親愛なる元婚約者 [ 6 ]
親愛なる元婚約者

6.走り書きの手紙
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親愛なるフィリス嬢

 手紙を書くべきかどうか迷っていました。あなたに確かめなければならないことができて、しかし確かめても良いものだろうかと悩んでいたのです。
 そうしているうちにあなたからの手紙を受け取り、仰天しました。これは何が何でも返事を出さなければと思い、慌ててペンを取った次第です。
 すみません、手が急いてしまって。ところどころ読みづらい文字になっているかもしれません。

 アリシア・メイナード嬢のことですが、まったくの誤解です。あなたからの手紙を読むまで、ぼくは彼女の名前を思い出しもしませんでした。
 もちろん記憶にない名前ではありません。あなたと初めてお会いした晩餐会は、メイナード家で開かれたものでしたから。あなたの手紙で久しぶりにその名を目にし、懐かしいと思いながら読み進め――自分の目を疑いました。
 いったい、ぼくがいつ、メイナード家の令嬢と――約束を交わしたというのでしょう。
 考えられることはひとつしかありません。ぼくは手紙の残りを斜め読みし――すみません、あとで丁寧に読み返しました――部屋を出て、まっすぐ父のところに向かいました。深夜遅くだったので、家族はみんな在宅だったのです。
 父は居直って認める、かと思いきや、めずらしく困惑していました。
「メイナード家に打診はした。が、まだ返事をいただいたわけではない」
「打診とは何ですか」
「決まっているだろう。令嬢をこの公爵家にいただけないかという話だ」
 ぼくに黙って勝手にそんな話を進めるなんて、と怒ってもいいところだったのですが、そんな気にはなれませんでした。父がぼくに劣らず戸惑っている様子だったからです。
 どうやってこの話を知ったのか、ぼくは父に正直に話しました。あなたの手紙を読んだ時は驚愕のあまり気づきませんでしたが、思い返してみれば婚約の話をしているのはアリシア嬢だけで、メイナードご夫妻も、ぼくの両親も、もちろんぼく自身も、じかには話に登場していませんでした。
 父もぼくと同じことを思ったらしく、呆れたように首を振りました。
「アリシア嬢にはやや、軽はずみなところがあるようだな。あの年ごろなら無理もないことだが」
 ぼくも父とまったく同意見です。ご両親の話を立ち聞きした上に、それを都合良く解釈して他人に広めてしまうなんて――いえ、あなたの友人を悪く言うつもりはありません。
 ある意味では、ぼくはアリシア嬢に感謝しています。あなたにこの手紙を書くきっかけをくれたのですから。
 重ねて言いますが、ぼくはアリシア嬢と婚約していませんし、これからもするつもりはありません。
 この機を逃さず、ぼくは父にもはっきり言いました。メイナード家への打診とやらは取り下げてほしいと。たとえメイナードご夫妻が承諾したとしても、ぼくはこの話に従うつもりはないと。
 幸いにも、両家の人間を除けば、このことを知っているのはあなただけです。噂が流れてアリシア嬢が傷つく前に打ち切るべきだと、ぼくは父に主張しました。
「わかった。メイナード氏にはこちらからお詫びを入れておく」
「お願いします。それと、メイナード家に限らず、どの家にもこんな打診はしないでいただきたい。ぼくが妻にしたいのは今もただひとりですから」
 ぼくが言うと、父は眉をひそめました。
「ウォード家の娘にまだ執着しているのか、おまえは」
 財産の件で揉めることがなくなって、父はぼくがあきらめたものと思っていたようですが――ぼくも、父がそうやって油断していてくれたほうが都合がいいと思っていたのですが――こうなったら正直に言うしかありません。第二のアリシア・メイナード嬢が現れてはたまりませんから。
「はい。言っておきますが、執着しているのはぼくだけですよ。フィリス嬢には手紙を出すたびに迷惑がられています。結婚したいのはあくまでぼくのほうです」
「婚約していたころはそれほどには見えなかったがな」
「表に出さないようにしていただけです。それに、実を言うと、婚約を解消してからわかったことも数多くあります。フィリス嬢はぼくが思っていた以上に素晴らしい人です」
「今ごろ気づいたのか」
 父の言葉に、ぼくは思わず黙りました。
 が、驚いたわけではありませんでした。父ははじめからあなたのことを気に入っていたのです。表だって口に出すことこそしませんでしたが、言動の端々からあなたへの賞賛が見てとれました。
「ウォード氏の銀行があんなことにならなければな」
 父はめずらしく、感情を滲ませた声で言いました。

