親愛なる元婚約者 [ 2 ]
親愛なる元婚約者

2.最後ではない手紙
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親愛なるフィリス・ウォード嬢

 とても丁寧なお手紙をありがとうございました。
 それから、先日は唐突な訪問だったにもかかわらず、ご親切に迎えていただいてお礼申し上げます。あの時は少し気がたかぶっていましたので、あなたやアレンにきちんと感謝できなかったのではないかと悔やんでいます。
 いいえ、いくら気がたかぶっていたと言っても、あの時お話ししたことに嘘偽りはありません。あなたに妻になっていただきたいと思うのは今でもぼくの本心です。
 あなたにはいくつかの誤解を与えてしまったようです。その誤解をとくためにも、ぼくもあなたのように、はじめから順序よくお話ししようと思います。

 まず、あなたにはじめてお会いした時のことです。あなたはぼくが覚えていないと思っているようですが、ぼくはあなたのピアノをよく覚えています。その音色がとても澄んでいたことも、曲が終わって思わず拍手をしてしまったことも。
 それだけではありません。ぼくはあなたがピアノを弾き始める前から、あなたのことを目にとめていました。こんな書き方では、まるで品定めをしていたようであなたに失礼ですね。より正確に言うなら、あなたに目を奪われていました。
 客間に入った時、最初に目に入ったのがあなたでした。あなたは亜麻色の髪を結い上げ、清涼な青紫のドレスを着ていました。ほっそりとして、慎ましやかで、まわりの空気までがいちだん澄んでいるようでした。あなたはたぶん気づいていなかったと思いますが、ぼくと同じことを思った者は客間に何人もいたはずです。あなたのピアノに聴き入っている人もいましたよ。隣にいる相手から気をそらすのは失礼ですから、表だっては拍手できなかったようですが。
 あなたがピアノをこの上なく愛していることも、あの時の演奏を聴けばわかりました。あの日以来、あなたのピアノを聴く機会がないのは残念なことです。
 あなたがフィリス・ウォード嬢だと知った時は、正直に言って心が弾みました。父から何度も聞かされていたお名前でしたから。
 あなたにお話ししてもいいのかどうか――いや、あなたもご存じなのでしたね。ぼくの生まれた家は、その名や歴史にふさわしいと世間に思われるために苦心している貴族のひとつです。ウォード家の豊かさにぼくの父が魅力を感じていたことは否定しません。そのことであなたを傷つけてしまったことは謝ります。
 でも、これは信じてください。ぼくはあなたの楚々としたたたずまいや、話をする時に相手をまっすぐ見つめるまなざし、控えめながらいつもぼくを気遣ってくれる人柄に惹かれていました。いいえ、惹かれています。
 そうでなければ、晩餐会で紹介されてから、あなたに何度もお会いすることはなかったと思います。

