親愛なる元婚約者 [ 7 ]
親愛なる元婚約者

7.告白と釈明の手紙
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アーネスト・グレアムさま

 お手紙を拝読いたしました。
 心よりお詫びします。あなたに隠しごとをしていたこと、あなたを出し抜くような形になってしまったことを。
 スターリングさんは何も悪くありません。わたしが無理にお願いして、お力を貸していただいたのです。
 もう隠しておくことはできなくなったので、あなたにはじめてお話しします。わたしはピアノが好きですが、それと同じくらい数字が好きです。経済や金融についての情報を追うのが好きです。あなたと婚約する前から、もっと言うなら子どものころから、ずっとそうでした。

 父の娘として社交界に出る予定でしたので、小さなころからさまざまな習いごとをさせられてきました。刺繍、乗馬、ダンス、絵画、歌、他にもたくさん。その中でいちばん好きだったのがピアノでした。これは本当です。
 わたしにお稽古の先生がついていたように、弟のアレンには家庭教師がついて、数学や語学を教えていました。アレンは昔からまじめな子で、教師が出した課題にも毎日きちんと取り組んでいました。わたしはその隣で縫い物やスケッチをしながら、ときどき弟の手もとを盗み見ていました。
「アレン、それはいったい何をしているの?」
 はじめてこんな会話をしたのは、わたしが十二歳、アレンが十歳の時だったと思います。
「方程式だよ。明日までにこれをぜんぶ解かなくちゃいけないんだ」
「答えは書いてあるじゃないの」
 わたしも最低限の計算くらいは教わりましたから、イコールの右にあるのが数式の答え、などということくらいはわかりました。弟の帳面には、数字の他に見たこともない記号がたくさん並んでいました。
「これは答えじゃないよ。ここの記号に入る数字は何か、っていうのが答え」
「ふうん……?」
 わたしはなんとなく興味を持ち、弟の帳面を覗きこみながら、自分のスケッチブックに式をひとつ書き移してみました。近くで見るとそのからくりが――十二歳のわたしには、数字や記号の羅列が面白いからくりに見えたのです――よくわかりました。
 なるほど、この記号に答えになる数字を入れて、イコールの左と右が同じになればいいわけです。わたしは遊びのようにその方程式を解き、他のも見せてほしいとアレンに言いました。十歳のアレンに出された簡単な問題でしたから、きちんと教わったわけでもないわたしにも難なく解けました。十種類しかない数字を組みあわせてひとつの正解を見つけだす作業は、パズルを解くような楽しさと清々しさがありました。
「数学って面白いわね、アレン」
「フィリスは遊びだからそんなことが言えるんだよ。毎日やらされていたら飽きるし、うんざりしてくるよ」
「だったら毎日やらせて。飽きるまでやってみたいから」
 念のために書いておきたいのですが、アレンの課題をわたしがかわりにやってあげたことは一度もありません。弟の帳面から問題を書き移して、ひとりで解いてみただけです。アレンはよくできる子ですし、ずるをして平気な性格でもありません。それに、遊び半分で手を出しているわたしよりも、きちんと教師から学んでいるアレンのほうが、言うまでもなくずっと優秀でした。
 とにかく、わたしはアレンのおかげで数字に興味を持ち、他のお嬢さんより少しだけ詳しく学ぶこともできました。
 家庭教師とお話をする機会をくれたのもアレンです。ふたりで同じ問題に取り組んでいて、どうしても理解できないところがあって、明日先生に聞いてみると弟が言ったのです。だったら一緒に聞きたいとわたしは言いました。
 家庭教師は二十代半ばの男性で、教え子の隣にその姉が座っているのを見ても、小さく首を傾げただけで何もおっしゃいませんでした。もしかしたら、他のご家庭でもよくある光景だったのかもしれません。
 けれど、わたしがアレンと同じくらい、あるいはそれ以上に質問を繰り出すと、明らかに眉をひそめて困惑していました。それでも質問にはていねいに答えてくれて、こんな嬉しいことも言ってくれました。
「アレンのお姉さんには数学の才能があるのかもしれませんね。こんなに計算の速いお嬢さんにはお会いしたことがありません」