 すみません。やはり走り書きになってしまいました。いったんペンを置き、外の空気を吸って気分を落ち着け、再びこの手紙に向かっています。
 とにかく、ぼくはあなた以外の誰とも一緒になるつもりはありません。それをまずお伝えしたかったのです。
 書こうかどうか迷っていたというのは、別のことです。もう書きはじめてしまいましたから、最後まで書くことにします。

 ジョシュア・スターリング氏のことは前回の手紙でお話ししましたね。彼と再会して以来、ぼくは必死に学びながら少しずつ投資を始めています。
 経済のことはまったくの不勉強でしたが、だからこそ楽しい発見の連続です。世の中にこれほどさまざまな事業があること、それらがこの国をいかに支えているかということを、ぼくは今までほとんど知らずにいました。スターリング氏と、そしてあなたと出会わなければ、これからも知ることはなかったでしょう。
 スターリング氏は多忙のようなので、お会いするのは不定期で、ふだんは主に手紙でやりとりをしています。はじめは投資についての基本的な知識を教わり、何冊かの本も勧められて読みました。その後は、具体的にいくつかの事業を紹介してもらい、その中からどうやって有望な投資先を選ぶのか、スターリング氏から講義を受けました。すでに何人かの事業主には連絡を取っており、良い返事も受け取っています。そう遠くない将来、あなたに明るいご報告ができるかもしれません。
 ぼくはすっかり充実した気分になっていました。あなたとの婚約を解消してから足が遠のいていた社交行事にも、以前よりはまじめに通うようになりました。次の婚約者を探すふりだけでもしていれば、父の目を欺くこともできますしね。
 今から一週間ほど前でしょうか。ぼくは学生時代からの友人の家に招かれていました。その友人というのが弁護士の端くれをしていて、同じく招かれていた客の中には彼の同業者もいました。顔をあわせてすぐ、ぼくはそれが誰なのかわかりました。スターリング氏が勤めている法律事務所の主だったのです。
 ぼくはその弁護士に挨拶し、スターリング氏に世話になっていることを伝えました。手紙のやりとりばかりで面と向かって礼を言えていないことも話すと、弁護士は思いがけないことを提案してくれました。スターリング氏はいま自分の事務所にいると思うから、一緒に来て話をすればいいと言うのです。
 ぼくはもちろん承諾し、友人の家を後にしました。もともと少人数の気楽な集まりでしたので。
 弁護士の事務所は、友人の家から馬車で数十分もかからない場所でした。日曜ではない日の昼間でしたので、スターリング氏の他にもうひとり女性の事務員がいました。弁護士は仕事中に時間をつくって同業の友人の招待に応じたのでしょう。
 ぼくが姿を見せると、スターリング氏は驚いて仕事机から立ち上がりました。
「アーネストさま。わざわざお越しいただいたのですか」
「お仕事場にとつぜん押しかけたりして、申し訳ありません。どうしてもあなたに礼を言いたかったもので」
 弁護士がぼくに椅子を勧め、女性の事務員がお茶を淹れに行ってくれました。
 投資の話がうまくいきそうだということ、そのことでスターリング氏に深く感謝していることは、すでに手紙で伝えてあります。さらに教えを請いたいこともいくつかあります。ぼくはどこから話しはじめていいものか迷い、なんとなくスターリング氏の机に目をやりました。
 穏やかで誠実そうな彼の人柄に似合わず、机の上は意外にも雑然としていました。書きかけの書類や帳面が広げたままにしてあり、文房具も何冊かの本も向きがばらばらです。ひょっとして急ぎの仕事のさなかか、あるいは大掃除の途中に邪魔をしてしまったのかと思いながら、ぼくはある一点に目をとめました。
 机の端に、封の開いた一通の手紙が置かれていました。宛名はもちろんジョシュア・スターリングでしたが、ぼくはそこから目を離すことができませんでした。筆跡にも、文字の配置にも、封筒に使われている紙の色あいにも、見覚えがあったからです。
「すみません、仕事中に個人的な手紙を」
 スターリング氏は慌てて封筒を手にし、ぼくに対してなのか、雇い主である弁護士に対してなのか、よくわからない言葉を発しました。
「それは――フィリス・ウォード嬢の字ではありませんか」
 ぼくは思いきって口に出しました。
 すぐにわかったのです。あなたからいただいた三通の手紙は、何度も読み返していましたから。