 求婚した日が何月何日だったか、あなたは覚えていますか。ぼくは覚えています。生涯この日を祝うことになるのだろうと思いましたから。
 あなたのお家の客間に通していただき、ぼくたちはいつものようにソファに向かいあって座りました。ぼくは――あなたの目にどう映っていたのかはわかりませんが――実はとても緊張していました。それにひきかえあなたは落ち着いていたので、ぼくはますます自分がみじめになりました。
 お会いするのはもう何度めかになっていましたが、思えばぼくたちはお互いのことをほとんど知りませんでしたよね。外で行事に出席した日はまだしも、どちらかの家で座って過ごす時は、何を話したらいいのかまったくわかりませんでした。思えばああいう時こそ、あなたにピアノを弾いてもらえば良かったのですね。
 未婚の令嬢の家に長居するのは礼儀に外れていますから、ぼくは時間内になんとしても話を終えなければなりません。それなのに、話の糸口をなかなかつかめずにいました。
 あなたは落ち着いてソファに腰かけ、ゆったりした仕草でお茶を飲んでいました。人形のように愛らしくて目が離せませんでしたが、見とれている場合ではありません。
 そうこうしているうちに、あなたはお茶を飲み終わり、手にしていたカップをテーブルに置いてしまいました。
「お忙しいのに来てくださって、ありがとうございました。アーネストさま」
 ぼくは絶望しました。あなたがこう言い出すということは、今日の訪問はもう終わりということですから。事実、ぼくが居座ることを許される時間はもう過ぎかかっていました。
「いいえ、こちらこそ」
 ぼくはあなたに倣ってカップを置きました。とっくに空になっていたそれを。
「またお会いできるのを楽しみにしていますわ」
「ぼくと結婚していただけませんか」
 あなたの微笑みが固まるのを見て、ぼくは自分がしでかしたことに気づきました。
 こんな唐突に、なんの前ぶれもなく、事務的な確認のように言うつもりはなかったのです。言うべきことは決まっていたとはいえ、もっと自然に、その場で出た言葉のようにあなたに伝えるつもりでした。
 しまったと思っても、いったん口に出した言葉は戻せませんし、新しい言葉を付け加えることもできません。あなたが口を開くのを待つあいだ、ぼくはあなたの反応を何通りも想像しました。泣き出すのではないか、そっぽを向いて怒るのではないか、何も言わずに部屋を出ていってしまうのではないか――
 実際はそのうちのどれでもありませんでした。あなたは笑みを――ぼくがすっかり惹きつけられているいつもの笑みを浮かべて、こう言ったのでした。
「はい。アーネストさま」
 ぼくはその時、悟りました。
 あなたはぼくに何を言われるのか、はじめから知っていたのだと。それに対してどう答えるのかもとっくに決めてあったのだと。
 少し考えればわかることです。ぼくたちのはじめの出会いからしてお互いの家が望んだことだったのですから。ぼくが両親からウォード家のことをいろいろ聞いていたように、あなたも公爵家のことを父君から聞いていたのでしょう。
 それにもかかわらず、ぼくは勝手な期待を抱いていました。たとえ親どうしが望んで進めた縁組みであろうと、あなたも少しはぼくに好意を持ってくれているのではないかと。
 そうではないのだと思い知ったのが、よりによって結婚の承諾をいただいた時だったのです。
 あなたからの先日の手紙を読んで、ぼくがどんなに嬉しかったか、これでおわかりいただけると思います。

 あなたの父君の事業があんなことになってしまった時、ぼくは身のほど知らずにも何かできることはないかと考えました。金融業に関してはまったくの素人であるぼくがおこがましいと思われるでしょう。でも、これでも大学での成績は優秀なほうでしたし、公爵家の領地を治めるために今もさまざまなことを学んでいます。何より婚約者であるあなたのお家のことなのですから、ぼくが手を貸すのは当然のことです。
 父にもそれを伝えましたが、返ってきたのは予想もしていなかった言葉でした。
「フィリス嬢が気落ちしているようなら、友人としてどこかに連れ出すくらいはしてもいい。だが、ウォード氏の仕事のことに口を挟むのはやめなさい」
「なぜですか。ぼくはいずれウォード氏の娘婿に」
「ならない。婚約は解消してもらう。少しでも頭を使えばわかることだろう」
 この瞬間までぼくは、あなたに妻になってもらう未来がなくなることを、一度でも考えたことがありませんでした。
 まだ銀行の破綻がわかったばかりで、これから持ち直せるのではないかと楽観していただけではありません。もし持ち直せなかったとしても、そのことを理由に婚約を破棄するなんて、窮地に立たされたあなたやご家族を見捨てるなんて、ありえないことだと思いました。
「おまえは馬鹿だ」
 父は頭ごなしに言いました。
「なんのためにウォード家の娘と婚約させたのか忘れたのか」
「忘れていません。ですが、それはどうなのですか。裕福でなくなったとたん婚約者を切り捨てるというのは」
「むろん、こちらから切ることはない。良識があれば向こうから解消したいと言ってくるはずだ」
「ウォード氏にそれを言わせるのですか。築き上げてきたものを何もかも失った人に、娘の嫁ぎ先まで自分から手放せというのが父上のお考えですか」
「おまえは何もわかっていない。目の前にある自分の名誉にこだわって、公爵家の嫡男として守っていくべきものをないがしろにしているに過ぎない」
 父のことはずっと尊敬し、目標にしてきました。あなたに求婚したのも、父が見込んだ令嬢だったからというのが理由のひとつでした。
 まさかその父から、婚約者のあなたを見捨てろと言われるなんて。