「他のお嬢さんは、そもそも計算なんてしないでしょう」
 アレンが生意気にもそう言うと、先生は苦笑しました。
「それはまあ、確かに」
 それでも先生は、その後もわたしが同席することを許してくれて、アレンにするのと同じようにわたしにも教えてくれました。講義とは関係のない、ちょっと変わった面白い課題を、わたしにだけ出すこともありました。もともと熱心な先生だったのでしょう。わたしが前のめりになってたくさん質問するほど、先生は嬉しそうな顔をしていました。わたしが隣にいる時のほうがアレンも熱心だったようなので、そのことでもお喜びだったのかもしれません。
 先生から教わったことは、数学の他にもうひとつありました。わたしのような幼い娘、あるいは若い娘が、数学に興味を示すのは良いことではないということです。
 先生は講義の最後になると、必ずこう言いました。
「このことは父君に言ってはいけませんよ、フィリスお嬢さん。アレンとお嬢さんとわたしだけの秘密です」
 いたずらを企んでいる子どものような目でしたが、いま思えばかなり切実なお気持ちだったのだと思います。ウォード家の息子だけでなく娘にも数学を教えているなどと知れたら、勝手なことをしたと責められて職を失う可能性もあったのですから。そのことは今も申し訳なく思っていますし、危険を冒しながらわたしに教え続けてくださったことを、心から感謝しています。
 けれど、子どもだったわたしには、まだわかりませんでした。
「どうして父に言ってはいけないんですか?」
「お嬢さんはダグラス・ウォード氏の大切なご令嬢だからです。数学などという余計なものを学んでいると世間に知られたら、その――ご将来に差し障りがあるかもしれません」
 先生はこう言いたかったのでしょう。嫁ぎ先が見つからなくなる、と。
 文学や歴史でしたら、教養のひとつとして女性も学ぶことが許されます。けれども、数学となるとどうなのでしょうか。
 他の同性とは違うものに興味や時間を費やすと、将来に大きな負債を抱えこむことになる。そのことをわたしは弟の家庭教師から教わったのでした。
 ところが、先生がそうして気を配ってくれたのにもかかわらず、わたしは父に知られてしまったのです。話したのは使用人――当時、我が家で働いてくれていた家政婦でした。彼女はわたしを、たぶん先生と同じ理由で心配して、わたしのために父に密告したのです。
 父に呼び出されたわたしは、観念してすべてを打ち明けました。
 父に叱られるという恐怖よりも、悲しみのほうが勝っていました。これからはもう、アレンのように数学を学ぶことは許されなくなるでしょう。未知の問題に取り組む楽しさも、正解を導き出せた時の嬉しさも、これですべて失ってしまうのです。家庭教師の講義を受けはじめて半年ほどでしたが、わたしはすっかり数字に魅せられていたのでした。
「数学をやっているというのは本当かね、フィリス」
「はい、お父さま」
「数学が好きなのか?」
「はい、お父さま」
「なぜだね?」
 わたしは少し考え、正直に答えました。
「きれいだからです」
「――きれい?」
「数字はきれいだと思います。きちんと決まりに従って並んでいて、どんなに複雑に見えても必ず読み解くことができて、ときどき手品みたいな不思議なことも起きます。ピアノの楽譜に似ていると思います」
 父は目を丸くした後、大声で笑い出しました。
「さすが、わたしの娘だ」
 それから、こう言いました。
「おまえが娘ではなく、息子だったらな」
 そして、こうも言ったのです。
「どうせ、おまえが嫁に行くまでの間のことだ」
 家庭教師のことも家政婦のことも、父はいっさい責めたりしませんでした。そして、わたしがその後も数学を学ぶことを許してくれました。
 父の仕事が貿易や医療にかかわるものでしたら、わたしはそのまま数学だけにのめり込んでいたでしょう。ところが、ご存じのとおり父は金融業でした。書斎には経済に関する本がたくさん並んでいましたし、何紙かとっている新聞のほとんどが経済紙でした。父が部下や取引先の方を家にお招きすれば、話題の中心になるのは金利や株価や投資のことばかりでした。わたしは数字をつかった新しい遊びを見つけ出したのです。
 父が許してくれたので、わたしは書斎にある本や新聞を読みふけるようになりました。父がお客さまと仕事の話をしている時は、部屋のすみで刺繍をするふりをしながら、じっと耳を傾けました。わからないところがあると後で父に聞きましたが、父は面白がってわたしに詳しく話してくれました。
