親愛なる元婚約者 [ 4 ]
親愛なる元婚約者

4.友人としての手紙
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フィリス・ウォード嬢

 再びこうしてペンをとることを許してください。返事はいらないとのことでしたが、どうしても書かずにはいられないことがあったのです。
 あなたからいただいた二通目の手紙は何度も読み返しました。特に、最後のところに書いてあったことについて。
 その一部は紛れもなく事実です。ぼくは、苦労にやつれていたあなたを見て、美しい、愛おしいと思いました。
 よく考えてみれば、これほど失礼なことはありませんでした。人の不幸な姿に惹きつけられるなんて――しかも、そのことを当の本人に悪びれなく伝えるなんて――相手が誰であっても許されることではありません。
 ぼくはあの時、自分に酔っていたのだと思います。打ちひしがれているあなたを自分なら支えられる、助けられると。実際に自分がそうしているところを思い浮かべ、ひとりで満たされた気分になっていました。勝手な想像にあなたを巻き込んでしまったこと、心からお詫びします。
 しかし決して、あなたのご不幸を喜んでいたわけではありません。これだけはわかってください。
 求婚を続けると決意したのはあの時でしたが、あなたに惹かれたのはあの時がはじめてではありません。晩餐会で姿を見かけた時、あなたのピアノを聴いた時、一緒に公園を歩いていてあなたが景色にほほえんだ時、それまであまり見なかった深い色のドレスを着ていた時、すべての瞬間にぼくはあなたに惹かれていました。あなたの父君がお元気で、あなたとぼくが婚約していたころから、ぼくが妻になってほしいのはあなただけでした、フィリス嬢。