 スターリング氏は悪事を見抜かれたかのように、ぎくりと目をそらしました。
「――はい。フィリスお嬢さまの手紙です」
「どうしてあなたがそれを? ウォード氏の葬儀以来、姉弟と連絡は取っていないと――」
 ぼくは言いかけてやめました。途中であることに気づいて、絶望的な気分になったからです。
 考えてみれば、スターリング氏はあなたと十歳くらいしか離れていないわけです。人柄の良さは言うまでもありませんし、ウォード氏の秘書をしていただけあって数字にも強いし、安定した法律事務所に勤めています。
 その彼があなたと親しくなっていたとしても、ぼくには祝福する理由はあっても、反対する理由は何もないのです。
「あ――誤解なさらないでください、アーネストさま」
 ぼくの考えていることを察したのか、スターリング氏は慌てて言い繕いました。
「あなたがお考えになっているようなことは何もありません。フィリスお嬢さまは慎ましやかな、身持ちの堅い女性ですから」
「では、その手紙には何が? それに、フィリス嬢と連絡を取っていることを、どうしてぼくに隠したりするのですか」
 ぼくは思わず強い口調になっていました。スターリング氏がぼくに嘘を言っていたことは、紛れもない事実ですから。
 スターリング氏は手紙に目を落とし、しばらく黙りました。どう言い逃れをしようか迷っているように見えましたが、やがて意を決したように顔を上げました。
「これはわたしへの手紙ではありません。あなたへの手紙です、アーネストさま」
「ぼくへの?」
 わけがわかりませんでした。
 封筒にははっきりと、ジョシュア・スターリング殿と書いてあるのです。それに、ぼくへの手紙をなぜスターリング氏が持っているのでしょう。
「どういうことですか。その手紙はいったい――」
「投資先の紹介と、あなたの質問への答えが書かれています。アーネストさま」
 スターリング氏はぼくの言葉を遮って、はっきりとした声で言いました。
「この数週間、あなたに投資について講義していたのはフィリスお嬢さまなのです。わたしはお嬢さまの手紙を書き直してあなたにお送りしていたに過ぎません」
 ぼくは沈黙しました。
 事務所が静まりかえる中、女性の事務員がお茶を手に戻ってきて、ぼくたちを不思議そうに眺めました。
 弁護士が気をつかって口を開きかけた時、ぼくはやっと声を出しました。間の抜けた短い言葉しか言えませんでしたが。
「――まさか」
「本当です。あのお嬢さまは経済や金融に関して、ウォード氏も舌を巻いたほどの知識をお持ちなのですよ」
 スターリング氏はゆっくりと、しかし毅然とした口調で話してくれました。
 ぼくに投資を勧めるようフィリス嬢から頼まれていたこと。その後はフィリス嬢と定期的に手紙をやりとりし、彼女が書いてきた情報を自分の手で書き直し、ぼくに送ってくれていたこと。
 呆然としているぼくを前に、スターリング氏は最後にこう言いました。
「フィリスお嬢さまがウォード氏の長女ではなく長男でしたら、銀行が破綻することは避けられたのかもしれません」
 ぼくはスターリング氏、それに弁護士と事務員に礼を言い、法律事務所を後にしました。世界がひっくり返ったような、心もとない思いで頭がいっぱいでした。
 あなたに確かめなければと思っていたのですが、なかなかこの手紙を書けずにいました。アリシア嬢のおかげでペンを手にするきっかけを得て、ようやくあなたに尋ねることができます。
 でも、まさか。いまだに信じられません。
 ピアノが好きなのは会話の端々から察していましたが、あなたの口から経済や金融の話など聞いたことがありません。ウォード氏の銀行のことをごく稀にぼくが話題にしても、あなたの答えはいつも同じでしたよね。わたしにはよくわかりません、父に聞いてみてくださいと。ぼくたちの婚約が財産めあてのものだったことさえ、あなたはずっと後まで気づいていなかったはずです。
 しかし、スターリング氏が偽りを話しているようには見えませんでした。そもそも彼がそんな嘘をつく意味などどこにもないのです。
 スターリング氏が話してくれたことは本当なのでしょうか。もし本当だとしたら、ぼくはあなたに言わなければならないことがいくつもあります。どうかお返事をいただけないでしょうか。

アーネスト・グレアム


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