 数字に明るくなった目で見てみると、社会は新しい発見でいっぱいでした。それまではもやもやとした、輪郭のつかめない塊に見えていたものが、数字を使えばはっきりとわかりやすい、そしてきれいなものに生まれ変わるのです。世の中のあらゆるものが数値化できるということ、そのことが人の暮らしを豊かにしているということ、これらに気づいたわたしは数字をより深く愛するようになりました。
 十六歳になるころには、わたしは夕食のテーブルで父と議論を交わせるほどになっていました。そのときどきの為替相場について、これから伸びそうな産業について、国際情勢がこの国の経済に与える影響について、父とわたしはさまざまな話をしました。
 けれど、そのころには別の変化も起きていました。
 十六歳と言えば、そろそろ社交界に出る準備を始める年ごろです。
「おまえとこんな話ができるのもあとわずかだな、フィリス」
 父は残念そうに、けれどそれ以上に面白そうにわたしに言いました。
 わたしにもわかっていました。勉強して、学校を出て、父の仕事を助けるのは弟のアレンの役割です。わたしの役割は貴族のご令息と結婚して、未来の伯爵や子爵の舅、そして祖父という身分を父に贈ることです。父がわたしの好きなようにさせてくれていたのは、わたしが自分のお稽古もおろそかにしなかったから、他家の方の前では決して数字の話をしなかったから、そしてはじめに言ったとおり、わたしがお嫁に行くまでの短い間のことだったからでしょう。
 わたしは父の望むとおり社交界に入り、さまざまな方とお近づきになりました。
 自分でも、よくやれていたと思っています。男性にも女性にも、数字の話などは決してしませんでした。何かの機会に父の仕事について尋ねられたら、必ずこう答えていました。
「わたしにはよくわかりません。父に聞いてみてください」
 ときどき――本当にときどきですが――もどかしい気持ちになることもありました。
 わたしはこの人の質問に答えられるのに。父と同じくらい、場合によってはそれ以上に詳しく話し、議論を闘わせることだってできるのに。
 数字という面白くて美しいものをわたしは心から愛しているのに、それにまったく興味のないふりをしなければならないのです。
 けれども、そうしなければならない理由もわかっていました。社交界に出てみてあらためて気づいたのですが、わたしたち未婚の娘は数字に限らず、何についても詳しすぎてはいけないのです。文学や芸術が好きでよく学んでいらっしゃるお嬢さんが、社交の場でうっかり男性の間違いを正したり、夢中になって長く話しすぎてしまったりして、きまりの悪そうな顔をなさるのを何度も目にしました。女性にふさわしいとされている話題でさえそうなのですから、これが経済や金融となるとどうでしょう。答えはわかりきっています。
 わたしは数字の話題にはひたすら口を閉ざし、自分が好きなのはピアノだけだということにして、それについてもあまり多くは話しませんでした。
 そして父の望んだとおり、由緒ある公爵家のご令息と婚約できました。

 ごめんなさい、ずいぶん長い手紙になっていますね。自分のことを誰かにこんなに話したのは、はじめてかもしれません。あなたをさぞ疲れさせてしまったと思います。
 でも、ここからが本当に重要なお話ですので、どうぞ最後までお読みください。
 あなたはお尋ねになりましたよね。財産のことにそんなに詳しいのなら、なぜわたしたちの婚約が財産めあてだと気づけなかったのかと。
 あなたのことが好きだったからです、アーネストさま。今さら信じていただけないと思いますが、婚約が決まる前から、はじめてお会いした時から、ずっとあなたのことが好きでした。好きな方と一緒になれることが嬉しくて、幸せで、その他のことは何も見えていなかったのです。
 わたしが手伝っていれば父の銀行が助かっていたなどというのは、スターリングさんの買いかぶりに過ぎません。わたしは上流階級の結婚に利害が絡むことさえ忘れていた小娘ですから。
 スターリングさんは父を見送って一週間ほど経ったころ、わたしとアレンを訪ねてきてくださいました。お知りあいの事務所に勤めることが決まったと聞いて、わたしはほっとしました。父が健在だったころからお世話になっていた方ですから。