 しかし、ぼくにこの手紙を書かせたのはそのことではありません。
 先日、ぼくはある家で開かれた慈善演奏会に招かれました。学生のころからの友人に誘われて、急に行くことになったのです。あなたと一緒に訪問したことはない家です。
 演奏会はつつがなく進みました。中休みに募金箱に硬貨を入れて、居合わせた何人かの知りあいと挨拶を交わし、すっかり場は馴染んでいました。
 ぼくが友人と座っていたのは、会場の中でも後方の席でした。演奏が再開するまでのあいだ席についていた人はまばらでしたので、遠くにある急ごしらえの舞台がよく見えました。
 友人が誰かと話すために席を立った時でした。前のほうから、聞き流せない名前が聞こえてきたのです。
「ところで、フィリス・ウォード嬢のことはおふたりともご存じでしたわね」
 ぼくより二列前に座っている、三人組の女性のうちの誰かの声でした。後ろ姿と声だけではなんとも言えませんが、おそらく三人とも既婚の、けれどまだ若そうなご婦人でした。
「ええ。ダグラス・ウォード氏の娘でしょう」
「グレアム家のアーネストさまの婚約者だった」
 当のぼくが背後にいることを、三人とも気がついていないようでした。立ち聞きするような形になったことに気が咎めつつも、ぼくはその場から離れることができませんでした。もしかしたら、あなたのことを何か聞けるかと思いましたから。
 その予感は当たりました。ただ、話の内容はぼくが思いもよらなかったことでした。
「フィリス嬢がどうかなさったの?」
「それがね、先日うちにおいでになったんですよ。何のためだとお思いになります?」
「何のためですの?」
「娘にピアノを教えるためですよ。社交界から姿を消して、どうなさっているのかと思いきや、なんとピアノの教師になっていらしたのですって」
「まあ」
「ピアノの教師」
 聞き役のふたりの女性は、大げさに声を上げていました。
「ダグラス・ウォードのご令嬢がうちの――主人は一介の勤め人ですよ――うちのような家の娘にピアノを教えに来るなんて、まさか思いもしないじゃありませんか。わたしはびっくりしてしまいましたわ」
「それはそうでしょうよ! 公爵夫人になるはずだったお嬢さんが、ピアノの教師だなんてねえ――本当に、財産は失いたくないものですわね」
 ぼくは席から立ち上がり、自分の存在をそれとなく知らせてやろうかと思いました。聞いていられなかったのです。かつての婚約者だったぼくが背後にいると知れば、女性たちも口を閉ざしたでしょうから。
 そうしなかったのは、続く会話が耳に入ってきたせいでした。
「フィリス嬢のピアノの腕前はどうなんですの?」
「腕前は知りませんよ。教えに来ている者の演奏を聴く必要はありませんからね。でも、教師としてはどうかしら」
「と、おっしゃると?」
「うちの娘はまだ五つでしょう? ピアノの前に半時間も座っているなんて退屈に決まっていますけど、それを説いて聞かせるのが教師の仕事でしょう。あの娘はまずそれすらできないんですよ」
「あらあら」
「父親がいたころはなんでも使用人がやってくれていたから、他人をなだめて言うことを聞かせるなんてできないんでしょうね。やっと娘が座ったと思うとね、どうもフィリス嬢は生真面目なたちで、こと細かに基礎から教え込もうとするんですよ。わたしとしては指の訓練なんてどうでもいいから、よく耳にする曲のひとつかふたつ、娘が弾けるようになれば満足なのですけどね」
「娘さんは真面目に教わっていらっしゃるの?」
「そんなはずないじゃありませんか。あんな小さな娘の手で、ただ鍵盤を端から端まで押していくだけだなんて。娘はすぐに飽きて、即興で好きなように曲を作って弾いて、ついでに歌までつけていましたよ」
「あら、まあ」
「なんて可愛らしい」
「ええ、可愛いものでしょう? ところが教師のほうは融通が利かなくて。そんなふうに鍵盤を叩いたらだめ、指に悪い癖がつくし、ピアノにも良くないからと、五歳の娘に真剣に言い聞かせるんですよ。娘はもちろん言うことを聞かなくて、ますます大きな声で歌い続けていましたわ。困り果てていた教師にはかわいそうだけれど、メイドとふたりで思わず笑ってしまいましたよ」
 話し手の女性はその時のことを思い出した様子で、高らかに笑い声を上げました。他のふたりも同じように笑いました。
 最後に、こうも話していました。
「このままだと娘のピアノはちっとも上達しませんし、暇を出すことも考えているんですよ。授業料も無駄になりますしね――いくら大した額ではないにしても」
 ちょうどその時、演奏会を再開する知らせの声があり、ぼくの友人も席に戻ってきました。
 おかげでぼくはなんとか紳士の面目を失わずに済みました。あのまま聞き続けていたら、近くにいた客の手から飲み物のグラスを奪って、三人の女性の頭に振りかけてしまうところでしたから。
 ピアノの教師をしていることはあなたの手紙で知っていました。暮らしが一変して、あなたも働きに出ねばならなくなったのでしょう。同じような必要にかられた女性が就くのはたいてい教える仕事だと聞きますし。
 あなたは手紙で、その仕事は楽しいことばかりのように書いていましたよね。それを読んだ時から少しばかり心配していました。優しいあなたのことですから、ぼくに気を遣わせるまいと、辛いことは何もないかのように装っているのではないかと。
 演奏会で女性たちの話を耳にして、心配は確信に変わりました。
 楽しい仕事、などというのは偽りでしょう。本当は、わがままな教え子に手を焼き、その母親や使用人にも冷たくあしらわれているのではありませんか。あなた自身がピアノに触れる機会はほとんど得られず、――立ち入ったことを書きますが、授業料もほんのわずかしか手に入らないのではないですか。
 あなたがぼくの婚約者だったこと、そしてぼくがあなたに再び求婚したことで、あなたの仕事がますますやりづらいものになっていることは謝ります。いったん広まってしまった噂は止められませんが、これ以上の醜聞にあなたを巻き込まないように気をつけます。どう気をつけるのかは、後でもう少し詳しく書くつもりです。
 ぼくが言いたいのは、何か辛いことがあれば、包み隠さずぼくに話してほしいということです。ぼくのために無理をして明るく振る舞ってほしくありません。
 あなたはぼくのことを好きではないのですよね。そのことは理解したので、もう求婚の話はしません。でも、それならせめて友人として、あなたのために何かできることはありませんか。辛いことがあった時に、手紙で――なんなら直接でも――話を聞くくらいのことはさせてもらえませんか。