 もっとも、父の思惑どおりに事が進んだのは、それからずっと後のことでした。
 銀行のことが一段落したと思えば、今度は父君が病床についてしまって、本当に、こんな言い方しかできませんが、あなたは大変な思いをなさったと思います。
 ぼくはときどきお見舞いに行って、あなたや父君やアレンに、何の慰めにもならない言葉をかけるくらいしかできませんでした。
 あなたはいつもぼくを歓迎し、感謝の言葉まで伝えてくれましたよね。
 見たこともない質素な服を着て、看病疲れでやつれた顔をしているのに、以前と変わらない清らかな笑みを浮かべて。
 ぼくが今の決意を抱いたのは、この時です。
 あなたを守りたい、これ以上の苦労は決してさせたくないと、強く思ったのです。
 父君が亡くなった後、アレンが我が家に来てくれたことはあなたもご存じですね。両親もいましたが、ぼくが主に彼の話を聞きました。
「姉との婚約を解消していただきたいと、お願いに参りました」
 やや時間はかかったものの、父の狙いどおりの結果となったわけです。
「ご存じかと思いますが、今の我が家では姉の花嫁支度も満足に整えられません。公爵家の婚礼で恥を晒すわけにはいかないので、どうかお聞き届けください」
 ぼくは、予想がついていた話の内容よりも、それを伝えに来たのが十六の少年であることを、痛ましく思わずにはいられませんでした。
 アレンは立派でした。公爵夫妻であるぼくの両親を前にたじろがず、しかし礼儀にも反さず、しっかりと伝えるべきことを伝えてくれました。
 彼は確か、大学に進学することを希望していましたよね。やめてしまった学校の成績も良かったと聞いています。銀行家ダグラス・ウォードの息子がここで将来を絶たれてしまうなんて、あってはならないことです。ぼくがアレンの義理の兄としてできる限りのことをしてやりたいと考えています。
 しかし、この訪問の時はこう言うしかありませんでした。背後に父の目がありましたから。
「来てくれてありがとう、アレン。姉君に、くれぐれもよろしく伝えてほしい」
 ぼくの決意は変わっていませんでした。だからこそ、数日後にあなたとアレンの家を訪ねていったのは、あなたもご存じのとおりです。
 ぼくは公爵家の嫡男ではなく、ひとりの男として、あなたにあらためて求婚したかったのです。

 思うままを書いているうちに、あなたのに負けず劣らず長い手紙になってしまいました。そのぶん、訪問の時よりもぼくの気持ちをわかっていただけたのではないかと思います。
 ぼくがこれをどこで書いていると思いますか? 領地にある公爵家の城――あなたとの婚約披露パーティを開いたあの城です。
 今のぼくには計画があるのです。公爵家は国の各地に城や屋敷の不動産を持っていて、そこにある美術品や宝飾品などもそれなりの価値のあるものばかりです。父は伝統にしがみついてそれらを手放すまいとしていますが、ぼくはこの機会に売り払うことを考えてもいいのではないかと思います。そうすれば、ぼくの妻に富豪の令嬢を選ぶ必要などなくなるのですから。
 父にはまだ話していません。話したら反対するに決まっていますが、ぼくは父と争うことも厭わないつもりです。あなたとの婚約を解消しろと言われた時から、父はもうぼくが尊敬する男ではなくなりました。
 だから、あなたは何も心配しないでください。ぼくが欲しいのはウォード家の財産などではなく、あなたです、フィリス嬢。
 これはぼくからあなたへの最初の手紙ですが、最後の手紙ではありません。あなたから良い返事をいただけるまで、何通でも書き続けるつもりです。
 どうか、ぼくの気持ちが伝わりますように。

アーネスト・グレアム


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