかったあなたの様子を、ぼくに教えてくれました。
 ぼくに宛てた手紙で投資について語る時、あなたは真剣ながら充実した表情をしていたのだと。社交界に出てからは読まなくなっていた経済紙もかき集めて、その話をアレンにも楽しそうにするようになったのだと。
「姉は、ずっと隠していた特技を活かして、はじめて人の力になることができたんです。それも、あなたの力に」
 アレンはこのことを伝えるためだけに、あなたにも黙ってぼくを訪ねてきてくれたのでしょうか。
 仲のいい姉弟でうらやましいと、ぼくは思いました。そのことをアレンにも伝えると、アレンはやや気まずそうに目をそらしました。
「姉のために来たわけではありません。ぼくは自分のために来たんです」
「きみのため?」
「――姉はたぶん、謙遜したと思いますが、子どものころからぼくよりずっと優秀だったんです。少なくとも、数学に関しては」
 急に話が飛んだので、ぼくはゆっくりと思い返しました。あなたからの手紙には、アレンと一緒に数学に取り組んだ昔のことが書かれていました。
「ぼくはどちらかというと、語学や文学のほうがまだ得意だし、もっと言うと勉強そのものがあまり好きではないんです。今はスターリングさんが紹介してくれた学校に通っていますが、大学には進まずに勤め口を見つけるつもりです」
「――そうか」
「ずっと思っていました。姉とぼくが逆だったら良かったのに、と」
 ぼくはこの時、はじめて思い至りました。
 銀行家の息子として生まれ、自分よりも優秀な姉を持った少年の苦悩に。
「父の跡を継がなければならないのはぼくなのに、なぜ姉ほど数字に強くもなければ、興味も持てないのかと。ぼくは父やまわりからの期待に押し潰されそうになっているのに、姉は自分の楽しみのためだけに勉強して褒められているのだと思うと、姉のことが憎らしくてたまらなくなる時もありました」
 ぼくは、あなたのことを何も知らなかったように、アレンのことも何も知らなかったのですね。未来の義兄弟という間柄でなくなってから、こんな話を聞くことになるなんて。
「でも、姉があなたに手紙を書くようになって、投資の話を楽しそうにしているのを聞いて、ぼくは、姉も苦しんでいたのだと気がつきました」
 アレンにあなたの手紙を見せたわけではありません。けれど、アレンはあなたの気持ちを、ぼくよりも理解しているようでした。
「お願いです。姉と手紙のやりとりを続けてください。姉の今の幸せを奪わないでください」
 ぼくはわかったと短く答え、その日はアレンを帰しました。詳しいことはあなたへの手紙に書くから、あなたにはまだ何も言わないでほしいと頼みました。
 アレンは約束を守っていると思います。この日のことは手紙に書いていいと言ってくれましたが、本当はぼくからあなたに伝えて良かったのかどうか、今でも迷っています。

 ぼくが書いておかなければならないのは、自分のことです。
 アレンが帰った後、ぼくはあらためてあなたの手紙を読み返し、ひとりで考えました。この手紙を読んでからずっと抱えている感情が、いったい何なのか。
 あなたはきっと、恥をかかされたという怒りだと言うでしょう。アレンが自分より優秀な姉に対してわだかまりを抱えていたように、ぼくも自分より聡明なかつての婚約者を疎んじているのだと思うでしょう。
 確かにそういう気持ちがないわけでもありません。婚約者として少なくない時間を過ごしながら、なぜあなたの抱えている秘密に気がつかなかったのか、気づかないまま手紙を交わしていた自分は何だったのか。
 ええ、ぼくは怒っています。ただし、あなたに対してではなく、自分に対して。
 ぼくはあなたの手紙を持って父のもとへ行きました。父にあなたの手紙を読ませたりはしませんでしたが、書かれていたことの大筋は説明しました。父は秘密は守る人間なので安心してください。
「フィリス・ウォード嬢は、ぼくや父上が考えていた以上に聡明な女性です。ぼくはフィリス嬢にずっと守られていたのです」
 ぼくがそうまとめると、父は無表情のままぼくを見返して、言いました。
「妻にしたいと思う女性に守られて、おまえは恥ずかしくないのか」
「妻にする女性の持参金をあてにするのよりは恥ずかしくありません」
 父は大きく目を見開きました。今まで言わずにいたことをはっきりと言ってしまい、悪いと思わなくもなかったのですが、後悔はしていません。
 あなたには呆れられてしまうかもしれませんが、実はぼくは今でも、公爵家の財産は手放すべきではないかと考えています。少なくとも、家族や使用人を養っていく費用を賄えるくらいには。
 伝統にしがみつき、体面を守るために、貴族は財産つきの女性と結婚しなければならない。そんな時代はもう終わりに近づいているのではないかと思うのです。
「恥ずかしいと思うのは、ぼくがフィリス嬢の苦悩にずっと気づかずにいたことです。彼女はこんな素晴らしい才能を持ちながら、それをひた隠しにしなければならなかったのです。ウォード氏のために、それから、ぼくや公爵家のために」
「それで、気づいた今はどうするつもりだ」
「正直な気持ちをフィリス嬢に伝えるしかありません。あなたを愛していますと」
 手紙に書くより先に、父に話してしまったことを許してください。
 あなたの秘密を知って、ぼくが気持ちを変えると思いましたか? 確かにぼくはあなたのことを知りませんでした。優しくて、控えめで、ピアノが好きで、家族を心から愛している、そんな女性だとしか思っていませんでした。というより、それもあなたの一部には違いないのでしょう。
 そこに新たな一面が加わったところで、ぼくの気持ちが変わるはずがありません。しかも、ぼくはその一面にずいぶん助けられてきたというのに。
 あらためて、あなたにお伝えします。
 ぼくはあなたを愛しています。あなたが愛する数字も、数字を愛するあなたも、すべて含めて。
 今まで、あなたが抱えているものに気づくことができず、本当に申し訳ありませんでした。

 あなたに言わなければならないことがあると、前回の手紙に書きました。
 ひとつは感謝です。これまでぼくを守ってくれて、ありがとうございました。
 もうひとつは、お願いごとです。どうか、これからもぼくに投資について助言していただけないでしょうか。あなたに教わりたいことがまだまだたくさんあるのです。
 それから、もうひとつ。これは手紙ではなく、あなたの目を見て言いたいと思います。再び会うことをお許しいただけるなら、あなたの住まいに伺わせてもらえませんか。
 どうか、良いお返事をいただけることを願っています。

アーネスト・グレアム



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