 話は変わりますが、先日、あなたも知っているある紳士と再会する機会がありました。
 ジョシュア・スターリング氏、そうです、あなたの父君の秘書をしていた彼です。あなたのほうがよくご存じですよね。
 お会いしたのは、父と親交のある貴族の方のお屋敷でした。昼間の集まりで書斎に招かれて、他にも何人かの紳士が居合わせていました。
 先に気がついたのはぼくでした。彼のほうもぼくを覚えてくれていたようです。ぼくが声をかけると驚いた顔をして、しきりに恐縮していました。
「フィリスお嬢さまの――いいえ、グレアム家のアーネストさま。わたしのことを覚えておいででしたか」
 スターリング氏はいま三十歳くらいだったでしょうか。父君の秘書だったころと変わらず、にこやかで物腰の柔らかい人でした。
 彼は今、友人が経営する法律事務所で働いているそうです。その友人というのがぼくたちが会った家の顧問弁護士のひとりで、その縁で彼も一緒に招かれていたのだそうです。
 ひとしきり彼の近況を聞き終えると、ぼくは彼に尋ねてみました。あなたやアレンと連絡をとりあうことはあるのですかと。
「いいえ、ウォード氏の葬儀以来、おふたりにはお会いしていません。気がかりではあるのですが、なかなか時間がとれないもので」
 スターリング氏はあなたとアレンを心から気にかけているようでした。あなたに手紙を書くなら伝えてほしいと言われたので、ここに書いておきますね。
「それにしても、フィリスお嬢さまに再び求婚していらっしゃるという噂は本当だったのですね。お嬢さまはお幸せな方です」
「フィリス嬢にはご迷惑なだけですよ。今のぼくでは、一緒になっても苦労させてしまうだけかもしれません」
「もうひとつのお噂のほうも本当ですか」
「ええ、本当ですよ」
 ぼくがあなたと結婚するために公爵家の財産を手放したいと考えていること、そのために父から勘当されそうになっていることを、スターリング氏も聞いているようでした。それを知った人には呆れられるか諭されるかのどちらかでしたので、ぼくは少々投げやりになっていました。
 スターリング氏はどちらもしませんでした。ただ心配そうに目を細めて、ぼくを見ました。
「そんなことをなさっても、フィリスお嬢さまはお喜びにならないと思いますよ」
「わかっています。そういう女性だから幸せにしてやりたいと思うのです」
「もし、今あるものを増やしたいとお考えなら、方法は他にもありますよ」
 スターリング氏はそう言い、はっとした顔で口をつぐみました。出過ぎたことを言ったと思ったのでしょう。
 ぼくはすかさず聞き返しました。
「他の方法?」
「あ、いえ、余計なことを」
「教えてください。他にどんな方法があるのですか?」
 ぼくが畳みかけるように問うと、スターリング氏は目をそらしがちに言いました。いくらかの元手があるのなら、投資について学んでみてはどうか、と。
 ぼくは大学で法律を、父からは領地の経営について学びましたが、金融や経済についてはほとんど無知でした。ダグラス・ウォード氏の娘婿になる予定だったというのに、情けない限りです。この日スターリング氏が話してくれたことは、ぼくにとっては未知の、だからこそ希望に溢れた世界でした。
 別れる寸前、ぼくは思いきって彼に頼みました。これからもたびたび会って、投資についてぼくに教授してほしい、相談に乗ってほしいと。
 スターリング氏はためらっていましたが、最終的には受けてくれました。これはぼくの憶測ですが、彼はきっと、あなたのために承諾してくれたのだと思います。ダグラス・ウォード氏の令嬢に何かしてやりたいけれどできることがない、だったらせめて、かつての婚約者に力を貸そうと思ったのではないでしょうか。
 こういうわけで、ぼくは今、スターリング氏の指導のもと少しずつ投資を始めています。
 公爵家の財産には手をつけていません。先代の公爵であった祖父と、それに母方の伯父が亡くなった時、ぼくに贈与されたものがあるので、それを元手にしています。
 父はぼくが財産の処分について話さなくなったので、すっかりあきらめたものと思っているようです。廃嫡の噂はそのうち消えてなくなるでしょう。そうなれば、あなたにいたたまれない思いをさせることも少なくなるはずだと考えています。
 ぼくの向こう見ずな行動のせいで、あなたを醜聞に巻き込んでしまったこと、心から悔やんでいます。もし、また噂のことを持ち出されて不愉快な思いをしたら、こう言い返してくださって構いません。未練を残しているのはぼくのほうで、あなたはしつこく求婚されて迷惑していると。実際にそのとおりなのですし。
 他にもあなたを困らせていることがあれば、遠慮なく知らせてください。ぼくのことを好きでないのは承知していますが、必要があれば手紙くらいは書いていただけると信じています。

あなたの友人 アーネスト・グレアム



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