「何かお力になれることはありませんか、フィリスお嬢さま」
 父の秘書だった時と変わらない、ていねいな口調で、スターリングさんは言ってくださいました。
「生活が一変して、何かとお困りのこともあるでしょう」
「ありがとうございます。でも、なんとかふたりでやっていけそうです」
 わたしはそうお答えしながらも、何度かはお言葉に甘えてしまいました。スターリングさんは嫌な顔ひとつ見せず、家財道具を安く買いつけたり、アレンのために給費制度のある学校を探したりしてくださいました。わたしにピアノの教師の口を見つけてくださったのも、実はスターリングさんなのです。
「他にも何かできることがあれば、いつでもご連絡ください」
 スターリングさんはいつも笑顔でそう言ってくださいました。お勤め先のご縁でときどきは社交の場に出られることもおありで、わたしやアレンの古い友人のことを聞かせてくださることもありました。
 わたしは思わず尋ねてしまいました。
「グレアム家のアーネストさまのことは、何かお聞きになっていませんか」
 ちょうどそのころ、あなたから最初の手紙を受け取っていたのです。わたしと結婚するために公爵家の財産を売るなどという、あのとんでもないお考えが書かれた手紙です。あなたがその考えを実行に移されていたら、さぞ社交界で噂になっているだろうと思いました。
「ええ、聞いていますよ――少しは」
 スターリングさんはためらいながら話してくださいました。きっと、わたしを気遣って自分からはこの話題に触れずにいたのでしょう。
 あなたが貴族の義務を本気でお忘れだということ、そのためにお父さまの公爵と仲違いされていることを聞いて、わたしは途方に暮れました。こんなことになってしまったのは、何もかもわたしのせいなのです。わたしがあの未練がましい手紙を書いてしまったばかりに、あなたがご自分の人生を台無しにしようとなさっているなんて。
「アーネストさまのご意志は堅いようで、どなたの忠告にも耳をお貸しにならないそうですよ。フィリスお嬢さまのことを心から想っていらっしゃるのですね」
 スターリングさんは苦笑しつつも、どこか賞賛するような口調でおっしゃいました。でも、わたしは嬉しいとは思えませんでした。
「こんなことは、今すぐやめていただかなくては。わたし、あの方のことが好きではないから結婚できないと、手紙に書いて送るつもりです」
「アーネストさまは、フィリスお嬢さまがご自分のために偽りを書いていると、お察しになると思いますよ」
「でも、やめさせなくてはいけないんです。あの方に何も失ってほしくないのです」
 スターリングさんは優しげに微笑み、こうおっしゃいました。
「フィリスお嬢さまは、アーネストさまを代償なしで富ませる方法を、ご存じなのではないですか」
 スターリングさんはわたしの数字への興味をご存じでした。ご自身は銀行のことにそれほど明るくありませんでしたが、わたしと父がお金の話をしていてもおかしな顔をしない方のひとりでした。
 わたしはスターリングさんの目を見つめ、迷った末にうなずきました。
 その後は、ご存じのとおりです。投資を始めるためにどんな知識を身につけるべきか、どんな本を読んで勉強すればいいか、わたしがすべて手紙に書き、スターリングさんがご自分の手で書き直してあなたに送ってくださいました。あなたに決して失敗させないように、仕事や家事の合間を縫って、さまざまな事業の動向についてこれまで以上に学びました。
 わたしはあなたを責められません。わたしもあなたを守りたいと思ったのですから。
 出すぎた真似をしてあなたに恥をかかせて、本当に申し訳ありませんでした。
 でも、これをお読みのあなたはほっとなさっていると思います。二度目の求婚を取り下げる理由ができたのですから。財産はないくせに財産についての知識はある花嫁なんて、あなたもあなたのご両親も嫌がるに決まっています。
 さようなら、アーネストさま。これまで本当にありがとうございました。この先はどうか、ピアノと夫だけを愛する優しいお嬢さんを見つけて、お幸せになってください。

フィリス・ウォード


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